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三章 僕の居場所

 ユランの存在は瞬く間に一帯に知れ渡った。と言っても、元々住民が少ないので、知れる範囲も限られているが。噂を聞いたニウルの妻子や、さらに遠くに住む者も、好奇心丸出しで会いに来た。


 ミカをはじめ数少ない子供らは、ユランによく懐いた。毎日のように、遠くからわざわざ遊びに来る。洗って乾かしたばかりのユランの毛はふかふかしてとても気持ち良かったし、背丈も小さいから、見た目は獣でも危険な感じはほとんどしなかった。

 何より、丸い琥珀色の目はいつも優しくて、楽しげにきらきらしているのだ。一緒にいるだけで気分が明るくなるし、嫌なことやつらいことがあった時には、特に毛の密生している首まわりに抱きつくだけで随分と慰められる。

 そしてそれは、子供だけに限った話ではなかった。


「あ、また見てる」

 ミカが言い、ユランも「うん」と無造作に答えた。川の向こうにサダン家の孫が立っているのは、もうとっくに匂いで気付いていた。こちらに来る気配がないので、そのままにしておいたのだ。


 このところ、サダン家の三人はそれぞれが別々に、互いの目を盗むようにして、こそこそと様子を窺いに来ていた。

 最初の数回は、何か用なのかな、とユランの方から近付いていったのだが、声をかける前に逃げられた。

 犬神様だというのが信じられなくて、観察しているのだろう。特に敵意も感じないから、好きにさせておく方が揉めなくていい。

 ユランはそう判断して、何か含む所がありそうな視線をつとめて気にせず、せっせと畑仕事にいそしんでいた。


 もうじき黍の収穫だ。穂が少しずつ熟れて色づき、垂れ下がってきている。今はとにかく畑を歩き回って、鳥に食べられてしまわないよう追い払わなければならなかった。

 幸いユランがぼーっと立っているだけでも、鳥たちはあまり寄り付かない。ユランを恐れないのは、飼い馴らされた鶏ぐらいだ。


 一人遊びに飽きたミカが、じぃじに構ってもらおうと家に帰ってしまうと、しばらくして孫サダンが「おい」と小声で呼んだ。

 おや珍しい、とユランは目をぱちぱちさせ、振り向いて首を傾げる。それ以上は声をかけてこず、しかめっ面でしきりに手招きするので、仕方なくとことこ歩いて行った。


「なんですか?」

 警戒もせずにすぐそばまで近付いたユランに、サダンはなんとも複雑な、やりにくそうな顔をする。そして、いきなりずいと手を伸ばした。

 頭上に迫る手にユランはぎくりと身を硬くして首を竦めたが、サダンはその手を普通に置いただけだった。

 わしわしと撫でまわし、指先でちょっと毛を逆立ててみたりして、また撫でる。無言でそれだけすると、身を翻して走り去ってしまった。


「……??」


 何だったのか。ユランは呆気にとられて長いこと立ち尽くしていたが、それきりサダン少年は戻ってこなかった。


 翌日には、父親の方がこそこそやって来た。

 同じように人目がない時を見計らい、来い来いと手招きする。ユランがそばへ行くと、父サダンは「やる」とぶっきらぼうに、茹で卵をひとつ突き出した。


「あ、ありがとうございます」


 面食らいながらもユランはぱっと顔を明るくする。ミカにあげよう、とほくほくしていたら、「食え」と言われた。ユランは目をぱちぱちさせ、サダンを見上げる。

 よっこらせ、と父サダンは川の土手に腰を下ろし、隣の地面を叩いた。どうやら、ここに座って食べろと要求しているらしい。ユランは戸惑いながらも、サダンに並んで腰を下ろし、卵の殻を丁寧に剥きはじめた。


 サダンは何も言わず、ユランの背中側から手を伸ばして、ぽふぽふと頭を撫でる。ユランは何やらむず痒くなったが、じっと我慢して卵に集中した。

 ややあって頭に置かれた手が止まり、はあ、と深いため息がこぼれる。ユランは卵をもぐもぐしながら、ちらっと目だけで様子を窺った。だが相手はどうやら、言葉や何かの反応を待っているわけではないらしい。ふかふかの頭を抱くようにしたまま、ぼうっと景色を眺めている。


 ユランが卵を食べ終わっても、サダンは無言だった。ちちち、と小鳥の鳴き声がして、ユランはそわそわする。せっかく熟した黍を食べられては、かなわない。サダンはそれに気付かず、遠い目をしたまま小さくつぶやいた。


「……なぁーんも、ねえからなぁ……」


 何のことだろうか。ユランは耳を立て、頭を動かしてサダンの顔を見た。その動作でサダンも夢から覚めたように瞬きし、ぽんぽんともう一度ユランの頭を撫でてから、よいせと立ち上がった。


「卵のことは誰にも言うなよ。うちの爺にも倅にもだぞ」


 はい、とユランが素直に了承すると、サダンはえらの張ったいかつい顔に、一瞬だけ苦笑いを浮かべて、のしのしと川向こうへ帰っていった。


 そんなことがちょくちょくあったり、またよそからユランに会いに来る者が増えたせいもあってか、自然とサダン一家の嫌がらせは鳴りを潜めていった。

 黍を刈り取って乾燥のために島立てしながら、イダルはふと首を傾げた。


「そういや、最近は隣の連中、静かじゃのう。ユラン、こっそりいじめられたりしとらんじゃろうな?」

「全然、なんにもないです」

 若干慌て気味にユランは否定した。むむ、とイダルは眉を寄せる。

「本当じゃろうな? 黙って我慢しとるんじゃないか?」

「してません、してません」


 ますます慌てるユラン。挙動不審そのものだが、ほかにごまかす術も知らず、上手い嘘もつけない。じーっと見つめられ、結局じきに白状した。


「いじめられてるんじゃないです。ただ、時々あっちの人達は僕のところに来て……何かするってわけじゃないんですけど、頭を撫でたり、ただじっとそばにいたり、時々独り言を言ったりするんです。それで少しは、何かの気が済むんじゃないでしょうか」

「ほぉ……」


 イダルは曖昧な声を漏らした。正直、面白くない。よその子供達が遊びに来るのも、ニウルが子供を送ると称して訪れユランの頭を撫でまくるのも、おおいに結構なのだが。サダン一家、やつらは駄目だ。

 しかしそれで嫌がらせが止むのなら、不本意ながら見過ごすしかあるまい。幼いミカを守り、ユランがこの地で受け入れられるように。

 難しい顔でイダルが考え込んでいると、ユランもまた、物思う風情で空を仰いだ。濃い青から澄んだ爽やかな青に変わり、高く遠くなった初秋の空。


「……かなぁ」


 ぽつ、とこぼすつもりのなかったつぶやきが落ちた。慌てて口を閉じたが、もう遅い。イダルが案じ顔になっていた。


「どうしたんじゃ」

 優しく尋ねられて、ユランはちょっとうつむいた。

「皆、まだ僕のこと捜してるかなぁ……」


 しょんぼりと肩が落ちる。ああ、とイダルは眉を下げた。ユランは犬神様ではなく、断崖と大峡谷の向こうにあるという里の生まれなのだ。家族も友達もいたのだろうに。


「そりゃあ、心配しとるじゃろうのぉ。しかし帰り道もわからんでは、しょうがあるまいて。おまえさんはなんも悪くないんじゃぞ」

 よしよし、と頭を撫でて慰める。こくん、とユランがうなずいた。

「さ、元気を出して、今は今、できることをやらんとな」

「はい」

 仕事を与えられて、ユランは気を取り直した様子で作業を再開する。イダルも黍を束に結わえながら、しかし、と心の中でつぶやいた。


(ユランも、本当は帰りたいんじゃろうのぉ……ここを出ていく日が来るんじゃろうか)


 最初は、ずっと家にいさせると決めたわけではなかった。なんとなく、とりあえず。そんな気持ちで家に迎えたのに、今やすっかりユランを不可欠の存在とみなしている。様々な恩恵ばかりでなく、情の面でも。

 この、素直で善良なわんころがいなくなるなど、考えたくもない。だが、だからこそ、彼が帰りたいと言ったら引き留められないだろう。


(そんな日が来んかったらええんじゃが)

 イダルはそっと、憂鬱なため息をついたのだった。


   ◆


 数日後、イダルの憂慮はまたしても現実のものになった。嫌な予感ほどよく当たる、ということなのか、単にイダルに先見の明があるということか。

 今度のそれは猪ではなく、人の姿をして現れた。


 刈り取りの終わった畑で、鳥追いついでに子供達とユランが遊ぶさまを、イダルは目を細めて眺めていた。サダンの孫も、川辺でカエルでも探すふりをしながら、ちらちらこちらの様子を窺っている。

 そんなところへ、聞き慣れない音が聞こえてきた。最初にユランが振り向き、他の者もつられてそちらを見る。


「なぁに、あれ」


 ミカが首を傾げると、ニウルの子が「馬だよ」と教えた。彼の家には馬が一頭だけいて、農作業に使っているのだ。しかしそれは小型で痩せており、田舎道をこちらへやって来る騎影はまるで別の生き物に思われる。蹄の音が近付き姿が見えてくるにつれ、ますますもってこの田舎には不釣り合いな存在だとはっきりした。


 馬は大型種でこそないが立派な体格で、栗色の毛並みが陽に輝いていた。その背にまたがるのは、颯爽とした青年だ。この辺りでは一度も見られたことのない身なりだった。

 丈の短い上着に、動きやすそうなズボンと革靴。金茶色の髪は長く伸ばして一本の三つ編みにしている。腰にはなんと、剣を帯びていた。

 子供達が怯え警戒し、ひとかたまりに身を寄せ合う。ユランはちょっと首を傾げて考え、あっと思い出して前に出た。同時に青年も畑の手前で馬を止め、ひらりと身軽く降り立つ。

 イダルが誰何するより早く、青年が朗らかな声を上げた。


「捜したぞ、ユラン」


 迷いがちだったユランの足取りが、駆け足になる。青年のそばまで行くと、彼はどきどきする胸をなだめるように手を当て、小声で尋ねた。

「もしかして、イウォルの若様ですか?」

 そうだ、と青年がささやき返す。そのやりとりは、保護者の役目を果たそうと慌ててやって来たイダルの耳にもかろうじて届いた。


「もしや、おまえさんはユランの知り合いかね?」

「あ、あの、イダルさん、この人は」


 ユランはしどろもどろになった。イダルの警戒を解きたいが、子供らが興味津々と寄ってきたので『犬神様』ではない本当の素性を話すことはできない。彼が口ごもってしまうと、青年が面白そうな顔をして答えた。


「私はツォルイ、山神様の第一の臣だ。人里に出した犬神ユランがなかなか戻らぬので、迎えに行くよう遣わされた」


 えっ、とばかりユランは目を丸くして青年を見上げる。イダルも胡散臭げに眉を寄せたが、ツォルイ青年は悪戯っぽく微笑むばかり。当惑する二人の後ろから、ミカが身を乗り出して割り込んできた。


「だめぇ! ユラン連れてっちゃ、やー!」

「ちょ、ミカ、首しまっ……!」


 ぎゅうっとしがみつかれてユランが苦悶の声を上げる。だがミカはがっちり抱き着いたまま離れない。ツォルイが小さく笑い、片膝をついてミカの瞳を正面から見つめた。


「無理に連れて帰りはしないから、安心しなさい。だがね、ユランの帰りを待っているひともいるのだよ。そなたがユランと離れたくないように、山神様もユランがいなくて寂しい思いをされているのだ」


 穏やかに諭す声音は、若い見た目にそぐわぬ落ち着きと貫禄があった。普段はきかん気の強いミカも、渋々手を離して一歩下がる。他の子供らも遠慮がちにユランのまわりに集まった。


「ユラン、お山に帰っちゃうの?」

「やだよぅ、ここにいてよぅ」


 口々に懇願され、ツォルイは優しい苦笑を浮かべて一人一人の頭を軽く撫でてやる。

「それを、これから相談しなければな。ユラン、イダル殿、少しあちらで話をしよう」

 言いながら立ち上がり、不意にくるりと向きを変える。視線の先にいたサダン少年がぎくりとした。

「少年、しばらくこの子らの守りを頼むぞ」

 一方的に言い置いて、返事も聞かずにツォルイは馬の手綱を引いて歩き出す。ユランとイダルは当惑しつつも逆らえず、慌てて後を追った。


 ツォルイは戸口の前で止まり、手綱を馬の首にかけると、帯に挟んでいた妙なものを取り出した。数本の短い棒だ。金属製のそれに軽く唇を触れさせながら小さく何事かつぶやき、三度ほど打ち鳴らす。心地よい音がすうっと広がって消えた。


「……何ですかな、今のは?」

 イダルが混乱しながら問いかけると、ツォルイは棒を元通りにしまいながら、軽い口調で「まじないだ」と答えた。

「我々の話し声が広がらぬように、な。家に入って姿を隠してしまうと、子供らは不安になるだろうから、ここで話そう。まずはイダル殿、ユランを保護して下さったことに礼を言う」

 彼が丁寧に一礼したもので、イダルは慌ててしまった。


「礼なんぞ、大袈裟な。迷った子を助けるのは当然じゃし、むしろユランのおかげでわしらは大層助かっとる。それはそうと、おまえさんは本当のところ、何者かね。ユランの里におるのは、皆、ユランのようななりをしておるんじゃろう?」

「いかにも。私はイウォル……『馬賊』と言った方が通じるかな。ユランの里から見て南、帝国から見て西南の丘陵に住まう一族の者だ。我々は時折、里を訪れて交易を行うのだが、その折に行方知れずの仔のことを知らされてな。こうして捜しに来たというわけだ」


 イダルは驚きに目をみはった。この辺りは帝国でもきわめて辺鄙なところだが、ずっと南へ下れば同じ西部と言っても気候は幾分過ごしやすく、豊かになる。西の果てを刻む険しい地形もそのあたりからは緩やかな丘陵へと変化するため、かつては野蛮な遊牧民すなわち『馬賊』によってしばしば荒らされていたと聞く。彼らを阻むために、断崖から南の果てまで続く長城が築かれたほどなのだ。

 しかし目の前の若者は、野蛮なところなどまったく感じられなかった。むしろ隣家の三人の方がよっぽど野蛮な盗人だろう。


 イダルがぽかんとなっている間に、ユランがツォルイの袖を引いた。

「あのぅ、やっぱり皆、心配してますよね……」

「むろんだ。案じぬわけがなかろう? そなたの両親だけではない。皆で随分長らく捜したそうだぞ。そなたも、ここで暮らすのは何かと不便が多いだろう。それに、そなたには大切な務めがある。忘れてはいまい」


 つとめ、と聞いてイダルも我に返った。ユランはうつむき、絞り出すように言う。


「悪しきものを退け、弱きものを守ること……でも、僕は、僕……っ」


 語尾が揺れ、涙の雫がパタパタッと地面に落ちる。手でしきりに涙を拭うが、追いつかない。とうとうユランはしゃくりあげはじめた。


「ごめんなさい、ごめ……っなさ、僕、怖くて……無理です、僕には」


 えぐえぐと泣くのを、ツォルイはしゃがんで抱き寄せ、背をさすった。


「詫びずとも良い、まだ幼いのだから恐れが勝るのは当然だ。誰も責めはせぬ。……それでも、里に帰るのはつらいか?」

「ぼ、僕、もう居場所がない、です……っ、だって、だって」


 あとはもう言葉にならない。ツォルイはふうっと息をついたが、そのまま優しくユランを撫で続けた。


「そうか。確かに、この辺りの者は皆、そなたを慈しんでくれるようだし、そなたもここでなら己の力を役立てられるのだろうな。……致し方あるまい、当面そなたはここで暮らすが良い」


 そう言われても、ユランはすぐには泣き止まない。イダルはいささかの不穏を感じて問うた。


「ツォルイさんや。ユランの里では、なんぞ厳しい掟でもあるのかね? こんな幼い子供までが、恐れを堪えて立ち向かわねばならんようなことが」

「ユランから聞いていないか。彼らは平原に住む弱きものらを守っているのだ……遙か昔に交わされた約束の名残でな。そのために里の者の多くは悪しきものと戦う。戦わぬものも、戦士を支える。普通は皆、それに耐えうる身体と心を持っているのだが……まあ、これ以上は言うまい。すまぬがイダル殿、ユランの世話を引き続き頼む。くれぐれも、彼の存在が役人に知られぬよう気を付けてもらいたい」


 ツォルイはユランの肩をぽんと叩いて立ち上がると、真剣な面持ちになって頼んだ。イダルは一瞬なぜかと問いかけ、すぐに納得してうむとうなずく。役人に知られたら、ユランは珍しい生き物として都へ連れて行かれてしまうかもしれない。


「犬神様は幼子を守るために、ここに遣わされた。そういう話にしておるでな、絶対によそへはやらんよ。お山に帰るちゅうなら仕方がないが、よそ者の手に渡すなんぞとんでもない」

「ならば安心だ」

 ツォルイはちょっと笑い、ユランを見下ろした。

「良き出会いに恵まれたな。ひとまず私は里に戻って、そなたの息災を知らせよう。また時折は様子を見に来るゆえ、帰る気になったらその時に言うが良い」

「は、はい」

 まだべそをかきながら、なんとかユランは答え、ありがとうございます、と頭を下げた。


 しばらくしてツォルイが再び馬上の人となり、来た道を戻って行くと、待ちきれずにミカと子供たちがわっと駆け寄ってきた。

「ユラン! 帰らなかったね、ずっとここにいるよね」

 絶対に離さない、とばかりミカがしっかりしがみつく。ユランは全身でその重みと温もりを受け止めながら、うん、とうなずいた。


「どこにも行かないよ。僕の居場所は、ミカとイダルさんのそばだから」


 言い聞かせる口調になったのは、ミカのためか、それとも己のためだろうか。ユランはつぶらな目に痛みを湛え、童女を抱きしめたまま、騎影が小さくなってゆく道の彼方を見つめていた。



 嵐が怖かったんじゃないんです、とユランは告白した。

「いえ、嵐も怖かったんですけど、嵐だから余計に怖かったのかもしれませんけど。ちょうど、ひどい嵐の時に狩りが始まって。……里の西の森からは、時々危ない生き物が出て来るんです。見つけたら退治しに行くんですけど……その時は皆、すごく気が立ってて。警鐘が鳴って、皆が走り回って怒鳴ったりして。空は暗くなるし雨は降り出すし……それで、怖くなって、僕一人だけこっそり逃げたんです。そうしたら、すごい雨風になって、雷も鳴って」


 その日を思い出し、ユランはぶるっと震えた。イダルは夕餉の支度をする手を止め、竈の火の番をしているユランを見下ろして嘆息する。


「もののたとえか、ただの言い伝えじゃろうと思うとったが、おまえさんらは本当に、悪いもんが平原に入らんように戦っとるんじゃなぁ。おまえさんみたいな子供まで」

 ふるふる、と丸い茶色の頭が揺れる。

「僕は子供だから、まだ狩りには出てないんです。それでも怖くて、足が震えだして。……情けないです。狩りが終わるまで、里から近いところに隠れていたんですけど。帰ったら何を言われるだろう、って考え出すと動けなくなって……そうする内に、また雷が鳴り出したんです。今度はすごく近くて、ものすごい音で、きっと臆病者への罰なんだって思ったら」

 ぐすっ、と鼻を鳴らしてユランは黙り込んだ。


「……そうか。そりゃあ、つらかったのぉ」


 責めることはもちろん、弁護や助言といった余計なこともせず、イダルはただユランの思いを肯定し、受け止めた。途端にまた、ユランがぽろぽろ涙をこぼしだす。イダルはちょっと屈んで、丸まった背中を優しくさすってやった。


「ここにおったらええ。ここで暮らしたらええんじゃぞ。わしら皆、おまえさんを好いとるでなぁ」



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