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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:5歳
13/57



「もと」

 アリアドネは色の違う目を真ん丸に見開いて、ぱちくりと瞬きをくり返した。


 お互いに名乗ってすぐ、ヒュンケルは今度こそ王宮軍の総帥である実父に帰還の挨拶と報告に行ってくるから後の案内はよろしく頼むよ、と軽い調子で踵を返してしまって、今は遠くに後姿が見えるのみとなっている。

 呆れ返るアナスタシアと、混乱するルーカス。そして彼女の発言に疑問を抱き考え込むアリアドネは、ぽかんと廊下に取り残されていた。


『元』奴隷とは、どういう事か。奴隷に墜ちたら最後、死ぬまで奴隷のままではないのか。

 一度目の記憶を呼び起こそうとして、周囲にあまりにも関心がなかった事だけを思い出した。記憶にあるのはまず第一にシェヘラザード、大差をつけた二番目にシェヘラザードと関わりの深い者。第三以降は存在しない。

 誰が貴族でも奴隷でもどうでもよく、ただシェヘラザードに害があるかないか、それだけを記憶していたのだった。

 自分が奴隷であることにも何の思いもなかったため、奴隷から抜け出す可能性があることなど知りもしなかった。


(この人は今、半人だと言った。私と同じ、半人の奴隷。なのに元? ……どういうことだ)


 この国では、半人の地位はとても低い。半人であることが判れば、その瞬間に差別の対象となることがほとんどだ。奴隷として売られてしまえばなおさらである。

 人としての尊厳など何一つ与えられず、ただただ残りの生をもがき苦しみながら消化する。

 その苦しみから逃れる唯一が、アリアドネやルーカスのように無印奴隷として選ばれることだった。唯一無二の主を得ることだった。それ以外にない。


(ない、はず……だよな?)


 驚きを素直にあらわにするアリアドネは、言葉が上手くない分、目がころころとよく変わる。目は口ほどにものを言うとはこのことだろう。

 アナスタシアはむむむ、と考え込む少女を見つめる。仕方ないな、とでも言いたげなその目元は優しい。


「私はとある貴族の娘として生まれましたが、16歳の時に半人であることが判りまして。2年ほど無印奴隷として働きましたが、それからすぐにウィズと契約して竜騎士になったことで奴隷身分から抜け出したのです」

「奴隷でも竜騎士になれるんですか!?」


 ルーカスが声を上げた。

 ルーカスとて、現状に大きな不満はない。腹が空いて眠れないことも、寒さで吐く息が凍り付くこともなく、暴力を振るわれるわけではない公爵家での生活は、生まれ育った家での生活よりも快適なくらいだ。

 しかし売られる予感はしていたものの、実親の手によって突然奴隷に墜ちたルーカスにとっては、その立場から抜け出せる方法があるのならば知りたかった。


「竜と契約できる人間は貴重ですから。例えそれが半人でも奴隷でも、自分の竜を得た時点で竜騎士爵を与えられ、騎士団に所属する義務が発生します。竜と契約できるような優秀な人間を、奴隷身分で遊ばせておく余裕はこの国にはありませんからね」


 数十年にも亘って北の隣国との冷戦状態が続いているこの国では、戦力の確保は重要事項だった。

 一頭で数百人分の戦力となる竜との契約は、最下層である奴隷を竜騎士という名の貴族の末端に押し上げるほどに価値のあるものである。女だろうと半人だろうと、竜騎士として求められる力は変らない。竜を操る能力さえあればいいのだ。しかしその唯一の条件が、毎年少なくない数の犠牲を出すほどに難しい。

 軍の花形とも謳われる竜騎士団が契約している竜が9頭――つまり、9人の団員しかいないという現状が、全てを物語っているようだった。


「それ以外にも、各分野で優れた功績を出した者も【自由民】として認められることもありますね。けれどこの場合は、自分の功績を他の貴族に奪われてしまう方が多いから、あまりお勧めは出来ませんが」

「そうですか……」


 【自由民】とは、王族と奴隷以外の身分の総称である。王族はそもそも神である龍の血を継ぐ者たちであり、人であって人ではないとされている。それとは異なる意味で人として認められていない者が奴隷であり、その命は家畜にすら劣る。

 仕える家や人によって待遇の優劣はあれど、奴隷として生きるということはそういうことだ。そこから抜け出し、人間としての生を取り戻したいとは、大半の奴隷が願うことであった。

 その願いをかなえる道がないわけではないが、自由民になるにはあまりにも重い条件だ。自分に竜を従える力があるとも、だれもが認める成果を出す頭があるとも思えず、ルーカスは肩を落とす。


 一方、アリアドネはその話を興味半分で聞いていた。まさかそんな奴隷救済制度があるとは知らなかったのだ。

 アリアドネにとっての奴隷身分とは、敬愛する主・シェヘラザードの傍にいるためのものであるので、自由民になど欠片も興味も魅力も湧かなかったのだった。

 奴隷を馬車馬のように働かせるため、【自由民】という極上の餌をぶら下げてやるのだろう。まだ若く希望のある奴隷にならきっと有効だ。無常に過ぎていく時間と、その身にいずれやってくる衰えと共に希望も打ち砕かれ次第に走れなくなるだろうが、その頃にはまた新しい若い馬がやってくる。

 

「私はどうしても自由民になりたかった。だから私だけの竜を手に入れに行ったのですよ」


 元貴族なら、矜持もそれなりに高かっただろう。奴隷として誰かに傅いて生きるなど、死ぬよりも恐ろしく嫌だったのかもしれない。独白にも似たアナスタシアの視線は、一つの扉に向いていた。

 つられて、アリアドネも視線を同じ方向に泳がせる。

 人一人が通れる、至って普通の扉。目の高さには、小さな小窓がついている。


「せっかくだから紹介しましょう。来なさい」


 アナスタシアは生地の硬そうな団服の上からでも、なお豊かだとわかる膨らみの襟元から、やや薄汚れた紐に下げられた鍵を引っ張り出した。精緻な細工が全体的に施された、青みがかった鋼の鍵だ。

 その鍵を差し込むと、ヴン、と低い音がして、鍵穴を中心に青白い術式が円形に展開される。

 竜は神そのものであり、国の宝だ。契約竜を悪用されないように、部屋とその扉にも侵入を防ぐ為の魔術がかけられているらしかった。契約する竜騎士の持つ鍵が、その魔術を解く唯一のものなのだろう。

 青白い光が収まると、アナスタシアは鍵を胸元に仕舞い直して、ドアノブに手をかけた。


「私の契約する竜は水竜だから、部屋も水辺の環境を作っているんだ。足元に気を付けて」


 扉を開くと、清涼感溢れる緑と、むせ返るほどの水のにおいがした。

 木々が青々と生い茂り、風が吹いているのかさわさわと穏やかに揺れている。どこからか川が流れ泉ができ、小鳥や虫といった小さな生き物が飛び交っていた。

 室内のはずなのに、魔術によって空間がいじられているようだ。天井や壁は認識できず、どこまでも広がるように見える薄青の空と深い森が広がっている。

 あまりにも自然な森を、アリアドネは驚きも露わに見回した。

 葉が揺れて川が流れ、鳥が囀る。眼前に広がるこの森が生み出す様々な音も、人工物とは思えないほどに精巧だった。


「すごい」


 ぽつりと零したその呟きをかき消すように、どこかにいるだろう一羽の鳥が大きく鳴いた。

 そして。


「ウィズ!!」


 凛としたアナスタシアの呼び声と共に、静かだった泉の水面がゆらりと揺れ、それは姿を現した。

 アーモンド形の胴体は成人男性が4、5人が輪になって足りるか足らないかくらいの大きさで、そこからすらりとした首と尾が伸びる。前肢は鰭のような形だが、後肢は丸太のように太くしっかりとしていた。尾は長く、青や白、銀など、光の加減によって色を変える鳥の羽のようなものが生えている。

 清らな水を凝縮したような、うっすらと緑を帯びた青銀の鱗と、夜の水面に映る満月のように、冴え冴えと輝く金の眼が、幻想的なまでに美しい。


 比較的小型の水属性の泳竜。

 竜騎士アナスタシア・ロンの契約竜ウィズが、アリアドネが初めて身近で見る竜であった。


 ほの青く輝く銀の鱗を滑り落ちる雫が、ぽたぽたと滴っては湿った地面に消えていく。

 小型とはいえ、成人男性の何倍もの体躯を持つはずなのに、歩み寄る姿は重さを感じさせないほど静かだ。振動すらなく近づく竜を、アリアドネはまっすぐに見つめていた。


(きれいだ)


 竜を見たのは初めてのことだった。

 20歳まで生きた一度目の人生では、シェヘラザードの隣から少しでも離れたくなくて、今のように騎士団に来ることもなかった。

 貴族の令嬢が野生の竜と遭遇することもありえないので、自然とアリアドネも竜を目にすることはなかったのである。

 アリアドネが死んだ時は、王宮軍総出で殺しにかかられたが、竜騎士団の出軍はなかったのだ。アリアドネが主を助け出そうと争ったのは、王宮のすぐ下に広がる広間であったので、下手をすれば多大な被害を出しかねない竜を相対させることは出来なかったのだろう。

 そんなわけで、今この瞬間に初見なわけなのだが。

 

 その姿の、なんと美しいことか。


 アナスタシアの契約竜の名はウィズというらしい。

 柔らかな笑みを浮かべて手を差し伸べるアナスタシアの指先に鼻をこすりつけ、宝石のような金色の目を細める姿は可愛らしくもあったが、やはりこの世のものとは思えないほどに美しかった。

 くるる、と小さく鳴いてアナスタシアと戯れるウィズの姿を、アリアドネはルーカスと共にじっと見つめる。目がそらせない。巨体からぽたぽたと雫が零れて体を濡らすが、気にならなかった。


 ふいに金色がこちらに向いた。

 ウィズの金と、アリアドネの金が交わった瞬間、右目が燃えるように熱くなる。あまりの衝撃に声にならない絶叫が迸った。



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