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四章 薬草採り

 平穏のうちに季節はうつろっていった。

 収穫が終わって徴税人が来た時は、ユランは山に身を隠した。『犬神様』を知る人々は示し合わせて口を閉ざし――サダン一家さえも――彼のおかげで少しだけ暮らしやすくなったことを、役人に気取られぬように振る舞った。


 冬が来る頃にはツォルイが再び訪れ、数枚の立派な毛皮を贈ってくれた。彼らが丘陵で飼っている山羊や羊のものだ。イダルとミカが凍えてしまっては、ユランの居場所がなくなるから、と。


 隣人の妬ましげな視線に気付いたユランは、皆のぶんも毛皮が要りますよね、と何の悪気もなく言って、彼らと協力して鹿や猪を狩った。

 何度かは成功して、イダルやサダン一家ばかりでなく近隣の住民は皆、肉や毛皮の恩恵に与り、おかげでその冬は、餓死者も凍死者も出なかった。毎冬、何人も死ぬのが当たり前の土地で、これは奇跡に近い出来事だった。


 そうして再び暖かな季節が巡ってくる頃には、ユランの背丈は隣のサダン少年に並ぶほどになっていた。



「あれまぁ、こないだ直したばっかりなのにねぇ」

 ニウルの妻がユランのなりを見て苦笑する。ユランはなんとなく恥ずかしくなってもじもじした。最初に着ていた服はとっくに入らなくなっていたので、ニウルの息子のお古に手を入れて、どうにかこうにか着ているという状態なのだ。


 尻尾を出す穴を開け、丈を詰めたりほどいたりして調節しているほかはあくまでも人間用の袍なので、どうにも格好がよろしくない。しかも今は、ぎりぎり身体にひっついているようなありさまだ。じきに縫い目が弾けて綻びそうである。


 完全に置いてけぼりをくったミカはぷうっと膨れて、ユランの尻尾を引っ張った。


「ユランはもうおっきくなっちゃだめ!」

「そんなこと言われても……」


 返答に窮し、ユランはごまかすように己の手を見つめた。爪も厚く鋭くなってきて危ないので、こまめに小刀で削り、石でこすって丸くしている。狩りには鋭い爪が役立つのだが、ミカやイダルをうっかり傷つけては大変だ。


「ミカだけ小さいの、いや!」


 駄々をこねるミカに、ユランは少し背をかがめて視線を合わせ、微笑んだ。犬の顔でそれらしく見える程度に、ということだが。


「でも、今ならミカをおんぶして走れるよ。ニウルさんの家でも、お山のてっぺんでも、連れていってあげられる」


 はっ、とミカが菫色の目をみはり、唇を尖らせて上目遣いになる。駄目押しにユランはにっこりして尻尾を一振りした。


「今度一緒に、遊びに行こうね」

「……うん」


 ミカはまだ拗ねたふりをしていたが、期待を隠せない様子でうなずいた。そこへ、朗らかな笑い声が加わる。振り向くと、ツォルイが開け放しの戸口にもたれていた。


「姫君の相手が上手くなったな、ユラン。イダル殿もミカも、息災のようで何よりだ。それに、ちょうど間に合った」


 言いながら彼は馬の背から包みを下ろし、土間に入ってきた。上がり框に包みを下ろして解くと、中から色鮮やかな織模様の服が現れる。あっ、とユランが短く声を上げ、飛びつくようにして広げた。里で作られる服が上下二組、今の体格にすこしゆとりのあるものと、さらにひとまわり大きなもの。

 懐かしさに目を潤ませて匂いを嗅ぎ、言葉もなくぎゅっと抱きしめる。ツォルイがニウルの妻に軽く会釈してから言った。


「山神様が、そろそろ必要だろうと仰せられてな。良くしてもらっているようだが、やはり人の衣服では難しかろう」


 布に顔を埋めたまま、ユランが耳を震わせて小さくうなずく。布を織り、仕立ててくれたであろう母や叔母、あるいは親しい顔ぶれが脳裏に浮かび、目頭が熱くなる。里の皆が、あの空気が、急に耐え難いほど懐かしくなって胸が締め付けられた。


 イダルがユランの頭を撫でて慰める横で、ミカは落ち着かなげにそわそわする。何か言おうとして、けれど言葉が出てこず、童女は小さな手でユランの裾をきゅっと掴んだ。

 その仕草で今この場に意識を引き戻され、ユランは濡れた目でミカを見下ろす。同じ悲しみを湛えた菫色の瞳が揺らめいていた。

 ああ、この子も寂しいんだ。そう直感した彼は、服を置いて、代わりに幼い身体をふわりと抱きしめた。


「大丈夫、どこにも行かないよ。ここにいるから、寂しくないよ」


 ミカは答えない。ただいつもとは違う、痛いほどのやり方でしがみつく。ユランは自分のつらさが薄れて消えてゆくのを感じた。


 こんなに何もないところで、家族はイダル一人。一番近い隣人は川の向こうで、しかも意地悪で仲が悪い。いつごろ両親を喪ったのか知らないが、きっと物心ついた時には、そんな環境だったのだろう。

 それを『当たり前』と受け入れつつも、どこか空疎さや心細さ、寂しさは感じていたのに違いない。幼いがゆえに言葉にはできずとも。


 ユランが現われたことで、それがはっきりと理解できてしまった。

 常にそばに、自分と同じぐらいに活動的な存在がいること。毎日のようにあちこちから誰かしら訪ねてくるということ。

 それを経験してしまったから、寂しさがどういうことであるか、今のミカは理解しているのだ。恵まれた現状を失うことへの恐れと共に。


(離れちゃいけない)


 ユランは改めて決意し、柔らかな頬に鼻先を軽く触れさせた。はずみで涙が一粒零れ落ちたのを、ぺろりと舐める。塩辛い。ミカはびっくりしたように竦み、それからくしゃりと顔を崩して笑った。

 そんな二人の様子を眺めて、ツォルイは温かな微笑を浮かべると、また来ると言い置いて静かに立ち去った。


     ◆


 瑞々しい新緑が陽射しにきらめく頃、珍しくよそからの旅人が訪れた。イダルと一緒に畑仕事をしていたユランが匂いを嗅ぎつけ、誰だろうと訝しむ。


「このあたりの人じゃないみたいです。覚えがない匂いだし」

「何にせよ、おまえさんは隠れとった方がええじゃろ。最近はこの辺の者は皆、おまえさんのことを当たり前に受け入れておるが、よそ者はどんな風に思うか知れんでな。ミカを連れて、あっちに行っとれ」


 はい、と答えてユランは言われたとおり、ミカと一緒に家へ引っ込む。ややあって、川の向こう岸から男が一人、おおい、と両手を振った。

 イダルは初めて気付いたふりで手を止め、億劫そうにそちらへ歩いていく。近くに行くと、旅人は若い男で、大きな行李を背負っているのが見て取れた。


「すみませぇん、この川、橋はないんですかねぇ!」


 よく通る大声で男が問う。イダルは「ないのぅ」とあっさり応じた。険しい山々から下ってくる雪解け水のために、春から初夏の川は流れも深さも増す。大人の膝まで浸かるほどだ。特に今は昨夜に雨が降ったせいで、勢いが速い。

 手ぶらなら足を濡らして渡れるだろうが、大荷物を背負っている男では転んでしまうだろう。

 情けない困り顔で川を見渡す男に、イダルは声をかけた。


「こっちに来ても、あとは山に入るだけで行き止まりじゃよ。あんたいったい、こんな辺鄙なとこまで何をしに来なすったかね」

「その山に行きたいんですよ。わたしは薬草採りをしておりましてね、国内を隅から隅まで回って、役に立ちそうな薬草や珍しい薬草を探しているんです。なんでもここいらには、山の神様の恵みがあるそうで」


 薬草採りの言葉に、イダルは警戒の表情になった。


「どんな話を聞いたか知らんが……」

「ああいや、無礼はしませんよ!」大慌てで男が遮る。「祠を荒らすとか、根こそぎ採りつくすとか、そういうことはしませんから! わたしは性質の悪い山荒らしとは違います、都にある薬種問屋と契約してきちんと……とにかく、怪しい者じゃありません。言葉だけで信用してくれというのも難しいでしょうが」


 苦笑いして、男はひとまずよいせと行李を下ろした。どうやらこれまでに訪れた村でも、疑いの目を向けられたことがあるらしい。


「はぁー……弱ったなぁ、この水、明日になったら少しは引きますかねぇ」


 しゃがみこんで嘆息するさまに、イダルはいささか同情をおぼえた。昔は丸太橋がかかっていたこともあるのだが、雪解けに大雨が重なった時に流されてしまい、それ以来ずっと橋なしだ。近隣住民は、それで特に不自由していない。

 イダルは空を仰ぎ、また雨になる様子はなさそうだが、と確かめて思案した。と、そこへ、


「僕が背負って渡しましょうか」


 ひそっと小声がささやき、イダルはぎょっとなった。振り返ると、いつの間にやらユランが近くまで寄ってきている。屈んではいるが、特に身を隠している様子もない。


「あの人、たぶん悪い人じゃないですよ。嘘もついてないと思います。そんな匂いがしませんから」

「そうは言うてものぉ、おまえさんの鼻でも悪人を嗅ぎ分けられるとは限らんじゃろうが」

「そりゃ僕は、悪い人っていうのがどういう匂いなのか、知りませんけど。でも、隠し事をしてる人はだいたいわかりますから」

「うーむ……」


 向こう岸の男は川面を見つめているばかりで、まだこちらに気付いていない。イダルは腹をくくると、両手を口の横に当てて呼んだ。


「おいあんた、口は堅いかね」

「え? まあ仕事柄……ひょっ!?」


 顔を上げた男は答えかけて奇声を上げた。それには構わず、ユランはほとんど助走もなしに軽々と川を跳び越えて男のそばに立った。


「僕が向こう岸まで渡しますよ。とりあえず荷物を運びますね」

「えっ、おっ、あっ」


 男が動転している間に、ユランはさっさと行李を背負い、ひょいと対岸へ戻る。特に計算してのことではなかったが、大事な荷物を質にとられた男は、逃げ去るわけにいかなくなった。

 イダルのそばに行李を置いて、ユランはまた川を跳ぶ。力強く成長した身体の跳躍は、まったく危なげがない。


「どうぞ、しっかり掴まってください」


 言ってユランは男に背を向けてしゃがむ。薬草採りはおっかなびっくりそろそろと近寄ったものの、困り顔で立ち尽くす。おぶされと示された背中は、まだ十代の少年ほどの広さだ。


「だ、大丈夫か?」

「怖がらなくても平気ですよ、噛みついたりしませんから」

「いや、そうじゃなくて……わたしが乗っかったら、潰れちまいやしないかね?」

「大丈夫です、僕、けっこう頑丈ですから」


 男の気遣いにユランは笑いをこぼし、さあどうぞ、と催促する。男が遠慮しながら負ぶさると、ユランは軽々立ち上がった。そしてそのまま、数歩の助走で跳躍する。風を切って、高々と。


「ひょー!」


 また男が奇声を上げた。ユランは笑いながら着地し、とっとっ、と数歩進んで男を下ろした。


「ミカもよくきゃあきゃあ叫ぶけど、そんなに面白いですか」

「いやー……びっくりした、こりゃたまげた。坊やが山の神様ってわけかい」

「いえ、僕は山神様のお使いで、ユランっていいます」


 ぴょこんと会釈したユランに、男も慌てて礼を返し、イダルにも頭を下げた。


「おっと、これは失礼。わたしはヨギ、薬草採りをしております。これからちょっとばかり山に入っていろいろ探しますが、決して荒らしはしませんのでお目こぼしください」


「ヨギさんや」とイダルが口を挟む。「山に入るはええが、今日は昨日の雨の後じゃで、足下が悪いぞ。もてなしはできんが、屋根ぐらいは貸すで、明日にしなすったらどうじゃ」


 親切な提案にもヨギは即答せず、難しそうに唸る。イダルはもう一言添えた。


「わしはイダルじゃ。ユランが孫のミカを守るために山から下りてきて以来、うちで一緒に暮らしとる。狭い家じゃが、おまえさんが眠る場所ぐらいはあるぞ」

「うーん、お言葉は大変ありがたいんですが、地面が柔らかいうちに見つけたいものもありますのでねぇ」

「それなら、ユラン、おまえさんがついてって助けておやり。怪我せんようにな」


 はい、といつものようにユランが素直に返事する。ヨギは複雑な苦笑をこぼした。


「見張りのついでに、ですか」

「そうは言うとらん。ついでと言うなら、ユランに薬草の匂いを覚えてもらえば、ずっと探しやすくなるじゃろ。夕餉の菜になるもんを見付けられたら、あんたの飯も用意できるちゅうもんじゃ」

「そういうことでしたら、ご厚意に甘えさせてもらいますかね」


 ヨギは納得すると、一旦イダルの家に行李を置き、採取用の軽装になって、ユランと共に山へと入っていった。


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