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弾劾する罪人

作者: 富澤痴呆

一昨年くらいの作品。ちょっと甘さが残る。

斜陽が灰色の町を真っ赤に染め上げる、ある夏の日の黄昏。デパートの屋上だっただろうか、それとも街角の雑踏の中だったろうか? 違う、どちらも違う――立ちそびえる雄大な塔、どこまでも続く紅い線路、きらきらと綺麗に燃える川。ここはそう、まさにあの場所に他ならない。無慈悲な時の流れの前に様々な情報が削り取られ、焼き付けられた強烈なイメージだけが残留した、遠い記憶の世界。彼は、穢れを知らぬつぶらな瞳で母親の顔を見た。

「ねえねえ、お母さん」

 母親は、慈愛のこもった視線を返す。

「どうしたの?」

 少年は目を伏せる。そしておずおずと躊躇いながら、少年は口を開いた。


「どうして、人間を食べちゃいけないの?」


 時間が静止する。音が消え、世界の全てが母親の口元に収束される。母親の表情すら、彼は覚えていなかった。

「それはね、――――。」

 轟音。圧倒的な質量が、彼の目の前、母親の背後を通り過ぎる。烈しい風が全く平等に、二人を強く撃った。鈍色の電車は謝ることもせず、そのままそっけなく二人に背を向け、斜陽の彼方を目指して走り去っていった。

 母親は、歩き出した。

 少年は、その後をぎこちなくついていった。

 母親がさっき何を言っていたのかを、懸命に思い出そうとしながら。


       ■        ■


 朝鳥のさえずりが、一日の始まりを告げる。彼は、ぼんやりと目を開けた。灰色のコンクリートで四角く切り取られた蒼い空が、遥か彼方に見える。彼はのそりと起き上がり、大きく体を伸ばした。

「んん……なんだ、今日も良い天気じゃないか」

 清々しい気分も束の間。彼は、辺りに悪臭が立ち込めていることに気がついた。ふと傍らに目をやると、ラグビーボール大の赤黒い物体が、ごろんと転がっているのが目に付いた。悪臭は間違いなく、そこから発せられていた――それで彼は、昨日のことを思い出した。刹那、昨夜のおぞましい記憶が洪水のようにフラッシュバックする。彼はすんでのところで吐き気を抑えたが、吐き気を催したというその事実に、彼は歯噛みした。

「……ああ、僕は、なんと罪深い」

彼は、懺悔するように言う。「気持ち悪い」と思うことが、彼にとって既に一つの悪であった。

彼は、傍らに打ちやられたそれに目を向けた。それからは酷い臭いが発せられ、ところどころに突き出している美しかった白色は、見る影もなく不気味な黄色へと変容していた。また、食事を残してしまった。彼は、じりじりとせりあがってくるような罪悪感に囚われる。一日はまだ始まったばかりなのに、既に二つも罪を重ねてしまった。

「かといって放置しておくわけにもいかないしな……」

 彼は困ったように、頭をぽりぽりと掻いた。

とりあえず、これをどうにか処理しないといけない。食べてしまうのがきっと一番良いのだろうが、キツい臭いといいその沈んだ色合いといい、もう食べられたものではないだろう。冬ならまだしも、今は太陽が無邪気にその全盛を誇る夏の盛りである。処分するなら、早く処分してしまった方が良いだろう。

 どこに棄てようか、と彼は一考を巡らした。臭いは酷いけれど、まあ、適当な袋に入れて、公園のゴミ箱にでも棄てれば大丈夫だろう。朝のうちなら人も少ないだろうし、あまり迷惑はかからない。人が集まりだす十時ごろにはもう、ゴミの収集車が律儀に回ってきてくれるはずだ。そうすれば、極力人には迷惑を掛けずに済む――かと言って、剥き身でゴミ箱に捨てるわけにもいかない。いたずらに通行人の目を汚すわけにもいかないからだ。彼は、何か袋はないかな、と立ち上がって辺りを見渡した。そして彼は、赤黒い物体の下に、汚れたビニールシートが敷かれているのに気がついた。地面が汚れてはいけないからと、自分で準備したのをすっかり忘れてしまっていた。丁度良い、これに包むのが一番手っ取り早い。彼は物体のそばにしゃがみ込むと、その周りを、ビニールを巻きつけるようにして手際よく包みこむ。何か縛れるような紐はないかと探したが、見えないところはどこまでも汚い現代社会の路地裏とはいえ、さすがに紐までは見つからなかった。

「ま、いっか」

 後はこれを適当なところに捨て置けば、昨日やり残したことの清算は終了する。それでようやく、まっさらな気持ちで新しい今日を始めることが出来る。彼はビニールを肩に担ぐと、すっきりとした気持ちで路地裏を後にした。


       □        □


「おはよお……」

 制服を身に纏い、半分寝惚けたような様子で、リビングに結奈(ゆいな)が現れた。治子(はるこ)はテレビから視線を娘に移して言った。

「おはよう、結奈。朝ご飯はもう出来ているわよ」

「はあい」

 気の抜けた返事をしながら、結奈はリビングの椅子に座り、食卓の上に並べられた朝食を眺めた。清潔なテーブルクロスの上には綺麗な食器類が整然と並べ立てられていて、真っ白なお皿の上にはこんがりと焼けたトーストが一枚と、つやつやと美味しそうな色をしたハム、そして、その上にはまだ熱の通りきっていない目玉焼きが、ふるふると揺れていた。

 いただきます、と挨拶もそこそこに彼女はトーストにハムエッグを載せる。半熟のデリケートな黄身がとろりとあふれ、半熟のやわらかな白を侵食する。結奈はトーストにカリリとかじりついた。卵の甘みにハムの旨味が溶け合い、それを芳ばしいトーストがしっかりと支える。なんてことの無いいつも通りの朝食ではあるが、思わず結奈は笑顔になった――食事は好きだ。美味しいものを食べると、それだけで幸せな気持ちになれる。

 台所から、コーヒーの奥深い良い香りが漂ってきた。治子が、二人分のコーヒーを淹れて、食卓へと運ぶ。片方はブラック、もう片方はミルクと、一匙の砂糖入り。ありがとう、と言いながら結奈は、ミルクと砂糖が入って柔らかいブラウンになっているコーヒーを治子から受け取り、左手にトーストを持ったままで、そのままカップを口へと運ぶ。猫舌な彼女に合わせて、コーヒーはちゃんとぬるめになっていた。

「美味しい」

 結奈の言葉に、治子は微笑を以って返事とし、そのまま椅子に座ると、テレビの方に視線を向けた。結奈はテレビに目を向けることもなく、幸せそうにハムエッグトーストを頬張っていた。

「また、殺されたのね」

 そんな治子のものものしい独り言を聞いて、結奈は振り向いた。テレビの画面には大仰なテロップが表示され、見慣れた顔のアナウンサーが神妙な面持ちで原稿を読み上げるところだった。テレビに映っている、見慣れたはずの自分の町はどこか余所余所しく、まるで違う世界のように、彼女には思えた。


『昨日、××県Ⅰ市W町三丁目の公園のゴミ箱に、焼かれた跡のある人間の遺体の一部が、ビニールに包まれた状態で発見されました。遺体は同町在住の会社員のものと見られ、死後八時間以上が経過していることが、警察の調査により明らかになっています。同町における殺人事件はこれで四件目となり、警察は、事件の状況などから同一人物による連続殺人事件の可能性があると見て、男性の遺体の残りの部分を捜索するとともに、犯人の行方を追っていますが、依然手がかりが少なく、捜査は難航しています。……』


「これで四人目?」

 尋ねた結奈に、治子が曇った表情で頷く。

「物騒ね。おちおち外にも出られないわ」

 治子はコーヒーを啜ってから続けた。

「……それにしても、公園のゴミ箱に死体を棄てるなんて。無計画にしか思えない犯行なのに、まだ手がかりが掴めない。変な話ね」

 そうだね、と言いながら結奈もまた、甘めのコーヒーを啜る。

変な話といえば、これほど変な話も無い。上手く言葉に出来ないが、なんとなく噛み合っていないな、と結奈は思っていた。

殺害対象は、恐らく無差別。男女の別は無く、今のところ分かっている共通項は、全員が三十歳以下であることと、被殺害当時外にいたということだけ。最初の一人目は生身で発見されたが、二人目、三人目、四人目は焼かれた跡があるという。そして何より不気味なことに、死体が完全なままで見つかることはなく、その一部だけが発見され、残りの部分は行方不明、いくら捜索をしても見つからないというのだ。

「早く、犯人捕まるといいね」

 治子は、そうね、と相槌を打つ。おざなりな返事だったが、それは決して無関心から来る態度ではないことを、結奈は知っていた。

「……うん、じゃあそろそろ出ようかな」

 言って、結奈はトーストの最後の一口をぱくりと食べ、コーヒーをすっかり飲み干してしまうと、そのまま立ち上がり――それ以上、このことについて考えることをやめた。朝から気分の良い話題ではないし、そろそろ学校に行かないといけない時間だ。

「ほとぼりが冷めるまでは学校は休んだ方がいいんじゃないかしら」

 治子が心配そうに言う。結奈は「へーきへーき」と笑いながら手早く食器を下げる。それは最初の犯行があった日から、もう毎朝のようになされているやり取りであり、もう治子もそれほど厳しく言うことはなかった。結奈は鞄を持って、そのままリビングを後にする。ちりんちりん、と結奈の鞄についたアクセサリの鈴が、涼やかな音を鳴らした。その後をゆっくりと、治子が見送りについていく。治子がリビングから顔を覗かせたときにはもう、結奈は玄関口で靴を履き、家を出ようとしていた。

「気をつけてね。いたずらにブラブラしちゃ駄目よ」

 わかった、と結奈は素直に答えた。今年高校三年生になった結奈は、受験を控えている身分なので、今回の事件の有無に関係なく普段からあまり外に出ることはない。だから、外に出ないほうがいいという母の言葉も、抵抗なく受け入れることが出来た。

「じゃあ、行って来ます」

「行ってらっしゃい」

 そのまま、ぱたぱたと結奈は家を出て行ってしまった。若い人は活力に満ちていて羨ましいとばかりに、治子は溜息を吐いた――そして、いつの間にやら染み付いてしまった自分の年寄りくささに治子は苦笑し、朝食の続きをしようと、そそくさとリビングに戻った。


       ■        ■


 彼は、ごろんと寝そべった。そこは土手の傾斜地で、あたり一面には深緑の絨毯が広がっている。頬を撫でる心地良い夏の風が草を巻き上げながらくるくると空に向かい、燦然と輝く太陽の光はどこまでも蒼い空にきらきらと散る。緑と蒼の舞台で繰り広げられる風と光の円舞をひとしきり楽しんだ後で、彼はくたびれたジーンズのポケットから一冊の本を取り出すと、その薄茶けたページをめくり始めた。ポケットにちょうど良く収まる大きさの廉価な文庫本だったが、その表紙はボロボロで、何が書いてあるのかも判別し難い。しかし彼はその心中にまざまざと思い浮かべることが出来た――小洒落た幾何模様のその表紙と、そこにひっそりと慎ましく記されていた、その作品と作者の名前を。しかしそんな彼も、その本をもう何回繰り返して読んだのかということについては、皆目見当もつかなかった。しかし、完全に親しみきったモノであっても、日々そのページを繰ることは、決して無意味なことではないと彼は考えていた。

「……………………」

 しばらく彼はそうして読書に没頭していたが、やがて、規則正しくちりんちりん、と鳴る鈴の音が聞こえてきたので、彼は本から顔を上げた。見れば、肩口くらいで切り揃えられた清潔な黒髪を夏の風になびかせながら、制服を着た女子高生が眠そうに自分の頭の上――土手の上を歩いていくのが見えた。彼は、今までに何度か彼女のことを見かけたことがあった。彼がたまにここで本を読んでいると、いつも決まってこの時間に、ちりんちりんと鈴を鳴らしながら、彼女がここを通るのだ。

『…………』

 ふと、目が合った。しかし彼女は、ふいとその目をすぐにそらし、そのまますたすたと歩いて行ってしまう。そっけない反応だったが、しかし、自分が彼女を一個の人間として認知しているように、彼女もまた、自分を一個の人間を認知しているだろうことを、彼は確信していた。今度、話しかけてみようか。

 彼はしばらく、ぼんやりと彼女の背中を眺めていたが、やがて退屈そうにあくびをすると、再び読書に戻った。


       □        □


「失礼いたします。お待たせいたしました、アイスコーヒーと、メロンスパークリングフロートでございます」

 ウェイターの声に、二人は会話を中断させた。結奈はメロンソーダにアイスクリームが落とされた、噛みそうな名前の飲み物を受け取り、結奈の向かいに座っている少女、(りっ)()は淡々とアイスコーヒーを受け取った。彼女は慣れた仕草で店員の差し出すミルクとシロップを断ると、そのままストローに口を運ぶ。シンプルなデザインの真っ白なブラウスにブラウンのパンツというシックな服装をしたクラスメイトは、制服の時よりも大人びて見える。対して、制服でメロンソーダを頼んだ自分である。彼女は、呟くように言った。

「よく、コーヒーをブラックで飲もうと思えるよね」

 言って、結奈はメロンソーダを口に含んだ。シュワシュワ、と口の中で気泡のはじける感覚に続いて、わざとらしいメロン香料の香りと、クリームの飾らない甘みがまろやかに広がる。六花はストローから口を離して言った。

「私に言わせれば、朝からそんな甘いものをイケる結奈が不思議よ」

 「そうかな」と言いながら、結奈はスプーンストローで冷たくて甘いアイスをつっついた。丸くて白い塊が、透明な緑の液体の中でくるくると無邪気に踊る。結奈はため息をつきながら口を開いた。

「それにしてもすっかり忘れてた。休校だなんて言ってたっけ?」

 言ってたよ、と六花は呆れたような顔をする。

そう、結奈はすっかり忘れてしまっていたのだが、件の殺人事件の影響で学校は休校になっていたのだ。閉ざされた校門の前で結奈が困り果てている所に、たまたまクラスメイトの六花が通り掛ったので、結奈は六花からそのことを教えてもらうことが出来たのだ。そのまま何となく雑談が弾んでしまい、炎天下で立ち話もなんだからと、手近にあった喫茶店に、半ば結奈が六花に引きずられるようにして入ることになったのだ。

「昨日の集会で言ってたじゃない、『ホンコーはセートショクンのアンゼンをコーリョし、ジケンがイッテーのシューソクを迎えるまでキューコーとすることをケツダンしました』ってさ」

 六花の作り声に、プフッと結奈は危うくメロンソーダを吹き出しかけた。

「似てる似てる、そっくり」

 そう? と六花は少し表情を崩して言うが、ふとその顔から笑みを消して続けた。

「けどさ、いくらなんでも遅すぎだと思うわ。四人目が殺されてからやっと休校にするなんて……殺人事件が起きて、その犯人の行方がわからないなんてことになったらすぐに休校にしないとおかしいと思わない?」

 「そうだね」と結奈は言いながらメロンソーダにとろけているアイスクリームを口に運ぶ。

「それなのに、学校のお役人さん方はなかなか動こうとしない。今回の休校だって、きっと保護者からの苦情が強くなったからに違いないわ。そういう体裁に関わるような問題が起きない限り、彼らは日常という座り心地の良い座椅子から彼らはその腰を動かそうとはしないのよね。因循姑息って、彼らのためにある言葉なんじゃないかしら」

 インジュンコソク。なんとなくその言葉が彼らのイメージとぴったり合っているような気がして、少し面白い。結奈はさっきよりは少し心をこめて、「そうだね」と言った。六花はそんなことには構うことなく続ける。

「警察もそう。今回の犯人は誰がどう見たって異常よ。普通の通り魔事件と同じような対応じゃあ駄目なのに、警察は巡回員を増やしただけ。あくまで受身の対応をするだけで、積極的に犯人を確保しにいこうとはしない。こんなんじゃまた、誰か殺されちゃうわ」

 結奈は、何も言わなかった。六花は肩を竦める。

「……なーんて、イイ子の結奈ちゃんに言っても仕方ないんだけどね」

六花は、少し声のトーンを落として続けた。

「だから気をつけてね。あんたなんか、簡単に他人を信じてついてって、それで簡単に殺されちゃいそう」

 すう、っと空気が冷える感覚が、結奈の背筋を駆け抜ける。一瞬、六花の言った意味が良くわからなかった。言葉も出ない結奈の顔を、しばらく六花は真面目な顔で見つめていたが――やがて、耐え切れなくなったように笑い出した。

「くっく……あはは! そんな本気にしないでよ……そういうところだよ、結奈。あんた真面目すぎ。人が良いというか……何でもかんでも信用しちゃうんだもん――でもね、結奈」

 六花は口を引き結び、また真面目な顔をして続けた。

「多分、何でも信じることは、何も信じないこととあまり変わらないんだと思うよ」

「……そうかなあ」

 そう思うよ、と六花は言う。

「はい、少し考えてみます、センセー」

「うむ、ヨロシイ。ハゲみたまえよ結奈クン」

 あまりに下らないやり取りに、からからと結奈は笑い、つられるように六花も笑う。それを以ってその話題は一旦締めくくられ、二人は昨日の芸能トーク番組についての他愛の無い雑談を始めた。それからも幾度となく話題が変わるが、今日は雑談を遮るチャイムの音も、先生の怒号も無い。話題は新たな話題へとつながり、そうしてまた次の話題へ。女子高生の雑談には、際限が無い。結局二人は二時間近く喫茶店で時間を潰し、六花の携帯に、心配した彼女の親から電話が掛かってくるまで、ちょっとした座談会は途切れることなく続いた。


       ■        ■


 漆黒がその翼を大きく広げた夜の空、ぽっかりと浮かぶ丸い月。暗い。どこまでも暗い――電灯の白く眩い、光の複製物に慣れきった男は、自然の闇がこんなにも暗いものであるということを知らなかった。

「ねえ」

 暗闇の中から、声が投げかけられる。男を挟み込むように屹立しているコンクリート造りの壁に反響するその冷たい声は、心臓を直接掴まれたかのような圧迫感を彼に与えた。コツ、コツ、と足音だけが闇から発せられ、それから逃れるように、男は何度目かもわからない後ずさりをし――ガッ、と革靴の踵がコンクリートの壁にぶつかる。たらり、と冷や汗が流れるのを感じた。逃げ場を失ったのだ。十分前まで酒でぼんやりとしていた頭はかつて無いほどに澄み渡り、この場を切り抜けるための手段を講じることに全力が注がれていた。しかし、その思考が冴え切っているが故に、現状がどうしようもなく絶望的であるということに、否が応でも思い至ってしまう。

「殺されるのは、嫌なのかい」

 男は、ビクリと肩を揺らす。そして、半ば彼の意志とは無関係に、ただ時間を稼ぐために、彼の口は、質問への回答を述べた。

「と、当然だ」

 ふうん、と彼の回答を受けて、声は愉しむように嘲う。

「けれどお前は、殺すんだろう」

 何のことを言っているか分からない、とでも言うような顔で、男は声のする方を見た。そこにいるはずの人間はしかし、のっぺりとした宵闇に覆い隠されている。

「……言われても合点が行かないのかい? どうしようもないね。僕は自分を救いようがない人間だと思っているけれど、君みたいなモノを見ると、なんだか救われるような気がするよ」

 くつくつと哂う宵闇は、ゆっくりとその言葉を続けた。

「――最期の質問だ」

 男は、懸命に模索していた。生き残るための可能性を。周りに落ちているものは、何もない。石ころ一つ、落ちてはいなかった。

「どうして、人間を食べちゃいけないの?」

 それを聞いて、男は戦慄した。その内容も然ることながら、その声がまるで罪を知らぬ少年のもののように純真な色をしていたからである。

「人間以外を、笑顔で喰らう人間は―――」

 しかし、その続く言葉には、純真な色は失われていた。

「人間を喰らう人間を、容認しない」

 宵闇の中から、一人の人間がぬうっとその姿を現した。背が高く、色白の青年。よれよれの黒いTシャツに、薄汚いジーンズを履いている。年齢は恐らく、二十歳を過ぎたくらいだろう。痩せた体ではあったが、それが彼の非力を意味しているわけではなかった。青年にしては細い腕、その先の手のひらに握られたナイフはどこまでも冷たく、夜の闇にきらめいていた。

「……どうしてなのかな」

 呟くような青年の疑問に、男が返したのは無言の空白。男は、答えられなかったのだ。


「その沈黙こそ、人間の罪深さなのだろう」


 弾劾するその声が、男の聞いた世界の最期の音だった。


       □        □


 結奈は、机に向かっていた。机の上に広げられているのは、シンプルなデザインの大学ノートに、ぶ厚い数学の問題集。数学は苦手だ。投げ出したくなることもままある。彼女は文系であったし、数学を使うような職業に就く予定もないのだが、彼女が受験しようと思っている大学は数学が必要であったから、嫌だからといって子供みたいに駄々をこねて投げ出すわけにもいかないのだ。それに、彼女は何となく、もっと大事な何かのために、苦手な数学を勉強した方が良いような気がしていた。

 ふと、彼女のペンの動きが止まった。彼女が特に苦手としている、整数論の問題に当たったのだ。彼女は十分ほど問題文とにらめっこをしていたが、やがてペンを放り、椅子にもたれて、うあー、と大きく伸びをした。

「解けないよー」

 事実を口に出して再確認したところで、問題は相変わらず黙然と紙の上で腕を組んでいる。彼女はため息をつきながら立ち上がって時計を見た。そろそろ三時になろうとしていた。かれこれ二時間はぶっ続けでやっていたようだ。小腹も空いたし、少しくらい休憩を挟んでも学問の神様は怒らないだろう。彼女は勉強部屋を出ると、一階のリビングに向かう。

「お母さーん?」

 言いながら彼女は、リビングの扉を開けた。しかし、返事はない。呼んだ声が大きかっただけに、その後にやってくる静寂がやけに落ち着かない。彼女はリビングの出窓に目を向けた。いつもなら左端の方に、緑色の小さな自家用車がひょっこりとその頭を覗かせているのだが、それが見えない。どうやら買い物にでも出掛けたようだ。彼女は冷蔵庫の戸を開けるが、中には特に小腹を満たせそうなものは存在していなかった。菓子類の入っている戸棚を漁ってみても、目ぼしいものは見つからない。仕方が無いので、ちょっと外に出て、散歩がてらお菓子でも買ってこようと彼女は思い立ち、彼女はほとんど衝動的に、そのままリビングを後にし、家を出た。

 今、町中を震撼させている殺人事件のことなんて彼女の頭には無かった。


       □       □


 ポテトチップスが一袋とプリン、それにソーダ味のアイスバーが入った袋を提げて、結奈は上機嫌でコンビニを後にした。途端、刺すような暑さが彼女に容赦なく襲いかかるが、強いコンビニの冷房で冷えた体には、それすらも心地良く感じられた。彼女はコンビニの袋からソーダ味のアイスバーを取り出して、ペリペリと小器用にそのフィルムをはがすと、フィルムはレジ袋に、アイスバーは自らの口に入れた。染み込むような冷たさと共に、爽快なソーダの味が、真夏の空気でからっからに渇き切った口の中いっぱいに広がり、彼女を天にも昇るような幸せな心持ちにさせる。彼女はアイスを楽しみながら、のんびりと家に向かって歩を進めた。

 よく整備された、清潔で歩きやすいアスファルトの道を行く。真夏の炎天も多少は和らぐ時間であるからか、人通りは案外多い。誰もが無言で暑さに耐えながら、各々の目的地に向かって我慢強く歩いていくのだ。こうしてぼうっと歩いていると、今目の前を通り過ぎすれ違う人人は、一人一人が自分と同じ人間であるということを忘れてしまいそうになる――

「…………あ」

 思わず声が漏れ、ぽとり、と口にくわえたアイスバーが地面に落ちる。しかし、彼女は地面を見向きもしない。前方の電柱の陰から突然、ぬうっと一人の青年の姿が現れたのだ。周りより頭一つ突き抜けて高い背丈のその青年は、電柱の陰から数歩のところで立ち止まり、ふっとその憂いを帯びたような顔を空に向けた。

 彼女は、その青年のことを知っていた。しかし、知り合いではない。ただ単に、一方的に彼女が見知っているだけだと彼女は思っていた。彼はいつもよれよれの黒いTシャツと、ところどころに汚れの目立つジーンズを身に着けて、土手の傾斜地の草原に寝そべって、ボロボロの本を読んでいる。彼女が、土手で本を読んでいない彼を見るのは今日が初めてであった。背が高く、細い造形のその顔立ち。ちょっとカッコいいな、と彼女は思う。髪はボサボサで、いつも同じ服装をしていたりと、外見は気にしない性格のようだ。二十代前半くらいに見えるが、大学生という感じはしない。ましてや、彼が普通にスーツを着て働いている様子なんて、想像すら出来なかった。普通の人間が見たら、働きもせずにほっつき歩いている浮浪人ということになるのだろう。けれど、なんとなく彼女は彼に惹かれていた。それは多分、彼の見た目がカッコいいからだとか、そんな軽薄な理由ではない。もっと大事な何かを以って、彼女は彼に、恋という名前すら付けられないような、淡く漠然とした憧れにも似た感情を抱いていたのだ。

 彼はふっとその顔を、彼女の方に向けた。彼は彼女の姿に気がつくと、そっと顔を微笑ませたように見えて、どくん、と彼女の心臓が一際大きく跳ねた。

彼は、彼女に背を向けて歩き出した。彼女は思わず駆け出した――そして彼が現れた電柱のところで、ゼンマイが切れたからくり人形のようにその足を止めた。そう、彼に追いすがったところで、彼女は何も、彼に言うべき言葉を持っていないことに気がついたのだ。最初に掛ける言葉すら、彼女はわからなかった。彼女はぼんやりと足を止めたまま、彼の背中を見送ることしか出来なかった。やがて彼は、一個先の交差点でふいっと左に曲がってしまう。

彼の姿が見えなくなると、呪縛から解き放たれたように彼女の肩から力が抜けた。溜息が出る。彼女は落胆したが、なぜ自分が落胆しているのかなんてわからない。彼女は泣きそうだった。なんだ、いくら勉強なんかしたってわからないことだらけじゃないか――

『…………』

 びゅう、と生温かい風が彼女の左からすれ違うように、一際強く吹き過ぎていった。彼女は、ハッとして風が吹いてきた方向――左に、その顔を向けた。立ち並ぶ二つの建物の間で、薄暗い空間が、彼女に向けてぱっくりとその縦長の口を開けていた。光の当たる街路から地続きで僅か数メートルの所にある、何の変哲も無い路地。しかし彼女には、そこに何ともいえないような違和感を抱いた。そこだけ特別にあつらえたような、あるいは世界からそこだけがぽっかりと切り取られ、別の空間にすげかえられてしまったかのような、そんな奇妙な感覚。彼女の目は路地の様子を窺おうと見開かれていたが、しかし、路地と街路の明るさの差がそれを妨げる。

 彼女の足は、彼女の意思に何ら伺いを立てること無く、昼間に突然現れた不気味な陰に向かって歩みだした。

光と影の境界を、一足に踏み越える。境界は彼女の足を、体を、頭を這うように移動し、やがて、彼女をすっぽりと影が覆いつくす。それに伴い、照りつける日光の刺すような暑さが、肌にまとわりつくような嫌な暑さへと変わる。ほとんど同時に彼女は、町中ではほとんど嗅ぐことのないような悪臭――否、異臭に気がついて、思わず顔をしかめた。高温高湿の場所に独特な、むわっとする変な臭いに、いつか田舎の畑で嗅いだような土臭さと、頭がくらくらするような鉄臭さ、そして何かが腐ったような鼻を突く臭いが交じり合って、良く分からないがとにかく嫌な臭いが、その路地を満たしていたのだ。暑くて狭くて、暗くて臭い。見た目はどこまでも清潔な人工の世界に住み慣れてしまった彼女にとって、その世界はどこまでも不快で、異常であった。

 目が暗陰に慣れるまでには時間が掛かった――実際は数秒程度のその時間も、彼女には、それが絶望的に永い時間に思えた。耳をそばだててみても、街路を行き交う人の足音や話し声が聞こえるばかりで、暗闇からは何も聞こえてこないが、それがかえって、彼女に深淵を覗き込もうとしているかのような底、知れぬ恐怖を与えた。

ようやく視界がはっきりしてくると、路地の様子も明らかになってくる。どんよりと沈んだ色合いの路地であった。押し迫ってくるように二枚のコンクリートの壁がそば立っていて、奥行き二十メートルくらいのところには、またもう一枚の汚い灰色の壁が傲然と立ちその路地を閉塞せしめていた。ところどころアスファルトの舗装が剥げていて、しっとりと湿った土がその顔を物憂げに覗かせている――心に絡みつくような違和感――ふと上を見ると、どんよりとした灰色とは対照的な――私は何かを見た――四角い、澄んだ蒼い空が見える。白い雲が、まるで大海に浮かぶ――そしてそれを私は、意図的に――ちっぽけな島のように、ぷかぷかと――見なかったことにした?――呑気に漂っていた。まるで――そこにあった、ナニカを。

 ――いつまで、そうやって目を背け続けるんだ?

 糾弾する声を、彼女は聞いた。

「…………」

 彼女は心を決めた。

 彼女はもう一度、視線を奥に向けた。

 灰色のアスファルトが奥へと伸びている。

その途上に、ナニカが存在していた。

影が固まってできたようなソレは、色も形もよくわからないが、一抱えくらいの大きさはある。その下には、周囲の影よりも一際濃い色の影が大きく広がっていた――違う、それは影ではない。影は、光があるから出来るものだ。光が無い世界に、影なんてありえない。そう、それは確かな質量を持って、そこに存在しているのだ。

 彼女は震える足で歩み寄った。ぞわわ、と全身の毛が逆立つような恐怖が彼女の全身を嘗め回す。小さい頃、夜中にふっと目が覚めた時に感じた、暗黒に対する本能的な恐怖と似ている。ソレに近づくにしたがって足の震えはより大きく、光の当たる世界へと駆け戻りたいという衝動はより強くなっていく。薄くも決して破れることのない、理性という名のゴム膜に向かって歩いているようだった。それでも彼女は、足を前に出し続ける。そうしないと、きっと、何も変わらない――

「――――」

ふっと世界の色が変わったかのような感覚。影の世界には相変わらず、物音一つ立つことはない。彼女はソレを見下ろした。鎮座しているのは、赤黒い、良く分からない塊。ところどころに、黄色い棒状のものが突き出ている。ソレの下に飛び散るように広がるモノは、影ではなかった。ぼろぼろの布に、乾いた絵の具のような、どす黒く固まった液体。血液、という言葉がふと脳裏を過ぎり――堰を切ったように言葉が溢れ、目の前の物体と結びついていく。血液。鉄の臭い。赤黒い塊。突き出る棒。黄色、白、骨。肉塊。腐臭……

「…………!」

 圧倒的な嫌悪感が、彼女の全てを濁流のように呑み込む。彼女はついに耐え切れなくなったように、ソレから背を向けて走り出した。光と影の境界を越える。光が彼女の足を、体を、頭を順に迎え入れる。そうして彼女は再び、彼女の世界へと戻ってきた。

数分前と変わらない明るい街路に、彼女は立ち尽くした。しかし、彼女の頭の中に残留したそのイメージは、固くこびりついて離れることはない。くらくらする。道を行き交う人間の誰もが、あの赤黒いイメージと重なる。ずきずきと頭が痛い。吐き気がする。普段は意識もしない、ぎちりぎちりと動く筋肉の動きが、どくりどくりと流れる血液の感覚が、明確に意識される。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い――ぐらりと世界が歪み、ふっと視界が暗くなる。地面が起き上がり、そのまま彼女の体にぶつかってきた。ドシャア、という柔らかいものと固いものがぶつかった音が、どこか遠くで聞こえたような気がした。

「結奈!?」

 薄れ行く意識の中で、慣れ親しんだ友人の声を聞いた。どよどよと、沢山の足が近づいてくる。彼女はぼんやり、「ああ、私は倒れたんだ」と他人事のように考えた。


………………

…………

……


「――――――」

 視界は、白。やや遅れて、それが天井で、それもよく見慣れた、自宅の天井であるということに気が付いた。 何の脈絡も無く突然目の前に現れた白い天井に彼女は少なからず動揺し、続いて、彼女は今、自分が目をあけたことに気が付いた。今、目を開けたということは今まで目を閉じていたということだ。遮断された因果の糸。彼女の頭は懸命に記憶を掘り起こして因果関係を掴もうとし、程なくして彼女は、最後に見た景色――あの真夏の街路を思い出した。

「気がついた?」

 突然投げかけられた声に彼女はびっくりするが、その声が聞きなれた母親のものであることに気がついて、彼女はゆっくりと返事をした。

「……うん」

 白い視界の中に、すっと母親の顔が入ってきた。彼女は顔を横に向けた。治子はソファの袖机にコトリ、とコップを置く。コップは茶色の液体で満たされていて、その中には氷がいくつか入っている。汗をかくコップのふちには、輪切りになった、目映いばかりに瑞々しいレモンが添えられていて、そこに寄り掛かるようにストローが一本、首を曲げて立っていた。家で、このような形で出されるような飲み物はただ一つだけ。甘酸っぱい、ハチミツレモンティー。彼女の大好きな飲み物であった。また、袖机の上にはくしゃくしゃになったコンビニの袋が置いてあった。中にはプリンと、ポテトチップスの袋が入っていたが、今はとても食べる気にはならなかった。

「じっとしてなさい。まずは水分を取らないと」

「……私は」

 六花ちゃんが教えてくれたのよ、と治子は言う。

「街中で倒れてる、って聞いたから驚いたわ。ちょうど車であのあたりのスーパーまで出掛けているところだったから、運が良かった」

 そうだったんだ、と彼女はぼんやり頷いた。なんで倒れたんだったっけ――思い出そうとすると、ズキズキと頭が痛んで思考が進まない。まるで、その先に進むことを頭が拒絶しているかのようだった。

彼女は諦めて体を起こし、ハチミツレモンティーを飲んだ。思わず頬が緩んでしまうようなキューっとした甘酸っぱさが、彼女の頭の中にぽっかりと空いた穴を満たす。そこでようやく、彼女は人心地がついた。

「きっと日射病でしょう。今日は無理をしないでゆっくり休みなさい。六花ちゃんには私からお礼を言っておいたけれど、結奈からもメールくらい入れておいたほうが良いかもね」

「うん」

 彼女は素直に頷いた。彼女の頭の中にはもう、街角で見かけた青年の姿も、路地裏で見つけたグロテスクな赤黒い塊も存在してはいなかった。彼女はすぐに調子を取り戻し、六花にお礼の電話を掛け、そのついでに小一時間、下らない雑談を繰ることが出来る程度には心身とも元気になった。いつもは結奈の長電話に快い顔をしない治子も、今日ばかりは多めに見ることにした。


 その日の夜のニュースで、五人目の被害者の遺体が発見されたことが報じられた。


       ■        ■


 彼は、お気に入りの土手の傾斜地で、ごろんと横になっていた。深い夜の静寂に身を任せながら、彼は空を見上げた。空気の汚い都会の夜空にも思いの外、星々は爛漫と輝いている。しかし、この星空の下に暮らす都会の人々の中に、この美しさに気が付いている人が、果たしてどれくらいいるのだろうか。なぜ人々は空に目を向けようとしないのか、彼には不思議でならなかった。

 ふっと、昼間に見た少女のことを彼は思い出した。あどけない顔立ちだが芯は強そうな、独特な雰囲気を持った少女。きっと彼女は、自分が路地裏に食べ残してきたモノを見たことだろう。それを確認はせずとも、彼は確信していた。

「どんな答えを、彼女は聞かせてくれるのかな……」

 どうして、人間を食べてはいけないのか。遥かな幼きあの時に彼が提起したその問いの答えを、彼は未だに見つけてはいなかった。それが、到底一朝一夕で見つけられるようなものではないということはわかっていた。少なくとも、十数年にわたって懸命に考え抜いただけでは納得のいく答えを見出すことは出来なかったし、事あるごとに人に訊ねもしたが、大方の人々は悪い冗談と思って一切取り合わないか、そんな問いをした自分を気味悪がるかのどちらかであった。考えても尋ねても駄目ならと、実際に人を喰らってみても、やはり、答えは出てこない。

幼い日から彼は、他人が定めたルールに従うことに、あまり価値を感じてはいなかった。とはいえ、彼はことごとくルールに背く天邪鬼な人間でもなかった。他人が定めたルールでも、彼が「もっともだ」と思ったことに関してはきっちりと守った。しかし、納得のいかないルールに関しては、彼はどこまでも服さなかった。反抗はしない。ただ、無視するだけだ。だから彼は、小さな頃からどこへ行っても問題児扱いされていた。そして彼は、そのことを「もっともだ」と思っていたから、いつでも、出来るだけ目立たないようにしてきた。

 この事件は、そんな彼が初めて納得のいかないルール、すなわち法に対して、その理由を見つけるために真っ向から対立しようとした試みであり、彼にとってはあくまでそれだけの、あるいはそれ程の意味合いを持っていた。

しかし、彼が全く自分の行動に罪悪感を抱いていないわけではなかった。むしろ彼は、自分の行動にかつてないほどの罪悪感を抱いていた。しかしそれはあくまで「命を奪う」事への罪悪感であり、一般的な人間が抱くであろう「殺人」への罪悪感とは微妙にずれていた。

 人を、食べる。初めて彼がそれを敢行したときのことを、彼は今も覚えている。ひどく、おぞましかった。そもそも彼は、人を――生き物の命を、自らの手で絶とうと決意するのにも時間が掛かった。彼が人食いの禁忌への疑問を提起してから実行に移るまでの十余年は、その決心をつけるための時間といっても過言ではない。ついさっきまで動いていたものがぴくりともせずに倒れていることだけでも、気味が悪い。ましてやそれを食べるなんて!

 彼が最初に人を殺してから、その肉に口をつけるまでに、彼は実に一時間を要した。食べよう、食べようと思って顔をその人の腕に近づけるだけで吐き気を催した。そしてその度に、今まで自分が平然と食物を口に運んでいたことが如何に罪深いことであったのかということをまざまざと突きつけられるような気がして、勇気を奮い起こして死体に顔を近づけるが、口を開けた途端、胃液が食道を逆流しそうになり――というのを何度も繰り返した。

 それを、既に五回。最初のうちは食べるということだけにいっぱいいっぱいで、とても味まで考えが及ばなかったが、少しずつ慣れてくると、やがて、様々に工夫を凝らす余裕もまた少しずつ出てきた。とりあえず生身よりも、やはり焼いて食べたほうが味も良く、抵抗も少ないことがわかった。それでもやはり、食べようと決心をつけるのには時間が掛かる。もうこんなこと止めてしまいたいと思うこともある。彼は、納得のいく答えが出るまで人間以外を口にしないと決めていたので、精神的にだけでなく、空腹にも苛まれることになった。

 けれど、中途半端にやめてしまうのが、きっと一番罪深いことなのだ、と彼はその度に自らを奮い立たせていた。だったら、平然と他の動物の肉を喰らっている方がまだマシだとすら、彼は思っていた。

 彼女なら、終止符を打ってくれるかもしれない。

 何とはなしに、彼は確信していた。

 

       ■        □


 燃えるような西日が世界を紅く染め上げる、夕暮れ時の土手。人通りはない。その美しい世界に立っているのは、結奈ただ一人だった。町中の至る所に立っている警官も、ここにはいない。皮肉にもそのことは、かえって彼女を安心させた。ここは、変わらない。彼女は大きく深呼吸をした。胸の奥に渦巻いていた嫌なもやもやの代わりに、清らかな空気が彼女の体を満たす。毎日、通学の時に通るお気に入りの土手道。しかし帰りはいつも違う道を通るということもあり、彼女がこの土手の、朝以外の顔を見るのはこれが初めてであった。紅みを帯びたその美しい世界を、彼女はほとんど、初めて見るような心持ちで見渡した。遠目に見える架橋の主塔はその体いっぱいに斜陽を浴びて雄大に天に向かってそびえ、傾斜地の草原は燃え盛る炎のように、風に揺られてさわさわと囁き合い、ゆったりと流れる川は夕日を受けてきらきらと輝いている。

 昨日、六人目の被害者が出た。焼け焦げた状態の死体の一部が、今度は公園の砂地に埋められていたという。最初の犠牲者が出てから一ヶ月が経ち、五人目の被害者が出てからようやく警察官が町中の至る所に配備され、厳戒体制が敷かれるようになった。その中で殺害が敢行され、しかも未だに、その痕跡すら掴めていないというのだから警察は大わらわで、警察の無能を批判する文言も多く聞かれるようになった。つい十分前まで彼女が見ていた、今回の事件について解説する番組もそうだった。解説者は、知ったようなことを好き勝手に言い散らした挙句、警察を無能だと言い放った。彼女はそれを見て、温厚な彼女らしくも無くむかっ腹を立て、怒りを紛らそうと治子の小言を無視して、半ば飛び出すように家を出て散歩をすることにしたのだ。それが何に対する怒りなのかすら彼女には分からず、そのことがまた彼女を苛々させたが、その美しい世界を見れば、そんなことは瑣末なことに思え、怒りもどこかへ消えていってしまうようだった。いっそどうでも良くすらあった。

 彼女は、殊更にゆったりと歩を進めた。

 しばらく歩いていると、傾斜地の草原で寝そべって本を読んでいる青年の姿が目に入ってきた。周りの光景がいつもと違っているとはいえ、彼の姿格好はいつもと変わらない。よれよれの黒いTシャツと、ところどころに汚れが目立つジーンズを身に着けて、傾斜地の草原に寝そべって、ボロボロの本を読んでいる。どうやら朝だけではなく、一日中、いるときはいるようだ。

 彼女は、なるべく青年の方を気にしないようにして、その側を通り過ぎた。青年もまた、彼女には無関心なままで本から顔を上げようとはしなかった――ように、彼女には見えた。

 キュー、という甲高い声が聞こえた。音のした方に目をやると、かもめが一羽、斜陽きらめく川の上を飛んでいた。このあたりは河口に近いので、たまに、群れからはぐれたかもめがやってくるのだ。かもめは、まるで彼女に見せつけるかのように大きくその翼を広げて、夕風に乗って空高くへと舞い上がり、そのまま、遠く架橋のところまで飛んでいくと、その主塔から伸びている腕にそっと止まる。

 鳥になりたいと願うほど、彼女は世界に絶望してはいなかった。それでも、ふとした拍子に思ってしまうのだ。幼き日より幾度と無く思い続けてきた、夢とも言えぬようなもしも話――私に翼があったなら、と。

 彼女は、はたとその足を止めた。

私だったら、もうこんな場所にはいないのに。私だったら、その大きな翼をはためかせ、どこまでも遥かなあの美しい空へ羽ばたくだろう。雲と戯れ風と遊び、光を浴びて夢を歌う。そんな生活が出来たらどんなに良いか知れない。そんな生活に、彼女はずっと憧れてきた。

「…………」

 彼女は、再びその足を動かし始めた。

分かっている。それは、違う。可能性の問題ではない。文字通り、それは違うのだ。それは生活ではない。鳥だって、人間と同じ生き物だ。ずっと空にいるわけにもいかない。空では食事も出来ないし、飛び続けていては疲れてしまう。穢れなき空にい続けるには、生き物はあまりに縛られている。生き物というのは、嫌なものだ。

 ふと気がつけば、いつの間にか、さっきまで遠目に見ていた架橋のところまで来てしまっていた。ずっと続いてきた道は張り巡らされた柵で途切れ、そこに大きな看板が掛けられていて、そこでは掠れた「立ち入り禁止」の文字が威張っていた。学校に行くにはすぐ横の階段を下っていけば良い。しかし今日はそっちに行っても仕方が無いので、彼女は踵を返し、元来た道を戻ろうと――

「…………!」


 ――燃えるような紅の世界に、彼が、立っていた。


「やあ」

 彼は、結奈の目を見ながら気さくに手を挙げた。面と向かって話をするのが初めてなのだから、字義的には初対面で合っているのだろうが、彼の動作がやけに親しげなのは、彼の性格ゆえか、それとも、自分の知らないところで、青年もこちらを見知っているのか――彼女には、判別が付かなかった。

「君と、話がしたかった」

 どきり、と心臓が跳ね上がる音が聞こえた気がした。

「……は、はい」

 彼女は戸惑って言いよどみながら、やっと返事をした。彼は、ふっと微笑んだ。

「君は、食事をする?」

「……え」

 その意味を掴みかね、思わず彼女は聞き返した。青年はその微笑を崩すことなく、冗談っぽく言う。

「安心してくれ、デートの誘いじゃあない。そのままの意味さ。君は、食事をするのだろう?」

 しゅう、と頭の熱が冷めていく感覚。彼女は彼の真意を測りかねながらも、素直に頷いた。だろうね、と彼は続ける。

「君も、動物の肉を食べるんだろう? じゃあ――」

 

 轟音。圧倒的な質量が、背後を通り過ぎる感覚。烈しい風が、全く平等に二人を強く撃つ。

世界の全ての音を塗り潰すような轟音の中で、ゆっくりと、彼の唇が動く。


 ――キミハ、ヒトノニクヲ、タベルカイ?

 

 そこから発せられる音を、彼女は聞いた。斜陽の彼方を目指して鈍色の電車が謝りもせずに走り去ってしまった後でようやく、彼女はその言葉の意味を理解し、彼女は凍りついた。息の詰まるような嫌悪感が、腹の奥底からこみ上げて来る。それはほとんど本能に根ざす、明確な拒絶であった。大雨を受けて荒れ狂う河川が堤防を破壊しながら、秩序を失ってところ構わず暴れまわるように、いくら理性で押し留めようとしても、彼女は、イメージせざるを得なかった――あの日の路地裏で見た、赤黒い物体を。懸命に押し殺して無視し続けてきた一つの可能性が、絶望的な質感をもって彼女に迫る。

 ――ヒトノニク? 

 彼女はとっさに手で顔を覆った。しかし、視界が遮られたところで彼女の頭は思考することを止めなかった。こみ上げる酸性の嫌悪感をやっとのことで飲み込むと、彼女はほとんど夢中のうちに、ふるふるとその首を振った。

 そうかい、と愉しそうに彼は言った。

「他の動物の肉は食べるけれど、人の肉は食べない。人もまた動物には変わるまいに。変な話じゃないか」

 彼女は、真っ青になったその顔を上げる。彼は、心底不思議そうな声色で続けた。

「どうして君たちは、他の動物の肉ばっかり食べて、人の肉を食べようとは思わないの?」

 彼女は困惑しながらも、あるいは困惑しているが故に、半ば無意識のうちに答えていた。

「……いけないことだから」

「何故?」

 間髪入れず、青年はさらに唇を歪め、重ねて質問をする。彼女はゆっくりと、一語一語を確かめるように言った。

「人を殺すことは、いけないことだから」

「例えそれが、食べるためであったとしても?」

 彼女は、沈黙した。

 彼の言葉は、噛み合っていない。その違和感の理由が、今の彼女にはなんとなくわかった。そう、彼の言葉は「常識」に――大多数の人間が無批判のうちに受け入れ、彼女もまた、疑うことをしなかった「当たり前」に、噛み合っていなかったのだ。

「ふうん……けれど、人は他の動物を殺すんだろう? それなのに何故、人が人を殺すのはいけないんだい?」

 その言葉を、彼の今までの言動の上に積み重ねて、ようやく彼女は、彼の言いたいことがわかったような気がした。それと同時に一つの仮定が生まれ――簡単なパズルゲームが解かれるように、一つ一つの事実が仮定の穴に符合してゆき、やがて全体が、一つの確信として完成された。

 彼女は、きっと彼に顔を向けた。

 

「あなたは、食べるために人間を殺すことを、悪いことだとは思わないのですか?」

「君たちは、食べるために動物を殺すことを、悪いことだとは思わないのだろう?」


 彼女は、泣きそうになりながらまた顔を伏せて、弱々しく首を振った。

 それは欺瞞だよ、と彼は冷たく言い放つ。

「それなら、食事の時に笑顔は生まれない。悪いことだと思っていないから、というと言いすぎにしても、殺生への罪悪感が、美味しいという悦楽に比べてあまりに希薄だ。だから君たちは、食事の時に笑うんだ」

 そもそも生き物を殺しているという自覚すらない輩がほとんどなのだろうがね、と彼は付け足した。

「……さ、僕の質問にも答えてよ」

 彼は言った。不気味なほどに無邪気な笑顔で、罪を知らぬような純真な声色で。

「どうして、人間を食べちゃいけないの? どうして人は動物を殺すのに、人が人を殺すことはいけないの?」

 彼女は、顔を伏せたまま押し黙っていた。だから彼女は、青年がやれやれとばかりに溜息を付いてゆっくりとその背中に右手を伸ばしたことには気付かない。そして彼は、その右手をゆっくりと戻して、前に突きだす。その手には、数瞬後の鮮血を予言するかのように、斜陽を受けて不気味に紅く哂うナイフが握られていた。

「その沈黙こそ、人間の罪深さなのだろう」

 今までに六度繰り返したその台詞の七度目を、彼は口にした。そして彼はナイフを構え、容赦なく、結奈の白い首元にその切っ先を――


「――人間だから」


 あと数センチでナイフの切っ先が結奈の頚動脈を引き裂くだろうところで、ぴたりと彼の動きが止まる。


 結奈は顔を上げた。

 間近で、二人の視線が交錯する。

 彼女は面と向かって、彼の顔を見据えた。

綺麗な、黒色の瞳だった。

 彼も面と向かって、彼女の顔を見据えた。

綺麗な、茶色の瞳だった。

 二回目の――あるいは初めての、初対面。

 

 キュー、という甲高い声が、遠くに聞こえる。彼は、ナイフを取り落とした。カラァンと乾いた音が、紅い世界に響く。その音が止むと、全くの静寂が世界を支配した。彼は後ずさりするとしばらく呆けたように虚空を睨んでいたが、やがて彼は、紅の空に響き渡るような大きな声で、笑い出した。

「ふふ……あは、ははははは!」

 彼女はビクリ、と肩を震わせた。彼は、可笑しくてたまらないとでも言うように、しばらく腹を抱えて笑っていた。その目には、涙が浮かんでいた。その涙の理由が、彼女には分からなかった。きっと、彼自身にも分からなかっただろう。やがて彼はふっと笑うのをやめて、その顔を上げた。その顔には、さっきまでとは明らかに異なる、どこか虚無的な微笑が張り付いていた。

「人間だから……か。なるほど、それは今まで思いつきもしなかった! 人間だから、人間を殺しちゃいけない。人間だから、人間を食べちゃいけない。人間だから、人間以外の動物を殺す。人間だから、人間以外の動物を食べる――ああ、その通りじゃないか。君のその言葉は、どうしようもなく、真理だよ」

 ただね、と彼は打って変わって真剣な――あるいは、絶望したような表情で言葉を続けた。

「同時に、それはとても残酷な事実を示している。人間は、人間であるが故に、人間を食べてはいけない。なぜなら、それはおぞましいからだ。他に食べるものがある。それならわざわざ、自分と同じ姿恰好をした人間を、食べることもない。何故、人間が人間を食べてはいけないのか……ああ、答えは究極のエゴイズムだったんだ」

 ハッと自分が息を飲む音を、彼女は聞いた。彼女はほとんど無意識のうちに、彼に反駁していた。

「……違う」

 うん? と彼は言葉を止める。彼女は無意識のうちに自分が口走った言葉に少なからず動揺したが、しかしそんなことには構わず、彼女の口が、勝手に言葉を続けた。

「エゴイズムは……違う」

 自分の出した結論を否定する、あまりに拙い少女の言葉。しかし彼は、真摯にその耳を傾ける。彼女は、何かに背中を押されるように、言葉を紡いでいく。

「『今』が、無数の屍の上に立つものだという真実から目を背けることは……確かにエゴイズムだと思う。けれど、自分の仲間を殺さないで他の生き物を殺すというのは……人間が他者を殺さないと生きていけないように、人間は、自分の仲間、同じ人間を愛さないではいられないからなんだと思う」

 彼女はそこまでいうと、大きく深呼吸をした。紅色の澄んだ空気が、鉛の嫌悪感の代わりに彼女を満たす。さあっ、と世界の色が変わった感覚が訪れた。彼女は強く、確かな自らの意思で言った。

「それは、醜いエゴイズムなんかじゃない。もちろん、美しい隣人愛でもない――それは、ただの神様が定めたルールなんだと、私は思う」

 彼女はそこで口を切った。その言葉を聞いて、彼は確かめるように言った。

「ふうん。人が人を食べない、ということはあらゆる価値観に対し自由な、ただのどうしようもない事実であり、それ以上でもそれ以下でもない、ということかな」

 彼女は、付け足すように言う。

「そして、人が何かを殺さないでは生きていけないということは、人が何かを愛さないではいられないことと、その本質は何も変わらない。それが、人間だから」

それを言った後で、彼女は、ふっとその顔に、綺麗な笑みを咲かせた。それを見ると彼もまた、にこりとその顔を緩ませた。

「そうかい。その考え方も、良いんじゃないかな」

 ただね、と彼は続けた。

「僕の場所からは、それがエゴイズムにしか見えないんだ。君の考えも、尊重することは出来ても、容認することは出来ない。人間は、その利己心故に人間を喰らわない――これは、僕が様々な体験、思考を経て得た結論だ。君のそれはまだ、確かな事実にも思弁にも基づかない、ただの仮定に過ぎない。足りないものが多すぎるんだ」

 だから、と彼は続けた。

「君の人生で、その仮定を、証明してみてよ」

 いつの間にか世界を真っ赤に染め上げていた斜陽は地平線の彼方に姿を隠し、その残照の中できらきらと、一番星が瞬いていた。

「私は今まで、人間の明るいところ、美しいところしか見ようとはしませんでした。暗いところ、醜いところからは、わざと目を背けていました。けれど、あなたと出会えたおかげで私は、この仮定を導くことが出来ました。今はまだ、説得力のない家庭に過ぎないけれど、いつか、貴方を頷かせるだけの結論に、してみせます」

 強く言う彼女の表情はもはや、あどけない少女の顔ではなかった。彼は、嬉しそうに、それでいて、寂しそうに微笑んだ。

「ふふ。出来ることなら、君のことをずっと待ち続けていたい。ああ、そのためならどんなことだってやるのに――きっともう、僕と君が会うことはないだろう」

「…………」

 きゅう、と胸をピアノ線で締め付けたかのような痛みが、彼女を襲う。それでも彼女の双眸から涙がこぼれることがなかったのは、きっと、彼女にはわかっていたからだろう――間もなく彼は、無慈悲で頑迷な、法という名の弾劾する罪人によって、裁かれてしまうであろうことを。

「……じゃ、僕はもう行くことにするよ」

 彼は彼女に背を向けかけたが、思い出したように、再び彼女の方を省みた。

「そうだ。最後に、君の名前を聞いても良いかな」

 彼女は、ゆっくりと口を開いた。

「――結奈。私の名前は、平井結奈」

 彼女は大きく息を吐いてから続けた。

「貴方の名前も、教えてください」

 彼は微笑んで言う。

「素敵な名前だね。僕の名前は――」

 轟音。背後に感じる、圧倒的な質量。彼の唇が動く。そうして紡ぎ出された大切な唯一を、彼女はそっと心に仕舞いこんだ。電車は謝ろうとすることもなくそのまま走り去ってしまうが、しかしそれすらも、彼女には愛しく思えた。

 彼は、くるりと背を向けて、今度こそ振り返ることなく、すたすたと歩き出してしまった。彼女は手を振ることも、声を掛けることもない。ただ、じっと見送るだけだ。そして、それだけで充分であった。

「さようなら――」

 彼女は、さっき彼が口にしたその名前を、そっと繰り返した。きっとその声は、彼に聞こえることは無い。けれど、それで良い。

 そうして、夜闇がすっかり夏の空を覆い尽くし、一番星が無数の星々に埋め尽くされてしまうまで、彼女はそこに立ち尽くしていた。

 帰ろうと、彼女は思った。


そうして世を騒がせたW町連続猟奇殺人事件は、数日後に確保された犯人の死刑を以て、その真相を一人の少女の胸にのみ秘めたまま、その幕を下ろした。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 当たり前なルールを当たり前と受け入れることができない人間、社会に迎合することができない人間の哀愁をカニバリズムを引き合いに出して表現しているところは、読者を引きつけられていると思います。 …
2014/04/03 11:14 退会済み
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