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復讐のアリアドネ  作者: 岡出 千
序章
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序章




 ざぁざぁと、勢いが弱まることなく降り続く雨が体中を打ちつけている。




 全身を余すことなく濡らし尽くす雨粒は、アリアドネの体温を容赦なく奪っていく。力なく地べたに座り込むせいで、投げ出した足や尻から沁み込む水分も嫌に冷たかった。

 腕の中にあったはずのぬくもりも、今や血とともに洗い流されてしまって随分と冷え込んでしまっている。あぁ早く屋敷に帰って湯を沸かさねば。


 ざぁざぁ、ざぁざぁ。

 アリアドネは残った右目で、愛しい愛しい主を見下ろした。あぁなんてお美しいのですかシェヘラザード様、泥や血に汚れてもなおも欠けないその輝き。

 それに比べて、アリアドネのなんと無様な事か。

 全身に矢を受け、左目は潰され、右腕は二の腕の半ばから切り落とされた。腹には穴があき、両の足も骨が折れているのか腱が切られているのかそれともすでに失われているのか。感覚がない。

 がちがちと歯の根が噛み合わないのは、ぶるぶると全身が震えるのは、全身に負った傷のせいだろうか。体の芯まで凍りつきそうなほどの寒さのせいだろうか。

 わからない。


 ざぁざぁ、ざぁざぁ。

 シェヘラザード様が綺麗だと、褒めてくれた眼。守ってくれてありがとうと微笑んでくれた身体。ごめんなさい、もう動きそうにありません。

 それでもよかった。片目を潰されようと片腕をもがれようと、他にどんな痛みを苦しみを屈辱を受けようと、貴女さえ微笑んでいてくれたなら、貴女さえ幸せでいてくれたなら、それでよかった。

 それなのに。


 ざぁざぁ。

 アリアドネの腕の中でぴくりとも動かない主は、豊かな銀髪を無残に切り落とされ、美しいそのかんばせにいくつもあざを作り、宝石のようなサファイアの瞳の輝きを濁らせて。細いウエストから汚い銅剣を生やしてこと切れていた。


 ざぁ。

 

 私が殺した。


「あ」


 知らなかった。分からなかった。自分に向かってくる兵士の中に、この人がいたなんて。


「ああああ」


 知らなかった。分からなかった。だってこの人にはこんな無骨な物は似合わない。温かくて柔らかくてきらきらふわふわしている、そんな物しか似合わない人なのに。


「ああああああああ」


 知らなかった。分からなかった。どうしてこんなことになったのか。


「ああああああああああああ」


 知らなかった。

 知らなかった。

 知りたくなかった。

 わたしがころした!!


「ああああああああああああああああ!!!」


 アリアドネは叫ぶ。残った左腕で主君の亡骸を抱き締めて、獣の咆哮のように泣き叫ぶ。

 叩きつける雨粒は次第に大きくなり、吹き荒ぶ風も強まっている。嵐が近い。遠くで鳴っていた雷鳴は、濃く重くなる雨雲とともにすぐ近くの空から聞こえていた。

 まるでアリアドネが呼び寄せているようだった。


 ところで、その場にいるのは何もアリアドネ達だけではない。

 距離をとってその様子を窺う多数の兵士達が存在していたが、誰も近付けはしなかった。

 近付いたが最後、アリアドネの間合いに足を踏み入れた兵士は刹那の後に首を飛ばされ、あるいは心臓を貫かれるからだ。

 誰も近寄れない、しかし近付かねば彼女を殺せない、殺さなければ何れは自分達が殺される。しかし近付けば彼女に殺される。

 矢傷では死なない。現に、夥しい数の矢がアリアドネの全身を貫いていたが、その全てがまるで吸盤のついた玩具の矢であるかのように、彼女の身体が傾ぐことはなかった。

 国中の名将が数十人掛かって右腕を奪い、優れた魔道師が百人掛かって左目を潰した。何百人もの命と引き換えに与えた数多の傷は、それでもアリアドネを死に至らしめない。

 恐怖が兵士達の足をその場に縫いとめていた。

 近づく嵐が、低く唸る風音が、兵士の焦燥を掻き立てる。

 アリアドネの咆哮は止まない。


「おかわいそうに」


 たおやかなその声が、聞こえるまでは。


「可哀そうなシェヘラザード。元気を出して、アリアドネ。あのこはきっと、天の原で貴女を見守ってくれるはずよ」


 嵐の夕時という仄暗さの中で、彼女は白いドレスも相まって光り輝くようだった。雨避けの魔具を使っているのか、傘もさしていないのに濡れも汚れもしていない。

 豊かな金髪。シミ一つない白い肌。豪奢なレースに彩られた美しいドレス。磨き抜かれた流行りの靴。天女のように優しげな美貌に輝くルビーの双眸には――隠しきれない嘲笑が浮かんでいた。


 アリアドネは理解する。

 全ての元凶を。この美しい女の腹の底に溜まった、澱み腐りきった本性を。


「おまえか」


 アリアドネは激怒する。

 悪魔のようなこの女に。踊らされた愚かな王に。

 そして何よりも、馬鹿で愚図でどうしようもない自分自身に。

 熱せられた鉄の棒を喉の奥に突っ込まれているような熱が、身体の奥底から沸き上がってくるのが分かった。腹から喉へ、そして脳天へ。

 残った右目が燃えるように熱い。ちかちかと明滅する視界の中で、その女の姿だけははっきりと見えた。


「おまえが……っ!!」

「やぁん、こわぁい」


 視線で人が殺せるならば、とうに数百人分は殺せるだろう強さで睨んでも、女は可愛らしく怯えて見せた。幼い頃からよく見た仕草だ。自分が人からどう見られるのか、どう見られたいのかをよく知っている仕草。

 口元に手を添えて肩をすくめて怖いと言いつつ、少し愉しげなのは、こういった少女めいたあどけない仕草が久しぶりだからだろうか。

 兵士の死体を器用に避けて、軽やかに近づいてくる。友人同士、気軽に話すような距離まで詰めると、空に光が走った。


「殺してくれて、ありがとうね」


 轟音。

 女の後ろ、広場を囲うように植えられた背の高い木に雷が落ちた。焦げ臭いにおいと共に、火の手が上がる。兵士達の持参した火薬にでも引火したのか、大雨の中でも消えることなく、大小入り混じった爆発を繰り返しながら炎は勢いを増していく。


「邪魔だったの。すっごく、邪魔だった。アリアドネ、貴女のおかげ」


 兵士達は近距離で何事かを離すこちらを気にしつつも、炎の鎮静に動くものが多かった。城から近いこの広場で火事が起きれば、問題は大きい。

 現王の叔父である男の謀叛騒ぎがあってすぐの事ともあれば、余計だった。


 白魚のように細く、爪の先まで手入れされた指先がアリアドネの頬をなぞる。

 冷え切った頬には温かく感じるはずのその感触は、憎悪と嫌悪が渦巻くせいでぞっとするほど冷たく、不快だった。


「ころす」


 光と音は同時だった。またすぐ近くに落ちたらしい。

 でもアリアドネには関係ない。どうせすぐ死ぬ。

 けれど死ぬ前に、目の前の女を殺したい。

 右目が熱い。雷が落ちたのは自分の真上――自身の体を貫いたのではないかと、有り得ない事を考えてしまうくらいに。


「あらぁ」


 女がぐっと顔を近づけてきた。

 ルビーに自分の顔が映り込む。血と泥に汚れ、雨に打たれたみっともない姿だ。左目は潰れ、傷とあざだらけの、汚い奴隷の顔だ。

 けれどアリアドネは、見慣れた自分の顔の中に、見慣れない色を見つけた。

 残った右目が金色に変化している。髪色と同じ、闇夜の鴉のような色だったはずなのに。

 女がにんまりと嗤った。お気に入りのおもちゃを手に入れたような、またとない宝を見つけたような、欲にまみれた歪んだ笑み。


「まあ貴女、竜人だったのねぇ」

「おまえの願いは叶えない!」


 女の指が届く前に、アリアドネは自分の右目に指を突き立てた。 

  


「おまえの思い通りにはさせないぞ! セイレンナーデ!!」



 轟音と同時に目の前が白い光に包まれた。








 嵐はその国に十日間留まった。

 降り続いた雨は田畑を、町を、人を流し。氾濫した川の水はひと月経っても流れず腐敗して、あらゆる病気が蔓延した。

 その間の落雷は百を超え、そのうちの十九が王城を直撃。軍の格納庫に落ちた雷によって全ての火薬が暴発し、炎を纏った飛来物として王都に降り注ぐ。

 石造りの壁は崩れ、森は燃え尽き、出口を塞がれた城内の人間の大半は蒸し焼きになった。

 大陸随一の大国は、その嵐によって王家の血が絶え国力は衰退し、歴史に名を残すのみとなる。


 竜の怒りを買った、愚かな亡国として。




 




週2ペースでの更新を目指します。

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