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アリアドネは走る。
目標は前方を走る 一角馬が曳く馬車の中の最愛の主。
(こんなことは、前回は、なかった……!)
一角馬の暴走など、起きていたら忘れるはずがない。
あの中にはシェヘラザードが乗っているのだ。もし、主の身に何かあれば……!
群衆は悲鳴を上げて逃げ惑う。
暴走の起点となった場所では、混乱を極めたために通りの中央にまで民衆がまろび出ていたが、さすがに暴走する馬の前に出る馬鹿はいないようだった。
そのおかげで走りやすい。だがそれは、一角馬にとっても同じことだ。
走る、走る、走る……!
半人であるアリアドネは、普通の人間に比べたら段違いに速い。普通の馬だったら、追いつき追い越す自信もある。
しかし一角馬は走ることに特化した魔獣である。調教されているなら猶更だ。
「くそっ!!」
暴走する馬車の中で、シェヘラザードはどれ程怖い思いをしているだろう。泣いてはいないか。いきなり走り出したから、怪我はしてないだろうか。
助けられるのはアリアドネだけだ。
護衛の騎士たちはすでに遥か後方。最速を誇る半人である師・アナスタシアも、きっとまだ追いつけない。
アリアドネだけだ。
それなのに!
(追いつけない……!)
あともう少し。あともう少し速ければ、あともう少し力があれば。届く距離にいるのに。
追いつけない。
届かない。
アリアドネには力がある。主を守るのに足る力がある。
あるのに!
最悪が脳裏によぎる。
雨の中、みすぼらしく惨たらしく息を止めた主の姿だ。
アリアドネが殺してしまった最愛を、もう一度失うのか。
心臓が嫌な音を立てて、走るアリアドネを苛む。痛みと共に、アリアドネを追い立てる。
(いやだ、いやだ、いやだ、いやだ……っ!)
―――君の全ての問題はここにある。
ふいに、その言葉を思い出した。
さんざん人をこき下ろしたあの男――フリッツの声だ。
―――半人の能力が最上だと思っている。
―――能力が強すぎると思っている。
―――だから魔力が必要ないと思っている。
―――自分が強いと思っている。
檻ばかりの部屋の中、転化した半人の成れの果てである獣たちの前で、彼は言った。
心臓の鼓動は張り裂けんばかりに大きく早くなっていた。
しかし、とん、とん、とゆっくりとしたテンポで胸を突くペンの感触を思い出すと、不思議と落ち着いてくる。心臓の痛みが軽くなる。
同時に、体が、足が、軽くなったような感覚がアリアドネを包み込んだ。
―――その思い込みを捨てたまえ。
トン、と心臓が鳴った。
(体が軽い!)
アリアドネは走った。
先ほどまでとは違い、体が軽く、どこまでも走っていけそうだ。
馬車までの距離もぐんぐんと近づき、馬車の屋根に飛び乗った。
一角馬は力任せに走っているために馬車が大きく跳ね続け、その上に乗るアリアドネはかなりバランスを取り辛い。アリアドネの小さな体など、一跳ねで放り出されてしまいそうだ。
とりあえずと腹這いになってしがみ付き、手と足の力で自重を支えながら小窓を覗き込んだ。
「シェヘラザード様っ! ご無事ですか!?」
「……っっ!」
覗き込んだ先、クッションから滑り落ちて床板に座り込み、固定された座椅子にしがみつくシェヘラザードと、同じく座り込むセイレンナーデに覆いかぶさるようにしている二人の侍女の姿があった。
一人はシェヘラザード付きの侍女のはずなのに、仕えるべき令嬢を守らないとは職務怠慢も甚だしい。
アリアドネは怒りで怒鳴りつけそうになるも、ぐっと堪える。今はそれどころじゃない。
シェヘラザードの様子を確認する。恐怖で色をなくした顔色。唇も青く見えるが、目立つ怪我はなさそうだ。主の無事を確認する間も馬車は跳ねまくっているので、口を開こうにも言葉にならないようだった。
ありあどね。そう唇が動くのが分かって、一つ頷く。
「私が必ず馬を止めます。しっかり掴まっていてください!」
御者台に移動し、制御を失った手綱を掴み取る。試しに引いてみるが、びくともせずに走り続けた。
一角馬は混乱を極めているようだった。
(力づくで引き倒してもいいけど、そうしたら中にいるシェヘラザード様が危ない。どうすれば……)
緊急事態ではあるが、祝いの場で殺しも駄目だろう。
血は穢れだ。
すでに流れてしまったものではあるが、死の穢れを付けることはしてはいけないはず。
そういえば、振り落とされた御者や、なぎ倒された騎士たちは無事だろうか。無傷では済まないだろうが、どうか死んでいないことを祈る。死んだら主が悲しむだろう。
そもそも、馬を殺して無理やり止めたら、動かなくなった馬に車体が激突してしまうのではないか。
激突した車体や、その中にいる人が受ける衝撃など、想像したくもない。
「アリアドネ!」
名を呼ばれた。
能力開放したアナスタシアが他の騎士たちより一足先に追いついたようだった。
心強い味方の登場に思わず口角が上がる。ひらりと、重力を感じさせない軽やかさで馬車の屋根に飛び乗ったアナスタシアは、自分に顔を向ける弟子の姿に息をのむ。
アリアドネの左目は、神々しいまでの金色に染まっていた。
元々金の色を持つのは、包帯の下に隠された右目だ。黒のはずの左目が金色になっている、ということは。
(能力開放!?)
訓練の時にも、左目が金色に染まったことはあった。しかし必ず理性の糸は切れる寸前で、右目の下の痣が右半身や左頬にも広がっているような、いつ転化しても可笑しくないような状態だった。
けれど今は、右半身にも左頬にも痣が広がっている様子もなければ、本能が優位になっている様子もない。金に輝く左目は、理性の光が宿っている。
半人としての力が中途半端なところで留まっていた昨日までとは、明らかに違う。
こんな状況でなければ、全力で褒め倒してやりたいところだが。
(それは後でのお楽しみにとっておきましょう!)
「お師匠! どうすれば……!」
「まずは一角馬と車体を繋いでいる金具を外しなさい! そうすれば車体は止まります!」
「金具……!」
アリアドネががちゃがちゃと金具をいじっている内に、アナスタシアは馬車の中に飛びこんだ。
馬と離された車体が横転する可能性も考えられるためだ。横転したとしても、優秀な竜騎士であり半人の身体能力を持つアナスタシアであれば、幼い令嬢二人を庇いきれる。
「ええい、面倒くさいな!」
ちょっとやそっとの衝撃では外れないように固定されていた金具は、外し方も構造も知らないアリアドネには難しすぎた――ので、握り潰すことにする。
金属特有の音を立てて千切れる金具。馬車は大きく揺れて、一角馬と離された。複数の女性の悲鳴が上がる。
落ち着いて! アナスタシアの声がかき消された。
車体と馬を繋ぐ金具は、二頭の馬同士も繋げていたようだった。
興奮しきったのは傷を受けた一角馬の方で、無傷の方はどうやら引っ張られる形で走らされていたようで、疲労もあったのかわずかにスピードを落とす。
こちらはじきに落ち着き、止まるだろう。
問題はもう一頭。止まる様子はなく、甲高い女の悲鳴が余計に気に障ったのだろう。重石であった車体が外れたこともあり、走る速度は上がっていた。
それを確認したアナスタシアは叫んだ。
「アリアドネ! 貴女は一角馬を頼みます!」
「どうすればいいですかっ」
「角を掴みなさい! そうすれば大人しくなります!」
「はいっ!!」
アナスタシアにシェヘラザードが保護されているのを確認し――出来ればその役目は自分が良かったが、あの場にいたのがアナスタシアだったからこそ他の3人が無事でいるのであって、アリアドネだったとしたならばシェヘラザード以外の無事は保証できなかっただろう――、アリアドネは疾走する一角馬を追いかけた。
シェヘラザードはもう大丈夫だ。尊敬する師が傍についている。
アナスタシアはアリアドネの執着を知っているので、馬車の中にいた侍女たちのように、シェヘラザードを軽んじることはないだろう。きちんと守ってくれるはずだ。
だからこそ、アリアドネは今自分がやるべきことを見失ってはならない。
今やるべきは。
(アレを、捕まえるっ!!)
走る。出来るだけ速く。速く。速く。
ぐん、と加速する。一角馬は速い。
だが今は、アリアドネの方が速かった。
みるみるうちに接近し、すぐ後ろにぴったりとついた。
風を受けて地面と平行にたなびく銀の尾が、アナスタシアの紅の帯を思い起こさせる。いつもの鬼ごっこだ。手を伸ばす。
ぐ、と尾を握りしめたのは一瞬。一角馬の背に飛び乗った。
普通の馬の何倍も大きな体躯の魔獣は、アリアドネの小さく軽い体など少しの重しにもならぬとばかりに、一切速度を落とすことなく走り続けている。全速力で駆ける魔獣の揺れること揺れること。
揺れの影響を最小限に抑えるために、姿勢を低く保ちながら、アリアドネは一角馬の背を駆け登った。
螺旋を描く美しい一角に手を伸ばす。
「っぅわ!」
しかし、やはりそこを触られるのは理性をなくしていても嫌なのだろう。
一角馬は高く嘶き、前脚を振り上げて首を振った。予想していなかった動きに、アリアドネの小さな体は空中に放り出される。
風に煽られた木の葉のように落ちる小さな子供の姿を、一角馬の双眸が捉えた。
宙をかく前脚が、凶器となってアリアドネの体に撃ち放たれる。顔面に向かってきた片足はギリギリのところで避けたものの、腹部に向かってきた攻撃を避けることも防ぐことも出来ず、アリアドネは跳ね飛ばされた。強かに体を地面に打ち付けられ、砂埃が舞う。
「……っ!」
腹部に喰らった一撃は、どこか内臓を損傷させたのか。激痛が襲い、せり上がる血の塊を地面に吐き出す。
これで顔面への一撃をくらっていたら危なかった。守る筋肉のない頭部は骨折では済まないだろう。
右側頭部を掠めただけのそれはわずかに皮膚を傷つけ、解けかけた包帯に滲んでいる。しかし動けないわけではない。
完全にアリアドネを敵として認識しているようで、他に目もくれずこちらに駆けてきた一角馬は再加速して迫ってくる。一蹴りで吹っ飛んだ子供を仕留めることなど、造作もないだろう。
アリアドネが、ただの子供であったのなら。
よろめきながらも立ち上がり、アリアドネは一角馬を睨みつけた。
その双眸は、力強く輝く金の色。竜の色だ。魔獣の――命あるものの最上位格。
金の瞳に睨まれて、一角馬は慄いた。
アレは危険だと、獣としての本能が叫ぶ。
近づいてはいけない。目を合わせてはいけない。反抗も反撃も、アレにはしてはいけない。
「あっ!」
急停止。からの急反転。アリアドネに尻を向けて、元来た道を引き返し始めた。
迎え撃つ気満々だったアリアドネは、突然方向を変えて走る一角馬に驚きを隠せない。今一角馬が向かう方向には、救助されたシェヘラザードがいるのだ。
「逃がすか!!」
地面を蹴って一角馬を追う。
体は痛むが、走れないほどではない。前を走る一角馬は先ほどよりも明らかにペースを乱しており、簡単に追いついた。
跳躍。そして。
大きく飛んだアリアドネは、空中でひねり体勢を変化させながら、馬体を軽々通り越す。そして放物線の頂点を過ぎ、後は落下するだけとなるその位置は、走る一角馬の眼前であった。
勝利を確信して、アリアドネは笑う。その笑みは、一角馬にとってしてみれば悪魔の――魔王の微笑みに等しいものだったろう。
「つかまえたーーー! おししょーーーー! らなさまーーーー! つかまえましたよーーーーー!!!」
螺旋の角にがばりと抱き着く形で、一角馬の暴走を止めたアリアドネは、ぶんぶんと手を振って自身の勝利を元気よく叫んだ。ぶんぶんと振られる手の後ろに、あるはずのない尻尾が勢いよく振られているのが見えるようだ。
もちろんアリアドネは、自分が名を呼んだ二人にだけ主張したつもりだった。
しかしよく考えてみてほしい。
ここは王都一を誇るメインストリートであり、ただでさえ人通りの多い場所なのだが、特に今は公爵家姫君の洗礼道中を一目見ようと大勢の人々が集まっている。
そんな場所で行われた大捕物だ。しかもその立役者が、こんなに小さな子供だなどと、盛り上がらないはずがなかった。
ワアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!
「っうわ、何!?」
爆発が起きたかと思うかのような大歓声。割れんばかりの歓声と、降り注ぐ口笛と、鳴りやまぬ拍手がアリアドネを包み込んだ。
「アリアドネ!」
「ラナ様! お師匠も! あの、これはいったいなんの騒ぎで……」
護衛騎士を振り切って駆け寄ってきたシェヘラザードは、その勢いのままアリアドネに抱き着いた。そのシェヘラザードを支えるようにして追従してきたアナスタシアも、アリアドネの黒髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら自分の方へと引き寄せる。
最愛の主に抱き着かれ、敬愛する師に抱き寄せられるという、貴重で最大限に幸福を感じるような状況だったが、それを堪能するには周囲の状況が異様すぎる。
驚きと戸惑いも露わに周囲を見回すアリアドネの左目は、元の黒色に戻っていた。
一見、昨日までのアリアドネと変わらない。
しかし、ラナが新たに貴族として産まれ直してシェヘラザードとなったように、アリアドネもいまこの瞬間に産まれたのだ。
ただの奴隷ではない。ただの半人ではない。
シェヘラザードの剣であり盾である、竜として。




