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フリッツの研究室――もといメリウス伯爵邸は、竜騎士宿舎からも、ウィンプソン邸からも歩いてほど近い場所にあった。
メリウス伯爵家は古くからウィンプソン家に仕える家柄らしい。
領地も隣、王都に構えるタウンハウスも徒歩圏内で、年もそれほど離れていないヒュンケルとは主従というよりも兄弟のように毎日遊んで育ったという。
ヒュンケルには実兄であるウィンプソン家嫡子・オランドがいるが、6年の年齢の開きがあるため遊び相手という認識ではなかったようだ。
年の離れた実兄よりも、年の近い他人の方が気心が知れている。
ほどなくして到着したメリウス邸は、ウィンプソン邸よりもこじんまりとしていて、そして、何というか。
「きたない……」
「失礼だな君は」
元々は白く美しかっただろう白壁には枯れた蔦がびっしりと張り巡らされ、窓は曇り、ところどころヒビが入っている。
日差しが降り注ぐ庭は、だからこそ草木が好き勝手に伸び茂り。奥に見える屋敷の扉まで、わさわさと雑草をかき分けなければならない始末だ。
無人の廃屋か何かかと勘違いするほどに荒れ放題な庭を抜け、フリッツが扉を開けると――驚くことに鍵をしていなかった――ぎぎぎぎぎ、と錆びた蝶番が悲鳴を上げる。
ようやっと人一人分が通れる幅まで開いた扉から差し込む光が邸内を照らし出すと、舞い上がった埃がきらきらと揺れていた。
踏み入れた屋敷は、よくよく見ると高価そうな絵画や焼き物があちらこちらに飾られていたが、どれも残念なほどに分厚く埃をかぶっている。枯れたまま放置されている花瓶もあり、割れて粉々になっているものもあった。
ウィンプソン邸とは全く異なるひどい様子に、アリアドネは無言のまま邸内を見回した。
手入れどころか掃除もされた様子がない。
仮にも伯爵家のタウンハウスがこれでいいものか。
そんな考えが顔や態度に出ていたのだろう。きょろきょろ見回すアリアドネの頭を真上から鷲掴んで固定した。
「父母は領地に帰っているし、使用人もいない。僕一人にこの屋敷は広すぎるだろう」
「だからきたないですか」
「本当に失礼だな君は」
先頭を行くフリッツの後を追うのはアリアドネ一人である。
ルーカスは決められた訓練や勉強の時間以外は下男としての仕事があり、ヒュンケルもアナスタシアも仕事がある。アリアドネだけが他の仕事を免除され、フリッツに従うことを許されていた。
離れる最後の瞬間までアナスタシアは心配そうだったが、今ならその気持ちもわかる。
(大丈夫なのかこの男……!)
あのアナスタシアの兄で、ヒュンケルの幼なじみだ。命の危険という意味では大丈夫だろうとは思うが、あまりにもなこの現状に心配になる。
強くなりたい一心で、何か手掛かりが得られるならばとついてきたが、判断ミスだったろうか。もう若干帰りたい。
「僕の可愛いアナスタシアを、半人だからという理由で捨てた奴らだ。僕が捨てても問題ないだろう。そう思わないか」
「はあ」
父母は領地に帰っている。使用人もいない。
そう言っていたが、つまり。
(父母を領地に追いやって、使用人も全員解雇ってことか)
伯爵位を継いでいないうちから、そんな暴挙に出れるほどの人物だということだ。そして半人研究の若き第一人者。
冷たく当たってはいたが、アナスタシアもヒュンケルも信用しているようだった。相当優秀な人物なのだろう。
ひょろりと長い脚が大股で先を進むのを必死で追いかけていると、急に足を止めた。きょろきょろしながら後を小走りでついていっていたアリアドネは、止まり切れずフリッツの足にぶつかってしまう。
「ぎゃあ!」
「!?」
軽くぶつかったはずが、フリッツはそのまま前のめりに倒れ込んだ。
床にべしゃりと潰れるさまは、まるで踏み潰された蛙のようだ。本人にはとてもじゃないが言えない。
「何をするんだ君は! 半人の癖に随分どんくさいな、ちゃんと前を見たまえ!!」
「……はぁい」
筋肉も肉もなさそうだと思っていたが、どうやら運動神経もないらしい。
子供にぶつかられただけで倒れるような大人にどんくさいなんて言われたくないが、アリアドネはいい子のお返事をして口を噤んだ。
ずれた分厚い眼鏡をかけ直し、倒れ込んだ時に付いた埃もそのままに、一つの扉の取っ手に手をかけた。
ギィ、と軋む音を立てて開いた先の部屋は、ダイニングキッチンのような造りの部屋だった。
水垢がこびりついたシンクの中には汚れた皿やカップが積み重なり、5、6人が座れそうな大きなダイニングテーブルの上には所狭しとゴミが散らばっている。
棚という棚の引き出しはすべて開けっ放し、椅子に引っ掛けられたタオルにはカビなのか汚れなのか。
床にはゴミと埃と食べかすが見渡す限りだ。
今まで通ってきた庭や廊下は、確かに汚かったがまだ許容範囲内だった。
しかしここは下手に生活感があるだけに、余計に汚く不衛生に見える。
貴族どころか、人としてマイナス点を叩きだすその空間を見回して、アリアドネは言葉を失う。
公爵家に買われてずっと、掃除や洗濯ばかりをしていた為かアリアドネは汚い空間に耐性がなくなっていた。というより、下女魂が燃え上がるのを感じていた。
万が一、この空間にシェヘラザード様をお呼びすることがあったとしたら。
「しんでしまう……!」
「ほんっとうに失礼な奴だな君は!」
ぶるりと震えて悲鳴を上げると、フリッツが三度同じ台詞を口にした。
考えただけでできた鳥肌をさすっているアリアドネを背に、フリッツはキッチンの窓の下、ぽっかりと空いた穴――地下室への階段を指さした。
「僕の研究室はこの地下室の先だ。いいね、この先のことは他言無用だよ」
「はい」
「よろしい」
何度も階段を上り下りしているからか、周辺に埃はなかった。
石で造られた地下室は、一段下りるごとに一度気温が下がるような感覚で。数えていないために正確にはわからないが、中々に地下深い。だいぶ下まで掘り下げているようだった。
足元を照らすように小さな灯りが点々と先に続いている。それ以外に光源はなく、すいすいと足を運んでいるフリッツの後ろ姿すら暗闇に溶けてしまいそうなほどに暗かった。
アリアドネは夜目が利くのでそれほど歩行に支障はないが、もしここにルーカスがついてきていたとしたら、一歩を踏み出すのすら躊躇っていたことだろう。
フリッツは何も言わない。アリアドネも。
革靴の底が立てる硬質な音と、どこからか入り込んだ隙間風の細い音だけが響いている。
「いいかい君」
沈黙を破ったのはフリッツだった。
「可愛い僕のアナスタシアのように、僕は君に戦い方を教えることは出来ない。けどね」
進む道の突き当り。
腰元から鍵の束を取り出して、端から一本一本試しながらフリッツが言う。
「君自身のことを教えることは出来ると、思っているよ」
かちり。
6本目にして漸く填まった鍵を回して、重い扉を押し開いた。
扉の先、まず見えたのは檻だった。
床から、垂直に見上げるほどに高い天井までを囲う大小様々な檻。見るからに頑丈な拵えのそれが、無秩序に積み重ねられている。
その檻の一つ一つが魔術式によって厳重に守られていることがわかった。そうでなければ。
「フリッツ、さま。ここは」
「僕の研究室だよ」
全ての檻に獣たちが収容されてなお、ここまでの静けさを保っていられはしないだろう。
異様な部屋だった。
眼前に広がるこの空間を表すのに、これほど適した言葉はないだろう。
アリアドネは広い地下室――研究室の中をぐるりと見回した。
扉の設置された壁一面を除き、他の壁三面には、床から天井まで覆い隠すように檻が並んでいる。その全てに、多種多様な獣が収容されているのだから圧巻であった。
小型のねずみのようなものから、大型の熊のようなもの、小さく丸まってぴくりとも動かないもの、檻に体当たりしては咬みつくもの。
竜騎士軍の竜舎のように、遮音や衝撃吸収の術式がかけられているのだろう。音も臭いもしないため、まるで映像が流れ続けているような異様な光景だった。檻の右上には白いラベルがかかっている。それで個体を識別しているのだろう。
檻のない壁には、用途の分からない機材や器具や所狭しと置いてあるほか、書類や研究書、何か保管されているか想像もつかない瓶などがみっちりと詰まった本棚がある。
部屋の中央に置かれた大きなデスクは、インクやペン、書類が散らばっている。三方向にある檻を全て観察できるその場所が、この部屋の主たるフリッツの定位置なのだろう。
入りなさい。許可されてアリアドネは恐る恐る足を踏み入れた。
よそ者の気配に反応してか、檻の中にいる獣たちが一斉に視線を、意識をアリアドネに寄こしたのを感じて皮膚が粟立つ。特に首元の鳥肌がひどい。背筋がぞわぞわとして、まるで何百匹もの毛虫を無造作に放り込まれたかのようだった。
アリアドネの中にいる獣も敏感に反応しているのが分かる。
呼吸が浅く、早く。瞳孔が開く。全身の感覚が鋭敏になり、いつ襲われてもいいように体を作り替えていく――。
「君」
呼びかけられて、アリアドネは慌ててフリッツを見た。獣たちに気をとられ過ぎて、今の今まで存在を忘れていたのである。
呆れたように溜息を吐く。
「君ねぇ、すぐに持ってかれそうになるのを止めなさい。人間味に欠けていて、実に美しくない」
鏡もなにもないせいで本人にはわからないが、アリアドネの右目の下にある鱗のあざは、頬全体に広がろうとしていた。真っ黒なはずの左目も色が薄くなっている。
アナスタシアの契約竜・ウィズと目が合った時と全く同じ反応を返していた。
どっ、どっ、と心臓が強く拍動している。
瞬きもせずに大きく開かれた瞼の下、焦点の合わない瞳がうろうろと小刻みに揺れては獣たちを、フリッツを見て、床に落ちる。
「君はとても動物的だね。僕のアナスタシアと遊んでいた時も、時折四足歩行の動物のような動きをするし。前のめりに倒れた時も顔や頭を庇わない。頻繁に鼻血を出すのがいい例だよ」
フリッツはデスクに備え付けてある椅子に腰を下ろした。座り心地の良さそうなそれに体重を預けて深く沈み込むと、小さく軋んで受け止めた。
優雅な仕草で足を組み、腹のあたりで指を組む。
これは僕の研究者としての勘だけど、と前置きの後。
「君は、転化をしたことがあるんじゃないかい? ―――おや、当たりかな?」
なるべく反応しないように心掛けたつもりだったが、どうやら研究者の観察眼から逃れることは出来なかったらしい。目の動き、筋肉の強張り、そういったものに偽りは出る。
フリッツが面白そうに笑った。




