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祭壇の炎が爆ぜるとともに、部屋中に燈った蝋燭の火が赤々と燃え上がった。
窓も何もない室内で、風の動きなどありはしないのに。
小さかった火はごうごうと燃えて踊り狂う。炎に照らされて浮かび上がる影は長く、陰影を濃くして大きく揺れる。
歩みを進める足が震える。
縋りつくように握りしめた手に力が籠められるのが分かって、ラナは明確な意思をもって握り返した。自分の後ろに隠れるように身を縮める妹は、明らかに脅えの色が強い。
普段の生活では足を踏み入れることのないような、異様とも言えるこの空間は、貴族の子女として教育されてきた矜持を打ち砕くには十分過ぎた。
ラナとて、許されるならばこのまま足を止めて――一目散に走り去ってしまいたい。
そんなことを考えてしまうほどに余裕がなかった。
かつん、かつん……。
一歩、また一歩。進むたびに動くたびに、炎に照らされた影が踊って揺れて。ゆらゆらゆらゆら、何も考えられなくなっていく。
そうして祭壇を囲む堀のところまで歩み寄り、足を止めた。
今歩いてきた延長線上に、祭壇までの道が伸びている。浮島のようになっている祭壇に近づくには、この一本道を行くしかないようだ。それでも、子供の腰くらいまでは水に漬かってしまいそうだけれども。
透明度の高い水を湛えるそこは、近づいてみると思ったよりも深い。ただ水を張っているだけではなさそうだった。
思い至って恐る恐るのぞき込んでみれば、鏡のように自分の顔が映り込む。水面には揺れる炎も映し出されており、まるで水中で炎が燈されているようで、その美しさに息をのんだ。
「真実の水面である」
老婆が声を上げた。
けして大きな声ではない、むしろ囁きと言った方がよいくらいのものだが、ぐあんぐあんと反響して鼓膜を打つ。
「入った者の運命を映し出す、未来を暗示する水面である。前へ」
促されて、重い足取りで先を進む。
水の張られた道へ足を踏み入れれば、凍り付くような冷たさが爪先からつむじまで走り抜けた。なんて冷たい。体温が一気に奪われるような、そんな温度だ。
ぶるぶると震えながら両足を水の中に入れると、やはり腰あたりまで水に漬かってしまう。
ここから一歩足を踏み外せば、底の知れない冷たい水の中へと放り出されるのかと、ふとよぎった考えに恐ろしくなった。
冷たさに震える体を叱咤して、水の中を進み、祭壇の真下へと到着する。
浮島に上がるための段差はなく、祭壇にもっと近づこうと思ったならよじ登らなければならないだろう。水に濡れてずっしりと重いドレスでは、それは出来そうにもなかった。
「燭を」
老婆が枯れ枝のような腕を差し出す。
言われるままに、ラナとリナはそれぞれ自分が持っていた蝋燭を渡した。老婆はぞんざいな仕草で二本の蝋燭をまとめ持つと、祭壇で燃え踊る炎の中に突っ込んだ。
炎が燈る。
「あっ……!?」
「ぅん……っ!」
炎が燈ったその瞬間だった。
ラナは自分の体に例えようもない感覚が走ったのを感じ、小さく悲鳴を上げた。それはリナも同じようで、胸を抑えてきつく目を閉じている。
びりびりと痺れるような、さわさわと撫でられているような。
得体の知れないナニかが、体中を巡っていく。
それは心臓から始まり、血液の流れに沿って全身へ。脳みそを優しくかき混ぜられるような、柔らかい不快感――快感? わからない。
そうしてまた心臓へと戻ってきたそれは、今度は全身を巡ることなく心臓の上に留まった。
熱がこもる。熱い。
それなのに水に漬かっている体は寒くて寒くて、凍えてしまいそうで。体の内と外で全く異なる感覚は、ラナを苛んだ。
「う、あ、あ、あ、あ、あ……っ」
その熱を逃したくて、ラナはぎゅっと目を閉じた。口を開け、はくはくと呼吸をくり返す。酸欠の金魚のようだ。いくら吸っても空気が入ってこない。
いつから頭のてっぺんまで水の中に漬かってしまったのだろう? そう思ってしまうほどに苦しい。
首を振ると、長く伸びたレースが頬を撫でた。
――とっても美しゅうございます!
耳の奥で声が蘇る。あの小さな、奴隷のこども。
何も持たない、面白くもないラナを、純粋に慕ってくれる。同い年のはずなのに、とても小さくて、頑張り屋さんで、ラナを守ると、誓って、くれた、あの。
(あぁ……)
馬車の中から見たアリアドネの姿を思い出すと、体がうんと楽になった気がした。
冷たい水で冷え切った手足に熱が戻る。
(不思議だわ……もう、暑くも寒くもない……)
むしろ心地が良いくらいだ。
ラナはゆっくりと瞼を押し上げた。
水面に穏やかな顔をした自分の姿が映る。そうして気づいた。
(あれはなに……?)
水の中、自分の影の、もっともっと奥深く。
無数の蝋燭の炎を反射して輝く中に、それとは異なる輝きを見つけた。もっとよく見ようと、顔をぎりぎりまで水面に近づける。鼻の頭に水が触れた感覚がして、
(えいっ)
とぷん、と。全身を水の中へ沈ませた。
不思議と苦しくはない。あんなに凍えそうだったのに、身を切るような冷たさもない。
体が軽く、どこまでも泳いで行けそうだ。
ゆっくり、ゆっくりと、下へ、下へ。何かに引っ張られるように、沈んでいく。恐怖はなかった。
ゆっくりと沈んでいくラナの横を、ふわふわと赤い炎が踊りながら通り過ぎていく。水面に蝋燭の炎が映っているだけだと思っていたが、どうやら水中にも炎はあったらしい。水の中なのに、不思議なこともあるものだ。
真っ暗な空間に、ぽつぽつと炎があちらこちらに燈っている。それはとても幻想的な光景で、今の状況も忘れて見惚れていた。
時折、炎が大きく揺れては見覚えのある顔を順繰りに映し出す。
父、母、上の兄、下の兄、妹、侍女、執事、それから、それから――。
(なぜかしら。あのこの顔が、出て来ないわ……)
一言も会話をしたことがないメイドの顔すら出てくるのに、どうしてか、自分の無印奴隷の顔はいつまで経っても浮かび上がってこない。
それがどうしてか、ラナは不満に思う。
(なによ……)
守るだとか、傍にいるだとか言うくせに、出てきてはくれないのね。
人に期待することは、齢五つにしてもうすでに止めている。期待しても、期待した分の思いが返ってくることはないと知っているからだ。
けれど。
あの無印奴隷に関しては、少しずつ、そうではなくなっているようだったことに、ラナは今、初めて気が付いたのだった。
(――アリアドネ)
遠くで手を振っていた姿が脳裏に蘇る。
満面の笑み。私だけを見る、私だけの。
見知った人々の顔が一通り過ぎると、再び仄かな炎の灯りだけが残された。そうしてまたゆっくりと落ちていく。
どこまで落ちるのだろう。妹は、リナは、どうしているのだろう。この景色を見ているのだろうか。リナのところには、アリアドネは来たのだろうか。もしそうなら、ちょっと、嫌だなぁ、なんて、そんなことをぼんやりと思った。
ふいに胸元が熱くなって、そこを見下ろすと左胸のあたりに炎が浮かんでいるのが見えた。熱くはない。
温かくて心地の良いそれは、ラナが見守るうちにどんどん勢いを増していき、ぱちりと爆ぜた。
きらきらと、金色に輝く火の粉が暗闇に散らばって、あたりを柔らかく照らし出す。
星が瞬くように美しいその光景を見回していると、ゆっくり落ちるその先に、二つの満月が輝いているのを見つけた。
(月? いいえ、違うわ。あれは……)
この黒い空間に溶けるような、夜闇のような黒い鱗。そして満月のように金色の瞳。
竜だ。
兄であるヒュンケルがたまに見せてくれる契約竜とも、アナスタシアの竜とも違う。もちろん、過去に見たことがあるどの竜種とも違う。
眠たげに寝そべる大きな体。くわりと欠伸をすると、鋭い牙と、黒々とした喉の奥がラナの真下に来る。この小さな体なんて、一口で丸呑みにされてしまうだろう。けれど恐怖心はなかった。
この竜を、知っている。
(おまえ、あのこね?)
首をもたげる竜の鼻先に触れた。そのまま慈しむように撫でる。
竜は気持ちよさそうに喉を鳴らし、ラナの手にすり寄った。もっと撫でて、というような仕草に、笑みが零れる。
(いいこね、アリアドネ)
ラナは黒い竜の鼻先に体を寄せた。
小さい体ではこの巨体を包み込むことは叶わないが、腕の届く限り伸ばして、めいいっぱい抱き締める。抱き着く、という方が正しいだろう。けれどラナは、力いっぱいに抱き締めてあげたかった。
竜は大人しくラナの腕の中に納まっていた。目を閉じて、うっとりとしている。そんなところもアリアドネそのままで、ラナは嬉しくなってしまう。
普段は拒否されるのが怖くて――そんなことするはずがないと分かってはいるのだが――こんな風に目いっぱい甘やかすなんてことは出来なかった。甘やかしてはいるが、こうして自分も相手に抱き着くだなんて、甘えるような行動をとるだなんて、もってのほか。
けれど、今なら。そしていつかは。
(ずっと私の傍にいてね――…)
そう、伝えられたらいいと願う。
その為の勇気をもらえそうなので、ラナはぎゅうと抱き着く腕に力を込めた。非力な子供の力など、この竜にとっては虫がとまったくらいのものだろう。
どれくらいそうしていただろう。
一秒か、一分か、永遠にも感じたその抱擁は、閉じた瞼の向こう側からでも分かる眩い輝きによって終わりを告げた。
白い光。
暗闇の中で仄かな炎と、金色の相貌だけが光源だったこの空間で、痛いほどの白い輝きは瞼を閉じていてもラナの瞳に突き刺さる。
(まぶしい……っ、なに―――――?)
光で目が焼かれるようで、ラナはぎゅう、と目を閉じた。
しばらくしてから、そろそろと瞼を押し上げる。焼かれるような白い光は収まり、明るいけれどどこか優しい光に変わっていた。そうしてその先に見たものに、ラナは驚きを隠せない。
白い竜がいた。
抱き締めている黒竜よりも、一回りは大きいだろうか。白い鱗に、同じく金色の瞳を持つ美しい竜が、凪いだ金色でラナを見ている。
害意はない。敵意も。ただただ、優し気な光を湛えてラナを見ている。
溢れんばかりの愛しさを湛えて、ラナを見ている。
(あなたは、だれなの―――……?)
無意識に手を伸ばした、その瞬間だった。
ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん……
ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん……
低く内臓を震わせるような鐘の音が二度、王都中に響き渡るような大きさで鳴り響き、ラナははっと現実に帰ってきた。
温かくも美しい黒い世界はもはや遠く。
ラナは祭壇のある広間の、扉の前に立っていた。




