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「なっ、なんで」
ガラス玉だったものが地面に落ち、それを追うように破片によって傷つけられた手のひらから血が滴った。痛くはない。
ただただ、ショックだった。
(割れた? なんで? もしかして私には魔力がないのか? だから)
「アリアドネ! 見せてみなさい!」
だから割れてしまったのだろうか。
震えるアリアドネの手を、アナスタシアが焦ったように掴んだ。もう一方の手で術式を宙に描き、少量の水を生み出すとそれで手のひらを洗い流し始める。
細かな破片が手のひらに刺さってしまっているかもしれない。
皮膚の中に入り込んでしまっていたら大変だ。洗い流し残しがないか念入りに確認する間も、アリアドネは地面に転がる破片を見つめて動かなかった。
魔力がない。
その可能性は考えたことがなかった。
この世界に存在するすべてのものに魔力は存在する。もちろん人の体内にも。それが当たり前だと、思い込んでいたのかもしれない。
守り切るには半人の能力だけでは足りない。身体能力だけでは足りない。
だから魔力を制御できるようになれば、足りない部分を補えると思った。それなのに。
「アリアドネ!」
鋭い声に名を呼ばれて、はっと顔を上げた。厳しい表情のアナスタシアがしゃがみこんで、アリアドネと視線を合わせている。
白いハンカチが、濡れた手を包み込んでいることにやっと気づく。
汚れてしまうと思って、反射的に引っ込めようとするも、それを見越したアナスタシアにしっかりと掴まれていた。破片によって傷ついた手のひらは、すでに血は止まり、自己修復が始まっていた。
「何度も呼んでいるのに、寝ボケてるんですか貴女」
「ごめ、なさい」
「……痛くはありませんか?」
「……」
心配を滲ませた問いに頷きで返す。
落ち込みを全身で表現し、俯くアリアドネの癖っ毛をかき混ぜて、ヒュンケルが笑った。
「属性玉が割れるとは、やっぱりお前は半人の能力制御が先だなぁ。属性を調べるのはその後だ」
「?」
「おばかさん、私はさっき言いましたよ。私の魔力に反応した、戦えるほどの量はある、と。なのに属性玉が反応しないどころか割れるなんて、魔力以外の要素が全くコントロール出来ていない証拠です」
貴女の場合はもちろん、半人の血ですね。
さらりと告げられた言葉に、アリアドネは脱力した。心配するだけ無駄だったようだ。
「この世に存在する全てのものに魔力は存在しますが、それを上手く循環させて利用できるかは個人差が大きいのです。特に私たち半人は、魔力を扱える人間と、あっても扱うことが出来ない人間でないモノとの2種の血が流れていますから、その分制御が難しいんですよ。なのでまずは半人の能力を自在にコントロール出来るようになること。それが貴女の課題ですね」
「ルーカスはその点、量も質も問題ないし、すんなり魔力操作訓練に移れそうだな。あとは基礎体力か」
「はいっ、俺、頑張ります!!」
「俺も同じ風属性だし、時間が合えば見てやるよ」
「ありがとうございます!」
ヒュンケルに気安げに肩を叩かれ、ルーカスは頬を上気させた。
貴族平民問わず憧れの対象である竜騎士の、しかも副団長を務めるような雲の上の存在からそう言われて、まるで夢見るような表情だ。
そんな夢見る少年とまるで正反対の表情のアリアドネ。
苦虫を数十匹まとめて噛み潰したような、苦痛の表情だ。期待していただけに落胆も大きい。
「こら」
「んぶ」
ぶすくれた顔で、傷のふさがった手のひらを見つめていたアリアドネの頬をアナスタシアが挟み込んだ。
頬を押されて、むちゅ、と唇を突き出したまま、優しく顔を上げられる。
仕方ないなとでも言いたげな瞳は優しい。
「そんな顔をするんじゃありません。貴女の半人の能力値はとても高そうだから、これを機に自分の意志で完璧に制御できるようになりなさい。今みたいに幼いうちから制御の仕方をしっかり学んだ方が、後々有利になるのは目に見えているのだから」
「……はぁい」
「よろしい」
アナスタシアの言葉にも一理ある。アリアドネは思った。
一度目の時、アリアドネは意識しなくても半人としての能力を使えていたが、使いこなしていたとは限らない。
半人であることの判断条件である虹彩の色素変化や身体特徴の発露があったために、使っているということは傍目からでも認識できるが、それが本来アリアドネが持つ力のうちの何パーセント程なのかは、本人にすら分からなかったのだから。
それでも、並居る強者を打ち倒すくらいの力は発揮出来ていたから、戦うという行為自体に苦労はなかった。10パーセントでも100パーセントでも、シェヘラザードが守れればそれでよかったので。
けれどその時と同じでは駄目だとわかった今、自分の上限くらいは知っておかないとならないだろう。
10で駄目なら50、50で駄目なら100の力を出せるようになることが、今のアリアドネに必要なことだ。
「よろしく、おねがい、します」
頬を挟んでいるアナスタシアの手ごと、深々と頭を下げた。
元無印奴隷で、半人で、竜騎士。
境遇が重なるところもあるこの美しい人ならば、きっと悪いようにはしないだろう。
竜は総じて気位が高いので、生半可な者とは契約しない。
竜騎士として副団長の補佐を務めるのみならず、王宮軍元帥の覚えもめでたいアナスタシアは、きっと優れた師としてアリアドネを導いてくれるはずだ。
「こちらこそ。ルーカス、貴方も」
「はいっ!!」
「ではさっそく」
「はい?」
にっこり笑って、ルーカスの手に先ほどの属性玉よりも一回り大きいガラス玉を握らせた。ずっしりと重たい。
「力を込めてみて」
そう声をかけられて、同じように両手で包み持ち、ふぅ、と吐息を吹きかける。しかし、ひんやりとしたガラス玉の表面を白く曇らせただけで、透明のまま色を変えることはなかった。
二度三度試してみても結果は同じで、ルーカスは困った顔でアナスタシアとヒュンケルを交互に見上げた。
「何も起こりませんが……」
「だろうなぁ。貸してみ」
手の上に転がるガラス玉を、ヒュンケルは親指と人差し指の先でひょいと拾い上げた。
そのままルーカスの目線の高さまで持ち上げると、無色透明だったガラス玉は指先が触れる先からじわじわと色を変えていく。
透明な水に緑色の絵の具が広がっていくように、ゆるりゆるりと滲み、広がり、ほどけて、濃く。
うっすらとした緑色が、濃く鮮やかな色合いになっていく。
それは真夏に茂る青葉のような、先ほどルーカスが属性玉で出した色とよく似ていた。
「色が変わった!」
「んはは、見てろよ」
瞬きひとつの後、ガラス玉はその色を変えた。秋の夕焼けのような鮮やかな赤だ。
じわじわではなく、元々その色だったかのような変り具合に、自分の目と記憶を疑う。
「制御玉はその名の通り、初心者が魔力のコントロールを学ぶためのものだ。意識的に魔力をこれに注ぎ込むと色が変わる」
「おおお……!」
ルーカスに見せながら、ガラス玉の色をころころと変えて見せる。
風の緑、火の赤、土の黄色。
パッ、パッ、とテンポよく変わるそれは、簡単そうに見えるが実はかなり難しい。体内をめぐる魔力の属性を、瞬間的に操作するには、繊細なコントロールが必要とされるからだ。
「ルーカスはまずこれの色を変えられるようにならなきゃなぁ」
「はいっ! 頑張ります!」
「いい返事だ。それから、アリアドネ」
「はい」
ヒュンケルは手の中で色を変えて遊ばせていたガラス玉をルーカスに渡す。
その様子をじっと――恨めしさすら感じさせる目で見つめていたアリアドネの癖毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら、アナスタシアを指さした。
「ちょっとあいつと追いかけっこしておいで」




