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ひらり、ひらり。
目の前によぎる緋色の帯に必死に手を伸ばすも、掴む前にするりと躱される。
膝ががくがくと震えだして、つんのめった体を支えきれずにそのまま渇いた地面に倒れこんだ。
勢いを殺す体力的な余裕もなくなっていて、顔面をしこたま打ち付けたせいで皮膚が擦れて血が滲み、鼻の奥が熱くなる。
地面についた手のひらに、滝のような汗と共にぼたぼたと赤い雫が垂れて。そこで初めて、アリアドネは自分が盛大に鼻血を吹いていることに気が付いた。
ただでさえ息が切れているのに、鼻から絶え間なく血が流れ出るせいで呼吸が出来ない。苦しい。
「立ちなさいアリアドネ」
手と膝をついて蹲る幼子にかけられたのは心配の言葉ではなく、そんな厳しい言葉だった。
アリアドネと同じ時間、同じように動き回っていたはずなのに、アナスタシアは息一つ乱さず、汗の一滴も流していない。
自分と同じ半人という立場であるはずなのに、こんなにも違う。突き付けられた現実に、アリアドネは奥歯を強く噛み締めた。
(くそ……っ)
悔し紛れに握り込んだ拳の中、渇いた砂だけがざらついた感触を冷たく伝えていた。
半径10メートル、歪に引かれた円の中。
アリアドネとアナスタシアは対峙していた。
「ルールは簡単です」
がりがりと地面を削っていた木の棒を放り投げながら、アナスタシアはアリアドネに向き直った。
「この円の中、貴女が鬼になって、私を追いかける。これを獲るか、私の体のどこかに触ることができれば貴女の勝ちです。もちろん攻撃してきても構いません」
アナスタシアの腰回りから、緋色の帯が垂れ下がっている。訓練着のベルトに引っ掛けただけのそれは、少し引っ張っただけでするりと解けるようにしてあった。
軽くつまんでいた帯から指を離すと、ふわりと広がりながら重力に従うその帯は、地面につくぐらいに長い。走ったり風になびいたりすれば、その帯は長くアナスタシアの後ろを泳ぐだろう。
ただの鬼ごっこで、帯を掴めばアリアドネの勝ちだと言うのならば、それは簡単なことのように思えた。
「能力開放した私の速さについて来れるようになれば、貴女の半人の能力もある程度は制御出来るようになるでしょう」
一歩、片足を引く。そして。
「全力で向かってきなさい」
「!」
アナスタシアの纏う気配が変った。
ざわざわと毛を逆立てるようなそれに、本能的な恐怖を感じてアリアドネの腕に鳥肌が立つ。目が離せないアリアドネの眼前で、アナスタシアの姿が変わっていく。
紫紺だった瞳の色が、黄みの強い緑へ変わり、瞳孔は黒く縦に切れ上がる。
白い肌には梅花様のあざが仄かに赤く浮かび上がり、アナスタシアの美しい容姿をさらに際立たせていた。
半人の血の能力開放。
大型ネコ科の肉食獣を思わせる姿となったアナスタシアからは言い知れぬ圧力が放たれていて、アリアドネは無意識に重心を落とした。
じりじりと間を詰める。対峙するアナスタシアは自然体だ。リラックスしているようにさえ見える、それなのに。
(隙がない……!)
「どうしました、かかってこないのですか」
「っ!」
アリアドネの頬を冷や汗が伝う。知らず噛み締めていた奥歯がぎしりと軋んだ。
呼吸は浅く短く、心音は早く。落ち着かない。
初めて向き合う未知の存在への恐怖心だろうか。不用意に動くことが出来ず、一歩が踏み出せない。動くのを躊躇う様子のアリアドネを静かに見つめるアナスタシアは、細く長く息を吐きながら、つま先で地面を叩いた。
「こないならば」
とんとん、軽い調子で二回。そして。
「こちらから行きます!」
三度地面を叩いた瞬間、しなやかな獣はアリアドネの眼前から姿を消した。
正確に言えば、消えたわけではない。一瞬で体制を低く整えたアナスタシアは、地面すれすれまで体の軸を落として距離を詰めてきたのだ。
再びぱっと眼前にアナスタシアの顔が映り込んだと思ったら、次の一呼吸には軽やかに足を払われる。苦し紛れに伸ばした腕は、紅の帯にかすることもなく空を切った。
一度体を動かしてしまえば、後は様子を窺うなどという選択肢は存在せず。舌打ち一つ吐き捨てて、アリアドネは泳ぎ回る尻尾を追った。
「っくそ!」
「あら、口が悪いですよアリアドネ。貴女は公爵家のご令嬢付きの侍女になるのではないのですか」
円のぎりぎりに立つアナスタシアを目掛けて真っ直ぐに走り手を伸ばす。触れるか触れないかの直前で避けられては、急停止して再加速をくり返すアリアドネの体力は、みるみるうちに削られていった。
帯に触れるだけでいい。触れたならなんとかして掴み取ることができるのに、指先が掠めることすら叶わない。
アナスタシアは速かった。
最小限の動きで爆発的な超加速を生むその力は、大型肉食動物のそれに酷似している。
アリアドネとて遅いわけではない。常時能力開放状態であるアリアドネのスピードは、常人のそれを軽く凌駕する。それなのに追いつくことができない。
(くやしい……っ!)
息が弾む。心臓が早鐘を打っている。喉の奥が痛みだして、血の味がした。
急停止と急加速をくり返す脚はすでに限界が近く、悲鳴を上げている。
もっと動ける。もっと速く動ける。
もっと、もっと!
(はやく!!)
ひらり。
揺れる帯に伸ばした腕は届くことなく、アリアドネは地面と熱烈なキスをすることになった。
ぼたぼた垂れる鼻血が地面を汚し、荒い呼吸をくり返す口元は閉じることが出来ず、呑み込めなかった唾液が零れ落ちる。
がくがくと震える両足は力が入らず、まるで生まれたての小鹿のようだ。
その様子を眺めていたアナスタシアは、少し離れた位置から声をかけてくる。
「疲れたでしょう、もう終わりにしますか?」
首を振った。横に二回。
握り込んだ拳に刺さる砂利を手放した。地面に爪を立てる。
「まだ続けます?」
首を振った。縦に一回。
力の入らない足を体に引き寄せる。爪先に力を入れた。
「でも貴女、もう疲れ切っているでしょう。鼻血も出しているし、休憩してから――」
「まだあ゛ぁっ!!」
休憩する場所を探してか、アナスタシアが円の外へと意識を向けた、その一瞬。
アリアドネは残る力を振り絞って地面を蹴りつけた。一足のもとにアナスタシアに肉薄し、風に揺れる帯へと手を伸ばす。
指先が触れる、その瞬間。
(いける―――!)
「甘い」
片腕で伸ばした腕を、もう片方の腕で胸倉を掴むと、一本背負いの要領でアリアドネを投げ飛ばした。
ほぼほぼ勝利を確信していたアリアドネの体は宙に舞い、受け身をとることもできずにそのまま地面へと叩きつけられる。肺の中の空気が一気に押し出され、呼吸が出来なくなる。ちかちかと星が散った。
そのまま大の字で動けなくなったアリアドネの頭をまたぎ、アナスタシアはにっこり笑って顔を覗き込む。
「今のはなかなかよかったですが、声を出しては不意を衝く意味がなくなるので気をつけましょうね」
「……あ゛い」
「じゃあ少し休憩をとったら、また始めましょうか。立てますか?」
「らいじょうぶれす……」
「ならあちらで休憩しましょう。――おっと、獲らせませんよ」
倒れ込むアリアドネを置いて颯爽と背を向けたアナスタシアに手を伸ばしたけれど、やっぱり帯に触れることは出来なかった。




