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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:8歳
36/57



 全身の毛穴が開いていた。

 心臓が早鐘を打ち鳴らして軋みを上げる。冷や汗が噴出して、正常な呼吸が出来なくなる。胃が捻じれるような痛みと違和感。血が沸騰するような熱さが全身を巡り、アリアドネはきつく瞼を閉じた。

 

 飾り気の少ない、しかしだからこそ物の良さが分かるかっちりとした濃緑のフロックコートを纏った少年。

 さらさらとした金色の髪は長く、ゆるい三つ編みになって背中に流れている。白い肌、薔薇色に染まった頬。甘やかな容姿は幼気な少女のように美しく、エスコートするシェヘラザードと並んでもなんら遜色ない。

 琥珀色の瞳は優し気に細められているが、意志の強さを感じさせる。


 リューク・メルバーン王子殿下。シェヘラザードの婚約者である。

 洗礼名はエヴァン。しかし、シェヘラザードよりも数か月早く洗礼を終えたはずのその名前は公表されていない。王族は特例として、名前が公表されるのは学院に入る12の年と決まっていた。

 その名を知っているのはごくわずかの高位貴族のみである。


(なんで―――…っ)


 今日が顔合わせだと言っていた。

 しかしなぜ、その姿がここにあるのか。


 まだまだ礼儀が完璧ではないアリアドネは、シェヘラザード付きの侍女とはいえ、王子殿下の前に立てる程ではなかった。それはアリアドネ自身も身に染みて理解しており、筆頭侍女から訓練を優先することを命じられて、是も非もなく頷いたのだ。

 会いたくなかった。

 顔を見たくなかった。


 会ってしまえば、顔を見てしまえば。

 この身を焼く激情を、押さえつけられるか分からなかったからだ。


 ああ、離れろと叫ぶことが出来たら、どれ程楽になるだろう。


 殺気というものが、もし目に見えてわかるものならば。きっと、轟々と音を立ててアリアドネを中心に火柱となって天へと伸びていることだろう。そして真っ直ぐにあの少年へと伸びて、一息の間に燃やし尽くしてしまうに違いない。


「顔を上げなさい」


 ウィンプソン公爵から再度声をかけられるも、アリアドネは顔を上げることが出来ない。震える体は言うことを聞かず、ただただ地に伏すことしか出来なかった。

 膝をつけたまま顔を上げたルーカスが、困り切った様子でこちらを窺っているのが分かる。言葉に従って顔を上げたものの、同じ立場のアリアドネが微動だにしないものだから自分の対応に自信が持てずにいるのだろう。


 アリアドネ、名を呼ばれて肩を揺さぶられた。アナスタシアだ。

 そのまま抑えていてほしい。馬鹿なことを仕出かさないように、強く、強く。


「アリアドネ!」

「いいよ、ロン少尉。びっくりしたんだろう。いきなり来てしまった僕が悪いんだ。君も、悪かったね」

「い、いいいいいいいいえいえいえいえ、そそそんな!」


 ちっとも反応を返さないアリアドネにしびれを切らし、小さな声で、しかしきつく名を呼ぶ。

 雇い主である公爵からの声かけを無視することですら奴隷には許されないというのに、この国の頂点である王族からの声かけにも何も応答がないなどと、鞭打ちでは済まない。下手すれば不敬罪で処刑だ。

 焦るアナスタシアを止めたのは、他ならぬ王子自身だった。やんわりと止めさせると、そのままルーカスにも声をかける。

 まさか奴隷である自分にまで声をかけられるとは思っていなかったルーカスは飛び上がった。

 呂律が回らず、目線は忙しなく動き回る。自慢の赤毛と同化するくらい顔が赤い。


一角馬ホーンホースを捕まえたって噂の奴隷と会ってみたかっただけなんだ。ウィンプソン公爵にも、シェヘラザード嬢にも無理を言ってしまったし、驚かせてしまったね」

「不躾な娘で申し訳ありません。あれはまだまだ見習いですので」

「うん、いいんだ公爵。誰だって最初は慣れないものだよ」


 何を耳障りのいいことを! 

 アリアドネの内なる炎に燃料が投下された。ぐっと堪える。


「数年前とはいえ、僕の婚約者を守ってくれたんだ。暴れる一角馬に対峙するなんて、そこらの騎士でも難しいだろう。それを体を張ってやってのけるなんて、並大抵のことじゃない。シェヘラザード嬢はいい奴隷を持ったね」

「恐れ入りますわ、殿下」


 シェヘラザードの声がする。照れたようにはにかむ顔が目に浮かぶようだ。

 きっと今顔を上げれば、恥ずかしそうに頬を染めて、嬉しそうに微笑む主の姿が見れるのだろう。その顔をさせているのがこの男じゃなければ、是非とも拝み倒したい。

 二言三言会話を交わし、シェヘラザードがアリアドネに歩み寄る。


「アリアドネ」

 

 最愛の主に声をかけられては、アリアドネになすすべはない。顔を上げた。

 真っ白な日傘をさして、瞳と同じ色のドレスを纏ったシェヘラザードは、ぱちくりと瞬きをして破顔した。そっと頬を撫でられる。


「もう。なんて顔してるの」

「シェヘラザードさま……」


 どんな顔をしているのか、アリアドネには分からない。しかし、きっといい顔はしていないんだろうということは想像がつく。 

 離れていく指先に泥がついているのを見つけて、アリアドネはさらに眉尻を下げた。


「いけません、シェヘラザード様が汚れてしまいます」

「いいの、洗えばいいんだもの」

「ですが」

「ねえアリアドネ、今日のお稽古はもう終わり?」

「え」


 この会話の流れはなんだろう。


 嫌な予感がしてアリアドネは思考を止めた。ああ、この後の言葉は聞きたくないな。

 黙るアリアドネの代わりに答えたのはアナスタシアだ。仕事が出来過ぎるのも問題である。


「いえ、シェヘラザード様。アリアドネにとって貴女以上に優先するものなどありません。何なりとどうぞ」

「ありがとう、ロン様! あのね、アリアドネ」

「……はい」


 ぱぁ、と輝く笑顔が眩しい。目が潰れる。本望。


「殿下が貴女とお話したいみたいなの! あまり城下の者とお話出来ないみたいだから、この機会に是非って。一緒にお茶しましょう?」


 お父さまには許可はいただいているのよ。

 にっこりと微笑むシェヘラザードの遠く後方、輝く美貌の公爵様の微笑みは、何か裏がある気がしてならない。

 アリアドネは嫌な予感が大当たりしたことに頭が痛い心地になりながら、油の切れた歯車のようにぎこちなく頷いたのだった。





 竜騎士軍舎内の賓客室。

 一度座ったら立ち上がれないのではないかと思うくらいにふかふかのソファは三人掛けが二台。上座にリューク王子が、下座にシェヘラザードが向かい合って座っている。

 公爵は王城からの使者に呼ばれ、今は席を外していた。戻ってくるまでは、ここから解放されることはないだろう。

 シェヘラザードの斜め後ろに立つアリアドネは、王子のお付きとして同行していた王宮の侍女が茶を淹れるのを無心で眺めるばかりである。何でもいいから何かに集中していないと、ぐるぐると渦巻く身の内の熱に焦がされて、取り返しがつかなくなりそうだった。


 無言の中、丁寧な仕草で茶を淹れ終えた侍女は一礼して退出した。

 残ったのは4人。アリアドネは自分と同じように、リューク王子の後ろに立つ少年を見た。

 訓練場からここに着くまで、王子のすぐ後ろを付き従うようにして歩いていたことからも、少年は王子付きの侍従か何かなのだろう。真っ直ぐに背筋を伸ばして立つ姿は隙が無い。華奢と言っていいくらい細身だが、おそらく武術を修めている。

 アリアドネとは正反対に癖のない短い黒髪に、切れ長の黒曜の瞳。いかにも王子様然とした煌びやかな美しさを持つリュークと並ぶといささか地味さの目立つ、さっぱりとした顔立ちの少年だ。一度目でも見たことのない顔。もちろん二度目である今は、言わずもがな。


(誰だこいつ……?)


 不躾に見つめ過ぎたのか、黒髪の少年と目が合った。

 お互い無表情のまま視線を合わせること数秒、変化があったのは少年の方だった。静かに目が細められ、くっと口角が上がる。馬鹿にするような表情に、アリアドネは眉をしかめた。

 それに反応したのはリュークである。肩越しに少年を振り仰ぎ、窘めるように名を呼んだ。


「バル」

「はい殿下」


 返す言葉は慇懃だが、肩をすくめるその態度は気安いものだ。 

 リュークは態勢を直すと、アリアドネに向けて微笑んだ。部下がすまない、と言うかのようなそれは柔らかで、アリアドネが何も知らない少女であったならきっと頬を染めて笑みを返していただろう。

 返す笑みが引き攣っていたのはご愛敬。どれだけ引き攣ってみっともないものだとしても、ぎりぎり笑みだとわかる表情を作れただけ褒めてほしい。


 そんな心境を知ってか知らずか、王子はもう一度微笑むと、再び黒髪の少年に意識をやった。わずかな動きだったそれを察知して、少年が動く。

 シェヘラザードの前に跪いた。白魚のような手を掬い取る少年の手には剣ダコの痕があった。


「シェヘラザード嬢、紹介が遅れたね。こちら、僕の側近のバルドゥールだ」

「お初にお目にかかれて光栄です、シェヘラザード嬢。バルドゥール・ウィジョン・メルバーンと申します。以後、お見知りおきを」


 指先に口づけるふりをする。

 基本的に挨拶で口づけることはせず、ふりだけだ。実際に唇を触れさせるのは、恋人に対してか、もしくは忠誠を誓う主に対してのみである。

 公爵家で始まった婚約の顔合わせは、どうやら側近や部下の紹介まではしなかったようだ。場所をここに移した時点でこの交流は半私的なものと認識されたらしく、公爵が席を外し、シェヘラザードの専属侍女ではあるが奴隷身分のアリアドネの同席が許された。

 

 バルドゥールが微笑むと切れ長の目じりがわずかに垂れ下がり、泣き黒子と相まって不思議な色香を漂わせる。

 そのせいか仄かに頬に朱を昇らせたが、シェヘラザードは動じる風もなく笑みを返す。淑女教育の賜物だろう。


「まぁ。ご丁寧にありがとう、バルドゥール様。メルバーンということは、もしかして大公家の方でしょうか?」

「どうかバルとお呼びください。おっしゃる通り、恥ずかしながら王家の末端に名を連ねさせて頂いておりますが、私は殿下の側近ですので」


 アリアドネの心臓が大きく跳ねた。

 右目に熱が宿るのを強く感じる。今にも叫び出しそうになるのを、シェヘラザードの手に触れる少年の手を蹴り飛ばしてやりたくなるのを、必死の思いで押さえつけた。

 腹の前で重ねた手に、ぎりぎりと爪を立てる。短い爪はいとも容易く皮膚を破り、血を滲ませた。


 大公家。

 現国王の弟が、王位継承権の破棄と共に得た称号が大公である。

 他でもない、一度目にシェヘラザードが嫁いだ家であった。



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