#01_理由と結果と、猫の少年
頬を撫でる穏やかな風、コポコポと湯が湧く音、閉じている目をまぶたの上から刺激する光。シルバはぼんやりとした意識を少しづつ覚醒させていった。木製の天上にぶら下げられたランプと小窓から差し込む光で室内はそれなりに明るく、テーブルや本棚、キッチンなどの生活感のある小さな部屋だ。その中に、小さい背丈の子供とおぼしき人影が、沸騰したお湯の入っているやかんと格闘している姿があった。
「ここは……俺は一体……!?」
起き上がろうと力をいれた時、全身に電気が流れるような痛みが走って、また天上を眺める姿勢になった。極限まで我慢したつもりだったが、不意のことでつい漏れてしまったシルバのうめき声に、部屋にいた子供はびくっと大きく体を震わせて、こちらを凝視した。
子供と目があった。中性的で、少女とも少年ともとれるような顔立ちだ。金色の髪が肩にギリギリかかるか、かからないか程度に伸びていたのも、その印象をより強める一員だった。そして性別よりも不思議に思えたのは、彼の頭に生えている、白い毛に覆われた三角の物体だ。簡単にいえば「獣の耳」に近いそれは、作りものではないと主張するようにピクピクと動いていた。それを加味すれば、猫のような出で立ちの子供だった。
「おい」
シルバが声をかけた瞬間、猫のような子供は飛び跳ねるほどに驚き、獣の耳をびんと天上へ伸ばし、全身の毛を逆立てながら目を見開いてこちらを見る。といっても焦点があっておらず、極度の緊張からか頬からおでこから汗がじわじわと噴き出している。
「……おい貴様」
二度目の声かけに、子供は我慢の限界だったのか一目散に部屋の外へかけだしてしまった。
シルバは数日もの間ろくに体を動かすことが出来なかった。それもそのはず、謎の男に崖から蹴落とされて、生きていたのも不思議なくらいである。しかしその時の怪我以前に、かつて自分がキングとして、闘技場で戦っていた時の力が出ない事が、彼にとっては不思議でならなかった。単に体調が悪いのではない、体の動かし方を忘れたような、そんな感覚だった。
そんな状態でも生き延びることが出来たのは、猫のような子供の献身的な看病のおかげだった。彼――彼女かもしれないが――は食事を用意したり包帯を取り替えたりと、数日にもわたる看病を一人で黙々とこなしていた。それは誰かに言われるでもなく自分の意思なのだろう。簡単な医術の本を片手に頭を傾けながら難しそうな顔をして読んでいた。そして、シルバが目覚めてから歩けるようになるまでの間、誰一人として訪問者はいなかった。
「すっかり良くなった。礼を言う」
体の調子を確認するように肩を動かした後、シルバは彼に声をかけた。彼は耳をしぼませて、うつむき加減に首を横にふる。そしてシルバに、再びベッドへ寝るようにと身振り手振りでしらようとしていた。
「気持ちは分からんでもない。だが俺は、今すぐにでもやるべきことがある」
シルバは今までの対応で、彼が言葉を話せないことを知っていた。袖をつかむか弱い手を払いのけて意気揚々と外へ出る。
あの男を追いかけ、借りを返すことだけをシルバ考えていた。なぜ自分を襲ったのか、あの時かけられた魔術は一体何だったのか、気にかかることは山ほどあったが、まず優先すべきは己のプライドを傷つけた男に、己のやり方で復讐するだけだと、言い聞かせるように頭で反復しながら道を歩く。
自分が見つけられたであろう場所へとシルバは向かった。そこに少しでも男の手がかりがあるかもしれないと、自分でも少し楽観的すぎる希望を抱きながら。当然の如く、数日もたてば残された痕跡も風にとばされ雨に流れ、何一つ手がかりは見つからない。
こんなものかと溜息をつくシルバの後方から、下級の魔物が近づいてきた。それは大きな水滴のような、スライムと呼ばれる存在だ。数は2体。普通の旅人ならば、一人で相手をせずにやり過ごしたほうが得策だ。
「ちょうどいい練習相手か?」
なまった腕を取り戻すためにも、シルバは剣を抜いて魔物と向かい合った。ゆっくりとした動きで距離を詰めてくるスライムに対して、彼は一度深呼吸すると目をカッと見開く。
剣先に意識――魔力を集中させ、身体を一回転させると同時に溜めた魔力を解き放つ。回転斬りと呼ばれる基本的な剣技をさらに昇華させた彼の技は、一瞬の輝きと共に虚しく散った。
不発だった。
あっけに取られている隙に、スライムが身体を伸び縮みさせて体当たりしてくる。子供がくらいの重量のそれは大人が怯むほどのものではないはずだったが、シルバははずみで尻もちをついてしまう。
おかしい、何かがおかしい。その原因に気づきつつも、彼はそれを納得できない。いや、納得したくなかった。
「……こんな事、あってたまるか!!」
もう一度剣に意識を集中させ、今度は紅蓮の炎をまとわせて敵を一閃する技を思い出しながら、スライムに斬りかかった。だが炎どころか太刀筋すらフラフラとしている一撃は、魔物をベチンと地面に叩きつけるにとどまっていた。
鈍っているだけではなかった。何かの理由で、今までの力が出せないのだ。2度の失敗で思い知らされたシルバは、絶望に表情を固まらせたのも一瞬、すぐに怒りの感情でいっぱいになった。子供が棒きれを振り回すかのように剣を扱いスライムを叩き伏せ、声とは呼べぬ雄叫びを上げた。
茂みでビクリと動いた影。
シルバが近づいてみると、それは看病してくれたあの子供だった。
「見たな?」
睨みをきかせるシルバ。猫耳の子はその姿に恐怖し、目に涙を浮かべながら首を横にふる。
「嘘を言うな……見たのだろう?」
さらに凄みをきかせるシルバに、毛は逆立ち、目は泳ぎ、身体の震えは止まらない。今にも手に持っている剣を叩きつけられるのではないかという恐怖しかなかった。
シルバにしてみれば、この状況――キングだった自分が、たかがスライムごときに技を失敗し、尻もちをつかされたこと――を見られたという事が我慢ならなかった。そしてそれが他人に知れてしまったら、たちまち自分の立場が危うい。今まで積み上げてきた地位と名誉が、一瞬にして崩れ落ちるイメージしか浮かばなかった。なんとしてもそれは防がなければ。
……ふと一つの案が思い浮かんだ。
この子供と一緒に「彼を修行する」という名目で旅をする。そうすれば自分が手を抜いているだけだと周りに錯覚させることもできるし、謎の男を探すために各地を旅することもできる。「この短時間でこれだけの名案が思い浮かぶとは、さすがは俺だ」などとにやけながら、シルバはすぐに行動に移す。
「……お前、名はなんという」
突然の質問に、怯えた彼は答える余裕など持ち合わせていなかった。余裕があったとしても、彼には名前など存在しなかった。今にも泣きそうな顔でじっとシルバを見つめる。
「名が無いのか? ならばこの俺が名づけてやろう……」
そう言うと、シルバは剣のさやを使って地面に文字を書いていく。
"ユイ"
「お前の名は、ユイ。今日からお前は付き人として、この俺の旅に同行してもらう!」
唐突な宣告だった。そして、彼に拒否権は無かった。
力を失った事実をいまだ信じ切れないシルバとそのようすを見てしまったユイ。シルバの力と名誉を取り戻すための旅に、ユイは口封じの意味も含め、むりやり同行させられることに。でも二人じゃ近くの森すら抜けられないほど弱かった。焦るシルバ、そこに現れたの少女が助け舟を出す――。
次回「旅と仲間と、少女の案内」お楽しみに!