辛籐の店 -辛口な彼女は籐のようにしなやかで 1-
激戦区というものが存在する。
それは、一つの通りなどに複数の同系統の店があるせいで生じる、客の取り合いになってしまうエリアのことだ。経営側にとってはまさに戦わなくては生き残れないような戦場である。
この街にもそれは存在し、今日も多くの店が己の存続を賭けて戦っている。近年では食事処の激戦区が過去に比べて非常に多くなっていて、この街では日夜お食事店による生き残りを賭けたバトルロワイヤルが繰り広げられているのだ。
そのため、この街ではそういう料理系の店の寿命が非常に短くなっている。
だがこの世界にはそれすら超える超・激戦区という、まさしく戦場エリアも存在していた。それは完全に同系統の店がいくつもいくつも隙間なく並ぶ通りのことで、そこでの勝利はまさしく栄光を意味する。
天川が行こうと言ったのは、そんな超・激戦区の中、何年も近隣一帯の王者として君臨している店であった。
「んー、いい香りがしてきたわ! これは期待出来そうね!」
「ああ、うん……」
二人は、その今まさしくその超・激戦区を歩いていた。
少し遠出だったためか、学園からの移動の際に日は暮れてしまっていた。
夜の澄んだ空気に乗せられ、何らかの料理の芳しい香りが漂ってきている。
「うんうん! この感じよね! これでこそ中華って感じだわ!」
「まあ、うん。そうだね……」
今回、彼らが来たのは中華料理系の店舗が集まる超・激戦区だ。
それぞれの店が煌びやかな光を放ち、夜の街を照らしだしている。
人通りも多く、ここら一帯はとても賑やかだ。
「いや、しかし、まさかこう来るとは思わなかったよ……」
塩谷は、この状況にため息を吐く。
補足しておくと、彼は別に中華が嫌いなわけではない。
この低いテンションの理由は他にあるのだ。そして、ちょうどその原因である目的地の店の外観が見えてきて、塩谷は余計に気持ちを盛り下げてしまう。
「なに、不満? そんなに怖がるところでもないわよ?」
「逆に、君は何でそんなに余裕なのかな? 僕はもう既に嫌な予感しかしないよ」
「そうは言うけどあなたも納得したじゃない……それにしても、わたしも初めて来るけど、ここがあの女の店なのね……なんというか、性格がにじみ出てるわね」
二人の歩む先に見える店。それこそが今回の目的地だ。
その店は、他と比べて明らかに異常なオーラを放っていた。
この超・激戦区は中華系の店がそろっているだけあって、やはり多くの店の外観は赤や金など目立つ色ばかりだ。しかしそんな中、その店だけは違った。
そこは落ち着いた茶を基調とした外観の、洋風な店であった。加え、全体的に煉瓦造りを模したデザインとなっている。
どこか気取ったお洒落な感じの外装といい、全体的にカフェのような雰囲気である。それも結構な大型だ。なかなかの面積があるため、見るものに圧迫感すら与えてしまう。
それは。見るからに周囲に染まるつもりのない空気を放っており、客層も何処か上品な空気を醸し出している。
まさしく異界だ。
店の左右には隣の店を押しのけるように、巨大な駐車場が用意されていた。そこには大量の車がつまっていて、空いている箇所が見当たらない。それを見ただけでも、圧倒的な人気が見て取れる。
だがその駐車場は、隙間の少ない超激戦区の中で珍しい空白とも呼べるスペースであり、若干不自然だ。それに加え駐車場内には、まるで以前に建物が存在していたかのような痕跡が見られた。
もしかしたら元々そこにあった店が潰れて、駐車場になったのかもしれない。そして、この駐車場は「この店専用」と書いてある。
それを見て、塩屋は嫌な想像を膨らませてしまう。
全てにおいて、この店だけが異様な空気を放っていた。これこそが、まさしくここら一帯を支配する絶対王者の姿なのであった。
「はあ、騙されたよ。君が、中華料理店に行きたいって言った時点で気付くべきだったよね。言われてみれば、辛籐空美の得意料理は中華だったっけ。本当に、まさかこう来るとは……」
「騙したなんて人聞きの悪い言い方はやめて! それに、どうせ何か学ぶなら絶対この方が経験値になるじゃない」
「だからと言って、料理対決する予定の相手の店に行くなんて、並の神経なら出来ないと思うけどね……僕なら無理だ」
その店は、あの無敗伝説を築き上げた『不落嬢』辛籐空美の店であった。
店の名前は、なんとアルファベットの筆記体で「The end of road」と書かれている。まさに洋風だ。
パスタでも売ってろ、と言われても文句の言えないこの店は、あろうことか中華料理の専門店なのだ。空気感や統一性など、完全に無視しているデザインだ。
彼らは今夜、ここで夕飯をとるのだ。
「というか一応先に聞いておきたいんだけど、君と辛籐さんってどんな関係なの?」
対決するぐらいなのだから、もしかしたら仲が悪い可能性もある。
塩谷は、それだけは勘弁してくれという思いと共に問う。
「ん、言ってなかった? わたしと空美はただの親戚よ」
「だから、何で言ったつもりになってたのさ。完全に初耳だよ」
「あ、そう? でも、本当にただそれだけだから、あなたはそんなに気にしなくてもいいわ」
「ああ、うん……」
天川は、この件についてあまり話したくなさそうだった。
先ほどの家族の件といい、どうやら彼女の身内についてはあまり言及しない方が良さそうであると塩谷は考える。
ただし彼としても深く首を突っ込むつもりはないが、きっと何かあるのだろうと推測だけはしておく。地雷を踏まないためにもだ。
「ま、ここで話していても何にもならないわ! さあ、入りましょう! ほらほら行くわよ!」
「あーはいはい、わかったよ。ちょっ、自分で歩くから! 引っ張らないでよ!」
塩谷は、天川に右腕を引っ張られながらも店に連れて行かれる。歩いている途中で突然腕を掴まれたので、何度も転びそうになりながらの連行という形になってしまった。
近づくにつれて、何故か珈琲の匂いが鼻腔をくすぐる。本当にカフェのような空気感だ。
これが単体なら大して気にもならないだろうが、あいにくここは中華の超激戦区なので非常に違和感を覚えてしまう。
この店は、煉瓦造りを模しているデザインではあるものの入り口付近は木製で統一されており、そこにある壁、扉、小窓は全て上品なこげ茶色で彩られている。窓から見える店内の様子も、落ち着いた淡いオレンジ色の照明が照らす、お洒落な別世界だった。
塩谷は改めて、ここだけが異界化しているという事実を実感する。
そして、そうこう考えているうちに店のすぐ前までたどり着く。
「じゃ、行くわよ!」
「ちょっ待っ……」
天川は躊躇いも無く、これまた立派な木製の扉を開け、店内へと侵入する。
塩谷の耳には来客用のベルの音がこびりついてしまい、しばらく離れなかったという。
店内は更に異世界だった。
塩谷は目を見開き、口をあんぐり開けて仰天する。
「英国……!?」
店内は、あまりにも日本離れしていた。
まず、全体的に年季の入ったインテリアが多く、まさにアンティークまみれの世界であった。
それらの品は薄暗いオレンジの照明とよくマッチしており、それが不思議と気品を漂わせている。
床や壁、テーブルや椅子、あらゆる物のデザインが日本離れしているのもあり、ここはどこか貴族の住む世界のような雰囲気が展開されていた。おまけに上を見れば、小さな、しかし趣向を凝らした形のシャンデリアがぶら下がっている。
塩谷は、突然上等なホテルに連れて来られた貧乏人のような心情になり、そわそわする気持ちを抑えられなかった。
テーブルや椅子は、複数の種類のものが不規則にならんでいた。
凝った彫刻が刻まれた丸いテーブルにそれとセットの椅子があったかと思えば、今度は四角く背の低いテーブルと、年季の入っていそうなソファの組み合わせがあったり、かと思えば、長テーブルにずらりと椅子が並べられていたり、しまいにはどこかバーを彷彿とさせるカウンター席があったりなど、この店の席はバリエーション豊かで統一性がまるでない。
だが、それが不思議と「生活感のある上品さ」を上手い具合に演出しており、結果としてそこまでちぐはぐな印象はなかった。
二人は店に入って数分待たされた後、スーツを着こなした店員に案内される形で丸テーブルの二人席に腰を下ろす。
「……すご。ここ、本当に中華料理なんだ……意識してないと何の店かわからなくなってくるや」
塩谷が周囲を見渡すと、嫌でも他の客が目に入る。
順番待ちがあっただけあり、満席だ。客層は見たところ若い男女に偏っていた。
その他には、いかにも仕事終わりといった姿の中年サラリーマンが麻婆豆腐を突っつきながらウイスキーを飲み交わしていたり、スーツを着た神経質そうな女性が杏仁豆腐をテーブルに置いたまま珈琲片手に書類と睨めっこしていたりなど、主に仕事あがりであろう人間が多かった。
(豆腐ばっかり。そういえば、この激戦区はオフィス街と駅にちょうど挟まれるような立地だったんだっけ)
だから超激戦区なのかと一人納得する塩谷。
ちなみに天川はと言うと、彼女は周囲に眼もくれず、ひたすら店員から渡されたメニューを熟読していた。
だが天川は突然、メニューをテーブルに勢いよく叩きつける。
塩谷が驚き、天川の方を見ると、彼女はどうにも不機嫌そうな顔をしていた。
「ど、どうしたの……?」
「読めないの……このメニュー読めないのよ!」
「はい?」
渡されたメニューは二種類あった。
片方は少し厚めの写真がついているもので、もう片方は少し薄めの文字だけが書いてある簡易なものであった。それが各一人ずつに配られたのはいいのだが、どうやら天川は文字の方を読んでいたようだ。
「そんな、まさか読めないなんてことは……どれどれ」
塩谷も、薄い方のメニューを開く。
するとそこには、筆記体のアルファベットのみの一ページがあった。
「……日本語じゃないんだ。何これ、英語?」
「そんなわけないでしょ! わたしだって英語ぐらいわかるわよ。でも、これは英語じゃないわ。フランス語もイタリア語も違うわ。アルファベットを用いる言語をいくつかマイナーなものを含めてあげてみても当てはまらないし。本当に何語かわからないの」
「へえ、でも、だったら何だろうね」
塩谷は、地味にスペックの高さを見せつけた天川に多少驚きつつも、少し考える。この店の名前は完全に英語だったので、ここに書かれているのが英語じゃないというのがどうも腑に落ちなかったのだ。
それに、このメニューにはどこか違和感があった。それがどうにも気になってしまう。
しかし、考えたところで答えが出るわけでもない。彼は思考を放棄し、適当な憶測で満足することにした。
「なんだろ、わっかんないや。案外、中華料理だから中国語だったりしてね」
そう言って笑いかける塩谷だったが、それに対する天川の反応がおかしかった。
目を見開き、右手で口を覆い、左手で塩谷を指さしてきたのだ。
何だ何だと塩谷が思った時、天川がテーブルごしに身を乗り出してくる。その唐突な態度に、塩谷は驚いた勢いで椅子を引いて身構える。
「うおっ、何さ!?」
「それだわ! そう、読み方がわかったの! mapodoufuとか、これ、全部ピンインじゃない!」
「ピンイン? 何それ」
「簡単に言えば中国語の読み方をアルファベットで表したものよ。しかしアレね、漢字が無いだけでこんなに面倒くさくなるものなのね」
「へぇー。色んな言葉知ってるんだね。というか、そう言われて改めて読んでみると、何かローマ字みたいだね」
塩谷は、再度メニューを読み直す。
もちろん意味はわからないので全然何が書いてあるかを把握出来ないのだが、しかしこういった発見は面白いものである。
だがそんな彼とは対照的に天川は真剣にメニューを睨み、何か考え事をしているようだった。
「にしても、あれね……このメニュー」
「ん。何さ?」
「なんかこう、絶妙なダサさがあるわね!」
「うわぁ。急に何言ってんのさ……」
突然何を言い出すのだと、塩谷は呆れた吐息を漏らす。
どうやらさっき考え事をしていたのは、この件についてだったようだ。
「別に僕は気にならないけどなぁ。よくわかんないし」
意味のわからない文字の羅列はどうしてもどれも同じに見えてしまう、というのが塩谷の感想だ。
「でも、どこか違和感ない? 中途半端にローマ字っぽい感じとか、違和感の塊みたいなものじゃない」
「……ああ、そう言われると少しわからなくもないかなあ。ダサいとまではいかなくても、違和感はあるかも」
そう。塩谷が感じた違和感とは、その中途半端さだったのだ。
ローマ字のようだから一見親しみやすそうに見えて、実態は全く別物だという違和感。
「でしょ!? あと中途半端に西洋風にしている感じが鼻につくわよね。筆記体でわざわざ読みにくくしているあたりも、これ、売る側の態度としてはどうなのかしら。ゴミみたいよね」
「いや、何もそこまで言わなくても……」
天川が勝手にヒートアップしていくので、とりあえず諌めておく。
すると意外なことに塩谷の一言だけで、彼女は少しテンションを落ち着かせる。
「でもこれ、多分製作側はノリノリで作ってると思うわ。あの女は、こういうノリ大好きだから」
「へぇ、結構仲いいんだね」
「そうでもないわ。ただ、お互いに、趣向や傾向を知ってるってだけよ」
「へえ、何それ。どんな関係?」
塩谷は興味本位で訪ねてみる。
しかしその行為は天川が向けた左手に制され、勢いをなくす。それから彼女は、まるで追撃のように視線と言葉を放ってくる。
「ちょっと落ち着きましょ。すっかり忘れていたけど、まず先に何か頼まない?」
だが、それは想像以上にもっともな意見であった。
「たしかに、そういえばお腹減ってたの忘れてたよ。ごめんごめん」
そんなこんなで、二人は改めてメニューを見返す。
今度は写真付きの方だ。
(さて、どうするかな……)
塩谷は考える。
折角ここまで来たわけだから、ここでしか食べられないような品を頼むのが研究的にも満足度的にも適任だろう。
ならば、ここはやはり辛籐の得意料理と噂の麻婆豆腐を頼むべきだと判断する。
しかし、そうするのであれば天川も口にした方がいいだろう。戦うのは彼女なのだから、絶対にそうしたほうがいい。自分の舌で敵のスタイルを見極めるのは、料理対決においてかなり重要な要素である。
だとすると、いっそ大皿を頼んで二人で分けた方が効率がいいだろう。彼はまず、それを提案してみる事にする。
「ねえ、天川さん」
「ん?」
「ここで評判の麻婆豆腐だけど、研究のためにも満足のためにもこれは欠かせないと思うんだ。だから、大皿で……」
「いいわ、分けましょう! なら、もう一品何か共用に欲しいわね。こっちで選んでおいてもいいかしら?」
意思疎通はあまりにも早かった。塩谷は全部言わなくても通じることに驚くが、兎にも角にもありがたいと思い、お礼の笑みを浮かべる。
「そうしてくれると助かるよ。ありがとう」
こうして、お互いのメニューが決まっていく。
こうなってくると重要なのが、自分は個別に何を頼むか、だ。
折角いい店まで来たのだから、そこらに売っているような料理はあまり食べたくないのが人情だ。特に辛籐はムラのある料理人であるため、当たり外れの概念は確実にあると考えていいだろう。
そうなってくると、彼女が得意とする辛い食べ物を頼むのが妥当である。
(坦々麺、エビチリあたりが良さそうかも。いや、でも麺類にエビチリってのはどうなんだろう……?)
と、ここで目に入るのが、いかにも辛そうにアレンジされたチャーハンであった。
これならば妥当なようだが、流石に坦々麺とは両立出来ないだろう。エビチリとの相性も微妙に悪そうだ。ここでまた思考を巡らせる塩谷。
そして、彼は今頃になってようやく組み合わせについても意識をまわす。
(そうか、麻婆豆腐を頼むなら、こういうご飯ものの方が相性良さそうかな。いや、どちらかと言うと、付け合わせとしてなら案外辛くないものの方がいいのかも。たしか、ここの麻婆は辛いって聞くし)
彼はそこまで考え、ページをめくって今度はあまり辛くない主食類を探す。
(一番オーソドックスなところで、ご飯ものなら白米、汁物ならギリギリだけどお粥とかラーメン、小皿系ならこのちっこい肉まんみたいなのかな)
塩谷はその正式名称「包子」という、小さな肉まんのような食べ物に意識を向ける。本場ではこれが主食になる時もあるらしいと、塩谷は昔どこかで見たテレビ番組の内容を思い出す。ならばこれも主食だ。
複数の主食類は思いついた。となると次はどれが一番、決定されたオカズと相性がいいのかという方向に思考を動かす。
(やっぱり僕は日本人だし、一番落ち着くのはご飯系なんだよなあ。でも、それじゃ当たり前すぎるっていうか、ここまで来た意味がなあ。うーん、困った。いっそ思い切って、普通のチャーハンでも頼んでみるかな)
そこで彼はチャーハンの値段を確認する。九百二十円だ。高い。塩谷的には死ぬほど高い。自分の今の手持ちが五千円なので、これは結構な痛手である。
というかこの分だと、そこまで多くの品は頼めないという事実を今更ながら認識する。麻婆は二人で割り勘だからいいとしても、そこにもう一品増えるなら負担も大きくなってしまう。
これでは定食類も厳しいと考えていいだろう。
どうしたものか、塩谷の顔が思案で歪んだ。
だが、そこに一筋の光明が差し込む。
「じゃ、わたしはラーメン大盛りでいくわ!」
全く悩む素振りを見せない天川の発言。
しかしそれは、塩谷の心を大きく揺さぶることとなる。
(大盛り!?)
塩谷は、サイズがある程度調節出来るという事実にここで初めて気がつく。写真付きのメニューも字はピンインで書かれているため、そういった事がわからなかったのだ。
だが天川に聞いてみた結果、中には量を調節出来る料理もあることがわかった。それを考えると、もっと量を減らせば品数の方を増やせるという事実が明らかになる。
となってくると、今まであまり意識していなかった小皿類も意味を持ってくる。どうやらここには「一口メニュー」というものがあるようで、小皿一つあたりの量がかなり少ない代わりに値段がほぼ二百円台に統一されているような代物のようだ。
これは、少ない金額で品数を増やすのにはうってつけの要素だ。
もちろん一口とは銘打っていても、文字通り一口で済む量ではない。でないと二百円台なんてぼったくりもいいところだ。
塩谷は歓喜するが、同時に一つの疑念を抱く。
そう。それはさっき、天川が躊躇いなくラーメンと言ったことに対してである。
「と、いうか、ちょっと待ってラーメン!? 本気で言ってるの? 麻婆頼むんだよ! 辛いと評判の、この店の麻婆だよ! 辛いものに熱いものって、口の中のことも考えた方が……」
「いいのいいの。デザートに杏仁豆腐頼むから」
「随分安易なチョイスだね。本当に真面目にメニュー読んでた? そうじゃない、そうじゃないんだよ。後から冷やすからいいだとか、そういう問題じゃないんだ。口が痛くなって、ラーメンの味がよくわからなくなることに問題があるんだよ。いや、君の注文だから僕はあまりケチをつけたくないけど、でも、ここには研究のために来た目的もあるわけで……」
「あーもう! わかったわ、わかったから。何か他のに変えればいいんでしょ? ったく、料理のことになると急に口うるさくなるわね始音くんは……」
「はっ!」
塩谷は、いつの間にか熱くなっている自分に気がつく。
これが食に対するこだわりのせいなのか、それとも料理をきちんと食べて欲しいという料理人としてのこだわりがまだ残っているせいなのか、彼自身には判別出来ない。
ただ、今わかることは一つだ。
それは塩谷始音は結局、この世界に関わる料理人の目を捨てきれてはいなかったということだ。
塩谷はその事実に気付いて落胆しつつも、悩みに悩んで遂にメニューを決めるのであった。そして、彼らは備え付けのボタンで店員を呼ぶ。
数秒待って、一つの人影がこちらへ向かってくるのが確認出来た。その人物はこの店の制服である黒スーツを身に纏っていたため、間違いなくここの店の人間であることがわかった。
だが、その人物には不思議な点が存在した。
「女の子……?」
その人は女性店員だった。もちろんそれ自体は何も不思議ではない。
しかし、長い髪を左右で結んだそのシルエットは、どうにもこの店の雰囲気とミスマッチであった。
「ていうか、なんか妙にちいさいような……バイトさんかなぁ」
塩谷が思わず感想を口にする。
彼が言った通り、その少女は背が低かった。塩谷と比べて頭三つぶんぐらいは小さい。
少女が近づくにつれ、その全貌が明らかになっていく。
日本人離れした端正な顔立ち、ドスの利いた鋭すぎる目つき。それらがまず目に入る。
(というか、もしかして、僕、睨まれてる……?)
彼女の視線は、どう見ても塩谷に注がれていた。
圧倒的に感情のこもった視線。彼はそれを感じ、少し身震いする。
そして訪れる一瞬の間。
それを経て、店員である少女の平坦な唇が動いた。
「いらっしゃいませ、お客様。早速ご注文を……と、言いたいところですが、その前にまず一つ、言っておかねばならないことがあります」
「えっ?」
淡々とした口調。
しかし、芯が通ったような不思議な力強さを感じさせる声だ。
彼女は店員にしてはやけに偉そうな態度を取りながら、静かに右腕を持ちあげ、塩谷に人差し指を向ける。
「えっと、僕?」
「貴方。私のことを小さい、って言いましたよね。聞こえていましたよ。いきなり失礼な人ですね。私はこれでも高校生です。次、余計な事を言ってみてください。よくお客様は神様と言いますが、言った瞬間貴方は神様じゃなくなるので」
「えっ?」
塩谷は、突然色々なことを言われたため、少しの間硬直する。
(え、何、これつまり余計なこと言ったら容赦しないって解釈でいいんだよね!? つか、この子目つき悪っ! 本当にここのバイトさんかな……でも、それにしては態度が……)
塩谷は、とりあえず憶測を始める。
だがその思考は、その後の展開によって強制的に中断させられる。先ほどまでやけに大人しかった天川が、静かに声を発したのだ。
「辛籐、空美……!」