二章 犬神様?
ユランと人との違いは、次々と明らかになっていった。
まず、家からネズミが姿を消した。夜毎、天井の梁や壁の裏を走り回る音に悩まされ、あれこれ工夫しても蓄えをかじられていたのが、ぴたりとやんだのだ。夜中に畑の作物を好き放題に食い荒らしていた鹿なども、急に遠慮深くなった。恐らくユランがせっせと畑仕事を手伝い、己の匂いを残しているからだろう。
ユランは見かけによらぬその腕力を畑で発揮したが、やはり肉や魚が食べたいからと、ちょくちょく一人で山へも入って行った。
「いくらおまえさんでも、素手で狩りは無理じゃろ」
そう心配したイダルに、ユラン本人も、こういうのは山猫や虎の方が得意なんですけど、と自信なさげではあったが、仕掛けた罠にもほとんど獲物がかからないのでは致し方ない。
何度か、あまり腹の足しになりそうもない野生の果実などを土産に帰ってきた後、ようやく幸運に恵まれたかコツをつかんだか、兎や鳥を獲ってくるようになった。どうやって仕留めるのか、イダルは聞かなかった。
獲物はどれも小さい上に夏のこととて痩せており、肉など皆目なかったが、骨ごと煮れば出汁もとれる。イダルとミカの食事は大きく改善された。
変化は文字通り風に乗って、遠い隣人の知るところとなった。野良仕事をしていたサダン一家が、イダルの家の方から流れてくる炊煙の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
このサダン一家というのは、祖父・父・息子と三世代の三人住まいである。
揃って茶色の髪と目と、えらの張った顔。名前も同じという横着ぶりで、普段はお互い、爺だの倅だのちびだの、果ては「おい」だのと呼び合っていた。祖父サダンの連れ合いは早くに亡くなり、嫁は貧しい暮らしと荒っぽい男所帯に疲れ果てて、旅の優男と駆け落ちしてしまった。
そんなわけで現在、気楽と言えば気楽、荒んだと言えば荒んだ生活を送っている三人のサダンである。その最年少、十三歳のサダンが畑の端で、水やりの桶と柄杓を手にして夕焼け空を恨めしげに見上げた。
暑熱が引いて涼しくなった風が顔を撫で、ついでに久しく馴染みのない匂いを届ける。鼻をうごめかし、彼は不審げになった。
「なぁ、親父。なんか匂わねえか」
「てめえの屁だろ」
「そうじゃねえよ! 食いもんの匂いがしたんだ、なんかこう……旨そうな」
「いじましい奴だな、口を開けば腹減った腹減ったって」
ぶつくさ文句を言っていた父親が、はたと気付いて変な顔をする。それからくんくんと空気を嗅いで、ペッと足元に唾を吐いた。
「肉の匂いだな。とうとうあの鶏を絞めたんだろうよ。ふん、明日にもうちにお情けを乞いに来るだろうさ」
サダンの家には雌鶏が三羽と雄鶏が二羽いて、卵もそれなりに手に入る。どれかを求めてイダルが来たら、せいぜいふっかけてやろうと考えて、彼はにんまりした。
ところが翌日の昼になっても、イダルが訪ねてくる気配はなかった。
「爺がくたばったんじゃねえだろうな」
唸ったのは、父子から話を聞いた祖父である。爺、と呼んではいるが、相手は似た年齢すなわち五十代後半。白髪と皺は多けれど、まだ簡単にくたばる歳ではない。
「えっ、まさかあの肉の匂いはじじい汁……」
「んなわけあるか、誰が料理するってんだ馬鹿」
間抜けな孫の頭を一発殴ってから、祖父はよいせと腰を上げた。
「どれ、ちょっくら様子を見に行ってやるか。わしらに隠れてなんぞ美味いもんを食っておるなら、けしからん話だしな」
何がどうしてけしからんのか根拠はないのだが、ともあれそんなわけで三人は久しぶりに隣人を訪ねることにした。
ちょうどその時、イダルとユランは畑に出て黍畑の世話をしていたが、馴染みのない匂いを嗅ぎつけたユランが鼻を上げると同時に、川の近くで遊んでいたミカが駆け戻ってきた。
「サダンが来た! ユラン、かくれなきゃ」
「む、そりゃいかん」
イダルも慌てて、ユランの背を押した。幸い、茂った黍はほとんどユランの姿を隠している。しゃんと立っても頭がすこし覗く程度だから、向こうも気付いてはいまい。
「このまま腰を屈めて、見付からんように家まで戻るんじゃ」
「でも」
ユランは心配そうな目で、じっとイダルを見上げる。イダルは危うくほだされそうになりつつ、怒り顔を作って急かした。
「ほれ、はよう行かんか! あいつらが難癖つけてきよるのは、いつものことじゃ。おまえさんがおったら、かえってややこしくなるわい」
ぐいぐい背を押され、仕方なくユランはうなずき、素早く走り去る。ややあって、サダン一家がほとんど水のない川を歩いて渡り、畑の間の小道をやってきた。
「なんだ、生きとったか死にぞこない」
開口一番、老サダンが暴言を投げつける。だがイダルも慣れたもので、鼻を鳴らして言い返す。
「おまえさんがくたばるところを見るのが一番の楽しみじゃからの、そう簡単には逝けんわ」
「口の減らねえ爺だ」
小声で唸ったのは孫である。下手に口出しすると父と祖父の両方から拳骨をくらうので、独り言めかして吐き捨てた。それを無視して、老サダンが徴税人のごとく畑地と家、鶏小屋をねめまわす。
「ゆうべの飯は奮発したようだが、とうとうあの可哀想な鶏を絞めたのか? それとも孫を煮たかと思ったが……おお、ここにいるな、よしよし」
「ミカに構うな」
イダルは途端に険悪さを露骨にし、孫を背後に庇った。人のほとんどいないこの土地で、サダンが孫の嫁にミカを奪おうと考えているのは明らかだ。
「山に仕掛けた罠に兎がかかったんじゃ。そんなことまでおまえさんに知らせる義理はない。用がそれだけならとっとと帰れ!」
「ほう、兎か。ちっとも獲物がかからんと嘆いて、川で泥鰌を捕らせてくれとか、孫に卵を恵んでくれとか、泣き泣き頼み込んできたのは誰だったかね」
「おうとも、それをことごとくはねつけられて、孫と二人で空きっ腹を抱えておるのがこのわしじゃ。ぎりぎりの暮らしをしておるのを、山の神様が哀れんでくだすったんじゃろうて。同じお隣さんでも、かたや人の姿をした人でなし、かたや姿は見えずとも人の情けをご存じちゅうわけだ。帰れ帰れ! おまえさんらが近付けば、山神様も気を悪くなさるわ!」
「人でなしとはよう言うた、とうとう食い物がなくなったかと心配して見に来てやったというのに。ふん、山神様なんぞ気まぐれであてにならんわい。どうせすぐにまた泣きつくはめになるぞ、その時になって頭を下げても遅いからな!」
「うるさい、なんぼ飢えても二度と頭を下げやせんわ!」
罵り合う年寄り二人の陰で、孫同士がにらみ合う。べえっ、とミカが舌を出し、サダンが唸って歯を剥いた。
嫌味と罵詈を応酬することしばし、サダン一家は腹いせに黍の葉をむしって引き上げた。さすがに穂をちぎらなかったのは、同じ土地で厳しい環境に暮らす者として最低限のところはわきまえているのだろう。
三人が確実に帰ってしまうまで見届け、イダルは深いため息をついた。
「やれやれ……あんな連中にユランが見つかったらことじゃて。ミカも、ようこらえて黙っとったな。えらいぞ」
よしよし、と丸い頭を撫でてやる。ミカは誇らしげに笑ってうなずいた。
「ユランがいじめられないように、ミカとじぃじで守らなきゃね!」
うむうむとイダルも笑い返す。ユランがもたらした恩恵は食料だけではない。ミカの言葉が一気に増えたのだ。長い文章もしゃべるようになり、語彙もどんどん豊かになり、口真似ばかり多かったのが主体的にしっかりと話すようになった。
このままでは「よっこらしょ」とか「そうじゃのう」ばかり言う子供になってしまうのではないかと心配していたが、これで一安心である。
(しかし、いつまで隠しておけるかのぅ)
黍の収穫時期になれば畑仕事の時間が増えるし、刈り取ってしまうから姿も隠せない。遠目にも、鳥追いや刈り取りをイダルだけでない誰かが一緒にやっていることは、明らかになってしまうだろう。
(その時は、どう言ってごまかすか……)
そんなイダルの懸念は、早々と現実のものになった。
猪が現れたのである。
イダルの家の畑にではなく、ずっと離れたところに出たものらしかった。だがそちらの住民に追い立てられ、サダンの畑に踏み込み、槍で傷を負わされ猛り狂って川を越えてきたのだ。
「なんじゃ、騒がしいのぅ」
畑に出ていたイダルは川向こうを見やり、ぎょっとなった。猪が突進してくる。後ろからは槍を振り上げ喚き立てるサダン一家。その進む先にミカがいるのを見て取り、イダルの顔から血の気が引いた。
「逃げろミカ!」
絶叫が届くに先んじて、ミカも異変に気付いて駆けだしていた。しかし子供の足である上に、進路と直角に逃げるといった考えが浮かばない。恐怖にひきつった顔で何度も振り返るせいで足は遅れ、あげくに、
「あっ!」
土の窪みにつまずいて転んだ。助けなければ、とイダルが走る。猪が迫る。そこへ、横からすさまじい勢いで飛び出してきたものが、猪を直撃した。
巨体の猪がぐらつき、横倒しになる。何事かと目を見開いて立ち尽くす人間達の前で、猪は己の首に食らいついたものを振り落とそうと、激しく暴れ回った。
ミカがわっと泣き出し、祖父の足にしがみつく。追ってきたサダン一家が手に手に槍を振り上げて投げようとした。
「いかん、やめろサダン!」
ユランが巻き添えになる。イダルは蒼白になり、逃げろ、と叫んだ。だがユランは状況を見る余裕などない。文字通り牙で首に食らいつき、爪を立てて急所をえぐる。のたうっていた猪が突然大きく震え、四肢を突っ張ったかと思うと、ぐったりして動かなくなった。
荒い息をしながら、ユランが用心深く牙を外して身を起こす。途端に、槍を構えたままの老サダンが動転した声を上げた。
「なんじゃこいつは!」
「山犬の化け物か?」
父親が息子を素早く背後に庇う。その言葉を聞いて、イダルは咄嗟に叫んだ。
「犬神様じゃ! 山の神のお遣いの、犬神様がミカを助けて下さったんじゃ!」
は、と疑惑の目が集まるより早く、イダルは膝をついてユランを拝む。ミカがまだしゃくり上げながら、とりあえずイダルの真似をした。
当のユランは何がなんだかわからない。困惑しながら口元を拭い、ただただ目をぱちくりさせる。その間にイダルは続けた。
「このところ罠によく獲物がかかると思うたのも、犬神様のおかげじゃったか。ほんにありがたい、ありがたい……ミカをずっと見守っていて下さったんじゃのぅ」
「えっと、あの」
どうしたら、とユランが口を開きかけたところへ、ミカが汚れるのも構わず抱きついた。
「ユランが守ってくれたの!」
「おぅ、そうかそうか、犬神様はユランというのじゃな。ミカや、良かったのう」
――この時代、この国には、系統だった宗教というものがない。伝説か歴史かわからぬ大昔の賢帝の物語や、武勇知略に富んだ人々の逸話、あるいは徳高い学者の遺した思想書などはあれども、これが神である、と定めるようなものはない。
神々に対する信仰とは各地で巨石や巨木、山川を崇めるものであり、その祀り方や神話も一定でなく、ゆえに今この時も、サダンが『犬神様』を嘘だと断ずることはなかった。
「犬神?」
「見た目は確かに犬だけどもよ……」
「ちびっこいじゃねえか」
一家三人、なんともおぼつかない顔を見合わせてぼそぼそ言い合う。その隙にイダルが立ち上がり、さりげなくユランを誘導した。
「ささ、あちらの井戸で身を清めて下され。ミカ、案内するんじゃ」
「はーい」
元気よく答え、ミカが『犬神様』の手を引っ張る。ユランはきょときょとそわそわしながら、一言も差し挟めずに連れられて行った。
子供二人の姿が建物の陰に隠れる頃、最初に畑を襲われた住民がやっと追いついてきた。おおい、無事かぁ、と遠くから呼ばわる声がする。
「おお、ニウルか。ここじゃ、ここじゃ! 猪は仕留めたぞ!」
イダルが手を振る。肩で息をしながらやって来たのは、体格の良い黒髪の男だった。
「はぁー、これはなかなか……立派な猪だな。よく倒せたなぁ」
「犬神様が助けて下すったでな。ニウル、ちょいとここを頼むぞ。わしは犬神様のお世話をして、鉈やら何やら取って来よう」
サダン一家に持ち逃げされないようニウルに見張りを頼み、イダルはその場を離れる。井戸に回ると、ユランが血の汚れを落として身体を震わせ、水滴を飛ばしていた。
「あ、イダルさん」
どうなりましたか、どうしたら良いですか、とまなざしで問いかけた少年の従順さに、イダルは微笑ましくなる。
「すまんかったのぉ、いきなり話をでっち上げて」
「いえ、いいんですけど……でも、どうしてですか?」
「おまえさんには悪いんじゃが、『虎狼族』じゃと言うよりは犬神様にしておいた方が、いろいろ具合が良いと思うんじゃ。言い伝えでは、虎狼族はちょいと恐ろしい獣だとされておるでなぁ。ミカを助けてくれたで、憎まれはせんじゃろうが……ああ、礼を先に言わんといかんかったの、ありがとうよユラン」
深々と頭を下げたイダルに、ユランは屈託なく笑った。
「小さい子を守るのは当然じゃないですか。間に合ってよかったです。それじゃあ僕は、山の神様に言われてミカを守るために来たんだ、ってことにすればいいんですね。それなら、元々僕らは霊峰の女神様から『弱きもの』を守るように言いつかっているんだから、まるっきりの嘘でもないです。犬神様っていうのはやめて欲しいですけど」
恥ずかしそうに言って、ユランは日向へ毛を乾かしに行く。ミカもそれについていく。
「風邪ひかんように、しっかり乾かすんじゃぞ。わしらはその間に、あの猪をばらしておくでな。後でサダンどもとニウルに顔を見せてやってくれ」
はい、と素直な返事を聞き、イダルはほっと安心して道具を取りに行ったのだった。