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転化。
半人が己の力の制御ができなくなり、完全に獣に化してしまうこと。
アリアドネには、一度目を生きた記憶がある。
奴隷として売られ、拾われ、シェヘラザードの傍で生き、そして守り切れずに竜へと転じて死んだ、一度目の記憶だ。
二度目を生きる今のアリアドネには【転化】という現象の経験はないが、確かに覚えている。己の体が変化し、周りにいた人間を皆殺しにしたことを。
色の異なる右目も、その下の鱗の痣も、その影響を受けたのではないかと思っている。
しかしそれを説明するには状況が突飛過ぎた。
一度死んでやり直しています、など。こんな戯言、誰が信じようか。
なんて言ったらやり過ごせるのか。アリアドネは考えるも、驚きと焦りで硬くなった思考回路はいつもよりずっと回転が遅く。悩む言葉は音にはならず、喉の奥で潰れて消える。
「普通は完全に転化してしまったら、元には戻れないっていうのが通説なんだけど。君は違うのかなぁ。う~ん、実に興味深いね」
黙り込むアリアドネとは対照的に、フリッツは至極楽しそうだった。回転椅子をくるりと回してデスクに向き直り、手ごろな紙にペンを走らせる。
「転化、つまり人間から獣になるメカニズムは全く解明されていないんだ。半人はどういった経緯をもって半人となるのか不明ということだね。一般的に能力開放と呼ばれる半人の特性も全て謎に包まれていて実に興味深い。解放のトリガーもその度合いも個人差が大きいし、調べても調べてもなかなか正解にたどり着けない。しかし最近、細胞において異常に活性化した変異種があるのではないかと僕は睨んでいる。そもそも一般的に人間の体は約60兆個もの細胞によって作られており――と、そんなことはいいね、君わかんないだろうしね」
「……」
つらつらと話し始めたと思えば急に中断し、ハァ~ヤレヤレと聞こえてきそうな仕草で首を振った。
言っていることの半分も理解できなかったが、なんとなく馬鹿にされていることだけはわかる。
「ここにいるのは、みんな転化して元に戻れなくなってしまった子たち。僕はね、半人の発生条件と転化条件について研究しているんだ」
「はんじん……!?」
フリッツに対して警戒心を募らせて神経を使っていたアリアドネだったが、その言葉に再び、三面を埋め尽くす檻の中の存在のことを強く意識した。
数も、種類も多い。ここにいる全ての獣が、フリッツの言う通り半人たちの成れの果てだとしたら、なんて残酷な部屋なのだろう――。
(いや、その逆か?)
前にアナスタシアが言っていたことを、痛みと熱さに苛まれながらぼんやりと聞いていたことを思い出す。
完全に転化してしまった半人は、もう二度と元の姿に戻ることは叶わず処分対象になる、と。
それを思えば、ここにいることはむしろ幸運なのかもしれない。
運がよければ、フリッツの研究が実を結び、元の姿に戻る望みが残っている。そういった可能性があるのだから。
反対に、獣の姿で死ぬことも許されず生き続けなければならない苦しみもあるのだが、どちらが幸せか、アリアドネにはわからない。
「僕の可愛いアナスタシア。あの子が万が一転化してしまった時には、僕はあの子を助けられるようになっていたいんだよ。だから僕は半人の研究をしているのさ。もう守れないのは嫌だからね」
この部屋の主であるフリッツの妹は半人だ。
貴族の令嬢として育てられていたのに、ある日突然半人の血に目覚め、奴隷に落とされた。本人はもちろん、この妹を溺愛する兄の衝撃はいかほどだったのだろう。
アナスタシアのためにこれほどの数の半人を集め、日々研究に没頭しているのだろう。そう思うと、アリアドネの苦手意識も少しは薄れるような気がした。
「話が逸れてしまったね。本題を話そうか」
フリッツは持っていたペンをデスクに放り投げ、椅子を回してもう一度アリアドネと向き直った。ころころころころと、よく気が変わる男だ。
「さて。君が動物的で野性的で人としての知性の欠片もないという話だけれども」
「……」
そんな話ではなかったはず。
悪気など全くありませんという顔をして、悪気に毒気をトッピングしたような言葉を吐く男を、アリアドネはじっとりと睨みつけた。
反論はしない。ここで口をはさんでも、さらりと躱された上でさらに攻撃を重ねられる未来しか見えないからだ。沈黙は自分を守る最大の防御である。
「君は転化を経験しているから――ああ、誤魔化さなくてもいいから――獣と化した自分の動きを知っているということになる。転化した後は人間の理性よりも獣の本能の方が圧倒的に優先されやすい。だから命のやり取りを連想させる戦いの際には獣の本能が優位になり、動物的な動きをするんだろうね」
「まりょくが、でない、のは」
「魔力が自在に使えるのは人間だけだ。君はとても動物的で野性的で衝動的で本能的で知性の欠片もない、ただの獣だから魔力が扱えない。簡単な話だろう」
増えてる。
さすがに腹が立ってくるがしかし、言っていることは一理ある。
全てのものに魔力はある。しかし動物がそれを扱うことは出来ない。動物的な本能が優位になってしまっている今のアリアドネでは、そもそも魔力を扱う素地が出来ていないという事か。
「おそらく君は、転化した自分の力を知っているんだろう。それで戦うことが最善であると無意識に断定していて、それ以上の力を知らない。だから自分が持つ獣の力に頼りきりになる。下手に能力開放状態が続いていることも問題の一つだろうね」
身に覚えがある。
アリアドネは一度目の人生の最期の瞬間、竜となってこの国を滅ぼした。一挙手一投足、吐息の一つでもって数万人を屠った。数多の兵士にも魔術師にも負けなかった。
アリアドネは自分が強いことを知っている。――強すぎることを知っている。
「半人の能力を使いこなせないのは、君が心のどこかでストップをかけているからだろう。これ以上力を出したら危険だ、と」
半人の能力が強いあまりに頼りきりになり、魔術を使えない。
けれど同じように、強すぎるあまりに半人の能力も扱いきれていない。
どっちつかずの泥沼だ。
(どうすればいいんだ……!)
半人の能力を使わないようにしようとしても、右目の色や鱗のあざが表しているように、アリアドネの体は常に能力が解放されている状態だ。使わない、という状態にすることがそもそも難しい。
能力を抑えることも、開放することも、魔術を扱うことも全てが中途半端。
アリアドネは悩んだ。しかし考えてもいい案は出てこない。
うんうん唸るアリアドネを楽しそうに眺めながら、指先でペンをくるくると回す。アドバイスを求めてちらりと見やると笑みを深めた。意地の悪い顔だ。かの愛しの妹に見せてやりたい。
「なんだい?」
「どうしたら、つよく、なれますか」
「さあねぇ?」
さあって。
不審者を見る眼付きになってしまったのは仕方のないことだと思う。
半眼で睨んでくる幼子に、フリッツは笑う。
「言っただろう、僕は戦い方を教えることは出来ないと。それは僕の可愛いアナスタシアの仕事であって、僕がやることじゃない」
「でも」
「わからないかい?」
小さな軋みを上げて、フリッツは椅子から立ち上がった。くるくる、くるくる、ペンが回る。
ぴたり。止まったペンがアリアドネの胸元――心臓の真上に突き付けられる。
「君の全ての問題はここにある」
ここ。心臓。この場合は心持ちのことだろうか?
「半人の能力が最上だと思っている。能力が強すぎると思っている。だから魔力が必要ないと思っている。自分が強いと思っている」
とん、とん、とん、とん。
言いながらアリアドネの心臓を突く。ペン先で突かれているわけではないのに、決して強い力ではないのに、痛みを錯覚する。
「その思い込みを捨てたまえ」
とん。
最後の一突きは、額に。
「……」
アリアドネは自分が弱いことも、強いことも知っている。知っているはずだ。だから魔術が使えるようになりたいと望んでいる。
それでは駄目なのだろうか?
俯いて黙り込んでしまったアリアドネのつむじを見下ろす。フリッツの腰にも届かない小さな子供だ。
ペンでつむじを押す。ぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐり。
こんなにも遠慮容赦なくつむじを抉られては、いつまでも落ち込んでいられない。アリアドネは苛立ちに任せてフリッツを睨みつけると、両手でつむじを覆い隠した。
面白そうに笑い、つむじをつつくことが出来なくなったペンをくるりと回す。
「まあ、可愛いアナスタシアにもお願いされたしね。僕の出来る限りで君に協力すると約束しよう。その代わり、君も僕の研究に協力してくれよ。なに、悪いようにはしないさ」
「……はい」
面白い。
アリアドネに対する素直な感想はその一言に尽きる。
まだ幼いのに転化を経験したことのある半人奴隷。能力は常時開放状態で、けれど使いこなせていない。
数多くの半人や、転化した獣を見てきたフリッツが、初めて見るタイプの半人だった。
さぞかし研究が進むだろう。
「制御できない力がその身に宿ることはない。何を恐れているのかはわからないけど、今の自分を受け入れなさい。それが、今の君に足りないものさ」
「いまの、じぶん」
「そう。受け入れて強くおなり。じゃないと……」
「じゃないと?」
アリアドネが顔を上げた。
にんまりと笑う男は、つむじを押していたペンを今度は鼻の頭に押し付ける。ぐ、と持ち上げられて豚っ鼻~、と笑われた。
「じゃないと、僕の可愛いアナスタシアが僕を構う時間が減るだろう!」
こいつ嫌い。
そう思ってしまったのは、仕方のないことだろう。
引きつった表情を取り繕う努力もする気が起きず、アリアドネは疲れたように肩を落とした。




