表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:5歳
30/57


 自分の立っている場所を認識した瞬間、ラナは驚きに目を見開いた。


 ばっ、音がする勢いで背後を振り仰ぐと、薔薇の乙女ラナリナが描かれた扉がそびえ立っている。

 両開きのそれはぴったりと閉じられていて、劣化した蝶番がたてる金属音がした覚えもないのに、一体いつ開け閉めしたのだろうか。


「え……っ」


 今の今まで、部屋の中にいたはず

 もっと言えば、祭壇の前に広がる、水の中にいたはずなのに。


 ラナは自分の体を見下ろした。腰まで水に漬かったはずなのに、靴も、ドレスも、少しも濡れていなかった。

 首を振ったことで少しは崩れただろう髪もきちんと結われている。


 夢でもみていたのだろうか。


 化かされたような思いで胸元を抑えた。今更心臓がばくばくと強く打ち付けている。

 混乱によって呼気が荒くなり、胸元にある手とは反対の手で口元を抑えようとして、ぎゅう、と片手が握られていることに漸く気づく。


 反射的にそちらを見ると、リナが真っ青な顔で震えていた。ラナ以上に呼気が荒い。

 自分以上に混乱している人がいると、不思議と心は落ち着くもので――ラナは長く息を吐きだすと、握り締められた手を、同じくらいの強さで握り返した。

 見開かれた赤い瞳がラナを映す。涙を湛えたその目は可哀そうなくらいに混乱していて、ラナは安心させようと笑いかけた。


「大丈夫よ」


 囁くと、リナはゆるゆると頷いた。握り締められた手から力が抜けていく。

 妹が落ち着いたのを確認して、ラナは先ほど通ってきた廊下を見回した。


 さて、これからどうすればよいのだろうか。洗礼は終わったのだろうか?


「お疲れ様でございました」

「「!!」」


 背後から静かに声をかけられて、二人は飛び上がった。

 気づいていなかっただけで、斜め後ろ――扉の横には案内をしてくれた修道女が立っている。


「以上で洗礼の儀は終了となります。新しい名を刻んだ蝋燭が貴族の間で燈り続けている限り、貴族としての生を営むこととなります。なお、新しい名前はご両親にお伝えしておりますので、そちらから伺ってください」


 そう告げて、修道女は腰を折ったまま動かなくなった。

 どうやら、本当にここで終わりらしい。

 自分たちで元の道をたどって戻れと、そういうことだろうか。


 しかし公爵家の令嬢として何一つ不自由したことのない二人は、突き放されるかのように迎えた儀式の終わりにどうしたらいいのか分からない。

 どこに行くにも先を行く者がいて、後を追う者がいた。それは案内する侍女であったり、護衛する騎士であったり、様々だったが、誰もこうして令嬢たちだけで行かせようとはしなかったのだ。


 戸惑いも露わにちらりとリナを見た。

 こういう不測の事態に強いのは、いつだって妹のリナだった。持ち前の行動力を発揮して、大人しく慎重なラナを引っ張っていく、それがいつもの姉妹の姿だ。


 けれどリナは、まだ顔を青くして震えていた。体調がよくないのかもしれない。それならば、早く帰って休ませなければならない。

 そう判断したラナは、今だ腰を折ったままの修道女に淑女の礼を返して、リナの手を引いて来た道を戻ることにした。

 両親の待つ部屋まではこの道を真っすぐ進めばいいだけだ。迷うことはない。

 とりあえず両親と合流さえすれば、後のことは教えてくれるだろう――……。


 カツン、カツン……二人の靴音しか聞こえないような静けさの中、ぽつりとリナの声が響いた。


「……おねえさま」


 小さな声だ。もしかしたら聞き逃してしまっていたかもしれないほどに頼りない声。やはりまだ顔色が良くない。早く医者に見せてやらねば。


「なにかしら?」


 障らないように、ラナはいつもよりも穏やかに応えた。暗い表情で斜め下を見つめるリナと、視線は合わない。


「おねえさまは、どうだった?」

「どうって……さっきの?」


 頷きで返されて、ラナは少し考える。どう、とは。


「真っ暗だったわ」

「まっくら」

「ええ。真っ暗な中に、お父さまや、お母さま、お兄さま方に、使用人の顔が浮かんできたの」

「……それだけ?」


 リナが漸く顔を上げた。いつも元気な妹とは少し違う雰囲気に、ラナは戸惑う。

 正直、扉の中での出来事はすでに記憶がおぼろげで、あまり正確には覚えていなかった。

 リナが何を聞きたいのかも分からず、とりあえず他に何かあったかと考えて、考えて……。


「ああ、そうだったわ」

「……?」

「あのこにも会ったの。アリアドネ。いつもみたいに甘えてくれたわ」 

「アリアドネ……?」

「ええ」

「そう……」


 残念そうに息を吐いて、リナの視線はまた床の上を滑った。妹はどんな光景を見たのだろう、こんなに元気をなくしてしまって……。よっぽど怖いものでも見たのだろうか。

 体調も悪そうだしと、心配を募らせたラナが声をかけようとする――が。


「きゃっ」


 ぱっと顔を上げたリナは、繋いでいた手を振りほどいて走り出した。驚いて、つい声を上げてしまう。

 呆気にとられて遠ざかる後姿を見つめていると、ちょうど扉を開けて姿を現した父に向って飛びついたところだった。


 父の足に抱き着いたまま、何かを父に話し、母に話し――優しく髪を撫でられている。

 嬉しそうに笑う妹は、先ほどまでの暗さはどこへ行ったのかと思うくらいにいつも通りだった。


 そして、いつも通りに完成されたような家族の姿を、ラナは遠くから見つめるしかない。

 妹のように可愛らしく走り寄ることも抱きつくことも出来ず、今まで通りのペースで歩み寄ったラナが両親と妹の傍に着いた時には、父からも母からも笑みは消えていた。


「ご苦労だったね」

「ありがとうございます」


 形ばかりの労いの言葉と共に、ラナの丸い頭をさらりとひと撫でして、父の手は離れていく。母からは何もない。

 知っている。

 今更、胸も痛まない。そのはず。


「お前たちの名前を戴いた。今後名乗る際には、こちらの名を使うように。まず、ラナ」

「はい」


 ウィンプソン公爵は、ラナの前に膝をつくと、胸ポケットから華奢な銀の鎖を取り出した。

 ラナの小指の先ほどの大きさで、涙型に加工されたサファイアがぶら下がったネックレス。


 洗礼の儀に臨む子供は、白を身につけなければならない仕来りがあるように、洗礼後の子供は目の色と同じ色の何かを身に着けなければならない仕来りがある。

 それは両親から子へと送られる、貴族としての初めての贈り物となる。


 公爵はラナの首の後ろへ手をやると、手ずからネックレスの鎖を繋いだ。

 ひんやりとした鎖の冷たさと、わずかに触れる大きな手の温かさが、どうにもアンバランスに思えて、ラナは同じ高さにある父の美しい顔をじっと見つめる。

 ラナの首元を見つめていた公爵が、ラナの視線に気づいたのか目線を上げた。同じ色の瞳が交差して――柔らかく細められる。


「《静寂に語り継ぐ者》、シェヘラザード。シェヘラザード・ラナ・ウィンプソンだ」

「――はい」

「先ほど見たものを心に刻み、名に恥じぬ淑女になりなさい」

「はい、お父さま」

「いい子だね、私のレディ」


 胸の下で重ねていた手をすくい取り、公爵はラナ――シェヘラザードの指先に唇を落とした。

 そしてシェヘラザードの柔らかな頬をひと撫でして、リナにも同じように向き直った。リナの首には瞳の色と同じルビーのネックレスがかけられる。


「《魅了し歌い継ぐ者》、セイレンナーデ。セイレンナーデ・リナ・ウィンプソン」

「はいっ」

「今のお前が感じたことを大切に、名に劣らぬ淑女になりなさい」

「はいお父さま!」


 にこやかに笑うセイレンナーデは父の言葉に元気に頷き、傍らに佇む母に抱き着いた。母はどこか嬉しそうにセイレンナーデを抱き締め返して、同じ金色の髪を撫でた。

 公爵は立ち上がって裾の乱れを払うと、シェヘラザードの手を取った。


「さぁ、新しい貴族になったお披露目をしよう。皆が待っている」

「はい、お父さま」


 シェヘラザードは父に、セイレンナーデは母に。それぞれ手を引かれて歩き出す。

 この長く続く白い回廊は産道だ。

 貴族の間で種が宿り、産道を通って、教会の扉から外界に産まれ出る。


 貴族としての生を得る。

 ラナは今この瞬間より、シェヘラザードとして生きていく。

 

 燦々と照る太陽の光が目を焼いた。

 澄み渡る青空が、シェヘラザードの誕生を祝福しているような気がした。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ