嬢の来訪 -五つの味が行き着く先は 1-
あれから数日が経過した。
塩谷はいつも通りの日常を、天川とは一切関わらずに満喫していた。あれからというものの、彼女が塩谷の元を訪れる事は一度も無かった。彼はいつお金を返そうか悩みつつ、今日も教室で項垂れる。
「熱い……」
休み時間。彼はいつものように窓を開け、下敷きでペラペラと身体に風を送りつける。相変わらず今日も熱かった。
(どうして夏なんて来るんだろう……春秋冬で充分なのに……)
いつかと同じような愚痴を心の中で吐くが、だからといって何かが変わるわけでもない。
塩谷は嫌気のこもった息を吐き出し、太陽から目を背けるように姿勢を変える。
(あーあ。どうして、こんなにだるいんだろう……)
塩谷の気分は晴れない。だが、それはきっと熱さのせいだと結論付け、彼は怠惰な日常に意識を戻そうと心がける。
今のこの心情に天川は関係ない。もう塩谷はその件に関わりをもっていない。というよりは最初からそんなものなど無かったのだ。
ただ強引に呼ばれ、話を聞かされ、殺され、一緒に食事をしただけの仲でしかない。だから、塩谷が気にする必要などまるで無いのだ。
最後の会話は、過去の事を思い出してしまったのもあり少し熱くなってしまったが、思い返してみればそこまで深く関わる話をしたわけでもなかった。
もう彼と彼女を繋ぐ物は借金ぐらいしか無かった。
(ま、そろそろお金も入るし、そしたらすぐにでも返してそれで終わろう)
塩谷は扇ぐ手を止め、腕をまくら代わりにした睡眠体勢へと移行していく。
悩みや不安を全て腕で覆い隠すように、机へと倒れこむ。そうして悩みを噛み殺し、彼の人生は楽しい怠惰な日常へと戻るのだ。
だが、そんな考えは甘かった。
突如、開かれる教室のドア。それと同時に届くか細い女子の声。
「すっ、すみません! 1-Dの教室ってここですよね……? お、お邪魔します」
「!?」
いつかの出来事を思い出させるこの流れに驚き、咄嗟に振りむく塩谷だが、周囲を見渡す限りこんなに驚いているのは塩谷だけだった。
ドアの外側には、おっとりとした眼の、髪の長い少女が立っていた。彼女はドアを開けた後、礼儀正しく両腕を前で組み、おずおずと恥ずかしそうに視線を下に落としながら、ゆっくりと教室の中へと歩んで来る。その顔は、下を向いているせいでよく見えない。
何にせよ、見たことのない少女だ。
髪は長く、まるで時代劇の姫様のように綺麗に切りそろえられていた。この学校の制服を身に纏っていて、背が低いことから、恐らく下級生であることがうかがえる。
塩谷が、なんだなんだと思ったその時だった。
「あの、その……この教室に、塩谷始音さんはいらっしゃいます、でしょうか? 少し、お話があるのですが……」
少女が言うなり、教室中が塩谷の方を向く。猛烈なデジャヴを感じつつ、塩谷は冷や汗を一滴床に落とす。
そんな彼の姿を、少女はすぐに捉えて向かってくる。
「うわ、やっぱり僕だ!」
嫌な予感が的中し、塩谷は狼狽した台詞を放つ。
だが少女はそんな彼の様子になど全く目もくれず、残酷にもこう言い放つのであった。
「つ、ついに見つけましたよ、塩谷始音さん……! その、ちょっとついて来てくれませんでしょうか……?」
「……うん」
全く同じパターンを前にも体験しただけあって、彼の対応は幾分かまともになっていた。
お陰で今回は強制連行されることなく、スムーズに場所移動が完了する。
その少女と共に行き着いた先は、やはりというか何と言うか、この間とは別の調理室であった。
この学校は料理に力を入れていないが、それなりに大きい規模を誇っているため、特別教室のほとんどが「第一」と「第二」で二つずつ揃えられている。前回は第二だったが、今回は第一調理室だ。ちなみに、どちらも内装に大差はない。
「で、話って何? 料理を手伝ってとか、そういう悩み相談なら聞かないけど」
すっかり慣れ切ってしまった塩谷は、少女の次の行動を粗方先読みし、なるべく先回りするよう心がける。
しかし、今回は相手が悪かった。
その読みは外れる。
「違いますよ。そんな必要ありませんから。と、いうか。もしかしてまだ気付いてなかったりするんですか?」
「え、何が?」
今まで面識も無かった少女に突然そんな事を言われ、塩谷は困惑する。
(というか、急に雰囲気変わった?)
少女は、教室にきた時は気弱な下級生のようだったのに、今は少し声に覇気があるというか、言葉の裏に力強い何かを感じさせるようになっていた。
具体的には、明らかに別人のような空気を纏っている。
(ん!? 何か、急に強い既視感が……! あれ、何処かで会ったような。でも、いつだっけ?)
塩谷は記憶を遡るが、どうにも思い出せない。
するとそれを察したのか少女が呆れたような視線を向けつつ、小さく笑みを浮かべる。
「もう、本当に気付いてないんですね。ちょっと呆れましたよ。仕方ないですね。これでわかります?」
少女は、長い髪を両手で一房ずつ手に持ち、両側で結んだふりをして見せる。
「……あっ!?」
その姿を見て、塩谷はようやく思い出す。
この若干偉そうな態度、呆れたせいで鋭さを増したその目、そして小さな背にツインテール。
先ほどまでは、気弱そうな演技と、恐らく相当無理をしたであろう目の周りの雰囲気作りと、下ろした髪のせいで全くわからなかったが、ここまでやられてしまえば流石の塩谷でも気がつく。
「えっ、辛籐さんっ!?」
「ああ、ようやく気付きましたか。遅すぎですよ。本当は、おとなし気味な演技をやめた時点で気付いて欲しかったんですけどね」
少女は「不落嬢」辛籐空美その人であった。
辛籐は髪を持った両手を放し、再び姫スタイルへと髪型を戻す。髪を下ろしただけで雰囲気が全く違うという事実に、塩谷は驚きを隠せない。
「ていうか、何でここに……?」
「酷いですね。私もここの生徒ですよ。高校生って言ったじゃないですか。やっぱり貴方は失礼な人です」
「いや、誰がそれを聞いて同じ学校だと思うのさ? というか天川さんといい、何でこんなところに料理人関係の人が集まるのか不思議だよ……」
「あのお嬢様はどうか知りませんが、私はもう学校なんかで料理を学ぶ必要が無いですからね。さっきみたいに、目立たないようにして生活しているんですよ。まあ、八割意味ありませんでしたが」
「そらそうだよ。君の場合、話題とか以前に名前も容姿も目立つんだから。というかアレ逆に目立たない? むしろ隠せると思ってたことに驚きだよ」
「緩和が目的だったんですけどね。それすら無意味でしたよ。でも、一度あのキャラ性でいったら、後で本性とか言われたくないのでアレで貫くしかないんですよ。ビクビク小動物風味の清楚系お嬢様キャラである辛籐空美ちゃんで行くしかないんです」
「それこそ店とか料理対決で本性出してるから、意味ないんじゃあ……」
「一応、そういう所での私はキャラ作ってるってことにしてあります。抜かりは……なかったら嬉しいです」
自虐気味に笑みを浮かべる辛籐。どうやら彼女は彼女で大変なようだ。
「っていうか、普通に雑談してる場合じゃないよ。何で僕をここまで呼んだのさ?」
一旦会話が途切れてくれたお陰で、塩谷が我に帰る。
まずは呼ばれた理由を聞かないことには、何も始まらない。
「ああ、その話ですか。そうですね……その前に一つだけ、こちらから質問してもいいですか?」
「えっ、まあ、いいけど……」
唐突過ぎて、塩谷は何かリアクションを取る事も、精神防衛さえも出来なかった。
だが続く辛籐の言葉は彼の予想を大きく上回る物であったため、結果として予想や防御は意味がなかったのであった。
「塩谷始音さん。お昼はもう、食べましたか?」
「えっ?」
辛籐の質問の意味がわからなかった塩谷は、その後知ることになる。これが昼食の誘いとなることに。