中華の味 -辛口な彼女は籐のようにしなやかで 2-
「えっ!? この子っ、いや、この人が!?」
塩谷は慌てて、辛籐と呼ばれた少女を見る。
左右に結んだ長い髪、鋭い目つき、平坦な口元、そしてあまり似合っていない黒スーツ。
「ええ、そうです。私が辛籐空美です。貴方にははじめまして。そこのお嬢様にはお久しぶりです」
そう、突然現れたこの少女こそが辛籐空美だったのだ。
金持ちである天川の親戚であり、連勝無敗伝説を築きあげた天才料理人である辛籐空美、それが彼女なのである。
塩谷は、何気に名前と功績しか知らなかったため、顔を見るのは初めてであったのだ。
(まさか、こんな子供っぽい子がここの超・激戦区を支配する辛籐空美だったなんて……)
彼は、余計な事を言うなと言われたので脳内だけで活動する。
しかし塩谷がそうしている間に、事態はどんどん進展していく。
「天川甘音さん。貴方が来ていると聞いて、私が直々にご注文を伺いに来たのですよ。貴方とは、いずれちゃんと会って話したいと思っていたので。これは丁度いい、と思って、ここまで来てあげたんです」
「そう、それは御苦労さまね。でもいいの? あなたは本来、裏方で働いてるって聞いたけど」
辛籐に対する、天川の反応は刺々しい。
どうやら塩谷が懸念していた通り、彼女らの仲は良くなさそうだった。
「いえ、ご心配なく。きちんと代理は用意してあります。私の店なので、これぐらいの自由はありますよ」
「そ、そう? でも、そんなわざわざ来なくてもいいのに。わたしは、あなたに会いに来たわけじゃなくて、ここにご飯を食べに来ただけなのよ?」
「わざわざ戦う相手の店に、ですか? まあ、いいでしょう。ところで、貴方と一緒に居る、そこの失礼な人は誰ですか? 見かけない顔ですね」
「……それをいちいちあなたに教えるとでも思ったの?」
天川が放つ言葉の温度が下がっていく。
どうやら、この二人は想像以上に対立しているようだった。
塩谷は、いつの間にか自分が話題の中心になっていることに気が付き、びくびくと怯えながら事の成り行きを見守る。
だが、いつまでも傍観者ではいられなかった。辛籐が、身体の向きを変えたのだ。
「じゃあ聞く相手を変えましょう。そこの失礼さん。貴方は一体何者ですか? 喋っていいですよ、私が許可します」
「ええ!?」
塩谷はどうするべきか考える。
天川は、じっと塩谷を睨み「言うな!」というオーラを発していた。
しかし、辛籐の方からも無言のプレッシャーもあった。
気がつけば板挟みになっている。
(どうしてこうなった……)
塩谷は頭痛に悩まされながらも、ひとまず無難な答えだけを返しておくことにした。
「えっと、僕は天川さんと同じ学校に通ってる塩谷という者で……今日は、たまたま誘われて……」
「誘った? このぼっちが、ですか? へー、意外です」
「え、ぼっち?」
「ちょっと!」
天川がテーブルを叩き、流れを中断させる。
どうやら触れられたくない話題だったようだ。
辛籐は、嗜虐的な笑みを浮かべるがすぐに表情を作りなおし、営業的な笑みを浮かべてくる。
「まあ、いいでしょう。さて、そろそろ注文を聞きましょうか」
「……むぅ」
天川が、いかにも面白くなさそうな声を上げる。
恐らく怒りをかわされたような気分で、ちょっと頭に来たのだろう。辛籐がその様子を楽しそうに眺めているあたり、もしかしたら確信犯なのかもしれない。
塩谷はそんな空気を緩和させるため、ひとまず注文の流れに乗っかることにした。
彼は料理名がわからなかったので、メニューを指さしつつニュアンスで口にする。
「え、えーっと……僕は麻婆豆腐大皿(千八百円)と、あとこの一口メニューの餃子(二百三十円)と、エビチリ(二百三十円)と、このちっこい肉まん(二百三十円)と、春巻き(二百三十円)と、プラス、ご飯大盛り(百五十円)でお願いします……あ、すいません。やっぱり春巻きやめていいですか?」
やはり出費が大きいと考えた塩谷は、泣く泣く春巻きをキャンセルする。断腸の思いとはまさにこのことだろう。しかし仕方がないのだ。
この店の料理は、塩谷が普段利用している定食屋よりも何割か増しの値段となっているのだ。高い。これは仕方ないとしか言いようがない。
「わかりました。反芻はしませんよ。私は完璧に憶えられるので。で、そこのお嬢様はどういたしますか?」
辛籐の視線を受け、天川は一瞬嫌そうな顔を浮かべる。
だが、ずっとそうしているわけにもいかないと思ったのだろう。彼女もメニューを見て、一つ一つ料理を挙げていく。
「……わたしは、この燕の巣の餡かけ(一万九千五百円)と、このピリ辛っぽそうなチャーハン(千百十円)と、杏仁豆腐(六百円)と……」
(こいつ!)
塩谷は、驚異の資金格差に驚きを隠せなかった。
彼としても既に天川が金持ちだということは判明していたので、こういった事もあり得るのだとある程度は覚悟していた。だが、それでもやはり実際に目にしてみると、想像以上のインパクトにたじろいでしまう。完全に甘く見ていた。
塩谷も、料理人時代はかなりの額を稼いでいたが、今はわけあって有り金をほとんどなくし家族からの小遣い制になっている。
そのため天川のお金の使い方が、正直羨ましかった。
(というか天川さんメニュー読めるよね? 何でニュアンスで注文してんの?)
塩谷の不満は溜まるばかりだ。だが、その怒りは長続きしない。
「あと、一口メニューの春巻き(二百三十円)一つで……」
「えっ、それ頼むんだ、意外」
「何言ってるの? これはわたしから、あなたへのオゴリよ。これぐらい、払ったうちにも入らないから安心しなさい。まったく、眼の前でそうやって禁欲されると、逆にこっちが気になるのよね」
「えっ本当にいいの? ありがとう、天川さん……!」
以前、塩谷は天川を鬼と称したが、この時ばかりは天使に見えたという。
彼は正直、女に奢らせるのはどうかなと一瞬迷ったが、しかし、こういう好意を無為にするのもまた嫌だったのでとりあえず今は甘えることにした。
それに、彼だってお金さえあれば春巻きが食べたかった。この借りはいつか返せばいい。
塩谷は、楽観視と共に堕落する。
「ありがとう、本当に、ありがとう!」
「別に気にしなくてもいいわ。元を正せば、今日はわたしから誘ったわけだし」
こうして二人は注文を終える。
「では、注文は以上でよろしかったでしょうか?」
辛籐が悪戯っぽい笑みを浮かべ、問いかけてくる。
その質問には、何か含むものがありそうであった。
けれども塩谷にはその意味がわからなかったので、ひとまず同意しようとする。
だがその問いに、天川が返答したところから流れは変わる。
「待って。そういえば気付いたのだけれど、ここのメニュー、一つだけピンイン以外のものがあったわよね。それを大皿でお願い」
天川は不敵な笑みを浮かべる。
わざわざ大皿で頼んだということは、それだけの量が必要な程の料理なのだろうか。塩谷の邪推に答える声は無い。
その代わり、辛籐の表情が笑みへと変わる。
「かしこまりました。それを頼むなんて、やはり貴方は面白い人、ですね。いいでしょう。では、道の終わりを教えてさしあげます。楽しみに待っていてくださいね」
「道? 何よそれ?」
「道は、道ですよ……貴方たちが歩む、私へと至る道です」
辛籐は心底楽しそうな笑みを浮かべ、店の奥へと戻っていく。見ようによっては、天川が頼んだ最後の料理には「何か」があるようだとも考えられる。
塩谷は、一人だけ蚊帳の外のような疎外感を味わう羽目になってしまっていた。なので少し心もとなくなり、天川に問いかける。
「ちなみに、そのメニュー、なんて書いてあったのさ?」
一つだけピンインでないのなら、それは必然的に中華的なネーミングではないはずだ。中華専門店なのに。
塩谷は、それが気になって仕方がなかったので、ひとまず聞いてみることにしたのだ。
それに対し天川は、微笑を浮かべてこう答えた。
「THE END OF ROAD。道の終わり、よ。どういう意味かはわからないけど、この店の名前と同じね。ま、中途半端に格好つけたがるあの女っぽいネーミングよね」
「そっか……すごく料理の名前っぽくない上に、もう名前の時点で中華料理じゃないよね。すごいや」
「全く。同感だわ」
結局わかったのは意味深なネーミングだけで、むしろ謎が深まっただけの結果となってしまった。塩谷は少しやきもきするが結局、今考えたところで何かが変わるわけでもない。だから気持ちを切り替えていく。
兎にも角にも、こうしてしばらく二人は料理の到着を待つのであった。
待ち時間の間、二人は店内の様子をまじまじと観察していた。やはり客層は若い人達と仕事終わりの中年に偏っているが、時々家族連れや老人が来ているのも見かける。
「そういえば、ここの料理は全体的に相当辛いって聞くけど、子供やお年寄りは大丈夫なのかしらね?」
天川が普通の声のボリュームで言う。下手すれば、周囲に聞こえかねない音量だ。
塩谷は口元に手を当て、声を潜めるようにして声を発する。
「ちょっと、声が大きいよ」
「そういう喋り方のほうがかえって目立つと思うけど? 気にしすぎよ。周囲は思った以上に、こっちのことなんて気にかけてないわ。それに、わたしは思ったことを口にしただけよ? 文句を言われる筋合いは無いわ」
どうやら彼女は音量を下げるつもりはないようだ。
だが、塩谷も負けじと小声で続ける。
「いやいやいや、気にする人は気にするんだから、そういうことはあんまり大声で言わないのが無難だよ」
「そう? 仕方ないわね。じゃあ、少しだけ大人しくするわ。ありがたく思って」
(えっ、何様?)
塩谷は怒りを再燃させつつも、ひとまずは安堵する。
どうやら、このお嬢様は周囲に合わせるつもりがほとんどないようだ。
このままでは、また何か余計な事を言いかねないだろう。
塩谷はその事実を重く受け止め、警戒心を高めていく。
すると、天川が今度は少し小さな声で話し始めた。
「それで、さっきの話だけど、子供やお年寄りってどうしてるのかしらね?」
それに対し、塩谷も口元に手をそえた小声で対応する。
「ああ、そのことなら大丈夫じゃないかな? ここ、辛くないものもあるみたいだし。普通のラーメンとか、チャーハンとか」
「でもでも、ここって大半の人が辛い料理食べるじゃない? それだとお年寄りはいいとして、子供は自分だけ仲間はずれにされたと思わないかしら? 結構、子供ってそういうの気にするわよ?」
「それこそ大丈夫じゃないかな。そういう状況は今回以外にもよくあると思うし、結局は親の対応次第じゃないかな。それに、そもそも辛いのに耐性もった子供やお年寄りだっているわけだし」
「そういうものなのかしらね……」
天川のその一言で、会話は一旦途切れる。
彼女の視線の先には、喫煙席に座る子供連れの家族の姿があった。恐らく何か思うことがあったのだろう。
だが塩谷はそれとはまったく関係なしに、ふと忘れていたことを思い出す。
(あっ、そういえば状況に流されてすっかり忘れてたけど、まだ話し足りないことがあったからここまで来たのに、全然そういう話をしてないや)
天川の家族のことや、天川の料理の腕前のこと、そして正式な断りの言葉など、振りかえれば色々と話すことはあったはずなのだ。
しかし、ここで思い出せたのは幸運だ。まだチャンスはあるのだから。
塩谷は、どう切り出すか思考を回転させる。
が、その回転は強引に止められる。
「ちょっと見て、あれじゃない、頼んだの! もう来たのかしら?」
天川は、そう言って塩谷の肩をバンバン叩く。
(痛いし、うるさいなあ。まったくもー何さ)
塩谷が天川の視線の先を見ると、そこには料理を盆に載せた店員が歩いてきていた。
「えー。それは本当に早すぎないかな……? きっと違う人のだよ。これで来たとか思って、寸前で違うテーブルに行かれると切なくなるから、期待はしない方がいいと思うよ」
「そうかしら? 店員の視線の動き、歩く方向、持っている料理、周囲の客の状況、そのどれをとっても、わたしの頼んだ料理がここに運ばれてくる結果しか見えないわ。賭けてもいいわよ」
「まさか、そんなことがあるわけ……」
言った瞬間、彼らのテーブルに料理が置かれた。
それは先ほど二人用で頼んだ「麻婆豆腐大皿」と、塩谷の頼んだ「ご飯大盛り」だった。
大皿の方は塩谷が想像していたよりも量が多く、皿をテーブルの中央に置くとほとんどのスペースが占拠されてしまった。
ご飯の方は普通サイズの茶碗だったが、いかんせん山盛りになっているせいで、すごいボリューム感である。
店員は二言だけ発し、それを置いて去っていった。
「……すご。わかるんだ、こういうの……」
「何言ってるの? こんなの簡単よ。ま、細かい話は後にして、まずは食べましょ! 麻婆はこのまま二人で摘む形でいい?」
「うん、いちいち小分けするのも面倒だしね。じゃ。食べてみようか」
「そうね! これは楽しみだわ!」
天川はまず使用してない食器を用いて、麻婆のちょうど中心に一本線を引く。どうやら、これで二人ぶんのテリトリーを決めたようだ。
「じゃ、いただきまーす」
そうして、天川は当たり前のように食べ始める。
どうして一番時間がかかりそうな物が最初に来るのか、塩谷は疑問で疑問で仕方がなかったが、しかし今の気持ちはそれどころじゃなかった。
赤くて香辛料の匂いがたまらない麻婆豆腐に、思った以上に山盛りだった白米。見事に美しい紅白だ。これらが来たお陰で、塩谷の心は弾む。
「……うん。おいしそうだ……」
「そうね」
「……」
既に食べながら生返事する天川を無視し、塩谷は早速料理の観察から始める。
その麻婆豆腐はまるで赤いマグマのようだった。というのも香辛料の量が多いのか、全体的に赤いのだ。
ひき肉の量も多く、それが何とも溶岩のドロドロ感を彷彿とさせる。独特の香ばしい香りが強烈な香辛料の香りと絡み合い、これだけでそこらの麻婆豆腐とは別物だという実感がわく。
いかにも辛そうだ。豆腐の白さがほとんど確認出来ないほど、全てが赤く染まっていた。
(うわぁ。なんというか、すごい料理が来たもんだ。これは絶対辛いだろうなぁ)
ちなみに塩谷が考えている間、天川は既に黙々と食べていた。
レンゲで大胆に豆腐を拾い、一気に口に放り込み、ほとんど咀嚼しないうちに次のものを口に入れている。
「うん、美味しいわこれ! ……い、いや、違ったわ。ま、まあまあってことかしら。うん、辛すぎるもの。これはまあまあね」
などと本人は言っているが、その間、手の動きはほとんど止まっていなかった。食べながら喋っている。その上、この期に及んでまだつまらないプライドにこだわっている。
塩谷はそんな彼女に呆れつつも、ひとまず観察を終えて、自分も食器であるレンゲを手に取る。
「さて、僕もいただきます」
彼はレンゲで、多くのひき肉ごと豆腐を掬いあげる。
口元まで持ってきて匂いをかぐと、辛味を連想させるピリッとした香りが鼻をついた。
その香りを三秒だけ堪能し、塩谷はようやく口を開け、麻婆豆腐を口内へと入れる。
(む。これは……!)
まず感じたのは圧倒的な辛さだ。
やはり赤い色に恥じぬ辛味があり、塩谷は全身の汗腺が開くのを抑えきれなかった。体中が一気に熱を帯びる。想像を絶する辛さだ。
しかし、それはコクのある辛さというか決して一本調子ではない辛さであった。時間が経てば経つほど旨味が引き出されていくような不思議な味である。
使われている豆腐が良かったのか、噛むときに生じるほんの少しの弾力が何とも心地が良かった。
咀嚼するにつれて、きっちり炒められたひき肉の旨味や、ネギの爽やかな風味が口の中に広がっていく。それもこのひき肉は、豚ではなく牛肉であった。お陰で味の深みが全然違う。
(そこはかとなくジューシーな感じがするというか、うん、普通に美味しい……なんというか、普通に。うん、普通に美味しい)
全体的に豪華な感じのこの麻婆豆腐は、一口でかなりの充足感が得られるようになっていた。
塩谷は味を堪能するため何度も噛み、ゆっくりと飲みこむ。全身がカァっと熱くなる。じっくり食べたせいか口内が少し痛んだが、その痛みすら少し心地いいほどであった。
(さて、こういう時のために頼んでおいたご飯だ)
ご飯は、洋風のデザインがなされた茶碗から上にはみ出すように盛られていた。茶碗二つぶんの量はある。米は真っ白で、普段塩谷が家で食べているものよりもどこか上品に見える艶があった。ほくほくと蒸気の煙を上げ、まるで炊きたてのようないい匂いを放っている。
塩谷は熱のある茶碗を持ちあげ、丼物でも食べるように一気にかきこむ。口の中にまだ残る先ほどの麻婆の味を反芻しつつも、ふっくらとした米の食感も楽しむ。お米ほど、たくさん噛んで得する食べ物はない。彼は、さっき以上に念入りに噛む。こうしてお米を堪能した彼は、来た時に置かれていた水を手に取り、喉に流しこむ。
「ふぅ」
一息。
何だか日々の疲れさえも飛んでいってしまうかのような吐息が出てしまった。塩谷はまだそんなに食べていないにも関わらず、現時点で既にかなりの幸福感を得ていた。
「何よそれ、親父くさいわね!」
「いいんだ、僕はこれで……」
「ああ、そう……」
天川にそっぽを向かれるが、塩谷に後悔はない。
こういう幸せを噛みしめる瞬間というのは、人生に必要不可欠なものだからだ。
それを親父くさいといって切り捨てるのは、あまりにナンセンスである。
(さて。もう一口……って、お?)
塩谷がふとした時に横を見ると、こちらに向かって歩いてくる店員の姿が見えた。
店員が春巻きを持ってきたのだ。
何となく食べるタイミングを無くした彼は、ひとまずレンゲを置いて、食器を避けて春巻きを置くスペースを作る。
こういうのはいくら放っておいてもやって貰えるとはいえ、何となくやっておくべきだと思ってしまうのが日本人たる故か。
こうして、塩谷のメニューは一品増える。
塩谷は何よりも先に天川に礼を言うべきだと思い、すぐに手をつけることはない。
「天川さん、ありがとう……ゴチになります……!」
「いいわいいわそんなの」
春巻きは少し遅れてきただけあり、あったかそうな蒸気を漂わせている。これは美味しいだろう。時間を置くのはもったいない。礼義的な面もあるので、まさに今食べるのにはうってつけだろう。
塩谷は一つしかない春巻きを箸でつまみ、口まで持っていき、そっと一口齧る。
「あふっ、熱……」
やはりと言うべきか、中は想像以上に熱かった。
もちろん味は大して特筆するほどのものではなかったが、それでもこのボリュームのお陰で満足感が大きかった。
「ああもう、ほら、水よ!」
まるでおかんのように、塩谷の水を手渡してくる天川。
だが塩谷は水を受け取りつつも、春巻きをしっかり何度か噛んで飲みこんでから、喉奥に水を流し込んだ。
「……ふう。ありがとう。助かったよ」
「いや、そこは慌てて水と一緒に料理を流し込むところじゃないの!?」
「駄目だよ。そんなことしたら、折角の味が曖昧になっちゃうからね。もちろん切羽詰まった時は一気に流しこんでもいいと思うけど、何かそういうのってあんまりやりたくないっていうか」
「へえ。うすうす思ってたけど、始音くんって、やっぱり料理に未練があるんじゃないの?」
「え?」
突然の質問に面食らう塩谷。
もちろん彼にそんなつもりはない。
ただ純粋に食事を楽しんでいただけである。
「だって、始音くんの発言を聞いてたら、時々料理に対するこだわりみたいなのが見え隠れするというか……」
「いやいや、作るのと食べるのは別だから……僕は、作るのをやめたってだけだよ」
「でもだったら、わたしにコツを教えるぐらいは良いんじゃないのかしら?」
「それは……」
天川の発言はあまりに自分勝手であるものの、しかし間違ってはいなかった。たしかに単に料理をやめただけなら、他人の手助けぐらいはしてもいいはずなのである。
しかし彼は面倒くさいという理由ではなく、料理をやめたからという理由で断った。
塩谷は、そういった綻びを突かれてしまったのだ。
(まずいな、これについてはあんまり話したくないんだけど……)
実のところ塩谷は、ここに至るまで本音を口にしていなかった。
本音を隠して話そうとするから、矛盾が生じるのだ。
実際のところはどんなポジションであれ、彼は料理を作る世界に関わりたくないのだ。
だが、それを説明するのは嫌だった。だから、こういう形になってしまったのだ。
「というか聞きたかったんだけど、始音くんってそもそも何で料理やめちゃったの?」
「!」
更に、聞かれたくない質問を重ねられる。
塩谷はどうやって説明すべきか考えるが、なかなかいい案が浮かばない。
人との関わりをなるべく避けてきた彼にとって、この状況は想定外だったのだ。
「それは、えっと……」
いつの間にか、調理室とは間逆の構図になっていた。
塩谷は、意図せずこうなってしまったことに歯を噛みしめながらも、どうにかしようと思考を巡らせる。
だが、数秒してその必要はなくなる。
「あ、どうもー!」
天川が突然朗らかな声を上げる。
何故ならば、店員が来て料理を置いていったのだ。
これは天川の頼んだ『燕の巣の餡かけ(一万九千五百円)』だ。まさに高級食材である。
「うーん! これも美味しそうね。まあ。そういう話は後でもいいわよね! まずは食べましょう」
これによって天川のテンションが変わり、塩谷は心底安心しつつも、あそこで何も言えなかった自分に歯がゆさを感じる。
それから少しして塩谷が頼んだ料理も届き、テーブルの上はほとんど隙間を無くす。
「おお、これはちょっとした満漢全席みたいだね」
こうして二人は食べる。それらの料理を全てだ。
結果として、麻婆豆腐以外の料理は大体平均程度の味であり、正直全部が全部ハイレベルというわけでは無かった。だが、それでも塩谷は溢れる不安感を抑えきれなかった。
気を抜くと忘れてしまいそうになるが、天川はこの料理を作る女に勝利しなければならないのだ。
塩谷は思う。今の天川の、ゴミと言ったらゴミに失礼になってしまうような性能では絶対に不可能であると。
塩谷はそんな不安に一人悩みつつも、それをふっ切るように勢いよく食べる。それから少しした後、天川のデザートである杏仁豆腐も届く。
どんどん二人は食べていく。
そして、完食する。
だが、それは単なる始まりに過ぎなかった。