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八章 迷いを捨てて

 暗く寒い冬の夜だった。

 ユランはイダルとミカと一緒にひとつの布団にくるまって、お互い暖を取りながら眠っていたが、ふと目を覚まして耳を動かした。


 なぜ目覚めたのか、すぐにはわからなかった。だがそのまま寝直してはいけないという気がして、そっと静かに布団を抜け出す。イダルとミカが風邪をひかないようにしっかり布団を掛けなおし、彼は一人で外に出た。


 寒々と凍りついた世界を、月が冷たく照らしている。白い息が吐き出す先から霜になって鼻や口のまわりの毛につく。里の方が高い山の奥地にあって寒いはずだが、ここの寒さはまた違って、ひどく底冷えするようだ。


 呼んでいる。

 北を仰いで確信する。霊峰の女神が皆を呼んでいる。きっと今、里では警鐘が鳴っているだろう。行かなければ、という思いが腹の底から湧き上がり、身体が熱くなる。


 不思議な気分だった。あれほど恐れていたはずの狩りに、今はむしろ血が滾る。自分の中にこんな強さが、猛々しさが眠っていたとは。


(成人するって、こういうことか)


 ユランは目を瞑り、静かな呼吸を意識して、ふつふつと湧き上がる闘志を宥めた。儀式をせずとも、時が来れば大人になる。里を離れていても。

 今ならば、何をも恐れず闘えるかもしれない。だが――


 白々と蒼い夜の世界に浮き上がる道を目で追い、そこに少年の後ろ姿を見る。頼む、と言い残して出て行った、自ら『大人』になることを選んで踏み出した少年。

(帰ってくるまでは)

 ユランはぎゅっと拳を握り、約束を確かめるようにうなずいた。


 それは予感だったのだろう。ユランが変化を自覚した数日後、久しぶりにツォルイが訪れた。


「しばらく見ぬ間に随分と立派になったものだな。ここに来るまでにそなたの噂をいろいろと耳にしたぞ」

 彼は祠を見下ろして苦笑し、表情を改めてユランに向き直った。

「どうやら、成人の節目を越えたようだな」

「はい。……多分、ですけど」


 ユランは凛々しく答えたものの、すぐに自信がなくなって余計な一言を付け足す。ツォルイは失笑し、ごまかすように咳払いした。


「ならば、もはやここに留まる理由はあるまい。里に帰る頃合だ」


 途端に、大樹の裏側からミカが飛び出してきた。盗み聞きしていたのだ。

「だめ! ユラン連れてっちゃだめぇ!」

 両腕を広げ、がっしとユランにしがみつく。ツォルイがたしなめるより先に、ユランがミカの頭を撫でて言った。


「大丈夫だよ、ミカ。……若様、僕は里には帰れません。少なくとも今はまだ」

 固く心を決めたことが窺える静かな声。ツォルイは口を挟まず、目顔で先を促す。ユランは彼をまっすぐ見つめた。

「約束したんです。町へ行った友達が帰ってくるまでは、僕が皆を守るって。イダルさんやミカだけじゃなくて、サダンさんちのお父さんやおじいさんも、ニウルさんちの子供達も、みんな」

「そういえば、隣家の少年の姿がないな」

「はい。ここの暮らしを良くする、いろんな方法を学ぶために、出て行ったんです。畑を耕すのも、猪を狩るのも、僕の力があれば楽にできるけれど……それだけです。僕がいなくなったら、また元に戻ってしまう。それじゃ駄目なんです」


 薬の作り方や、そもそも薬を飲むという“常識”は定着した。けれどそれは、まっとうな生活が成り立った上でこそ意味をもつ。常に飢えや寒さと戦う日々であれば、薬を飲んで回復を待つような余裕はない。


「弱虫で迷子で、見た目も全然違う僕を、イダルさん達は受け入れてくれました。食べさせる余裕なんて全然なかったのに、お粥ぐらいしかないけどって言いながら、僕にわけてくれたんです。若様、僕は『弱きもの』を守るつとめを果たせず逃げ出して、逆に守ってもらいました。今度は僕が守る番です。里で悪しきものを食い止めることは大事ですけど、それだけが唯一の方法じゃない。だから、ごめんなさい」


 きっぱりと言って、ユランは叱られるか見放されるのを覚悟で深く頭を下げた。しばしの沈黙。そして、ぽふ、と頭に手が置かれた。


「そうか。そなたは自分で答えを見付けたのだな。ならば強いて戻れとは言うまい。この地で『犬神』として生きるも良し、気が済んだ時に里へ帰るも良し。今のそなたならば、自力で女神の足元まで辿り着くこともできよう」

「若様……」


 ほっと安堵してユランは顔を上げる。まだしがみついていたミカも、腕を緩めて笑みを広げた。


「良かったぁ、ユラン、ずっとここにいてね! ユランのおうち、ここにあるんだから、どこにも行っちゃだめだからね! それで、ミカと夫婦(めおと)になって、ずーっとずーっと一緒にくらすの!」


 ごほっ、とツォルイがむせた。笑いを堪え損ね、そのままげほげほ咳き込んでしまう。ユランは困惑して首を傾げ、ミカを見下ろした。


「それは無理だと思うけど……」

「なんで!? ミカ、ユランのお嫁さんになるってずっと言ってるじゃない! ミカのこと嫌い?」

「ミカのことは大好きだけど、そういう問題じゃなくてね?」

「やー! ユランの馬鹿―!」


 ミカが地団太を踏む。とうとうツォルイが明るい笑い声を立てた。

「はははっ、さすがに、これは初めてだな! まさかこんな場面を目にするとは、思いもよらなかった……ああ、面白いこともあるものだ。ユラン、そう情けない顔をするな。いずれ姫君にも相応しい相手が現われようし、そうならなければ、そなたが守り支えてやれば良いだけの話だ」

「ええぇぇ……?」


 冗談ですよね、と言うようにユランが変な声を出す。ツォルイは面白がるだけで助けようとしない。


「外から余計な横槍が入らぬよう、弱い術をかけておこう。そなたのことが知れ渡り、物見高い人々が押し寄せぬようにな」

 笑いまじりにそこまで言い、彼は慈愛のこもった仕草でユランの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「もうそなたは、どのような未来からも逃げ出しはすまい。この地に留まるか否か、どのような方法で人々を守るか、自らの意志で決め、歩んでゆけるはずだ。私が帰郷を促す必要もあるまいが……時折は、里の様子を知らせに来よう。ではな、ユラン。そなたの道行に幸あらんことを」


 ツォルイは祝福の言葉を残し、軽やかな足取りで去ってゆく。ユランは少しだけ寂しい思いを胸に抱きながら見送っていたが、ぎゅっと手を握られて目を落とした。菫の瞳が決然として、彼を見上げていた。


「あのね、ユラン。本当の本当はね、……もし、もしも、ユランがお父さんとお母さんに会いたくなったら、……ミカ、がまんするから」

 自分で言い出しておきながら、あっという間に涙が目に盛り上がり、ぼろぼろとこぼれ落ちる。慌ててユランは屈み、指でそっと頬を拭いてやった。


「ありがとう。ミカは強いね。弱虫の僕よりずっと強い」

「……っ、そ、そうだよ、ミカ強いもん!」

「うん」


 今はまだ強がっているだけだ。けれどきっと、こんなに優しいミカだから、いずれ本当に芯の強い大人になるだろう。


(それまでは、僕がそばにいるからね)


 心の中でそうささやいて、ユランは少女を抱きしめた。首の周りのふさふさした毛に、ミカが顔を埋める。うー、と押し殺した泣き声が漏れたが、ユランは聞こえないふりをした。



 サダン少年が村に戻って来たのは、それから三年後のことだった。皆が驚き呆れ喜んだことに、妻と赤子連れで。

 町で多くを学んだ少年は、作物の品種改良や土壌の改良に力を尽くし、その成果を見て新たに町へ学びに行く者も現れた。

 そうして努力する人々を、力強い腕とたゆまぬ献身で支え続けた犬神は、いつしか村の守り神として崇められるようになっていった。


     ◆


「……それで、犬神様というのは結局、虎狼族だったのでしょうか」


 帳面に筆を走らせていた若い娘が、手を休めて顔を上げた。向かいに座っていた村長は茶をすすり、さあて、とごまかす。


「ただの言い伝えですからなぁ。虎狼族ちゅうのは、恐ろしい獣なんですじゃろ。犬神様は、だいぶん違いますな。幼子を守り、豊作をもたらし、役立つ薬草を教えてくだすったちゅう話ですからのぉ」

「そうであるともそうでないとも、言い切れないわけですね。最後にはその犬神様は、どうなったか伝わっていますか? いなくなったのでしょうか、それとも普通に死んで葬られた?」

「それもわかりませんのぉ。村の守り神になってくださった、というのをわしら普通に信じておるわけですが……村の娘と添い遂げた話もありますし、嵐の日に川に流された子供を助けて、犬神様の方はそれきり姿が見えなくなった、という話もあります。まぁ何にしても、犬神様のおかげでこの村が豊かになったのは間違いありませんわい」


 村長がほっと息をつく。窓の外から元気な子供の声と、犬の楽しそうな吠え声が聞こえて、彼は目を細めた。


「犬神様の話で大事なところは、神様に頼りきったらいかん、ちゅうことですわ。なんでもぽんと与えてくださると思うて、楽ができると喜んで腑抜けとったらいかんのです。楽ができるうちにこそ、力をつけてしっかり暮らしを整えんといかん。その頃のご先祖様がそうして励んでくだすったからこそ、今のわしらがある」


 そこまで言い、村長はふと思い出したように不思議そうな顔をした。


「しかし、役人ちゅうのはいろんなことを調べるもんですなぁ。虎狼族の言い伝えなんて聞き集めて、どうしなさるんで?」

「さあ。私も知りませんが、辞令ですので」

 娘は淡泊に応じ、筆記具を片付けて頭を下げた。

「貴重なお話をお聞かせくださり、ありがとうございました」

「ああ、まぁ、こんなもんで役に立つんなら」


 曖昧に応じて村長も礼を返す。変な仕事を命じられた役人を気の毒に思いつつ、席を立って見送りに出た。


 明るい陽射しの降り注ぐ村は、この地方にしては珍しい豊かさだった。

 寒さに強い品種を掛け合わせ収量を上げた黍で、飢饉を何度も乗り越えた。昔から変わらぬ方法で丁寧に作られる薬は近隣の町や村からも買い付けの商人がやって来る。大型の犬を飼う伝統のおかげで、野の獣による作物の被害もかなり減った。

 それらの恩恵をもたらした犬神様の祠は、今も大樹の陰にある。ひっそりと慎ましく、まるで身を隠すようにして。


 役人が参拝を済ませるのを待ち、村長は「それで」と話しかけた。

「この後は、まだ北へ行かれるんですかな?」

「はい。『牙の門』まで」

「地の果てですなぁ……しかしまぁ、もし本当に本物の虎狼族に会えたら、犬神様のことも聞いてみてくだされ。場合によっちゃ、わしら皆、お礼を言わなきゃなりませんでな」

「わかりました」

 冗談のつもりだったのに真面目に返されて、村長は鼻白む。


 旅立つ役人とその護衛を送り出し、彼は遙かに遠い北の山並を眺めやった。


「牙の門より先は虎狼の地、か。さてはて」


 本当なのかどうか誰にもわからないし、仮に『犬神様』と同じような存在がそこにいるのだとしても、もうその力を借りるべき時代は過ぎ去った。

 村長はゆっくりと祠の前まで行き、手を合わせて頭を垂れ、目を瞑って拝む。


 ――ほら、ユランは怖がりなんだから。


 少女の笑い声が、葉擦れのざわめきに乗って届いた。大樹の陰に縮こまる犬神がくぅんと鼻を鳴らしたような気がして、村長はそうっと薄目を開ける。木漏れ日の中に何かが見えたが、錯覚だったろうか。

 なんとなく幸せな心地になり、村長は満足の笑みを浮かべた。


「これからも、見守っとってくだされや、犬神様」


 つぶやきに答えるように風が吹き、梢を揺らして、眩しい空へと駆け抜けていった。



(了)


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