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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:8歳
42/57

 




 昔話をしよう。

 約束した将来が、なんの障害も問題もなく手に入ると信じていた、そんな愚かな子供だった頃の話をしよう。





「イアル、やっと見つけた! こんなところにいたの?」

「……ルージュ…」


 青々と茂る葉をかき分けて、ルージュと呼ばれた少女がぴょこりと顔を出した。

 公爵家の庭は広い。方々探し回ったのだろう、自慢の長い赤髪に小さな葉っぱや花びらが絡まっている。少女はそれを気にした様子もなく、がさがさと茂みに分け入った。

 木々に隠れるようにして座り込み、膝を抱えるのはウィンプソン公爵家の次男であるイアルだ。名前を呼ばれて上げた顔は、幾筋も涙の痕が残ってぐしゃぐしゃに汚れている。

 正面にしゃがみこみ、スカートのポケットから取り出したハンカチを情けなく歪むその顔に押し付ける。イアルは少しだけむずがるような様子を見せたが、結局はなすがままにされていた。


「こんなに泣いて。どうしちゃったの?」

「だって、ルージュ、もうすぐルージュじゃなくなっちゃうんだろう? ぼく、そんなのやだよぅ」

「……?」


 嫌だ嫌だと首を振り、止まりかけていた涙をさらに溢れさせるイアルに混乱を隠せないルージュだったが、ああ、と得心がいったように頷いた。


「洗礼のことを言っているのね? 大丈夫よイアル。私はあなたよりもひとつだけお姉さんだから、先に貴族として名前をもらうだけ。何も変わらない」

「何も変わらない? ルージュはルージュのままなの?」

「そうよ! お兄さまだって、フリッツって名前をもらったけれど変わらなかったでしょう? フリッツがくっついただけのロン・メリウスのままじゃない」

「……そうなの?」

「そうなの!」

 

 自信満々に大きく頷いたルージュをしばらく眺めていたイアルは、徐々にその顔色を明るくさせていく。

 ごしごしと服の袖で顔を拭って、勢いよく立ち上がった。


「ルージュ、いこう!」手を伸ばす。

 しゃがみこんだままのルージュは変わり身の早さに目を白黒させるのみだ。待ちきれないとばかりに強引に手を掴み、立ち上がらせる。

 一年の年齢の差と、幼年期の男女差は、そのまま二人の身長の差に表れている。顔半分ほど低い位置にあるイアルの青を見下ろした。


「今朝花が咲いたんだ! ルージュの髪と目みたいな色の花! 見せてあげる! ロン……じゃなかった、フリッツも呼んでさ!」

「あっ、ちょっと、イアル! ……んもぅっ!」


 早く早くと手を引くイアルの勢いに押され、ルージュは手を引かれて走り出す。

 泣いたカラスがもう笑った。なんでもないことですぐに泣く癖に、泣き止むのも同じくらいに早い。けれどこの小さな幼馴染みの太陽みたいに光る金の髪と、頭上に広がる空のように澄んだ青い瞳が、笑うともっときらきらするのを知っている。

 ルージュも、兄のフリッツも、そんな幼馴染のことが好きだった。




 ***




「えぇ~っ、お兄さまって小さい頃はそんなに泣き虫だったのっ?」

「かわいい……っ」


 凛々しく男らしく。頼りがいのある兄の姿しか知らない妹達は、口元を抑えて興奮した様子で見悶えた。壁際に立つ侍女たちも同じような様子だ。

 フリッツは紅茶で唇を湿らせて、話を続ける。


「そう。昔は誰よりも泣き虫で、臆病者で、純粋で、優しいやつでしたよ。私たち兄妹もウィンプソン家に古くから仕えるメリウス家の者として遊び相手の役目を仰せつかっていましたが、それを抜きにしても一緒にいたいと思っていました。とても仲の良い幼馴染みだったと思います」


 ヒュンケルは公爵家の男児として生まれたが、後継ぎである兄が優秀だったこともあり、幼いうちはそれほど厳しい教育は施されていなかった。それもあってかそれとも生来のたちか、とんだ泣き虫になっていた。

 嫌なことがあれば逃げ、誰にも見つけられないようなところに隠れる。そうなってしまえば当時のメイドや侍従達に見つけることは困難で、唯一探し出せるのが、幼馴染みであったフリッツとアナスタシアだけだった。


「彼にとって妹が、ただの幼馴染みではなくなったのは、洗礼の日のことでした」




 ***




 白いドレス。

 艶やかな赤髪は顔周りを残して美しく結い上げられ、ドレスと同色のリボンで飾られている。胸下からふんわりと広がるタイプのドレスはふんだんにレースが使われており、普段の活発な印象を薄めて、本来の可愛らしい造形を最大限に生かしていた。

 恥ずかしそうに紫の瞳は伏せられていたが、自分を見つけて、嬉しそうにふにゃりと目じりが垂れる。


「イアル!」


 知らない少女のようだった幼馴染みが名を呼んだ。

 それだけで思い知る。


「イアル、どうしたの?」

「ルージュ……」


 顔が熱い。熱を出した時のように。真夏の日差しの下、じっと座り込んでいた時のように。熱い。あつい。

 反応のないイアルを心配してか伸ばされた手は、繊細なレースの手袋に包まれていた。しかしその手に込められた優しさもぬくもりもいつもと変わらない。

 いつもと同じ、手の、はず。


 イアルはルージュの手をとった。

 身長はルージュの方がずっと大きい。なのに、手の大きさはそんなに変わらなかった。

 イアルは熱に浮かされたように言った。


「ルージュ、きれいだ。きれいだよ」


 顔が熱い。握りしめた手が熱い。

 薄く化粧された幼馴染みの顔が直視できない。なのに目が離せない。


「ルージュ、ぼくと、結婚して」


 背伸び。

 ふにゅりと合わされた唇は柔らかく。

 ごく近い距離から見つめた顔は、可哀そうなくらい真っ赤に染まって。

 イアルは、照れたように笑って、もう一度、キスを送った。




 ***




 女性陣から黄色い悲鳴が上がる。

 まだ幼いとはいえシェヘラザードもセイレンナーデも女の子。甘酸っぱい幼い頃の初恋など、どきどきしながら聞いてしまう。それは侍女たちも同様だった。


「その時が最初で最後ですかね、人が恋に落ちる瞬間に立ち会ったのは」

「素敵、素敵、素敵っ! なんて素敵なのっ」


 憧れの美男子の初恋。

 可愛らしい子供の恋。

 なんて素敵なんだろう!


(知り合いの恋愛話とか、きまず……)


 そう思っているのはおそらく、この場でアリアドネ一人だけである。

 フリッツは嬉々として喋っているし、シェヘラザードたちも真剣に聞き入っている。


「それを機に、二人の婚約が決まりましてね。元々ウィンプソン家とメリウス家は軍部と医学を専門としている以上、切っても切れない関係ですから。その結びつきを強めるという意味でも、二人の婚約は家にとっても利益があったのですよ」


 本人たちが望んでいるのなら、それを拒む理由もありませんしね。


「僕としても、可愛い可愛いアナスタシアがどこの誰とも分からぬ馬の骨のものになるよりかは、可愛い幼馴染みにやった方がいいと判断したわけです」

「アナスタシア様は婚約を了承したのですか?」

「まぁ、よく知っている幼馴染みですしね。妹は、お兄様であるオランド様に苛められてはよく泣いていたヒュンケル殿を慰めて守るのは自分の役目だと思っていた節もありますし。ちゃんと想い合っていたようですよ」

「そうなんですね……」


 シェヘラザードはほっとしたように息を吐いた。

 つい先日王子と婚約を結んだ立場からしてみれば、婚約に心が付いてくるかどうかは重要なことなのだろう。

 安心したようにふにゃりと笑む主の脳裏にはきっと、穏やかに微笑む王子の姿が浮かんでいるはずだ。

 始まりこそ愛がなくとも、少しずつでも育んで想い合っていければいい。シェヘラザードはそう思いたかったし、アリアドネもまたそれを望んでいる。


「婚約者としては、とても仲良くやっていたと思います。ヒュンケル殿は一途で他の令嬢たちには見向きもしなかったし、妹も憎からず思っていたようですし。それが変わったのは、妹が16歳になった頃でした」




 ***




 月日は経ち、ヒュンケルは15歳、アナスタシアは16歳になっていた。

 貴族の多くが通う王立学院に入学するのが12歳。3年の普通科を終え、ともに高等部の騎士科に進学した。

 最終学年であるアナスタシアは、それは優秀な生徒だった。

 勉学は勿論、騎士科の必須科目である剣術や体術、魔術の成績も優秀。伯爵家の令嬢としての礼儀礼節もわきまえながら、平民に対しても分け隔てなく接する姿は、多くの生徒から尊敬されて好かれていた。

 卒業まであと一年ありながら、早くも王宮軍や王国軍、高位貴族の令嬢の護衛騎士など、方々から声がかかっている。

 それが気にくわないのは、婚約者であるヒュンケルである。


「卒業したら結婚しよう」

「……何よいきなり」


 極めて真剣な表情で、アナスタシアの両手を握り込んでそう宣った。

 呆れたように溜息を吐いて、アナスタシアは離せとばかりに握られた手を揺らす。その揺れを止めようとするかのように、ヒュンケルはさらに力を籠めた。痛みを感じない程度に、しかし易々とは振り解けない強さでだ。


「だってアナスタシア、勉強と訓練ばっかりで俺のこと構ってくれない」

「……仕方がないでしょう。最終学年は課題が多いの」

「嘘つき。課題なんかとっくに終わってるだろ。頼まれ事ばっかりしてるから時間がなくなるんだ」

「アンタどこでそんな情報仕入れてくるのよ……」

「最愛の婚約者のこと知りたいのは当然だろ? いろんな人が教えてくれるよ」


 ヒュンケルは公爵家という自分の立場を使うことを厭わない。生まれた家も自分の力、持っている手札の一つだ。使わない、という選択肢は存在しない。

 ヒュンケルは成績優秀ではあるが、素行はあまりよろしくない生徒だった。座学の成績もいい。剣術も体術も魔術も、同学年では群を抜いている。しかしサボりも多く、提出物も出したり出さなかったりまちまちだ。

 しかし生来の人当たりの良さと要領の良さで敵を作らず、生徒たちは勿論、教師からも好かれていた。


 握りしめた手に頬を寄せる。

 白くて細い手。しかし、他の令嬢たちのように華奢でも無傷でもない。騎士科に進んだからには仕方ないが剣ダコもある。酷使した手のひらは皮膚が硬くなっているし、ささくれが刺さって痛い。けれどヒュンケルにとっては、この世で最も美しい手だ。

 ぺたりと手のひらを頬にくっつけて目を閉じる。ひんやりとした手が、近ごろ暑くなった気温に熱せられた頬に心地よい。


「だって、頼ってくるんだもの。放っておけないじゃない」

「俺のことは放っといていいっての」

「ごめんってば」


 ぶす、と唇を尖らせるヒュンケルの頬をむにむにと揉む。

 子供の頃のような柔らかさはもうなく、少年から青年に向かうにつれて余計な脂肪を削ぎ落とし、精悍さを増してきた。

 貴族令嬢たちがその姿を見るだけで色めき立つ、そんな美男子になった婚約者は、自分の前では子供の頃のように幼い仕草を見せる。それがアナスタシアはくすぐったい。


「あのね。今度、国境のゴールディング領で軍事演習があるのよ。それが終わったらひと段落付くから、そうしたらどこか出かけましょう」

「ええ……。それっていつまで」

「そうねぇ、三週間くらいかしら?」

「長い。三日で帰ってきて」

「無茶言わないで」


 片道で三日くらいかかるのだ。

 頬を揉む指先に力を籠めると、いててて、と大袈裟なほどに声を上げた。

 両頬を挟み込むようにして目を合わせると、叱られた大型犬のような顔をしたヒュンケルの青にアナスタシアが映り込む。アナスタシアの紫にも、同じようにヒュンケルが映り込んでいるのだろう。

 じっと見つめると、ヒュンケルは悩むように眉を寄せて唇を尖らせて――諦めたように溜息を吐いた。意地の張り合いでアナスタシアに勝てたことなど一度もないのだ。


「………デート?」

「ええ」

「絶対だからな」

「もちろん」

「アナスタシア、俺と結婚してね」

「……貴方が卒業したらね」




 ***




「けれどその約束が守られることはありませんでした。全てが変わったのは、その軍事演習でのことでした」




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