竜の覚醒
鐘の音が鳴り響く。
一度、二度。
低く重く、内臓を震わせるようなそれは、風に乗り、王都の隅々にまで響き渡ったことだろう。
それは新たな貴族の誕生を祝う祝福の鐘だ。
ラナがシェヘラザードとなったことを知らせる、素晴らしい鐘の音だ。
その音を耳にした周囲の人々が、わぁ、と喜びに沸き立った。
穏やかに流れていた音楽が熱をもち、アップテンポで跳ねるような軽快なものへと変わる。人々は踵を鳴らし、手に手を取って踊りだした。
国造りの神である竜神の血を引くともいわれている貴族が増えることは、市民にとっても喜ばしいことだった。
隣に立っていたルーカスも、満面の笑みを浮かべながら見知らぬ人と手を合わせている。
アリアドネは動けない。
(ああ、ああ……! シェヘラザード様……!)
胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
今でも昨日のことのように思い出す。
一度目の時のことだ。
あの時のアリアドネは、何も分からぬ何も知らぬ、ただただ薄汚れた奴隷だった。
二度目の今のように、稀有な右目の金色や痣を持っているわけではなかったただの半人の子供。
理由は忘れたが、その時も奴隷商人に折檻されていた。無感情で無反応な奴隷は、さぞかし扱い辛く、売り難かったことだろう。
そうして貴族の少女に拾われ、甘やかされ可愛がられ、忠誠を誓い、恐れ多くも共に育ち。
アリアドネが馬鹿で愚かだったばかりに、最愛を失った。
しかし二回目を迎えた今、アリアドネは最愛を取り戻した。
正確に言えば、今のシェヘラザードと前のシェヘラザードは同じであって異なるのだろう。魂を同じとしても、同じ道筋を進むかどうかは分からない。
アリアドネが二度目となる今、自分を、そして主を取り巻く運命を変えようとしているように。
(同じにはさせない。今度こそ、必ず、私がお守りいたします)
同じ道など進ませない。
冷たく暗い牢獄も、嘲笑う人々の目も、月のように静かに微笑むあの美しい人には似合わない。
包帯が巻かれたその下で、じわりと涙が滲んだのを感じて、アリアドネは空を仰ぐことでぐっと堪えた。
この素晴らしい日に泣くなど出来ない。
気合一発、両頬を挟み込むように、強く手のひらで打ち付けた。
「ルーカス!」
「おうっ」
「行こう! 私たちの主のところへ!」
会いたい。顔は見えずとも、隣に立つことは出来ずとも、近くへ。傍へ。
はやる気持ちを抑えきれず、アリアドネは大きく一歩を踏み出した。
洗礼の道は行きも帰りも同じである。
待っていればいずれはこの道を通るはずだが、二人は教会の方へと人をかき分けながら進んでいた。
仕える主は違えども、今の気持ちは同じだった。
早くお会いしたい。
洗礼の儀が終わったことを報せる鐘の音が鳴り響いたことで、民衆も明らかに浮足立っていた。
竜神を唯一神として崇め、その神の血を濃く引く王族を国の頂に据え、竜の血脈を継ぐ六大公爵家が国の礎を築くここメルバーン王国では、それに準ずる貴族の立場や権力が非常に強い。
特に今回の洗礼は、六大公爵家の中でも随一とも名高いウィンプソン家の双子姫だ。
洗礼道中では先頭に子供を、二台目に両親を、三台目以降の馬車には教会への寄付の品々を乗せる決まりなのだが、今回の道中で列をなした馬車は計5台。つまり寄付の品を乗せた馬車が3台だ。
教会への寄付、という名目だが、それは国民へ還元される。
寄付された品はリスト化され、国庫で管理・換金する。その多くは国中の教会へと配分され、それぞれ建物の補修や孤児の教育などに充てられるのだ。浮浪者への施しや配給などにも使われる。
金の周りが良くなれば景気が良くなり、孤児や浮浪者が少なくなれば治安が良くなる。
そうなれば結果、国民の生活も向上する。
民衆の声が大きくなってくると、洗礼から戻る馬車が遠くに見えてきた。
護衛騎士が乗る白馬が先頭に、一角馬が曳く馬車が二台続く。
――二台?
アリアドネは首をひねった。
「さっすが鱗の公爵様だぁ!」
隣に立って洗礼道中を眺める男が感嘆の声を上げた。
周囲の人間から同意があった。
「馬も馬車もそのまま置いてきちまった! さすが公爵様は格が違うねぇ」
捕獲難度もさることながら、美しさと調教の難しさで手に入れることが難しい一角馬を6頭。そしてその巨体が曳くのに相応しい、豪奢な馬車を中身ごとだ。
洗礼の列は行きよりもこじんまりとしたが、それこそがウィンプソン公爵家の格を見せつけた形となった。
総額いくらの寄付となったのか、ただの奴隷であるアリアドネはおろか、列を見守る民衆の誰一人として想像することすら叶わない。
しかし、その分得られる恩恵を思って、民衆は皆一様に笑みを浮かべて、列の訪れを待っていた。
「来たぞ!!」
誰かが叫んだ。歓声が大きくなる。
見ようと背伸びするアリアドネだが、周囲の人が壁となってどうも見難い。行きと同じように街路灯にでも登ろうかと思ったが、あいにくと満員だった。
やきもきしていると、後ろから誰かがアリアドネの首根っこを掴んで持ち上げ、自身の肩に乗せた。
がっしりとした体格の男だ。伸びた無精ひげが余計に男をいかつく見せている。
「見えるか坊主」
「ありがとうおっさん!」
「お兄さんと呼べやい」
アリアドネは男の肩に膝立ちになった。安定を求めて男の茶色の髪を掴んだら、セットが崩れると怒られる。セットも何も、ただもじゃもじゃを無理やり縛っているだけじゃないか……。
しかしこれで視界は良好。馬車もよく見えるし、その周囲の人の動きもよく見える。
数は少なくなったが、それでも見劣りしない豪奢な馬車がゆっくりと近づいてくる。
小窓のレースは取り払われ、控えめに手を振るシェヘラザードが見えた。貴族として認められた帰り道は、お披露目の意味も兼ねているのだ。
きっと反対側にはセイレンナーデが座っているのだろう。こちら側にいてよかった、心底思う。
アリアドネは手を振った。ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん……。
「おい、揺れるだろ! あんま手ぇ振るんじゃない」
「今だけ!」
「勘弁してくれ!」
男の肩に乗るアリアドネは、その激しい手の振り方もあって、とても目立つ。
シェヘラザードと目が合った。驚いたようにサファイアの瞳を丸くして、しかしすぐに嬉しそうに細めて手を振り返してくれる。
(ああああああああシェヘラザードさまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ)
ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん!
大きく振りすぎて土台にしている男がよろめいた。
その時だった。
列の後方、教会の方角。
斜め上の角度から、光の矢のようなものが一角馬の前脚を掠めて地面を抉った。その様子を、アリアドネのずば抜けた視力は見逃さなかった。
高い馬の嘶きが、その場の浮ついた空気を切り裂いた。
仰け反るように高く前脚を振り上げた一角馬は、不幸にも令嬢二人を乗せた馬車を曳いていた。太い脚が、血飛沫を飛ばしながら宙をかく。
走り出した!
「きゃああああああああっ!!」
甲高い叫び声が響き渡る。
それは令嬢二人のあげたものか、それとも観衆のあげたものか。分からない。しかしそれを皮切りに、場が混乱を極めていく。
興奮しきった二頭が曳く馬車は、先導する騎士たちをなぎ倒し、車輪を軋ませながら遠ざかっていく。御者は振り落とされて制御する者を失ったため、どんな大事故を引き起こすか予想がつかない。
それを追うために馬に鞭を入れる後続の騎士たちだったが、逃げ惑う民衆が壁となり、思うように先へ進めなかった。
混乱の最中、誰よりも速く動いたのは。
「シェヘラザード様!!!」
アリアドネだった。
男の肩を蹴って走る。
「なっなんだぁ!?」
アリアドネを乗せた男が慌てたように声を上げた。
よろめいた男が態勢を整えて子供の姿を探した時には、すでに遥か遠く。
しばらくポカンと眺めていたが、小さく息を吐いて、群衆に消えていった。




