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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:5歳
15/57


 夢を見た。

 忘れもしない。一回目の夢だった。


 音のない映像が、白い空間に揺蕩うアリアドネの眼前を流れていた。

 例えるならば、水の中を浮いているようだった。弛緩した四肢が重くて、瞼も重くて、今にも閉じてしまいそう。体に重しがぶら下がっているような感覚。ゆっくり、ゆっくりと、下へ、下へ。


 奴隷市で売りに出される前の記憶はない。ただただ、暗く狭い部屋の中でじっとしていたような気がするが、本当にそうだったのか、それとも違うのか。わからなかった。

 あの日のことは、アリアドネの人生において最大の幸運だったとしか言えない。ほかにあの時のことを言い表す言葉はない。

 一度目は両目とも黒かったし、右目の下の鱗のあざもなかった。容姿が優れているわけでもない、珍しい色を持つわけでもない、それでもアリアドネは無印として並べられ、折檻され、そして。

 シェヘラザードに拾われて、アリアドネはこの世に生まれ直した。


 そこから、死ぬまでの15年が流れていく。


 一度目を生きるアリアドネは、自分が強いことを知っていた。

 体術の教師をぶちのめした。魔術を駆使する魔術師をぶん殴った。卓越した剣術の騎士を打ち負かした。

 半人だの奴隷だの、馬鹿にされたりするのは腹が立ったが、偉そうに自分を見下す奴らを、その半人の驚異的な身体能力のみで地べたに這いつくばらせるのは気持ちがよかった。

 体術も魔術も剣術も、どんなに努力しようが、普通の人間は自分に勝てやしないと。そう気づいたのはいつだったか。きっとまだ、幼いころだったような気がする。

 みんなアリアドネよりも弱かった。アリアドネは努力しなくてもみんなより強かったので、自分よりも強いものなどいないと思っていた。


 けれど最期は、守りたいものも守れずに、みじめに死んだ。

 アリアドネは確かに強かったが、誰より強いわけではなかった。


 一度目を生きるアリアドネは、好きなものがたくさんあった。

 一番で特別はシェヘラザード。隣にいることを許してくれて、笑いかけてくれて、頭をなででくれて、たまに優しくキスしてくれる。いい匂いがして、綺麗で、優しくて、大好きだった。

 それから、公爵様。拾ってくれたのはシェヘラザードだが、公爵が許してくれなければ、隣にいることは出来なかった。勉強も礼儀作法も嫌いで侍女として失格のアリアドネがシェヘラザードの傍に入れたのは、偏に公爵のおかげだった。

 ヒュンケルも好きだ。公爵夫人や後嗣である長男は末の娘であるセイレンナーデを贔屓していたから、シェヘラザードを可愛がるついでによく飴をくれたヒュンケルは、いろいろな意味で好きだった。

 セイレンナーデも好きだった。

 敬愛するシェヘラザードと同じ顔の妹。明るくて優しくて、奴隷商の折檻を止めてくれたのは彼女だったから。

 あからさまに自分を贔屓する人たちに対して、シェヘラザードを庇うような動きをとっていた。おねえさまおねえさまと、よく懐いているようだったし、シェヘラザードと同じようにアリアドネのことも可愛がってくれていたように思う。

 それから、エヴァン王太子。

 シェヘラザードの婚約者で、初顔合わせの8歳の時にアリアドネも同席させてもらったことで出会った。

 高位貴族であればあるほど、半人であることに対しての嫌悪が強いに関わらず、エヴァン王太子は嫌な顔一つしなかった。礼儀のなっていない奴隷の立場のアリアドネに優しく声をかけて、婚約者となったシェヘラザードを優しくエスコートして。

 蜂蜜のようにとろりと笑うその笑みが、どうしようもなく羨ましくて。


 好きだった、けれど。

 最後は結局、エヴァン王太子はセイレンナーデを選び、セイレンナーデはシェヘラザードを陥れた。

 公爵もヒュンケルも、シェヘラザードよりも国や立場を優先した。

 シェヘラザードでさえも、逃げようと言ったアリアドネの手をとってくれはしなかった。


 たくさんあったはずの好きなものは、アリアドネに好きを返してくれなかった。


 確かな年齢も知らない。名前も。自分が何と混ざっているのかすら、一度目の時は知らなかった。

 好きなものも大事なものもあったけれど、それは全て、たったひとりに帰結した。 

 

(シェヘラザードさま)


 もう傷つけさせない。もう死なせない。

 そのためならば、私は。

 勉強をしよう。訓練をしよう。ダンスでも給仕でも、出来ることならなんだってしよう。

 だって。


(幸せになってほしい)


 シェヘラザードに。それから。


(幸せになりたい。あの人の隣で。もう一度)


 アリアドネの両目は、金色に光っていた。

 流れていく映像が途切れた、ただただ白いだけの空間で、瞳から零れた金だけが、星が瞬くように煌めいている。きらきらと揺れて落ちていくそれを目線で追うと、そこには。


(竜)


 夜闇のような黒い鱗に、浮かぶ満月の金の瞳。

 アリアドネよりもずっとずっと大きい、黒い竜が寝そべっていた。


(ウィズよりずっと大きい……すごい)


 長く伸びる尾さえ、アリアドネの体よりも太く見える。

 くわり、と気だるげな竜は欠伸をして、大きくあいた顎からは、鋭く伸びた牙が並んでいる。このまま落ちて行って口の中に入ってしまったらきっとひとたまりもないだろう。ばりばりもぐもぐやられてしまうはずだ。ゆっくりゆっくり落ちていく体は、まっすぐに竜へと向かっているようなのに、不思議と恐怖は湧いてこなかった。

 そのままアリアドネは、ふわりふわりと優しく背中から着地した。背中に当たる感触も何もないが、これ以上落ちる様子もないので、きっとここが着地点なのだろう。

 目の前に、黒い竜の鼻先がある。二つ開いた鼻の孔ですら、アリアドネの手のひらくらいの大きさがありそうだった。鼻息がアリアドネの癖毛を揺らす。


 ぎょろりと竜の目玉が動く。

 まんまるのお月様のような綺麗な金色を、夜闇の影のように瞳孔が縦に切れていた。

 鏡のような瞳の中に、寄り添って倒れるアリアドネの顔が映っている。


 癖の強い黒髪。同じ金色の両の目。右目の下の鱗のあざ。


(ああ、そうか)


「おまえ、わたしかぁ」


 黒い竜が大事に抱える白い薔薇を見つけて、アリアドネは笑った。

 愛する主を大事に大事に抱え込む自分と同じだと、笑った。


 ぽろりと零れた涙は、鱗のあざを濡らして白い空間に溶けていった。





「アリアドネ!!」

「……な、さま」


 目を開けると、泣きそうに顔を歪めたシェヘラザードが自分を見下ろしていた。

 澄み渡る青空のような瞳から、ぼたぼたと大粒の雨が落ちた。それはアリアドネの顔に降りかかって、右目の黒い鱗を濡らす。

 全身が氷のように冷たいのに、右手だけが温かい。ぼやける思考回路で右手を見ると、傷一つない小さな白い手がアリアドネの右手を握りこんでいた。 

 よかった、と消えそうな声で呟いて、シェヘラザードは握りしめた両手をアリアドネの右手ごと頬に押し付けた。

 ぽろぽろと落ちる雫が勿体なくて、アリアドネの頬を伝って口元に流れた雫を舐めとった。しょっぱい。


「らな、さま。ごしんぱ、い、かけて、ごめ、なさ」

「いいの、いいのよアリアドネ。あなたが目を覚ましてくれて、よかった」


 体が重い。手足を動かすことすらだるくて、アリアドネは横になったまま視線をあちこちに滑らせた。

 落ち着いているが、一目で高価なものだとすぐにわかるような天井や家具。機能性を追及したような軍部にいたはずなのに、どうやら公爵邸に戻ってきていたらしい。よく呼び出されるシェヘラザードの部屋でも、アリアドネが寝起きする使用人部屋でもないことから、おそらく客室の一つにでも運ばれたようだ。

 経験したことのないようなふかふかのベッドが、気持ちいいのに居心地が悪い。

 はらはらと泣くシェヘラザードに右手をとられたまま、ミノムシのようにもぞもぞと動いて居心地のいい場所を探すが、どこもかしこもふかふかで。

 困ったように視線をまたさ迷わせていると、シェヘラザードが座る反対側から、ひょいとヒュンケルが顔を出した。

 浄化魔法をかけられた後よりもずっとこざっぱりとしており、軍服を脱いで貴族らしい仕立てのいい服を纏っていた。


「起きたか」

「ひゅ、ける、さま」

「いいよ、寝てろ。調子はどうだ? おかしいところないか?」


 ベッドの空いているスペースに腰かけて問いかけてくるヒュンケルに、小さく頷いて返事とした。

 そのまま水差しを手渡されて、アリアドネは一気に半分を飲み干した。自覚していなかったが、かなり喉が渇いていたようだ。


「わたし、?」

「ぶっ倒れてから、そんなに時間は経ってねぇよ。まぁ夜にはなったけどな」

「そんなに……」


 アナスタシアの竜であるウィズと目が合ってからの記憶がない。ただただ熱くて、痛くて、自分の意志ではどうにもならないことだけしか覚えていなかった。

 ルーカスやアナスタシアは無事だろうか。


「お前をここまで運んだのはアナスタシアだ。ルーカスも腰は抜かしたが、今はぴんぴんしてるよ」

「そ、ですか」


 それを聞いてアリアドネは無意識に入っていた力を抜いた。

 安心からか、また瞼が重くなってきた。せっかく愛する主が手を握ってくれているのに、それを堪能する余裕がない。

 今にも意識を手放してしまいそうなアリアドネに不安を抱いて声をかけようとするシェヘラザードだったが、それは兄に止められた。桃色の唇にそっと人差し指が添えられて、優しく言葉を封じられる。

 なおも声をかけようと眉をひそめたシェヘラザードだが、兄の優しい戒めは解かれることなく。諦めたように頷いた。

「いい子だ」という囁きは、果たしてどちらに向けられたものか。


「今は寝たらいい。けど目が覚めたら、能力を制御するための訓練をしよう」

「は、い」

「お前に混ざる血の力はとても強力だ。そしてその身に宿す魔力も。使いこなせるようにならなければ、ラナの傍にはおけない」

「は……」

「自分を知り、自分の力を知れ、アリアドネ。それがラナを守る、一番の方法だ」

「……」


 返事は声にならなかった。

 体が重い。瞼も、腕も、底なしの沼にはまったように重い。

 ただ、おやすみいい夢を、と優しい声に誘われて、眠りは優しくアリアドネの意識を刈り取った。



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