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ヒュンケル・イアル・ウィンプソンは、自宅の裏側を進んでいた。
所属する騎士団の任務から漸くの帰宅を果たし、汚れたままの姿である。
ヒュンケルの姿を見止めた下男下女達は、一瞬汚れ切った青年の姿に胡乱気な視線を浴びせるが、その対象が仕える屋敷の次男坊であることを理解すると、すぐに仕事の手を止めて平伏した。その繰り返しである。
それに向かって手をひらひらと振ることで気にするなと言外に伝えて、再びヒュンケルは機嫌よく歩を進める。
向かう先は屋敷の奥、使用人用の井戸の近くの洗濯場だ。
目的はただ一つ。
この汚れきった身体を何とかするためだ。
六大公爵家・ウィンプソン家の次男であるヒュンケルは、父・ハーレイが最高責任者として君臨する王国軍のうちの花形部署である竜騎士団に所属している。
その副団長という立場のヒュンケルだったが、半年近く、王国軍との合同軍を指揮して東南地区の森林地帯へ任務へ行っており、たった今、王都に帰ってきたばかりだった。
竜を神として崇め、神聖視するこのメルバーン王国にも、少なからず野生の竜は存在する。
小型の無知性のものから、大型で思慮深く知性にあふれるものまで。空を飛ぶもの、火を噴くもの、地に潜るもの、水に棲むもの、多種多様だ。
そして彼等は総じて気位が高い。
多少の魔力や強さがあっても、易々と人間が近づくことを許さない。
竜に近づき、自分の力を対峙した竜に示すことでその力を借り、使役する事を認められた者だけがなれる特別階級。それこそが、ヒュンケルが所属する竜騎士団である。
ヒュンケルもまた、学園を卒業し入軍した18の年に、風属性の翼竜を下し竜騎士となった一人である。国を守護する役目を持つ《鱗》の家に生まれ、厳しい訓練を受けてきた彼は、竜騎士となってすぐに頭角を現した。まだ入軍して2年足らずでありながら、副団長を任されるほどである。
その特異性ゆえ、様々な任務を与えられる竜騎士達の仕事は、一言で纏めると『過酷』。ほかの近衛軍や王宮軍には任せられないような仕事もどんどん舞い込んでくるのだ。
今回も、東南方の山岳森林地帯で発生した竜の暴走をやっとの思いで沈めてきた。
険しい山脈と深い木々に囲まれた東南地区は、野生の竜が多い場所でもある。暴走の原因は、森の入口付近に飛竜が産み落とした卵を盗賊が奪ったことから始まったのだが、そこから生まれたての竜や卵、他の希少生物の闇オークションやら闇賭博、果ては醜悪な犯罪組織の摘発まで繋がったのには頭を抱えた。まずはじめに言えることは、卵を奪われて怒るなら、もっと奥深くに産み落とせ。これに尽きる。
一ヶ月で終わる任務のはずだったのに、気づけばもう半年近く。
十以上も年の離れた妹たちの、記念すべき5歳の誕生日の前に戻ってこれたのは僥倖と言うべきか。
それは、寝返りを打つのすら困難な程狭く固いベットか、野営のために用意した寝袋と寄り添ってきた期間とイコールである。久しぶりの自宅のベットをゆっくりと堪能したいところだが、まだまだ報告書の束が待っていた。
任務で汚れが染みついた身体を洗い清め、仮眠をしたら、またすぐに職場へ戻らなければならない。
しかしそこでも問題がひとつ。温かい風呂に浸かる前に、まずはあらかたの汚れを落とさねば、屋敷に入ることすら許可が下りない。
誰にって? 最近とみにマセてきた、末の妹に決まっている。
汚れと共に匂いすらシミついたこのくたびれきった服のままでは、あの天使のような容貌を不細工に顰めて鼻をつまみ、しっしと追いやられるに違いない。
大人しく心優しい妹たちの姉の方――銀の色彩を持つ妹にまで、いやな顔をされたら立ち直れない。
ヒュンケルは年の離れた妹たちがかわいくてかわいくて仕方がないのだ。
ざっとでいい。泥や埃汚れを落とすためと、汚れても良い場所――使用人用の洗濯場を選んだのだった。
(ん?)
ずんずん進んだ先には洗濯場があったが、そこには人の姿はなく。うず高くそびえる洗濯ものだけが積まれていた。
使用人の姿はない。
(洗濯物放置で何やっているんだ、うちの使用人は……って、あ)
洗濯物の影になっていただけで、そこには赤毛の少年が座り込んでざぶざぶと服を揉みこんでいたことに気づく。水の張った盥に突っ込んだ小さな手は真っ赤に染まり、見ているだけで冷たさを感じて痛々しい。
雪解け水の流れ込む、この時期の井戸水は死ぬほど冷たい。
従軍することが多いヒュンケルは知っている。公爵家次男としての立場よりも竜騎士としてあちこち国中を飛び回る生活の中で、自分のことは最低限自分でしてきたので洗濯もお手の物だ。
それにしてもきれいな顔をしている少年だ。あと数年もすれば、誰もが振り向く美男子に成長するだろう。
目が合った。
「……」
「やあ。洗濯物かい? 精が出るね」
「……どうも」
不審者を怪しむ目つきだった。
にっこりと笑っておく。胡乱な目つきがさらに尖り、ヒュンケルに突き刺さった。
それも仕方のないことだ。竜騎士団の隊服を脱ぎ捨てて、中に着るワイシャツのみで歩く青年は、汚れきり草臥れたその姿からみすぼらしさしか感じさせない。誰が高位貴族の次男坊だとわかるだろう。
だが当たり障りのない対応を返す少年は、怪しみつつも自分の分を弁えているのか、不審者と声を荒げることもせず、じい、とヒュンケルを見つめていた。
この広い敷地を誇るタウンハウスで働くすべての下男下女の顔を覚えているわけではないが、これだけ整った容姿ならば一度くらいは見たことがあるだろう。そして貴族として、ひいては騎士としての性分から一度見た顔は忘れないヒュンケルに覚えがないということは、この少年はきっと新入りなのだろう。だとすれば、仕えている家主の息子の顔が分からなくても仕方がない。
「何か御用でしょうか?」
「見ての通りドロドロでね。ざっと洗わせてもらおうと思って寄ったんだ。盥を借りても?」
言葉を選んで問う少年に、ヒュンケルはおや、と片眉を上げた。
先程までの短いやり取りでは見当たらなかった丁寧さだ。少年が、このみすぼらしい姿のどこを見て敬意を払うべきとしたのかはわからないが、こちらを優先してくれるならば話が早い。
困ったように薄く笑んで両手を広げ、このざまだと言わんばかりに肩をすくめて見せれば、少年は困ったように眉尻を下げた。
盥の水とヒュンケルを見比べている。盥の水はすでにだいぶ濁ってしまっているので、それを差し出したらいいのか考えているのかもしれない。
使用人用の洗濯場であるこの場所は、井戸からは少し離れている。井戸の近くには厨房があり、家人用、上位の使用人用の洗い場が優先されているからだ。
汚れた水を差し出すのはどうなのか。しかし井戸近くの洗い場にこの薄汚れた男を連れて行くのも、ほかの使用人に嫌がられるだろうし、新しい水を取りに行くにも……。ルーカスは考える。
「あの」
「ん?」
「今、井戸まで水を汲みなおしにいっている奴がいるんです。お待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。すまないな、折角苦労して水を取りに行ったのに」
「いや、大丈夫です、あいつは。……あ、戻ってきました」
屋敷の奥から歩いてくる人影を少年が指し示す。やたらと影がでかいのは気のせいだろうか。
否。
「は……っ?」
「遅かったな。何してたんだ?」
「つかまっ、た」
「まじかー。悪かったな、かばえなくて」
「んん、えいき。ありあと」
「おー」
少年よりも小さな子供が、自分の身体の倍はあろうかという大きさの水瓶を頭の上に乗せつつ、片手で少年の前に置かれている盥と同じサイズのものを掌の上にのせてバランスを取りながら(ちなみにもう片方の手は頭上の水瓶をそっと支えている)、すたすたと歩いてきたのだ。
ぱかん、と開いた口を塞ぐ気にもなれないくらいの驚きを見せたヒュンケルの、少し離れた位置に置かれた盥と水瓶は、なみなみときれいな水が張っていて。
子供が歩いてきた道のりは全く濡れていない事実に、さらに顎の力は抜けるのだった。