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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
幼少期:5歳
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 ヒュンケルやルーカスがアリアドネに気づくずっと前から、アリアドネは洗濯場にいるような身分ではない青年の存在に気づいていた。

 常人の能力の何倍もの視力と聴力は、意識的に認識するよりもずっと早く様々なことを脳に届ける。

 自分の倍以上の大きさの水瓶を頭上に、たっぷりの水が入った盥を片手に井戸に背を向けてからは、そこで洗濯を担当していた使用人たちの心無い悪口を背中に受けていたが、微かに届いた二人の会話によってアリアドネの意識はすべてそちらに持っていかれた。

 汚い奴隷だとか、みすぼらしい半人風情がとか、言われ慣れている数多の単語は、アリアドネの心に一切の傷をつけない。どうでもいい事柄に意識を取られるよりかは、これから始まる二度目の人生を、いかにシェヘラザードの為だけに使うのか。それだけをずっと考えていたいのだ。


(ヒュンケル様の声がする)


 ヒュンケル・イアル・ウィンプソン。一度目でもだいぶ世話になった、シェヘラザードの実の兄君だ。

 公爵家当主であるハーレイ・ダディス・ウィンプソンの次男にあたり、メルバーン王宮騎士団の中でも実力者が揃う花形部隊・竜騎士団に所属する竜騎士でもある。知性ある中型の風の翼竜・ルディと契約しているが、今はその気配はない。竜騎士軍が所有する竜舎にでも預けているのだろう。

 文武ともに非常に優秀で優れた双剣の使い手であり、契約竜との相性も良いため空中戦では負けなしを誇り、副団長を務めている。公爵家の次男でありながら気さくで気持ちのいい人柄から、使用人たちにも好かれていた。

 シェヘラザードからペットのように猫可愛がりされていた一度目のアリアドネもまた、ヒュンケルの人柄を好いていた。彼が公爵家で唯一、大っぴらにセイレンナーデよりもシェヘラザードの方を可愛がっていたからという理由もある。分かりやすく可愛げのある妹姫は、物静かで大人しい姉姫よりも何くれと贔屓されていたのだが、その唯一ともいえる例外だったのだ。


 アリアドネはヒュンケルと会う、この日をずっと待っていた。

 なぜ高貴な立場である彼がこんな屋敷の裏側にいるのかはわからないが、これは好機である。

 

(私は強くなる。誰にも負けないくらいに。それにはこの方の力が必要)


 地位も力も実績もある。敬愛する主・シェヘラザードがてらいなく信頼を向ける数少ない人物の一人でもある。

 勉強嫌いだったかつてのアリアドネは、ありとあらゆる訓練も嫌いだった。一度目の人生で体術の教師としてついたのは、自分よりも弱い壮年の男で、弱いくせに何くれとアリアドネを蔑み鞭を振るうような男だった。幼いアリアドネの拳一発で吹っ飛ぶような弱い奴に教わる事など何もないと、早々に訓練を放棄したのである。

 気まぐれな雇い主――ウィンプソン公爵が思い出したように軍の訓練に幼いアリアドネを放り込んでは、半人の能力を使いこなした軍人に死ぬ寸前までしごかれたことで、戦う力はあったことは幸いだったかどうなのか。

 ちなみに座学の教師についたのはプライドが高くヒステリックな、シェヘラザードとセイレンナーデの幼年期の家庭教師でもあった初老の女である。がみがみとうるさく、逐一シェヘラザードとセイレンナーデを比較してはセイレンナーデを褒めちぎるので、分厚い教科書を細かく破り捨ててやったら授業そのものがなくなった。


 今回もおそらく、アリアドネが何も動かなければ同じ男を教師として宛がわれるのだろう。それではまるで意味がない。

 アリアドネは強くなりたい。誰よりも何よりも強く。ならば、自分より強くて優秀な教師に教えを請わねばならないだろう。

 そう考えたとき、アリアドネが現在接触できる人物の中で、一番強くて優秀なのがこのヒュンケルという男であった。

 しかし竜騎士として公爵家次男として立場のあるヒュンケルは、たかが奴隷の幼子が易々会える相手ではない。身分が違い過ぎるのはもちろんのこと、忙しく国中を飛び回る彼と接触のタイミングがあるかどうかが問題だったのだが。


 下男下女しかいないようなこんな場所で、まさか供も連れずに現れるとは!


 このチャンスを逃すわけにはいかない。しかしどうしたら、話を自分の望む方向へ持っていけるのだろう。いや、そもそも敬愛する主の兄君とはいえ高位貴族。奴隷の身分で願い事など許されるのだろうか……。


 悶々としつつ下男下女用の洗い場まで戻ると、そこにはやはりヒュンケルの姿があった。

 汚れて草臥れているが、その身からにじみ出る高貴なオーラがある。そして何より顔がいい。

 しかし今は、歩み寄るアリアドネを驚きもあらわに見つめている――涼しげな目元はかっぴらかれ、薄い唇は半開きである――ので、美しさも半減である。


 声をかけるルーカスに心配ないと短く返して、アリアドネは頭上の水瓶と片手の盥を地面に置くと、今なお顎が外れたように口を閉じない青年の前に平伏した。

 その行動にぎょっとして目をむくルーカスは、平伏するアリアドネとそれを見下ろすヒュンケルを交互に見やって、慌てたように後を追って平伏した。膝をつき、右手を下、左手を上にして重ね、その上に額を乗せる最敬礼。相手に敵意がないこと、害意がないことを示すもの。

 青年が誰か知らない。しかし、自分と同じく彼が何者か知らないはずのアリアドネが、最敬礼でもって相対するこの青年は、まさか。


「ありあどね、れす」

「私が誰かわかるのかい?」


 アリアドネは頷くことで答える。

 顔は上げない。相手の許しなしに顔を上げることは不敬である。

 待つこと数拍。じゃり、と靴底が砂粒を踏み潰す音がして。 


「――顔を上げなさい。君もだ」


 柔らかな声に促され顔を上げると、子供たちの前に片膝をついて目線を同じくするヒュンケルがいた。

 

「ヒュンケル・イアル・ウィンプソンだ。竜騎士団第一部隊長を務めている」

「ウィンプソン……!? もっ、申し訳ありません!!」


 ヒュンケルの名乗りにルーカスは慄いた。

 自分たちの主君である令嬢たちと同じ家名。それが示すのはただ一つだ。

 先ほどの自分の態度を思い返し、顔色を真っ青に染め上げた。たかが奴隷身分の子供が、公爵家の家人に向かってあの態度。とってつけたような敬語で礼もなし。鞭打たれても仕方ないことだった。

 思わず再度平伏しようと体が動くが――それはヒュンケル本人によって止められた。


「謝罪の必要はない。こんな姿で裏手をうろついていた私が悪い。君はちゃんと敬意を払っていた」

「は、はい…」

「こちらこそすまなかったね」


 気にするなとばかりに、支えていた肩を二度三度軽く叩いてやると、ルーカスは安心したように体の力を抜いた。心なしか涙目だ。

 素直で、感情がそのまま表に出る。顔だちもいい。末の妹が好きそうな子供だというのが、ルーカスに対する率直な感想だった。

 問題は。


 一瞬たりとも視線を外そうとしない、この黒髪の子供である。


 先ほどの、水甕と盥を同時に持ち運ぶあの怪力。高位貴族を前にしても動じないこの胆力。

 そして何より、右目の金色。


「君は半人か?」


 確信を持って問いかけた。


「あい」

「何が混ざっている?」

「わ、かりま、せん」


(わからない? 父上は何を思ってこの奴隷を買ったんだ……)


 使用人用の洗い場で仕事をしていたということは、立場的には下男下女にあたる。しかも半年ぶりに帰宅したヒュンケルが顔を知らないということは、働き始めて間もなくの新入りだ。

 顔だちの整った少年と、能力の高いと推測される半人ということから、おそらく無印奴隷。

 この屋敷に無印奴隷を新しく必要とする者がいるとするなら、それはもうすぐ5歳の誕生日を迎え、正式に貴族として認められる【洗礼】を受ける妹たちだろう。


 幼い子供は空気中に漂う魔力への抵抗力が弱く、5歳を待たずに天の庭へ還ってしまう命も多い。幼くして還ってしまうのは魔力がないからとも、竜神に好まれる美しい気を持つからとも言われているが、それは定かではない。

 特に血統を重視する貴族では、その家の血を紡ぐ子供を失わないためにも、子供のうちに強固に守る必要があった。

 そのため、貴族は生まれてくる子供に名をつけない。家名も与えない。名無しのまま5歳まで育て、誕生日を節目として教会で洗礼を受ける。

 竜の加護を受ける巫女が占術でその子供の未来を視て、その子供にふさわしい名を神託する。それが洗礼である。

 5歳まで名無しでは勝手が悪いので、幼名として仮の名をつけはするが、そうして漸く名前を得て、家名を得るのだ。

 家名を授かって正式に貴族となった子供は、そこから自分専用の侍従をつけることが許される。侍従は下位貴族の継承権のない子息子女であったり、無印奴隷であったりと様々だが、侍従教育は早ければ早いほどいい。

 おそらく将来妹たちの侍従として付き従うことになるだろうこの子供たちが、なぜここで使用人用の洗い物などをして時間をつぶしているのか。

 そしてなぜ、まともに話せもしない、何が混ざっているのかも分からない半人を側付候補として手元に置くのか。

 その理由は、父の思惑はどこにあるのか。


(……試してみるか)


 力は十分。度胸もある。


「仕事はもういい。付いてきなさい」




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