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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:5歳
24/57

優しい傷痕


 ふわふわと、まるで雲の上にいるかのように心地よい。


 やわらかであたたかく、アリアドネの全てを受け入れてくれているようだ。

 いい匂いもする。優しい太陽と、花の匂いだ。胸いっぱいに吸い込んで体の中を循環させる。冷えていた指先に、ぽっと灯りが燈るように熱が全身に行き渡る幸福感。

 アリアドネの髪に、誰かが触れた。やわく頭皮を刺激されて、短い癖毛を優しく梳かれていることに気が付く。

 くすぐるように耳元にも指先は流れ、無意識に頬が緩んだ。

 ふふ、と転がるような微笑が聞こえる。


 ――きもちいいの?


 舌の上でふわりと解ける砂糖菓子のような甘さの滲んだ、優しい声が鼓膜を小さく震わせた。

 うん、と素直に頷いて見せれば、再び甘い笑い声が耳に落ちてくる。耳をくすぐる指先に頬を寄せれば、温かなてのひらが頬を包んだのが嬉しくて、また笑う。


 ――いいこね、アリアドネ


 ああ、きっと。

 これを幸せというのだろう。

 ゆらゆら、ふわふわ。

 ああ、この時間が永遠に続けばいいのに。


 微睡みの中、愛しい主君の膝枕を堪能しながらアリアドネは思うのだった。



 

 前は日に二回だけ許されていた、シェヘラザードと二人きりの時間は、とても残念なことに夜だけとなっていた。

 それにはいくつか理由がある。

 シェヘラザードとその双子の妹であるセイレンナーデの誕生日があと数週後に迫り、その準備に取り掛かり始めているために自由な時間が少なくなったのだ。

 ドレスの採寸、礼儀作法、勉強と、その日までにやるべきことは山ほどあった。


 そしてアリアドネもまた、訓練に次ぐ訓練で忙しい日々を送っていた。

 戦闘訓練から始まった勉強は、今や座学もスタートしている。

 シェヘラザードが習うような内容は難しすぎて無理だが、まずは文字の読み書きと数字を覚えることから始まった。

 ミミズが苦しみのたうち回っているような、文字ともいえぬものではあるが、こればかりは練習あるのみである。


 また、下女としての仕事ばかりではなく、メイドが行う仕事もぽつぽつと教えてもらうようになっていた。

 まずは貴人の前に出ても恥ずかしくない程度の作法を身に着けるところから。礼ひとつとっても様々な種類があり、わずかな角度の狂いも許されない。

 下女、メイド、侍女は、同じ意味だと思われがちだが、明確な違いが存在する。

 下女は清掃や炊事など、屋敷内の雑事をこなす下級使用人のことを指すのに対し、メイドはある程度の家柄の貴族や裕福な家庭の令嬢たちが行儀見習いとして高位貴族の屋敷に入る上級使用人のことを指す。そして侍女は、貴族の女性の傍仕えとして力を認められた者のことをいう。


 アリアドネが最終的に目指すのはシェヘラザードの専属侍女だ。おはようからおやすみまで、片時も離れず傍に仕えたい。

 そして、メイドや侍女は給仕や来客の取次ぎなどの接客も行うため、きちんとした礼儀作法が求められる。アリアドネにはまだ、それを務められるほどのものはない。まだ幼いことを差し引いても、だ。

 

 公爵家に買われて早数ヶ月。

 多少伸びてきてはいたが、アリアドネの髪はまだまだ短い。癖の強い髪質はうねり、短い髪をさらに短く見せている。ぎゅう、と引っ張ってやっと少量結べるくらいだ。

 長く艶やかに手入れされた髪が女性としての美しさの象徴ともされる一方、女性の短髪は罪人の証ともいわれている。

 まだ性別という概念から遠い幼さだからこそ多めに見られているところもあるが、アリアドネの短髪は高位貴族の使用人としてはけして許されるものではなかった。

 髪が結える長さになるまではと、軍の訓練場以外への外出を禁じられていた。

 アリアドネとしては、シェヘラザードが洗礼を受けるために中央教会に向かう際にも供をしたかったのだが、それは許可が下りないだろう。

 せめて市民に紛れて、道中を眺めることだけでも許されたらいいのだが、それも叶うかどうか。


 貴族の子息子女が5歳の誕生日に新しく名をつけられる【洗礼】は、その家の未来を左右する可能性もある重要な儀式のひとつだ。高位貴族であればあるほど重要視されている。

 洗礼を終えて初めて貴族の名に連ねることができる為、教会に向かうまでの道中はお披露目も兼ねている。

 家の威信をかけ、馬車、馬、騎士、侍女全てを飾り立てる。もちろん主役となる子息子女こそ、豪華絢爛と言ってもいいほど。

 洗礼を受ける際は白い礼服であることが決められているが、材質にこだわり、意匠を凝らしてと、家々で全く異なるものとなる。

 それによって、「うちはこれだけのものが用意できるんだぞ凄いだろ!」と他家に家の力を示すのだ。公爵家の後継ぎとなる男児の場合は、お供の列も含めると数百メートルも道中が続くこともある。

 国が誇る6大公爵家の洗礼道中は、一種のお祭りのような賑わいを見せるのだ。

 後継ぎでない令嬢の場合はそれほどまでではないが、今回は6大公爵家の双子姫ということもあり、そこそこの規模になるだろうと予想された。


(真っ白なドレスのシェヘラザード様、さぞやお美しいのだろうなぁ……)


 艶やかな銀髪と相まって、きっとこの世のものとは思えないほどだろう。

 試着の際には、ぜひとも見に行かせていただこうと心に決める。

 シェヘラザードの膝枕を堪能しながら、アリアドネはふくふくと笑った。


「あら、アリアドネ。たのしそうね」


 いい夢でもみたのかしら? とシェヘラザードの指先が目元をくすぐった。それに頬をすり寄せて、アリアドネは微睡んで閉じていた瞼を押し上げる。

 淡い光の中で微笑む主君の姿は、いつ何時見ても天使のようだ。


「らなさまに、おともするゆめを」

「わたしに?」

「きょうかいまで。わたしもおともしたいです」

「う~ん……、お父様がお許しくださればいいのだけれど……」

「いいえ、らなさま。いいんです、わかってます」


 アリアドネのわがままに困ったように眉を寄せた。それにゆるく首を振って、言ってみただけと伝えると、シェヘラザードはさらに困ったといった様子で眉間にしわが入る。

 可愛らしい顔に皺でも残ったらとんでもない。

 アリアドネは膝から上体を起こし、シェヘラザードの足元に跪いた。膝の上に置かれた小さな手を、自分のもっと小さな手でそっと握る。


「いまはまだ、わたしには、ちからがたりません。まだ、らなさまを、まもれません。でも」

「アリアドネ」

「いつかかならず、わたしが、あなたを、おまもりします」

「……」


 戦闘訓練や行儀作法の勉強が始まってから他人との接触が増えたアリアドネは、話すスピードも格段に速くなっていた。

 死にかけのミミズだが、文字も書ける。

 礼の種類も覚えた。

 半人の能力制御を完璧に覚えるにはまだまだ先が長そうだが、元々の身体能力の向上は目覚ましい。

 アリアドネの持つ力は、少しずつ、だが確実に増えている。

 シェヘラザードを守れるようになるまではまだ先は長いが、前よりももっと近づいている。


「いつかかならず、あなたのもとに」


 すくい上げたシェヘラザードの手の甲に額を合わせる。忠誠の誓いの真似事。

 いつか――近いうちに必ず、真似事ではなくしてみせる。


「……最近」


 しばらくの沈黙の後、ぽつり、独り言のような小さな声が部屋に落ちる。

 手の甲から額を離し顔を上げる。シェヘラザードは深く俯いていて、顔が見えない。


「とても、がんばっているみたいね」


 ぎゅ、と。決して強くない力で手を握られる。

 少し手を引けば外れてしまいそうな弱弱しい力だ。


「ヒュンケルお兄様に、お話を聞くの。あなたはいつも、傷だらけ泥だらけになってがんばってるって。お勉強も、いつも熱心にやってるって」

「……らなさま、ほどでは」


 褒められている。のに、シェヘラザードの表情が見えないためにアリアドネは素直に受け取ることができず、とりあえずで吐いた否定の言葉。

 シェヘラザードは首を振った。


「あなたはがんばっているわ。とても、とても。がんばりすぎなんじゃないかって、おもうくらい」

「らなさま」

「無理しなくていいのよ」


 優しい言葉だ。

 頑張って偉いね、無理はしないで。きっと、そこに嘘はないだろう。けれどその中に、どれだけの真実があるのか、アリアドネにはわからない。

 顔を上げたシェヘラザードのアメジストに、驚きに目を見開くアリアドネの顔が映り込んでいた。アリアドネの左右で色の違う瞳にも、複雑な感情に歪められたシェヘラザードの顔も映り込んでいることだろう。

 

「いやだったらいつでも止めていいの。強くなんてならなくていいし、あの子のところに行ってもいいのよ」


 全身の血の気が引いた気がした。

 強くならなくていい。あの子――きっとセイレンナーデのことだろう――のところに行ってもいい。

 その言葉が頭の中をがんがんとリフレインして止まらない。脳みそを直接かき混ぜられるような痛みと衝撃。

 強くなること、シェヘラザードの傍にいること。それがアリアドネの存在意義で、全てだった。

 その言葉たちは、アリアドネの存在を、あり方を、全てを否定するにも等しいものだ。


 シェヘラザードに大切にされている。それをアリアドネは知っている。

 今はまだ、主君と従者の絆のようなものはない。それを築けるような時間も力も、アリアドネにはない。

 だからこそ時間をかけて力を、知識をつけて、シェヘラザードが心を預けるに足る人間になろうと思っていた。


 シェヘラザードは優しい人だ。それもアリアドネは知っている。

 アリアドネが自分を主として慕っていることを知っているだろうに、それを遠ざけるようなことをあえて言うということは、何かの意図があるのだろう。


 例えば、セイレンナーデと比べられて、何か言われた、とか。


 悔しさと怒りで叫びだしたいのをぐっと堪えて、アリアドネは細く長く息を吐いた。今、感情的になるのは悪手だ。

 力の入っていない手を、アリアドネは握り返した。振り払われたら簡単に離れてしまうくらいの力加減で。


「らなさま。わたしは、もういらないですか。わたしのこと、きらいになりましたか」


 揺れるアメジストと目を合わせる。

 シェヘラザードが何を考えているのか、アリアドネにはわからない。けれど。


「わたしのことじゃまですか。もうかおもみたくありませんか」


 引き結んだ口元が、横に振られた首が、アリアドネの一番の不安を否定してくれたから。


「なら、あなたのおそばにいさせてください。あなたをおまもりさせてください」

「でも、」

「わたしのあるじはほかのだれでもなく、らなさま、あなたです。あなたのそばでいきていきたいのです」


 セイレンナーデでも、ヒュンケルでも、ましてやウィンプソン公爵でもない。

 アリアドネの主は、前にも後にもただ一人。


「ぜったいのちゅうせいを、あなたに」


 もう一度、何度でも、忠誠を誓う。

 額に触れる手は冷たく、一度だけ、躊躇うようにぴくりと動いて。振り払うことも握り返すこともなく、それだけ。


「……むりは、しないで、ね」


 小さな呟きは、部屋の静寂に溶けて消えた。

 ああ、私のこの熱が、シェヘラザード様にほんの少しでも移ればいいのに。この冷え切った手を温めることが出来たらいいのに。

 そう願って握る手は、ひどく優しく解かれた。


「もう、こんな時間。明日も勉強で早いのでしょう、アリアドネ。そろそろ部屋にもどりなさい」

「……はい、らなさま」


 困ったように微笑む主にかける言葉も見つからず、従う事しかできない自分がもどかしかった。



 そして、公爵家の双子姫の、洗礼の儀当日を迎えようとしていた。





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