味の破壊 -辛口な彼女は籐のようにしなやかで 3-
「ふー、ごちそうさまっと……」
塩谷は満足そうに嘆息する。
たしかに、これは彼としても満足出来る内容の食事であった。
だが、彼には気がかりなことが一つだけあった。
(たしかに、麻婆とかはかなり美味しい。でも、これじゃただレベルが高いだけだ。正直、中華に特化した店なら他にもっと美味しい店だってあるはず。なのに、何でここまで人気があるんだ……それに)
塩谷がちらりと他の席を見ると、そこにはよく見えないが、赤い何らかの料理を口にしている学生たちがいた。しかし彼らの間に会話はなく、ただ黙々と眼の前にあるその赤い食べ物を貪り続けていたのだ。まるで何かに急かされるように、必死の形相でどんどん口内にそれを突っ込んでいく。その様子は少し異常だ。
だが、そういった状態になっているのは何もその学生たちだけでは無かった。
実はこれまでにも、ちらほらと似たような光景が見られていたのだ。
(いや、ここの料理は確かに悪くないけど、そこまで必死になって食べる程かなぁ。僕にはどうにもわからない……)
と、塩谷が思い悩んでいると、その思考を切り裂くように天川が声をかけてくる。
「始音くん、まだよ」
「え?」
そう、まだ料理は一つ残っているのだ。
天川が最後に頼んだ品物。一つだけピンインじゃなかった料理。
正体不明の料理が、まだ残っているのだ。
「その通りです。頼んだのに忘れるとは酷い人ですね」
突然。聞き覚えのある声と、淀みの無い足音。
「ん、来たわね」
天川の声につられ塩谷がそちらを向くと、そこには料理を持った少女が立っていた。
長い髪を左右で結んだ少女が、皿を持ってこちらに歩いてくる。
皿の上にあるものは、銀色のボウルを裏返したようなもので覆われていて、中にどんな料理が隠されているのかはわからない。
辛籐空美だ。どうやら、最後のメニューは彼女自身の手で持ってくる形式だったようだ。
辛籐は少し顎を上げて見下したような視線を向け、料理を持っていない方の手で塩谷を指さす。
「御機嫌よう、お客様。このたびは当店名物裏メニューを注文して頂き、誠にありがとうございます」
最初の一言以外やたらと丁寧な言葉に反し、皮肉気な声色。辛籐空美は、やたらと大きな態度で接近してくる。
それに呼応するように、塩谷の鼻に嗅ぎ慣れぬ匂いが舞い込んでくる。
それは料理店独特の食事の匂いを切り裂き、確かな存在感を持って侵食してくる匂いだ。それはまるで石鹸や洗剤のような殺菌系の香りであり、尚且つそれはあまり強烈ではなく、仄かに漂う程度だ。
それなのにも関わらず、ここまでの存在感を持って鼻腔に届くという事実に、塩谷は恐れを覚える。
何故ならそれは、周囲の雑魚を無視するように蹴散らしてきたであろう辛籐空美の人生を、そのまま体現したような匂いだからだ。
(これ、体臭? いや、でもさっきはしなかったし、そんなわけないか……やばい、何にせよ油断してると雰囲気に呑まれそうになってしまう)
意識していないと、この独自の空気に呑まれて何も言えなくなってしまいそうだった。
それを自覚してかしないでか辛籐は笑顔で塩谷と天川の顔を見回し、より強い笑みを浮かべる。
「それで、どうです。うちの料理を食べてみた感想は? 勝てそうですか、甘音さん?」
「余計なお世話よ。あれぐらい、わ、わたしにも超えられるわ!」
明らかに強がりだ。天川の声は震えていた。
しかし余裕なのか気にしていないのか、辛籐はあまり深く言及しようとはせず話を進めに来る。
「そうですか。でも、感謝して欲しいですね。私が対戦相手に直接得意料理を振るうなんてこと、滅多に無いんですから。まあ、いいでしょう。さて、そろそろ私の料理を食べて貰いましょうか」
彼女はそう言って、皿をテーブルに置く。
「どうぞ、召し上がって下さい」
彼女は皿に乗せられた銀色の蓋を開き、その料理の全貌を明らかにする。
それを見た塩谷は目を見開く。天川も全く同じ反応だ。
その料理の見た目が、あまりに予想外だったからだ。
「ねえ。ここ、中華料理じゃないのかな?」
「裏メニューは別ですよ。これは、私の最も得意とする料理『THE END OF ROAD』です。この世に一つしか無い完全オリジナル料理ですよ」
「でもこれ、明らかにパ……」
「オ・リ・ジ・ナ・ルです。いいですか? ご存知ないようなので説明致しますが、私の食柱毒の能力を応用すれば『未知の香辛料を作る』事も可能なんですよ。これを用いれば、どんなものを作ってもオリジナルになるんです。これこそオリジナリティの極みです」
「でもせめて名前に入れるべきものが……」
「それは何ですか? 言っておきますが、これは完全オリジナル料理ですよ。類似品と一緒にしないで下さい。パクリやオマージュという汚名は、むしろ向こうが被るべきなのです」
「そ、そう……」
塩谷は今日一日で二人も面倒臭い人間に出会ってしまった事に、激しい後悔を覚える。
一方、天川はその出された未知の料理をじっと眺めていた。
その様子を見て、辛籐がふふんと鼻を鳴らす。
「さあ、食べてみて下さい。そして、絶対にかなわない相手もいるっていう現実を知って、それでも味に満足しながら幸せに帰って下さいね。貴方の勝利の道はもうありません。貴方にあるのは、敗北の道と帰る道だけだというのを実感して下さい」
その言葉は全て天川に向けられていた。
天川はそれを受け、不機嫌な態度で応える。
「ふん、大した自信ね。これでわたしが満足しなかったら憶えてなさいよ。あと、負けるのはあなただから!」
「それはいずれもありえないので、安心してさっさと食べて下さい。冷めます」
「っ! わかったわよ!」
天川はそう言って、置かれたフォークを手に取る。
そして、それを用いて一口サイズになったその料理を口へと運ぶ。
と、その瞬間。
彼女の目つきが変わった。驚愕と歓喜、それらの感情がぐちゃぐちゃに混ざった目へと。
「!」
「え、天川さん、どうし……」
塩谷は、続く「たの」の文字を言えなかった。
天川が物凄い勢いで、その深紅の料理を啜りだしたのだ。
どうしてかかなり必死な様子で、その料理を全力で口にかきこんでいる。夢中というよりは中毒患者のような危うい食べっぷりだ。周囲のことなど一切気にも留めていないような様子である。
その様子に何か危険なものを感じた塩谷は、急いで辛籐の方を向く。
辛籐は、笑顔で一部始終を眺めていた。
「大丈夫ですよ。これを食べた人は皆こうなります。危なくないですよ? 私が初めてこの香辛料を完成させた時、安全面などはかなり詳しく調べましたので。陳腐な表現になりますが、単に、あまりに美味しすぎて手が止まらなくなっただけですよ。多分、あれは大皿一つ全部食べきりますね」
「えっ、嘘……?」
塩谷は、天川の異常な食べっぷりを心配するのと同時に、自分の分が無くなるという事実に落ち込んでしまう。
実際どんな代物であれ、そういった特別な料理を食べたかったのが塩谷の正直な気持ちだ。
だが、辛籐はそんな塩谷にすら微笑みかける。
「安心してください。どうせこうなると思ってましたから、もう一皿用意してあります。二人いるとは聞いていましたからね」
「えっ!? 本当に!?」
「ええ」
辛籐が指を鳴らす。
すると、店の奥の方から同じ料理を持った店員が現れる。
店員は塩谷のぶんを置いて、再び裏へと引っ込んで行った。
辛籐は、その様子を満足そうに眺めた後、塩谷の方に満面の笑みを向ける。
「貴方もどうぞ。道の終わりを、味わって下さい」
(どうでもいいけど、さっきからちょくちょく道道言ってるよねこの人……店名もこの料理名にもロードって入ってるし。道大好きなのかな。あ、ひょっとして決め台詞のつもりなのかな……そのわりには印象薄いなあ)
「どうしました? さあ、食べてみてください」
「あ、うん」
こうして促され、塩谷もその料理を口にしようとフォークを伸ばす。
(それにしても、これ、どう見てもアレだよなあ……)
その料理は、どう見ても真っ赤なパスタであった。
具材はウインナーにベーコン、ピーマンに玉ねぎとオーソドックスなものだ。これといって変わったところは無い。
強いて言うなら色だ。先ほどの麻婆豆腐よりも赤みが増して、とても濃厚な深紅色となっている。その見た目は、一歩間違えれば何かの臓器にすら見えてしまう。
辛いパスタという意味ではアラビアータに通じるものがあるが、いかんせん赤さが全然違う。赤系の絵具を全部混ぜ、そのままぶちまけたような色なのだ。もうこれは、普通のトマトソースの赤さでは無かった。
(おお……すっごい辛そう)
塩谷の鼻腔に、タバスコのようなスパイスのような不思議な香りが届く。
この料理から漂っている香りだ。不思議な表現になるが、何というか匂いだけで既に辛そうだ。仄かにガーリックの香りもする。
それだけで満腹寸前だった塩谷の胃袋にも、余裕が湧いてきた。
「じゃ、じゃあ。いただきます……」
塩谷がパスタをフォークに巻き付け、口の中へと持っていく。
口に含む。瞬間。彼の脳内物質は弾けた。
「……!!!?」
彼の口の中は度を越えた辛さのせいで、あり得ない程の熱を帯びてしまった。辛さとは痛覚の一部とも言われているので、当然彼は痛みに震えてもおかしくはなかった。
けれども感覚が麻痺したせいなのか、不思議と辛さはあっても痛くて食べられないという事にはならなかった。
単純に、辛さと熱さしか感じなかったのだ。料理の食感すら分からなくなるほどの衝撃。しかし彼の脳は、熱い、辛い、美味いということだけは認識していたようで、よくわからない満足感や充足感は十二分に感じる。
(こ、これは……!?)
途端、絶妙な辛さに全身を支配され、塩谷の手も止まらなくなる。どうやら美味しさのあまり手が止まらなくなるというのは本当だったようだ。
彼はフォークに巻き付けて食べることをやめ、一瞬一秒でもとにかく次の味が欲しくて、フォークでパスタ自体を持ちあげるようにして一気に口内へと持っていく。ほとんど丼物を箸でかきこむ食べ方と同じだ。だんだん具材をいちいち刺して食べることもなくなり、フォークをラッセル車のように使って口へと放り込むようになっていく。
夢中になって食べ続ける。彼の意識は、ほとんど食べることにしか向いていなかった。
周囲の景色の消失。もうそのパスタ以外何も見えない。音も、匂いも、味も、五感のほぼ全てを釘づけにされる。それだけ、このパスタには魔力がこもっていた。
そして、どれほどの時間が経過しただろうか。
二人が食べ終わった頃には、いつの間にか辛籐の姿は消えていた。
「……」
「……」
お互いに、何も言葉が出てこなかった。
天川の実力なんかでこんなのを相手にするのかと思い、塩谷は不可能を再認識する。
もう、それ以外の感情が浮かんでこなかった。
天川はどう思っているのかまでは分からなかったが、目が虚ろだった。恐らく、自信が揺らいでいるのだろう。
塩谷はこのまま留まっていても仕方ないと判断し、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃ、帰ろうか」
「うん……」
静かに、天川も立ち上がる。
こうして二人はふらふらになりながら、会計を済ませ、店を出る。
最後の裏メニューの品の値段は三千円と、高いのか低いのかよくわからない額だったが、きっちりと二人分請求されていた。
(ちゃっかりお金はとるんだ。あ、やばっ……足りな……)
そこから紆余曲折。結局、塩谷は天川に借金をする羽目になってしまった。これで関わりをこれっきりにしようとした塩谷の目論見は粉々に崩れ去ったという。
なお、天川の支払いはカードだった。それもクレジットではなくキャッシュだったという。
兎にも角にも、こうして二人は満身創痍で帰路につくことになったのであった。
「まさか、あんな兵器を用意していたなんて……油断していたわ」
天川が震えながら、ぽつりと一言。これが店を出て初めての言葉だった。
あの最後の料理は、どうやら彼女の自信を揺らがせるのには充分な破壊力を持っていたようだ。
その姿はどこか気の毒だったので、塩谷は何とか考え、鞄に入れていた飴を取り出す。
そしておもむろに振りかぶり、天川に投げる。
「ほい、パス」
「えっ!? わっ、わっ、っと! 急に何よ!?」
手をわちゃわちゃと動かし、危うげにキャッチする天川。
その様子を見て、塩谷もようやく笑みを取り戻す。
「まあ、それでも食べて、気持ち切り替えようよ。まだ何か手があるかもしれないし」
もちろん半分本音で半分建前だ。言った言葉や気持ちに嘘はないが、塩谷自身、もうこの件に関係するつもりはなかった。
これでいい感じに終わればいい。彼はそう思った。どの道、これなら自分が手伝った所で勝利は遠いと判断したのだ。ならば下手に関わらない方がいいと思ったのである。
その上、彼自身が料理に関わりたくないという気持ちもある。塩谷は、完全に手を引くつもりでいた。
当然、そんな内面に天川が気付くわけはなく、彼女は嬉しそうに飴を口に放り込む。
「ありがと。……そうね。きっと勝てるわよね。まあ、ちょっと危ないかもしれないけど、これぐらいじゃわたしの勝利は揺るがないわよね!?」
「あー、それはどうだろう……あっ」
塩谷は反射的に本音で答えてしまうが、すぐにそれは不味いということに気がつく。
これでまた天川のテンションが下がったりすると、また面倒なことになる。塩谷は地団太を踏みたい気分に駆られた。
しかし天川は落ち込むどころか、より強い笑みを作って微笑んだ。
「うん、勝てるわ! 勝つの! 想像よりちょっと強いのが相手だからって、何も落ち込むことなかったわよね!」
「……ははっ、そうかもね」
天川は、完全に元の元気を取り戻していた。
塩谷はその様子を見て安心し、自分も飴を取り出して口に入れる。
どうやら辛い料理を食べすぎたせいか、味があまりわからなかったが、まあ舐めているうちに味が出てくるだろうと考える。
「ところで、始音くん」
「ん?」
そんな時、唐突に天川が呼びかけてきた。
少し申し訳なさそうにおそるおそるといった体で、彼女にしては珍しい態度で呼びかけてきたのだ。
塩谷はこれは何かくるなと思い身構えつつも、どうせそこまで大したことじゃないとも思い少しだけ気を緩める。
それが命取りだった。
「この飴、味がしないんだけど……」
「えっ?」
突然の申告。
それを受け、塩谷も口の中で飴を一生懸命転がす。
しかし確かに、いくら舐めても味は出てこなかった。
「っかしいな。それなりに新しい飴だったんだけど、じゃあ、新しいの、はいっ」
塩谷はまた別の飴を投げ、天川もそれをキャッチする。
二人は、別の種類の飴を同時に口に放り込み、舐めまわす。しかし、いくら舐めても味はしなかった。
「……ねえ、天川さん」
「……何?」
「味、する?」
「……いいえ。全く」
「……!」
塩谷は嫌な予感に全身をこわばらせる。
これだと飴に問題があるとは考えにくい。だとすれば今異常を起こしているのは食べ物の側ではなく、身体の方ではないだろうか。そして辛籐の店での経験を振り返ると、心当たりが無いわけでもない。となると原因がうすうす見えてくる。
塩谷の脳は、勝手に動いて次々と嫌な想像を膨らませていく。
「……ねえ。これ、もしかして……!?」
天川が、何かに気付いたように震えだす。
既にうすうす勘付いていた塩谷も、その驚きの可能性に自らの思考を疑う。
しかし一度気付いてしまえば、もうこうなった理由は一つしか考えられなかった。
塩谷は覚悟を決め、話を切り出す。
「あ、あのさ。天川さん」
「……なに?」
「これはあくまで僕の推測だけど、さ……、辛籐空美の勝率って、たしか挑まれたの時の方が高かったよね?」
「ええ。挑まれた時だと、勝率どころか、一時期からずっと無敗よ……! 今、その話をするってことは、始音くん、もしかして……!」
ここで、天川も完全に気がつく。
『不落嬢』の異名をもつ辛籐空美の、真の恐ろしさに。その真の力に。
彼女が一体何をもって恐れられているのか、この二人は今になってようやくその真実に気がついたのだ。
一般的な料理対決のルールとして“挑まれた側が先攻を握る”という形になっているわけだが、おそらく辛籐の能力は、まさにその状況下での勝利に特化していると言えるものだったのだ。あくまでそれは塩谷の想像に過ぎないが、しかしそうである可能性はかなり高い。
「うん、多分、彼女の能力で作りだされた未知の香辛料には副作用みたいなものがあったんだよ……それは、推測だけど、でも、きっと、こういう作用があったはずだ」
わかっていても、簡単には言いだせない。
しかし二人が今陥っている状況と、辛籐の料理が無関係とはとても思えなかった。だから塩谷はじっくり言葉の重さを噛みしめ、ゆっくりと一字一字を噛みしめ、告げる。
「あまりの辛さによる味覚麻痺、いや、一時的な味覚破壊とでも言うべきかな」
「……っ!!!!」
「ちなみに君は今回、挑まれる側だった? それとも……」
これは、天川に可能性があるかどうかに直接関係する質問だ。
天川が挑戦を受ける側だったら、まだ可能性はあるだろう。しかし、それはほとんど無いに等しい可能性だということを、塩谷は理解していた。
これまでの彼女の態度からして確実に挑む方だということは、ほぼ分かりきっていたことである。
「……挑戦側よ。つまり、後攻」
「そっか……」
塩谷もさして驚かず、ただひたすらに諦めの感情だけを浮かべる。これでは絶対に勝ち目がない。
だが天川は納得がいかなかったようで、なんとか笑顔を浮かべ反論に出る。
「だ、だけどまだ勝敗が決まったわけじゃあ……!」
「でも、料理対決だったら……この力は先攻だったら、もう最強だよね……だって、どんなに美味しい料理を作っても、どんなに趣向を凝らしたものを作っても、どんなに優れた能力で挑んでも無意味だ。だって……だって……」
言いつつ、塩谷は考える。
こんな化け物のような能力相手に、果たして全盛期の自分が太刀打ち出来たかどうかを。
否。悩むなんて時間の無駄だ。本当は気付いているのである。ただ、それを上手く認められないから悩んでいるのだ。
答えは、勝てない。
正統派料理人で、しかも能力が料理に直接関係しないタイプの塩谷に勝てる相手ではないのだ。本気を出せば話は別だが、しかしながらそんなものを勝利と呼ぶつもりは、塩谷には全く無かった。故に、彼は辛籐に勝てないといえる。
ましてや天川になど一生かかっても無理だ。たとえ成長してもだ。
それどころか大半の料理人は絶対に敵わないはずだ。全く歯が立たないだろう。
それは、何故ならば―――
「どんな料理でも、味がしなければ意味がないんだ」
その真実を、ついに口にしてしまった。
辛籐空美はもう勝てるだとか勝てないだとか、そういう土俵に立っていなかったのだ。強い弱いの話ではない。これは不可能や無理といった表現で表した方が、よっぽど的確である。
能力の相性に頼ったところで、あれに対抗出来るだけの能力が一体いくつあるのか。
考えれば考える程、勝ち目など無いことに気がつく。
「……そんな、それじゃあ……もう、絶対に無理ってこと!? わたしがどんなに天才でも、敵いっこないっていうの!?」
天川は震えていた。
さっき取り戻した元気は、もうない。
これまでなら相手が単に強大なだけであったが、もうこうなってしまえば絶望はその比ではないのだ。
「もう、無理だよ。諦めようよ。だいたい、最初から無理だったんだよ」
そんな絶望に後押しされるように、塩谷もつい口を滑らしてしまう。
この状況で、言ってはならないことを口にしてしまう。
「え?」
「君の実力じゃ、はじめっからどんな敵が相手でも、勝てなかったんだよ。いっそ、ここで諦めがついて良かったじゃないか」
「何言ってるの!? わたしは天才で……!」
「天才? 人を殺す料理を作る人間が? 言っておくけど、あれは冗談じゃなかったよ。本当に僕は死んだんだ。断言するよ。君じゃ、勝てない。もう、僕が協力するとかしないとか、そういう事を言ってる場合じゃない。諦めるんだ。それが懸命なんだよ……」
「そ、そんなことって……」
塩谷は、己の過去を振り返りながら言葉を紡ぐ。
世界には、どんなに頑張っても絶対不可能な状況というものが存在するのだ。
その絶望感は早い段階で知っておいた方がいい。
何故なら、自信がついた頃に当たってしまえば、それまで自分を後押ししていた物が全て否定されてしまうからだ。
まるで今まで自分がしてきた事が全て無駄だったかのような錯覚に陥り、圧倒的な無力感に打ちひしがれるのだ。今まで信じてきた努力が、無駄な努力に変化していく失望は、どんな理屈を掲げても耐えがたい屈辱だ。
だから天川はむしろ幸運なのではないかと、塩谷は思う。
この最底辺の段階で失うものなど、ちゃちなプライドだけである。
「これが、現実だよ。君も、料理、いや、そんな勝負の世界に身を置くべきじゃないんだよ。いつか絶対、自分の現実っていうのを思い知らされるから……」
塩谷の気分は、徐々に料理をやめた時に戻っていく。今、絶対に通れない大きな壁に突き当たった天川の姿が、かつての自分と重なったのだ。
彼の過去。共に歩んできた友人、切磋琢磨した日々。けれども日に日に実力差は開いていき、友人はもう追える存在ではなくなっていった。
だけど必死に食らいつこうと挑戦し、その結果、いかに自分が井の中の蛙だったかを思い知らされた。塩谷は、天才だ何だともてはやされてきたが、結局友人の居る世界ではゴミ以下の実力しか無かったのだ。
こんなことなら最初から中途半端な才などいらなかった。そうすれば誰からも期待されず、重圧も無かったはずだ。もしくはもっと強い才能があれば、こんなに辛い思いはせずに済んだのだ。彼の人生には、あまりにも後悔が多すぎる。
料理人が能力を得てからというものの、今や上位の世界は完全に才能のみの世界となっている。それもこれも全て食柱毒のせいだ。どうして不死などという、絶妙に役に立たない力を手に入れてしまったのか。
そんな塩谷の溜めこんできた思いが、今、ここにきて甦ってきていた。
「無理して、嫌な思いするよりはここで逃げたほうがマシだよ。もう、こんな無茶な勝負はこれっきりにした方がいいと、僕は思う」
「いや、それは違わないかしら?」
「え?」
しかし彼の考えを否定したのは、先ほど才能を否定されたばかりの天川であった。
彼女は落ち込むそぶりすら見せず、まるで当たり前のことを言っているかのような真顔で塩谷を見つめていた。
「それってつまり、負けるのが嫌だから勝負をしない方がいいって言ってるのよね? でも、勝負っていうのは勝ちと負けと書く以上。絶対に負ける人はいるのよ。それが嫌だから戦いたくないっていうのは、またちょっと違う話よね?」
「……だから何さ。急に説教? 何で?」
突然諭されたような気がして、塩谷の機嫌はまたしても悪くなっていく。
だが、あくまで天川の態度はさっきと全く変わらない。
「そんなつもりはないわ。ただ、それは聞き逃せないと思っただけよ」
「そうかい。じゃあ、こっちも言いたい事言わせて貰うけどさ。みんな、負けるために戦ってるわけじゃないのに、絶対勝てない相手が出てきたら、もう戦う意味なんて無くなるよね? 違うのかな?」
「いいえ。戦う理由も、頑張る理由も、結局は人それぞれじゃない。意味のある負けだってあるし、価値のない勝ちだってあるわ。戦うこと自体に意味があることだって……」
「でも! この状況はそうじゃないよね。君は負けたくないんでしょ? でも、これじゃ負けざるを得ないよ。それなのに戦って、何か意味あるの?」
塩谷は、料理人時代からひた隠しにしてきたはずの自分の感情を、ただただぶつける。
この考え方が、彼をここまで連れてきたものの正体である。それを自分で否定しきれなかったから彼は今、料理の世界から離れたこんな中途半端な場所に居るのだ。
「わからないわ。勝負っていうのは、実際に始まるまで何が起こるかわからないし、もしかしたら何かが起こるかもしれない。だから、わたしは戦って試してみたいの。それに……」
「……何?」
「さっきあなたは『これが現実』とか言ってたけど、都合の悪いことや、うまくいかなかった事全部に『現実』ってレッテル貼るなんて、そんなのつまらないじゃない? 案外上手くいくことも、楽しいことも、全部現実のうちよ」
「……」
反論がなかったわけではなかった。
しかし言葉が出てこなかったのである。何を言っても、どこか薄くなってしまう気がして、どうしても口に出せなかったのだ。
塩谷始音は、完全に、今日会ったばかりの少女に言い負かされたのだ。これはそう言う他無い状況である。
彼は、考えを整理しようとするが上手くまとまらなかった。
そんな彼に与えられた選択肢は、そう残ってはいない。
「……先に帰る。借金は、また今度返す」
「えっ。ちょっと! 始音くん!」
塩谷は逃げるように走り去った。
そうでもしないと、どうにもまともじゃいられなくなってしまう気がしたからだ。
彼はほとんど景色も見ずに、真っ直ぐ自宅へと向かう。
(何なんだよ、あの女。何であんな化け物と意地でも戦おうとするんだよ……ていうか何で戦うことになったかとか結局聞けなかったし……ああもう! 帰ったらもう寝る! やってらんないし!)
塩谷の心はかつて無いほど乱れていた。
もう余裕を失った彼の心には、具体性をもたない焦燥感しかない。彼はもう他の事を気にしている余裕は無かった。