半人
「ふぐうぅぅぅぅぅぅ……!」
ルーカスは手のひらの上に乗せた魔力玉に向かって力を籠める。腕は力の入りすぎでぶるぶる震えるが、ガラス玉は揺れるばかりで一向に色を変えない。
しばらくぶるぶる震えていると、皮膚に触れている部分から、緑色がじわじわと染み出してきた。
「! やった!」
「お、色が変わってきたな。中々早かったなぁ」
目を輝かせて喜ぶルーカスの赤毛をかき混ぜて、ヒュンケルは褒めた。
ルーカスが魔力操作の訓練をスタートさせてから早くも1週間。
暇さえあればガラス玉に力を籠める、を繰り返した結果、力の入れすぎによる筋肉痛と共に、少しばかり魔力の流れを制御できるようになっていた。
休憩と称しては仕事を抜け出し訓練の様子を見に来るヒュンケルも、ルーカスの上達の速さには驚いていた。
10歳前後で魔力操作を覚える者はあまりいない。
魔力は誰にでもあるものだが、誰にでも扱えるものではないのだ。
「なんとなくでも、魔力の流れる感覚は理解できたか? それさえわかれば、とりあえずは初級レベルの術なら使えるようになる。次からは術式の構築理論から学んでいこう」
「はいっ!」
憧れが多分に含まれたきらきらした目で見上げられて、悪い気のする者はいないだろう。ヒュンケルも例外ではなく、かわいい弟分を愛でる気持ちで赤毛をさらにかき乱した。
ルーカスはセンスがよく、呑み込みも早い。やる気もある。
自在に魔術を使いこなせるようになるまで、そう時間はかかりはしないだろう。問題は……。
(あいつの方だな)
少し離れた位置で、常人の目ではなかなか追えないスピードで高速鬼ごっこを繰り広げているのに目をやった。
赤い帯をひらめかせて踊るように逃げるアナスタシアと、まろび転びながら追いかけるアリアドネ。
どちらに余裕があって、どちらがないのかなど、一目で誰にでもわかる様子は一週間前から違いがない。
(あ、転んだ)
しかも顔面からいった。
本日何度目か知れない鼻血が出る。すぐに態勢を立て直して再びアナスタシアに飛び掛かる――が、頭を力づくで押さえつけられてまた地面に沈んだ。
すぐ治るとはいえ、女子がそれでいいものか。そしてアナスタシアも容赦がない。
アナスタシアは、ヒュンケルの知る限り最速の脚力を持つ半人だ。能力を解放した状態のアナスタシアに勝る者はいない。
それになんとか食らいついていけるのだから、アリアドネの速さもなかなかのものだ。しかし、まだまだ。
(もっと速く、鋭く。なれるはずだ。おまえなら)
「おやおやもったいない。全く力を活用できてないねぇ」
後ろから聞こえた声は、独り言のようであり、「一週間何やってたんだ」と投げかけられたもののようであり。
近づいてくる気配を察していたヒュンケルは苦笑しながら、見知らぬ人物の登場に驚くルーカスは慌てながら、突然の訪問者を迎え入れた。
「案外遅かったな。研究狂いのおまえのことだから、もっと早く来ると思ったんだけど」
「その研究でトラブル発生だよ。その後片付けでこんなに遅く」
「つか、おまえ臭いぞ。風呂入ったのいつだ」
「いつだっていいだろう、放っておいてくれないか」
「あ、あの、ヒュンケル様……その方はいったい……」
ヒュンケルと並んでもあまり差がない長身は筋肉も脂肪もなくひょろりとしている。
男のひょうひょうとした佇まいも相まって、吹けば飛んでいきそうだ。まんまるの眼鏡のレンズは分厚く、その奥の瞳が見え辛いせいかひどく胡散臭い。
ぼさぼさの赤毛はいつ洗ったのかと問い質したくなるほど脂っこく、手癖なのかがりがりと頭皮をかきむしるたびに白いものがふわついて。
初めて会った時のヒュンケルとはまたベクトルの異なる、しかしそれ以上に不潔さを感じる男だった。
研究狂い、と評されたそのまま、薄汚れた白衣を身にまとっている。袖のあたりをべっとりと汚す鉄錆色のそれが何なのか、出来ればルーカスは知りたくない。
じり、と無意識に距離をとるルーカスに気づき、ヒュンケルは男を指さした。
「こいつはフリッツ・ロン・メリウス。メリウス伯爵家の嫡男で、半人を研究する変わり者で、俺の幼馴染みで、アナスタシアの実兄だ」
「おにいちゃんだよ~」
へらりと笑って手を振る変質者――もとい、フリッツの言葉に、二人分の悲鳴が上がったのは仕方ないことであった。
悲鳴を上げたうちの一人は、聴覚が優れているために来訪者に気づき、会話を盗み聞いていたアリアドネである。
しかし驚きのあまり叫んだその瞬間。
「気をそらすとはいい度胸ですね!」
三度顔面から地面に沈んだ。
折角止まりかけていた鼻血もまた出始める。しかしそれ以上にアリアドネの気を引くパワーワードが耳の奥にこびりついて、這いつくばったまま、ぽけっ、とアナスタシアを見上げた。
「お、おにい……???」
「全く、いいですかアリアドネ。仮にも戦闘中に別のことに気をとられるとは許されませんよ。さあ立ちなさい、もう一度です」
「え、う、あ、おししょ?」
「どうしました。早く立ちなさい」
「え、ええ……?」
兄と名乗る人物の登場にも関わらず、ないものとして訓練を続けようとするアナスタシアに、アリアドネは混乱の一手である。
3人がいる方向には決して目線をやろうとはしないところから、まさか気づいていないふりでやり過ごそうとしているのか。
しかしそれを許さないのが自称おにいちゃんである。
「可愛い僕のアナスタシア! ああどうして兄を無視するんだい!? でもそんなつれないところもクールでキュートだね!」
「ぎゃああああっ!!」
後ろから素早く距離を詰めたフリッツは、アナスタシアの細腰に腕を回すと、もやしのような体躯には似合わぬ力業でもって抱き上げた。近づいてきていることは嫌でも察していたアナスタシアだったが、まさかこんな暴挙に出るとは想像すらしておらず悲鳴を上げる。
一方は満面の笑みで、一方は全力で嫌そうに悲鳴を上げて、くるくると回転するのを茫然と眺めていると、ばさりと頭にタオルをかぶせられた。
「ヒュンケルさま」
「垂れてる垂れてる」
「うぶぶ。ありがとう、ございます」
渡されたタオルで顔の汚れと、垂れて口元や顎まわりを汚す鼻血を拭き清めながらも、目線はじゃれあう男女に固定されている。
ヒュンケルの後ろから追ってきたルーカスもまた、何か恐ろしいものでものぞき込むかのような仕草でそれを眺めていた。
「ヒュンケルさま、あのおかたは……?」
「フリッツ・ロン・メリウス。アナスタシアの兄だ。聞こえてたろ?」
「いや、きこえて、ました、けども」
聞きたいのはそこじゃない。
そう続けようとしたアリアドネは、ひとつのことが気になった。
「なまえが、ちがう?」
「よく気付いたな」
ぽつりと零したアリアドネの黒髪を、ルーカスにしたようにかき混ぜる。雑だが、決して乱暴ではない手つきだ。
「アナスタシアは元々はメリウス伯爵家の令嬢だ。フリッツはその兄。でも名前は違う。なぜだかわかるか?」
問いかけられて、アリアドネは考える。
妹であるアナスタシア・ロンと、兄であるフリッツ・ロン・メリウス。
同じ伯爵家の子息子女として生まれた兄妹のその違いは。
「お師匠は半人で、元無印奴隷だから、ですか?」
「正解です」
先に答えに行きついたのはルーカスで、それを肯定したのはアナスタシアだった。力づくで引きはがしたのか、フリッツは二人がじゃれあうように争っていた場所に沈没している。
嫌そうに顔をしかめて、訓練着に付いた汚れを払う仕草をしながら近づいてきた。触れられた場所に鼻を近づけて、ふんふんと臭いを嗅いでいる。間違いなく数日は入浴していないだろう兄の酸っぱい臭いが移っていないかの確認である。
しかし半人の優れた嗅覚は少しの残り香も拾い上げてしまうので。
アナスタシアはその柳眉をぎゅう、と顰めて、指先を擦り合わせて二度、音を鳴らした。自分の体に向けて一度、遠くでいじける兄に向けて一度。
汚れと臭いを浮かせて除去する便利な術だ。ぜひ覚えたいものである。
「私は半人だとわかってすぐ、家を追い出されたから家名がないのです。ただのアナスタシアとして奴隷に墜ち、その後ウィズを得て竜騎士となり、家名を名乗ることを許されました」
「自由民に成った奴隷の大半は、奴隷の期間中に世話になった人のミドルネーム――つまり幼名を家名として名乗ることが多いのさ。可愛い僕のアナスタシアは、僕の名前を選んでくれたんだよ。いやぁ、愛だよねぇ」
「ちょっと何を言っているのか理解しかねますね」
肩を抱く手をつねり上げる。痛い痛いと言いながらも、フリッツは嬉しそうだった。
半人に対する差別は高位貴族ほどひどいと聞く。伯爵家の令嬢であったアナスタシアもまた、家族から強い差別を受けたのだろう。
フリッツの妹愛は、この短時間でもよく分かる。家族から迫害された妹を、どんな気持ちで見ていたのだろうか。家族のいないアリアドネにはわからないし想像も出来なかったが、家族に売られたルーカスは複雑そうに二人を見ていた。
「フリッツ様がお師匠の主様だったんですね」
「いや違うよ」
「えっ」
ぽつりと呟いたその言葉を否定したのはフリッツ本人だった。
アナスタシア・ロンと、フリッツ・ロン・メリウス。アナスタシアの名前はフリッツからとったものだろう。
奴隷期間中に世話になった人、というのは付き従っていた主という意味ではないのだろうか。そうでないなら、アナスタシアの元主とは誰なのだろう。
兄とはいえ、主を差し置いて名をつけるのは、元主的にはありなのだろうか。
フリッツはクエスチョンマークを飛ばす子供二人に意味深に笑い、さて、とアナスタシアから離れた。
「今日はヒュンケルに呼ばれて来たんだ。君のお勉強の手伝いにね」
指さされたアリアドネは目を白黒させた。
「てつだい?」
「そう。君、全然成長してないらしいじゃないか」
「うっ」
「可愛い僕のアナスタシアの時間を使っているにも拘らず、何一つ成長していないなんてねぇ」
「うううっ」
痛いところを突かれた。
午前中だけではあるが、アナスタシアにつきっきりで訓練をつけてもらうことになってから、早一週間。
ルーカスは早くも成果を見せ始めていたが、アリアドネは正直さっぱりである。
意識的な能力開放? はっきり言ってよく分からない。何それ美味しいの、というレベルの話である。
アナスタシアのスピードにもついていけず、ただただ走って転んで鼻血を出しての繰り返し。
そうして体を慣らしていくことも大事だと、師匠であるアナスタシアは言うのだが。アリアドネは焦っていた。
一度目の人生では何も考えなくても半人として力を使えていたのに、二度目の今ではその感覚すら思い出せない。
反論も何も出てこず、アリアドネは下唇を噛んで俯いた。
「それに関しては、教えている私に非があります。あまり私の弟子をいじめないでくれませんか」
「おししょ……」
短い癖毛を優しくなでて、アナスタシアは自分にアリアドネの頭を抱き寄せた。しっかりと筋肉の付いたしなやかな太ももに額がぶつかる。後頭部を包み込む手が温かい。
訓練は容赦ないが、アナスタシアは基本的に優しい。中々成長しないアリアドネを見捨てず、腐らず、真摯に向き合ってくれる。
それに応えたい。
ぎろりと最愛の妹に睨みつけられ、フリッツは慌てたように手を振った。
「い、いじめてなんかないよ可愛いアナスタシア。僕はこの子に協力したいんだ」
「研究の間違いでは?」
「それももちろんある」
「……お引き取りください」
呆れたように溜息を吐くアナスタシアは、抱き寄せたアリアドネの背を押して、訓練の場所である円の中に誘おうとした。
アリアドネはまだ幼い。
公爵の勅命もあり訓練をつけているが、まだこんなに厳しく躾なくてもいい頃だろうとアナスタシアは考えている。半人の能力の制御だって、もっと内面が成長して、精神的に大人になるにつれて制御できるようになってくるだろう。
本人は早く公爵令嬢の傍へ行きたいと願ってはいるが、まだそんなに急がなくてもいい。
そうして背を押すが、アリアドネの足は動かなかった。左右で色の違う瞳が、じっと、フリッツを見つめている。
その瞳に宿るのは、アナスタシアが訓練をつけると決めた日に見せた決意の色だ。
「つよく、してくれますか」
フリッツは笑う。
「さぁね」
君次第さ。




