一章 犬じゃないです
もふ切れ起こした作者が「いぬをよこせぇぇぇ」の一念で後先考えずに書き出したもの。
過去作品(彩詠譚)と設定的なつながりはありますが単独で読めます。
帰らなきゃ。女神様が呼んでる。
おうちへ帰らなきゃ……
ああでも 怖いよ 帰りたくない
どうしよう……
「どうすっべこりゃ」
「どうする、じぃじ?」
「どうしようかのぅ」
老爺と童女が交互に、どうしようどうしようと悩む。ジーワジーワと蝉時雨が降り注ぐ下、二対の視線の先に、奇妙なものが転がっていた。
畑の外れ、山との境にも近い藪に、倒れ伏す子供……の服を着た、獣。茶色の毛並みにも珍妙な服にも、雨と泥の汚れがこびりついている。
「でかい狸かと思うたが、犬じゃろか。服を着とるし、人に飼われとったんかのぅ」
貧相な半白の顎鬚を引っ張りながら老爺が唸る。黒髪の童女が獣のそばにしゃがみ込んだ。
「たぬきさん、化けるの失敗したの?」
「こりゃミカ、触っちゃいかん。ばっちいぞ」
「いやー、ばっちいー」
小さな手を大袈裟に振り回したところで、獣の耳がピクピクッと動いた。
「あっ」
「生きとった」
二人が驚きを漏らすと同時に、もそもそと獣が身じろぎし、いやに人間くさい動きで身を起こして四つん這いになると、唸りながら頭を振った。童女がぱっと笑顔になる。
「わんわん! じぃじ、わんわん起きた!」
無邪気な童女に対し、老爺の方は顔をひきつらせていた。
わんわん、ではない。これは断じて犬ではない。
「なんじゃこりゃあ」
全体としては確かに、犬のような外見だ。頭は完全に犬だし、胴と腰周りは簡単なつくりの服で隠れているものの、恐らく全身毛皮に覆われているだろう。尻には狸と間違えたほどの立派な尾がぶら下がっている。
だが、ぼうっとした様子で地面にへたり込んだ身体つきは、紛れもなく人間と同じだ。犬ならこんな姿勢は取れない。しかも、黒い鼻をひくひくさせて空気を嗅いだ後、琥珀色の目を頼りなげにしばたたかせて、小さな牙の並んだ口を開けたそのものは、
「……ここ、どこ?」
あどけない少年の声を発したのだった。童女が菫色の目をまん丸にして老爺を見る。
「しゃべった!」
「しゃべったのぉ……」
どうしたもんだか。老爺は途方に暮れ、どうしようもない言葉をつぶやいたのだった。
◆
大陸東部の平原に栄える陽帝国。その西北部は断崖絶壁と大峡谷によって終わっており、向こう側は『虎狼族』の土地とされていた。ここより西へは進めぬがゆえに、一帯はまさに世界の果てであり、鄙びた、などという言葉では言い表せないほどの寒村が点在するばかりであった。
雨が少なく冬が厳しい土地柄、産業らしい産業もない。老爺ことイダルと孫ミカの住む辺りも、元は村だったが、今では腹の底から叫んでやっと隣の人家に声が届くというありさま。訪れる人も滅多におらず、地の果てに住む伝説の『虎狼族』の方が、人間の村や町より現実味があるほどだ。
むろん断崖の向こうには誰も行っていないのだから、それもただの言い伝えである。実際に目にした人間はいない。だが。
「まさか、このわんころがのぉ」
「あの、犬じゃないです……」
板敷きの床に、肩身が狭そうにちんまり正座する犬――ではないと言う少年。なるほど、きちんと膝に置いた両手は毛深いものの五本指がある。家に上げる前に外で身体と服を洗わせたが、単に後ろ足で立った犬とは明らかにあちこちが異なっていた。
だがしかし、やはり総合して犬にしか見えない。夏の日差しで乾かした毛はふかふかだし、ちょっと暑そうに舌を垂らして浅い息をしている。ミカはさっきから、わんわん、わんわん、と言いながら尻尾にじゃれついていた。こちらも犬のようだ。
「おおすまん、あー、えぇと。ユラン、だったかの」
教わった名を老爺イダルが確認すると、少年は「はい」とうなずいてから頭を抱えた。
「ああでもやっぱり僕なんか犬って言われても仕方ないかも……臆病で、なんにもできなくて、情けなくって」
ああぁぁ、とそのまま床に突っ伏してしまう。その背が丸まったのを良いことに、ミカがきゃっきゃと負ぶさって遊ぶ。イダルも止めようとはせず、ぼんやりその様を眺めてあれこれ思案にふけった。
ユラン少年が言うには、彼の『里』では同様の者ばかりが当たり前に暮らしているそうだ。狼や虎や豹、狐に山猫とさまざまだが、一様に厚い毛皮と丈夫な身体を持った戦士である。彼らは自らを、関の守り人と任じていた。平原に住む『弱きもの』――つまりイダルやミカのような人間達を、悪しきものから守っているのだという。
だが中には例外もいるらしい。
「こんな弱虫なの、里では僕だけです。これじゃ駄目だってわかってるのに、怖いのが我慢できなくて。挙句にとうとう、こんなところまで逃げてきちゃうなんて……!」
語尾が涙に揺れる。イダルはおざなりに慰めた。
「まぁほれ、しょうがないわい。雷の時は犬も猫も牛も、大騒ぎしよるし」
「うわあぁぁぁん!!」
――余計に泣かせてしまった。
なんとこの少年は、嵐に怯えて恐慌をきたし、闇雲に走って迷子になり、さまよった末にまた雷に見舞われて、気付けば人の領域にまで転げ出てしまったというのである。
本人も、どこをどうやってここまで来たのか覚えておらず、よって帰り道もわからない。というかもう、帰っても合わせる顔がない。
「まぁ、まぁ」
イダルはぽんぽんと少年の頭を撫でた。密生した毛がふかふかと気持ちいい。ついそのまま手を置いて、感触を味わう。
「食わせてやれるだけの蓄えはありゃせんが、どうせ元々爺ひとり子ひとりの侘び住まいじゃ。雨風をしのぐ屋根ぐらいは自由に使うがええ。ミカも懐いとるしの」
「あ、あの」
慌ててユランが顔を上げ、潤んだ丸い目でじっと老爺を見つめた。
「なんでもお手伝いします。畑仕事ぐらいはちゃんとできますから」
「そりゃ頼もしいわい。水汲みだけでもやってもらえたら、楽になるでな」
イダルは陽気に応じたものの、本心では期待してはいなかった。ユランはしっかりした受け答えをするが、背丈は人の子ならせいぜい五歳ほどだろう。井戸から桶を引き上げられるかどうかも怪しい。
ただそれでも、年寄り一人しか話し相手のいない孫のために、似た年頃の子供……と言って良いのかいささか怪しいが、ともかく遊び相手ができたのは喜ばしかった。
ところが、イダルの返事を聞くなりユランはぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
「水汲みですね! やります!」
「あ、いやいや、そんな張り切らんでも」
「井戸から汲んだらいいんですよね。どこに溜めますか?」
「わーい、おみずー」
「こりゃ待たんか、ミカ、危ないから井戸に近寄っちゃいかん!」
とっとこ外へ行く子供二人。イダルは慌てて後を追った。そして、意外な光景を目の当たりにして立ち尽くす。ユランはもっと年長の兄がするように、ミカを安全な場所に止まらせておいて、自分だけが井戸のそばへ寄ったのだ。
それから、先ほど水浴びした時の状況を思い出すように小首を傾げ、おもむろに釣瓶を下ろす。引き上げる様子があまりにするすると軽やかなので、イダルは苦笑した。
「ほれ、桶に水が入っとらんじゃろ……」
やり方を教えてやろうとそばに寄り、井筒に置かれた桶を見て絶句する。なみなみと、縁まで水が満ちていた。
イダルの驚きと困惑に気付いた様子もなく、ユランは純真な目で嬉しそうに彼を見上げて問う。
「土間に甕がありましたよね。あそこに溜めたらいいですか?」
尻尾が遠慮がちにぱさぱさと、褒められるのを期待して揺れていた。
◆
ユランが汲んだ水で、イダルは夕餉の下ごしらえをした。と言っても鍋に水を張って黍を浸すだけだが。そばにくっついているユランを見下ろし、イダルは「すまんの」と詫びた。
「食うもんというたら、ここらじゃ黍粥と菜っ葉、豆か芋がせいぜいじゃ。おまえさんの食べられそうなもんは鶏の卵ぐらいじゃが、もう長いこと産んどらん」
昔から鶏のつがいを飼っているのだが、齢のせいか餌不足のせいか、さっぱり卵が手に入らない。だが絞めて肉にしてしまったら、それっきりだ。新しい鶏を買う当てもない。
ユランは目をぱちぱちさせ、不思議そうにイダルを見上げた。
「お粥も野菜も食べますよ。肉や魚も欲しいけど……この辺りには魚のいる川とか、ないんですか」
「川ならちょっと先にあるが、小さい泥鰌が獲れる程度じゃからのぉ」
ほれ、と子供らを促して外に出ると、イダルはぐるりを手で示した。
「あそこに屋根が見えるじゃろ。あれが昔の水車じゃ。ここからじゃ土手の陰になって見えんが、あの下を川が流れとる。と言うても雪解けの時期以外は水が少のうてな、水車もろくに使えんし、魚もほとんど獲れん。そもそもわしらが勝手に漁りすると、サダンの一家に怒鳴り込まれるでな」
「……えっと?」
「サダンはこの道をずーっと行った先……見えるかのぅ、栗の樹のてっぺんがあるんじゃが。あそこに住んでる『お隣さん』じゃがの。そこの川まで自分ちのもんだと言うとる。昔の村の決まりごとじゃ、そんなことにはなっとらんはずじゃが、向こうは乱暴者の男ばかり三人も揃っとるでなぁ」
「サダンはいじわる!」
はぁ、と嘆息したイダルの裾を掴んで、ミカが無頓着な声を上げる。意味がわかっているのかどうか、という点ではユランの方が確実に理解できていなかった。
「えっ、え……あの、どういうこと? 川が自分のものって、そんなこと、どうやったらできるんですか? だって川って、……川でしょ?」
「……川じゃのぅ」
「かわなのー」
二人に繰り返されて、ユランは恥ずかしそうに耳を垂れてうつむいた。
「ごめんなさい。何言ってるか、わかりませんよね」
イダルはその頭をよしよしと撫でてやる。
「いやいや、わかるとも。川やら土地やら、誰も本当に自分のものにはできんと言うのじゃろ。それでも縄張りを決めたがるのは、野の獣もわしらも同じじゃ。おまえさんの里では違うのかもしれんが。サダンものぅ……こんなだーれもおらんところで威張ったって、なんもならんじゃろうに。じゃがあいつらに見つかると面倒になるでな、おまえさんはあっち側には近寄らん方がええぞ」
はい、と素直にユランがうなずいたのを確かめ、イダルはふっと息をついた。川とは反対側、山の方を眺めやって遠い目をする。
「息子夫婦が生きとった頃は、良かったんじゃが。猪や鹿に畑を荒らされることも、サダンに無体を言われることもなかったにのぅ」
「猪や鹿が来るんですか」
ぴん、とユランの耳が立つ。おや、とイダルが訝ると、なぜかユランは琥珀色の丸い目をきらきらさせていた。ちょっと考えて理由に思い当たり、イダルは苦笑しながら首を振った。
「来よるとも。それで好き放題に畑を荒らして、また山に帰りよる。息子がおる頃は槍で仕留められることもあったが、年寄り一人ではようやらん。すまんが、おまえさんに腹一杯食わせてやるわけにはいかんのじゃ」
猪と聞いて肉だと思ったのだろうが、さすがにそう簡単にはいかない。たとえ小さな猪でも、突撃されたら大怪我を負うし、大猪ともなれば熟練の男が数人がかりで狩っても死人が出ることは珍しくない。鹿ならば猪ほどの危険はないが、こちらはとにかく逃げ足が速い。
「兎罠でも仕掛けるか、鳥の巣を探すかのぉ。おまえさんが畑仕事を手伝ってくれるなら、そっちにも手を回せるじゃろ。さて、日のある内に焚き木を集めておこうな」
ほれほれ、と子供二人を促して山の方へ歩き出す。ユランは数歩進んで振り返り、ミカがついて来るのを確かめると、ごく当然の仕草で手をつないだ。ミカは一瞬戸惑ったものの、すぐに上機嫌の笑みを広げ、弾むような足取りになる。
最近は手をつないでも振りほどかれることが多い“じぃじ”としては、いささか複雑な気分であった。
夏のこととて茂る草に隠されそうな小道をたどり、山麓の雑木林に入る。そもそもイダルとミカは焚き木集めに来て、思いがけぬものを拾ったのだ。
特に何とも指示せずとも、ユランは適当な枯れ枝や柴を集めていく。ふむ、とイダルは興味深く観察した。
あのような姿をしてはいるものの、獣と違って火を使うらしい。粥や野菜も食べると言っていたし、衣服も着る。幼子の手を引きもする。『虎狼族』の暮らしというのは、人とあまり変わらないのかもしれない。
何日、あるいは何箇月、一緒に暮らすことになるかわからないが、恐らくそう不便はないだろう。ほっと一安心した彼の視界の端で、アケビを見付けたユランとミカが嬉しそうに、熟したら採りに来ようね、と話していた。
なお、安心した矢先に、夕餉の粥が冷め切ってしまうまでユランは食べられないことが判明し、
「猫舌なんじゃのう」
「にゃーなの?」
「猫じゃないです……」
などとやりとりすることになったのだが、不便と言うほどのこともない、ささやかな違いであった。