3
「っっっ!!」
「アリアドネ!?」
悲鳴じみた声音で名前を呼ばれるが、答えることができない。
右目で生まれた灼熱は、顔全体に広がり、首から肩へ、腕へ、足へ伝わっていく。灯油を全身にかけられてから火をつけられたような、そんな速さで。
全身が燃えるようだった。立っていることすら出来ずに、目元を抑えて蹲る。
「アリアドネ! おい、大丈夫か!? アリアドネ!!」
「っあぁ!!」
熱さと痛みに震える肩をルーカスが力任せに揺するのか煩わしくて、短い悲鳴と共に腕を振り払った。
あまりの勢いに後方まで飛ばされたルーカスだったが、扉に激突する寸でのところでその体をアナスタシアに受け止められた。それが間に合わなかったら、強く叩きつけられて下手をしたら首が折れていたかもしれない。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫、です……。俺のことより、あいつは!」
「あのこは……っ」
見つめる二人の視線の先には、小さな体をさらに丸めて、額を地面に擦り付けながら痛みにもがくアリアドネがいた。
痛みに合わせてびくびくと体が跳ね、短い叫びが断続的に上がっていた。
「あ、あ、あ、あ、あ、あぐ、ぐ、うぅうぅうううっ!!」
(いたい! いたい! いたい!!)
熱さと痛みから逃れるようにキツく歯を食いしばる。ぶんぶんと首を振っては、額を地面に叩きつけた。 右目が熱くて熱くて堪らなくて、いっそ抉り取ってしまえたらどれだけ楽になるだろう。そんなこと出来ないと、わずかに残った理性が叫ぶ。けれど堪え切れない本能が、右目の周りの皮膚を爪で深く傷つけていた。
体中の骨が軋んでいる。血が沸騰しているようだ。
どうしてこんなに痛いのか。熱いのか。わからない。わからない? 否。
ウィズと目が合ってからだ。あの金の目に見つめられてからおかしくなった。
(私の、体に、何をしたっ!!)
「あ゛あ゛ぁっ!!」
痛みを堪えて、アリアドネは顔を上げた。ウィズを、アナスタシアを睨み上げる。
殺気と魔力の込められたそれは、ルーカスの腰を砕き、アナスタシアの足を震わせた。
「貴女、その、色は……っ」
アリアドネの両目は、ウィズと同じ色に爛々と輝いていた。
元々金色だった右目だけでなく、髪色と同じ左目も金色に変わっていた。右目の下にあった鱗状のあざも、今や顔の右半分から、目に見えている首元や右腕にも広がっている。
食いしばる口元から除く歯列も、獣のように鋭く尖り、幼子の柔らかな咥内に傷をつけて血を流していた。
「いけない、転化を起こしかけている……っ!」
「て、転化!? 転化って何ですか!?」
「完全に人じゃなくなるということです! このままだと討伐対象ですよ!」
人とは異なる血と特性をその身に宿す半人は、能力開放によって普通ならば人の手では絶対に得ることの出来ない能力を手に入れる。それは魔術で身体を強化したとしても、けして得ることのない力だ。
人の手に余る力は、御しきれなければただの暴力。
だからこそ能力の制御が求められる。しかし、制御が不完全で半人の能力が暴走してしまうことで、結果【転化】と呼ばれる現象が起きる。
本来、能力開放によって起きる変化は虹彩の色彩変化と、部分的な身体変化のみであるのだが、転化することで全身が変化し、理性を失ってしまうのだ。その瞬間、半人はただの獣と化す。
そうなってしまえば人としての姿を取り戻すことは不可能であり、害にしかならない獣は討伐される。
しかし、この子供は公爵家の奴隷、つまり所有物だ。
公爵家のものを目の前で傷つける――ましてや討伐するわけにはいかない。
アリアドネは今、目の色が完全に金に変わり、右半身を黒い鱗が覆いかけている。犬歯は鋭く長く伸びて、地面に突き立てる爪も尖って土を抉っていた。
元々巧みでないのもあるが、完全に言葉を失っている。喘ぐようなうめき声は今や獣の唸りとなっていた。
「まだ人型を保っている! 今ならまだ間に合いますが、これ以上の転化は戻れなくなってしまう!」
「そんな、アリアドネ……!」
「この子は何が混ざっているんです!? それによっては、私のウィズでなんとか……」
「わ、わかりません! わからないんです! こいつ、何が混ざってるのか不明らしくて、」
「不明!? そんな馬鹿なことないでしょう!!」
「本当です!」
アナスタシアは、焦りで気が高ぶって思わずルーカスを怒鳴りつけた。泣きべそをかきながらも言い返す少年の姿に、嘘はないことを察して舌打ちをする。
ルーカスは何の権限もない奴隷だが、アリアドネと同じタイミングで公爵家に仕えることになったことと、その面倒見のいい性格から、アリアドネのことを少しばかり知らされていた。何が混ざっているのか不明の半人。
そうこうしているうちにも、アリアドネの体からあふれ出す魔力は多大な重圧となって、みしみしと周囲のものや二人を圧迫していた。アナスタシアもまた、襲い来る重圧にいつ膝が折れてもおかしくない。
「くっ、ウィズ!!」
契約竜の名を叫んだ。
契約をしていても、契約主の命令や命の危険がない限りは、基本的に竜は我関せずといったスタンスなので、今の今までウィズが動くことはなかったのだが、名を呼ばれたなら話は別である。契約によって名をつけ、名をつけることで人と竜を縛り付けるのだ。
アリアドネから発せられるプレッシャーから逃れるように、アナスタシアはウィズの体の陰に身を寄せた。腰を抜かすルーカスも引っ張り込むのを忘れない。
水と風の魔術を得意とするアナスタシアは、それによる攻撃で子供の動きを止めようかと思案する。しかし、何が混じっているのかわからない半人に対して闇雲に魔力を使った攻撃をするのは危険であった。もしアリアドネに混ざっているのが水生生物であった場合、水での攻撃は敵に塩を送る行為にほかならないからだ。下手をしたらさらに転化を促してしまう。
しかしこのまま放っておいたところで、完全に転化してしまったらアリアドネに待つのは死だ。この場に居合わせた騎士として、アナスタシア自ら手をかけなければならない。
(どうする……どうしたら……!)
迷うアナスタシアの思考を遮るように、ウィズが鳴いた。決して大きい音ではない。しかし、鈴の音のような、溶けた氷が転がるような、そんな涼やかで優しい鳴き声は、叫び続けるアリアドネの鼓膜を震わせて。
そうしてもう一度金の瞳が交差する。
金色に染まった両の目を、零れんばかりに見開いて――びくりと大きく痙攣すると、糸が切れたように、小さな体は地面に沈んだ。
急に静かになったことで、恐る恐る近づいて倒れる子供を見下ろすと、すぅすぅと、静かな寝息を立てていた。
伸びた爪も牙も元に戻り、右半身を覆っていた鱗も、右目の下にあるのみだ。瞼の下の目の色は確認できないが、きっと左は髪色と同じ黒に戻っていることだろう。
「な、なんだったんだですか……」
重圧から解放されたアナスタシアは、へなへなと座り込んだ。全身にじっとりと汗をかいている。放出された魔力から守るように抱え込んだルーカスもまた、全力疾走でもした後のように大量に汗をかいていて、息も整わない。殺気や魔力に無縁の生活を送ってきた子供に、このプレッシャーは耐えられまい。
軍人として戦うことには慣れているアナスタシアですら、しばらくは立ち上がれそうにもなかった。
その後すぐ、ただいま~とお気楽な様子で戻ってきたヒュンケルに、アナスタシアとルーカスが自分の立場も忘れ、「遅いっ!!」と怒鳴りつけたのは、完全なる余談である。




