死の料理 -地獄の始まりを告げる音-
それは、まさに地獄と呼べるような酷い有様だった。
罪を犯した人間が死後行き着く場所、それを八大地獄という。全八層の地下世界。異臭漂い鬼人闊歩する死の世界。それが地獄だ。
地獄に落ちた少年は思う。嗚呼、空が見えない、と。
赤や青、それに加え黒など、様々な色の煙が周囲一帯を満たしている。それらは全て、少し吸い込んだだけでも致死に至る地獄の瘴気だ。
ここら一帯を満たす異臭は、糞尿や吐瀉物の臭いが天使の芳香に感じる程に酷いものだ。それを言葉にして言い表すには、言語はあまりにも無力だった。それは喩えることの出来ない悪臭だ。それゆえ、これは地獄特有の臭いなのであると少年は理解した。
鍋の煮立つような音が、まるでデスメタルのように激しく鳴り響いている。鼓膜が正常に機能しなくなる程の騒音だ。そしてそれに重なる音色もあった。何かが燃え、溶け、蒸発していくような音。その響きが幾重にも重なって、まるで地獄のような空気感を醸し出している。
加え、異常な熱気。常人ならば、ただその場に居るだけで、ただ立っているだけで汗が止まらなくなってしまう程の熱量。汗はもう水滴というよりは、水道の蛇口を捻ったような滝状になって流れ出ていた。
それでも少年は動けない。
少年の前には、地獄の獄卒である鬼が居た。
髪の長い少女のような姿で、嗤いながら歩き回っている。
彼女が振りまわす刃物の音。振り落とし何かを切り落とす音。時々響く悲鳴のような音。狂ったような笑い声。それは醜悪な光景。
あらゆる生命が死に絶える世界。少年はもう少女から逃げられない。
だが、永遠に思えた地獄にも、ついに終わりが訪れた。
音が止まり、熱気がおさまり、異臭は緩和される。
けれどもそれは地獄の終わりであると同時に、一つの死刑宣告の形でもあった。これは少年の命を刈り取る儀式が始まる合図だ。
少年の心には後悔と絶望、そして解放される安堵があった。
世界の終焉。
それを経て、一つの料理が生まれた。
「さあ、完成したわ!」
鬼の少女の声、それによって少年の意識は現実世界へと引き戻される。
「……はっ!」
そうして、少年はまだ命ある高校生である自分を思い出し、現世へと意識を戻していくのであった。
「……ここは? そうか、僕、意識が朦朧として……」
少年は記憶を頼りに、現状を把握していく。
ここは私立校である伏丹高等学校。
そのとある教室で、先ほどまで、いや、今も継続して一つの地獄が繰り広げられていた。
この少年、塩谷始音は、いきなり窮地に立たされていることを思い出す。
(ああ、現実逃避してる場合じゃないかも……頑張れ、頑張れ僕。負けるな塩谷始音。僕は生き延びられる男のはず)
少年は、心の中で己の名を叫び、どうにかして自制心を保つ。そうでもしないとやっていられない。
何故なら、塩谷はこの後数分せず命の危機に晒されるからだ。
だから、どうにかしてこの状況を生き延びる必要がある。下手をすれば、死ぬ可能性だってあるのだ。
けれども、塩谷は逃げることすら出来なかった。
塩谷の座る椅子から、テーブルを挟むようにして立つ少女。先ほどまで、地獄のように料理を作っていた少女が、彼の眼の前に居るのだ。その存在がある限り、彼は逃げられない。
「さあ、どうぞ召し上がれ! どう、これ、凄く美味しそうじゃない!?」
塩谷に死を運ぶ鬼のような少女は、自信満々に腕を組みながら、嬉しそうな笑みを浮かべている。
この髪の長い少女は、塩谷にとっての処刑人だ。さっきまで鬼のようだった彼女の瞳には、不安など微塵も宿っていない。
この少女のせいで、塩谷は死ぬ覚悟を決めなくてはいけない。しかし、そんな覚悟をすぐに決めろと言われても、常人にはどだい無理な話である。
だから、塩谷はせめてもの希望に縋り、少女に許しを乞うてみることにした。
「ねえ。これ、本当に食べなくちゃ駄目かな?」
塩谷が指さしたのは、テーブルの上に置かれている料理だ。否。料理という表現は些か間違っている。何故なら、その皿に乗せられている虹色の物体は、現存しているあらゆる料理の中にも存在し得ないものだからだ。
虹色。そう。文字通りの虹色。オイルのように色鮮やかな虹色の物体。
七色に輝く、そのゾンビの腕のような形の物体は、あたかも自らが料理だと主張しているかのように皿の上に鎮座していた。
時々、痙攣するようにビクビク動いているが、これは少女曰く「新鮮な証」だそうだ。何度も指らしき部位を動かしているその姿は、まるで冥界の亡者の残骸かのようだ。
彼、塩谷始音は、これからそれを食べねばならない宿命にあった。
「いや、流石に冗談だよね。だいたい、これは何なの? 見たこともないよ」
「何を言っているの? これを食べなきゃ、わたしがどれだけ天才なのかがわからないじゃない! どうしてそんなこと言うの、嬉しくないの?」
きょとんとした顔で死刑宣告をする少女。
それに対し塩谷は、引き攣った笑みを浮かべることしか出来ない。
「あと、これはわたしだけのオリジナルメニューよ! すごいでしょ? これも天才が成せる技だわ。既存のメニューに捉われないのがわたしのやりかた! 天才故の特権よね……」
「……へえ、そうなんだ。で、でもさ。そんないい物を、僕が真っ先に味見していいの? ほら、記念すべき一口目は君が食べてもいいんじゃないかな? あ、味の微調節とかもあるだろうし」
何とか逃げようとする塩谷の発言だったが、それを受けた少女は鼻で笑う。
「愚問ね。わたしが味付けを間違えるとでも? これで完璧よ! 確かめるまでもないわ。それに、料理というのは、誰かのために作ってこそモチベーションが保てると聞いたわ。だから、これはあなたの食事よ。それを先に食べるなんてはしたない真似、わたしにはとても出来ないわ」
「あ、はあ。そう。ははは……」
塩谷は、もう笑うことしか出来なかった。
基礎も出来てない癖に何でプロ根性だけは一丁前なんだよ、という突っ込みすら出てこない。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ!」
少女が箸をトン、と置いた衝撃で、虹色ゾンビの腕の皮がぼろぼろと剥がれ落ち、同時に七色の煙が噴き出した。
「!?」
虹色の皮膚の下にあったのは、醜悪な色。具体的には、様々な色の絵具で好き勝手に塗りたくったような色合いの、血管の集合体のような部位。
その不気味な腕の「中身」は、まるで生きているかのように、何やら低い粘着音をたてながらゆっくりと蠢いている。
塩谷始音は、決してメンタルの弱い人間ではなかったが、この時ばかりは眼に涙を浮かべてしまった。
悪あがきとして、正面に立っている少女に贖罪の視線を向けるが、満面の笑みで一蹴される。
(仕方、ないか)
塩谷は覚悟を決め、箸を取る。
案外、ゲテモノほど美味しいという話も聞く。美味しい可能性だってあるわけだ。そういうモノに限って、身体にも良かったりするものだ。
もっとも、本来ゲテモノというのは調理法ではなく食材自体が特殊な場合が多く、一般的な食材を用いたものは基本的にゲテモノとは言わないわけだが、彼はその事実から一生懸命眼を逸らす。本来肉じゃが用であろう食材で作られたはずの七色の料理は、実はゲテモノですら無いという事実から全力で眼を背ける。
塩谷は眉をひそめながら、七色ゾンビ腕の二の腕あたりを箸で千切り、口へと運んで行く。
「じゃ、じゃあ。いただきます……」
その一言と共に、口の中に放り込む。
無論。言うまでも無く。これが塩谷始音の最期の言葉となったのであった。
咀嚼した瞬間、内臓が爆ぜた感触が身体中を駆けまわる。全身の細胞がどんどん消えていく死の感覚。妙な焦燥感。冷たくなっていく身体。
それが死なのだと既に知っていた少年は、諦観に身をゆだね、驚くほどの早さで生命活動を停止していく己の身体状況を把握しつつも一切抵抗する事無く、その死という概念を受け入れる。
薄れゆく意識の中、彼は走馬灯のように己の人生を振り返る。どうしてこんなことになったのか、その全てを。