主の婚約
洗礼の日から、3年。
アリアドネは今、天の原と地の泉を交互に行き来しているような心地であった。
「ちょっとアリアドネ! 聞いているの?」
「はいお嬢さま」
「だからね、お嬢さまじゃなく、セイレンナーデって呼んでって言っているの!」
「はいお嬢さま」
「ちーがーうーのーっ」
ぷりぷり、という擬音が似合う様子で腰に手を当てるセイレンナーデの言葉に、アリアドネは無心で同じ言葉を返す。
表情筋すらも動かさず、唇だけが動く。
その様はさながら人形か、覚えた言葉をくり返す鸚鵡か。
「んもう! お姉さまからも何か言ってやって!」
暖簾に腕押し、糠に釘。
打っても少しも響かないその様子に、セイレンナーデは攻撃対象を切り替えた。
にこにこと微笑みながら、自分の向かいに腰を下ろして優雅にティーカップを傾ける――姉に、である。
「セレンったら……、あまりアリアドネを困らせちゃだめよ」
「でもぉ」
「アリアドネも、あんまり意地悪したらセレンが可哀想だわ」
「はい、すみませんシェヘラザード様!」
「もうっ、そういうところなのよぅ!!」
主に声をかけられた瞬間、ころりと態度を180度変えるアリアドネ――おまけににやけ崩れた笑顔付きだ――に、セイレンナーデは不服そうに唇を尖らせた。
自分の前に置かれたティーカップに口をつけて、不満に歪んだ顔をさらに歪ませる。
べっ、と舌を出すその仕草は、控えめに言っても可愛くない。
「にがいわ」
眉間に何本も皺を寄せながら、シュガーポットを引き寄せた。
そしてひとつ、ふたつ、みっつ……。煮詰めたカラメルのような色をした水面に、角砂糖が消えていく。
砂糖の味しかしないのではないかというくらいの数を溶かした紅茶をすすりながら、セイレンナーデは傍らに立つアリアドネをじろりと睨んで釘をさす。
「もうちょっと練習した方がいいわよ」
「……申し訳ございません」
お前のために淹れたんじゃねえぇーから!!
内心で毒づくも、濃く出過ぎた色から、茶葉を入れすぎたのではないかと推測が立つ。それとも蒸らし過ぎか。
給仕を練習中のアリアドネにしてみたら、耳に痛い言葉だ。それを言ったのがセイレンナーデだったために、素直に受け取れないだけである。
茶を淹れる技術は習得途中でまだまだ拙く、それでもいいからとシェヘラザードに押し切られる形で給仕をすることになったのだが。まさかいつもの二人きりのティータイムに邪魔が入るなんて、全くの誤算であった。
個人宅だとは思えないほどに美しく手入れされた中庭の、こじんまりとしたガゼボで、二人きりの癒しの時間だったはずなのに。
たまたま通りがかったセイレンナーデが乱入してきたことで、東屋の下にはシェヘラザードたち3人、少し外れた木陰の下にセイレンナーデ付きの侍女が4人の大所帯になってしまった。そのうちの一人は、洗礼の日まではシェヘラザードの専属侍女を務めていた女だ。同じ無印奴隷のマルタもいる。
拙い給仕を務めているアリアドネを見る目は厳しい。
自分たちよりも技術も礼儀も劣っている奴隷のこどもが、仕えるべき令嬢たちと場を同じくしているだけでは飽き足らず、気安いともいえる様子で言葉を交わしているのだから、当たり前とも言えるだろう。
令嬢たちに聞こえないような音量で囁きあっては、くすくすと笑いあっている。アリアドネの優れた聴覚はその音すらも拾い上げるが、女の陰口など痛くも痒くもない。
なぜなら。
あの洗礼の日を切っ掛けに、アリアドネはシェヘラザードの傍にいる許しを正式にもらったからだ。
一角馬の暴走を止めたのが、優秀な人材を集めた騎士の中の誰かではなく、半人前の無印奴隷だということは多くの人が知る事実であった。
多くの衆目を集めた中でのあの事故は、目撃者が多すぎて人の口に戸を建てることが出来なかったのだ。
アリアドネはあの日を境に半人としての能力を自分の意志で開放することが可能になり、それに伴って魔力操作も習い始めた。
おまけにシェヘラザードへの忠誠は、二人のやり取りを見たことがある者ならば誰もが知ることでもあった為、公爵直々にシェヘラザード付きの護衛となることを命じられたのだ。
同時に専属侍女を妹・セイレンナーデ付きに変えたこともあり、シェヘラザード付きの侍女がいなくなってしまったこともあり、アリアドネの懸命な努力が実を結び、護衛として3年、そしてつい最近、侍女として傍にいることが許された。
愛する主の傍にいられる権利をもらったアリアドネにとって、陰でしかものを言えない女の集団など怖くもなんともない。
アリアドネに給仕や侍女としての仕事を教えるのは、ウィンプソン公爵家の筆頭侍女である。シェヘラザード付きの専属侍女がいない今、筆頭侍女である彼女が主にシェヘラザードに付いていた。
ふくよかな体の中年の筆頭侍女は、半人のアリアドネにも他の侍女見習いと変わらぬ態度で教えを施してくれる。しかし、その教育は穏やかで優し気な普段の彼女からは想像も出来ないほどに厳しい。
手つきに関しては及第点をもらったのだが、やはりそう美味くは淹れられないようだ。
茶葉や水の量、温度、蒸らし時間、気温や湿度など、全ての要素を踏まえて微妙に変えていかねば、美味い紅茶は淹れられない。
いくつも砂糖を入れて飲んでいるセイレンナーデに対して、シェヘラザードは何も入れずに飲んでいる。それで顔色一つ変えないのだから、アリアドネは罪悪感で胸が痛くなった。
「シェヘラザード様」
「なぁに?」
「あの、無理せずともよいのですよ。お砂糖入れますか?」
自分で頼んでアリアドネに茶を淹れさせた手前、味を変えにくいのだろうかと思い、そう提案してみた。
セイレンナーデがぽいぽいぽいぽい入れたせいで、シュガーポットの中身は随分と減っていたが、まだ甘くするには十分な量が残っている。
「大丈夫よ」
「でも、苦いのでは」
シェヘラザードは無言でカップを傾けた。そして微笑む。
「苦くてもいいの。あなたが、初めて淹れてくれたお茶でしょう? 大事に飲みたいのよ」
アリアドネは天を仰いだ。
女神はここにいたのだ。いや、知ってるけども。
「次はもっと上手に淹れます……!」
「アリアドネは大げさねぇ」
公爵家の双子姫が洗礼を受け、正式に貴族となってから早3年。
8歳となったシェヘラザードは、洗練された仕草も堂に入ってきたこともあり、ますます美しさに磨きをかけていた。艶やかな銀の髪と潤む青の瞳はそのままに、すらりと伸びた手足が動く様は繊細にして優美。
毎日見ていても飽きない――むしろ一瞬一瞬で美しさを増していく主に、アリアドネは見惚れるばかりである。
そんな主にはここ最近、まことしやかに囁かれている噂がある。アリアドネが無印奴隷として買われた時から囁かれていたが、貴族令嬢として順調すぎるほどに成長するシェヘラザードの姿に、その噂は信憑性を増し増して社交界を飛び交っていた。
曰く――王子の婚約者として、シェヘラザード・ラナ・ウィンプソン令嬢を。
という、アリアドネにとって、全く喜ばしくない噂だ。
メルバーン王国の王子、リューク・メルバーン。現国王唯一の王子であり、王位第一継承権を持つ男。真名――洗礼後に得る名前だ――を、エヴァンという。
一度目の時のシェヘラザードの婚約者であり、アリアドネの初恋の相手である。
最も、二度目を迎えた今、エヴァンに対する恋心などは微塵も持っていない。
持っているのは、純然たる殺意だけである。
(今世では必ずぶっ殺す……!)
セイレンナーデ、貴様もなァ!
ふつふつと煮え滾る臓腑の熱は、表に出すことは絶対にしない。
いくら憎い相手といえども、その対象はこの国の王子と、敬愛する主の妹だ。雇用主の末娘でもある。さらに。
「ここにいたのか、二人とも」
「ヒュンケルお兄様!」
「おっ、今日はアリアドネが給仕役か。随分色が濃いなぁ、偉いぞう!」
「何が偉いんですかおやめください乱れる!」
「はっはっは!」
竜騎士軍の軍服姿で現れた、公爵家次男のヒュンケルにはかなり世話になっている。奴隷であるアリアドネに対しても態度を大きく変えないこの気がいい男はしかし、末の妹をぶっ殺したいほど憎んでいる奴隷相手に、けして容赦はしないだろう。
一礼をして主の兄を迎えたアリアドネの頭を、ヒュンケルは無造作にかき混ぜた。出会った頃と変わらぬその仕草は、気安い関係を嬉しく思う反面、結い上げられるまでに伸びた黒髪がぐしゃぐしゃになってしまうので困ったものである。
ここ3年で伸びたアリアドネの黒髪は、癖が強すぎて纏めにくく、解れのないようにぴしりと纏めるのにコツがいる。
乱れた髪を直すのが先か、新たな客に茶を淹れるのが先か。
一瞬悩むアリアドネの目の前で、ティーセットが浚われた。
「マルタ」
「ここは私が淹れるから、貴女はそのみっともない髪を何とかしてきたら?」
その口ぶりにむっとしたが、反論はせず、アリアドネはその場を譲った。
侍女として、何時如何なる時も身だしなみはきちんとするべし。筆頭侍女から口うるさく言われているのだ。
給仕をするマルタの手つきは迷いがなく、美しい。
アリアドネよりも7つも年上で、そろそろ花の盛りを迎えようかという年頃の彼女は、身に付いた所作で言えば、他のどの侍女よりも美しかった。元とはいえ貴族令嬢として厳しく躾けられていたことも功を奏したのだろう。
さらに所作だけではない美しさが、マルタにはあった。
マルタが無印奴隷として選ばれたのは、純粋にその容姿の良さからだ。年頃の色気も加わって、3年前に同じ市で売られていた頃とは比にならないほどに美しく成長している。おまけに、胸は大きくウエストはくびれた、女らしい体つきだ。
「ヒュンケル様、どうぞ」
「うん、ありがとう」
ティーカップを差し出す際に胸を強調しているように見えたのは、気のせいだろうか。
アリアドネは白けた目で見てしまう。今は8歳と幼いが、一度目は成人越えまで生きたのだ。マルタの意図しているところも見え透いて、うんざりした心地になる。
20代も半ばに差し掛かるヒュンケルは男盛りの美青年だ。
金髪碧眼と見目がよく、おまけに王宮軍の精鋭である竜騎士軍の副長で、家柄も本人の性格も容姿も、文句のつけようがない。そんな好物件が、未だに婚約者も持たずにフリーでいるのだ。
無印奴隷とはいえ、見初められれば妾くらいにはなれる。正妻は難しくても、淑女教育の一環として公爵家に奉公に来ている下位貴族である侍女やメイドにとって、空席になっている椅子に座る権利は喉から手が出るほどに欲しいものだろう。
(そもそも、シェヘラザード様よりも先にヒュンケル様の婚約者というか結婚の方が先なんじゃないか)
シェヘラザードはまだ8歳。
貴族女性の婚姻が認められているのは、中等教育である12歳から14歳までの学校生活を卒業した後、ということになっている。ちなみに初等教育は、各家庭で受ける。
その為、適齢期は10代後半から20代前半ということになるので、10にも満たないシェヘラザードは結婚などまだまだ先のことである。
しかし、ヒュンケルはそうではない。
貴族男性の結婚はそれこそまちまちではあるが、20も半ばになって婚約者の一人もいないのは可笑しな話だ。
髪を纏めながらまじまじと眺めるが、当の本人はどこ吹く風だ。視線に慣れきってしまっているのだろう、妹達と和やかに会話を楽しんでいた。
(しかしこの人)
仕事はどうしたのだろう。
そう思った、その時だった。
「あ、やべ。シェヘラ、セレン、兄さまはいくな。また夜に!」
何かに気づいたかのように顔を上げ、笑み崩れていた顔をさっと引き締める。
驚きに目を丸くする妹達ににこやかに挨拶して、足早に去っていった。
その次の瞬間には、アリアドネの耳は師匠であるアナスタシアの俊敏な足音を察知したので、全ての事情を把握する。
「……ロン少尉がお迎えにあがったようですね」
「「ああ……」」
執務をさぼっては城下町を散策したり、妹達と戯れたりと忙しい竜騎士団副長を捕まえるのは、その補佐である師匠の役目だ。
上司と部下とは思えないやり取りが目に浮かんで、シェヘラザードとセイレンナーデは、さすが双子とも言えるべき仕草でため息を零すのだった。




