三章 逃亡 (1)
テマを発つまでは繁雑な事後処理に追い回された面々も、カッシュに向かってゆっくりとケルカ河を下る船旅に入ると、無聊を慰める術に事欠く始末となった。
チェスに似たセルというゲームの盤を挟んでイスファンドとエンリルが睨み合い、カワードはウィダルナを相手に賭けゲームの一種をして、細い小さな棒状の銀貨や銅貨をチャリチャリ言わせている。
アーロンは相変わらず書物を繰っており、カゼスは一人ぼんやりとリトルを手慰みに転がしていたが、やがて飽きて甲板に出た。
船の指揮を執っているのは、カゼスが偶然助けたあの衛兵だった。実は総督府の警備隊長だったのだが、カゼスに恩義を感じてこの役目を買って出たらしい。
帰途を遮るように、しとしとと雨が降り続いている。馬を駆って陸路ティリスへ向かったダスターンも、難儀しているだろう。ティリスにしては珍しい長雨との事で、カワードなどは狭い船室に閉じ込められっ放しでかなり苛立っているようだ。
しばらく、ゆっくりと通り過ぎる岸辺の景色を眺めていたカゼスは、船室のカーテンが開閉する重い音で振り返った。
「風邪をひくぞ」
短い言葉と共に、バサリと頭上から外套が降ってくる。水を吸うと繊維が膨れ、織り目が詰まって防水の役目をしてくれる物だ。
アーロンは自分も軽く外套を羽織っていたが、頭はむきだしのままだ。小雨なので、頭まで被ると鬱陶しいだけなのだろう。カゼスも右に倣うことにした。
「読書は飽きたんですか」
並んで手摺りによりかかったアーロンに、カゼスは怪訝な顔で問うた。アーロンはため息と共に頬杖をつく。
「カワードの奴が、自分が勝てないからとふて寝してしまったのでな」
「……? 静かになっていいじゃありませんか」
「いびきが水牛並だ」
げっそりした風情でアーロンが答えたので、カゼスはふきだしてしまった。手摺りに突っ伏して肩を震わせているカゼスを恨めしげに眺め、アーロンはもう一度ため息をつく。
「寝ても覚めてもやかましい。人の害にならぬという事がない。いっそ感心しているよ、俺は。まったく、殿下もなぜあんな男に懐いておいでなのやら」
堪えきれず、カゼスは大笑いしてしまった。呼吸困難に陥るまで笑い続け、ようやっとカゼスは目に涙を浮かべたまま言う。
「他所のおじさんに懐いちゃいけません、ってわけですか」
「まっとうな奴ならば文句は言わぬが、殿下は昔から妙なものがお好きだからな」
真面目なのか冗談なのか、アーロンは諦念をにじませて応じた。カゼスはまだ肩を震わせながら、涙を拭う。
「あー、それは確かにね。私を拾ってしまうぐらいですから」
なんとか笑いの発作をおさめると、カゼスは大きく息をついてから、今度は小さくクスッと笑った。
「エンリル様ご自身も、かなり変わった人なんじゃないですか? 私はここの人間じゃありませんから価値観も考え方もかなり違いますけれど……エンリル様みたいに、自分が王太子だという事を苦痛に感じる人なんていうのは、ここでは珍しいんじゃありませんか」
「……何かおぬしに仰せられたのか?」
途端にアーロンは深刻な顔になって問う。カゼスも冗談の気分を引っ込め、微笑してはいたが真面目に答えた。
「誰かを犠牲にした事を、気に病んでらっしゃるようですね。自分の為に誰も傷ついてほしくない……というような事をおっしゃってました」
「……………」
アーロンは何事か考えこんで、川面に視線を落とした。つられてカゼスも、船縁でパタパタ音を立てている水に目をやる。
「優しい人ですよね」
返事はなかった。それ以上言葉を重ねるのも憚られ、カゼスは所在なく視線をさまよわせる。岸辺に生えている木が、黒くにじんで見えた。
薄くなっていた雲がまた厚くなり、重たく垂れ下がってきていた。甲板を叩く雨粒の音が、少し大きくなる。
「そろそろ中に入りませんか」
カゼスは言い、小さなくしゃみをした。それでもまだアーロンはしばらく沈黙し、それから不意に顔を上げた。
「カゼス、おぬしは傷を癒せるが、一度駄目になった目を元通りにすることなどは出来ぬだろうか」
「は?……目、ですか? まあ、状態によりますが……」
いきなりの言葉に、カゼスはきょとんとする。アーロンは少しためらっていたが、意を決して告げた。
「俺は右目が見えない」
「え……そうなんですか? こっちですか」
ひらひらとカゼスは目の前で手を振って見せる。外から見る限りでは、よほど注意して観察しなければ、その瞳の不自然さに気付かない。が、実際は全く見えないらしく、右側から睫に触れるほど近くまで指を伸ばしても、瞬きひとつしなかった。
アーロンは左目の視界にカゼスを入れ、小さくうなずいた。
「そうだ。昔、イスハーク殿の……ああ、王宮の侍医なのだが、その部屋で薬棚が倒れてエンリル様が下敷きになりかけた事があってな。その折に、薬のどれかが目に入って、すっかり見えなくなってしまった」
つまり、エンリルを助けようとして、代わりにアーロンが薬棚の中身を頭からかぶってしまったというわけなのだろう。エンリルが罪悪感を抱くのも無理はない。
カゼスがじっと見ていると、アーロンは目をそらして川岸を見つめた。
「不自由はしていないのだが……現に、それは五年前の話なのだが、一度もそれが元で負傷したなどという事はない。だが、殿下はずっと気に病まれているようなのだ。武将にとって命取りになりはすまいか、と」
「ああ、なるほど……右背後から来られたら危ないですね。確かに」
ふむふむとカゼスがうなずいたので、アーロンはつい苦笑した。
「戦では何の支障もない。気配でも物音でも、体の方が勝手に動く。実際、何も困った目に遭ってはいないのだが、そう申し上げても殿下は、な。もしおぬしがこの目に光を取り戻してくれるのならば、殿下の気も少しは楽になろうが……どうだ?」
振り向かれ、カゼスは難しい顔になった。五年も前となると、治すのはかなり難しいだろう。死んだ組織を生き返らせるようなもので、外傷の治療や内科的処置とはまったく話が違ってくる。しかも、眼球などという繊細な組織とは。
「無理か」
相手の表情から察し、アーロンはつぶやくように言った。カゼスは首を傾げて、申し訳ない顔をした。
「期待は出来ませんが……もっと明るい場所で、一度よく調べてみましょう」
今はリトルを船室に転がしてきてしまったので、調べてくれと頼むわけにもいかない。
「頼む。すまぬな、無理を言って。……さて、船室に戻るか……」
気は進まないが、といった風情で肩を竦め、アーロンは歩きだす。後についてカゼスもちょこちょこと歩いて行ったが、どうもつるつると滑るので足取りがおぼつかない。
どうにか転ばず無事に戻ると、カゼスはホッと息をついた。が、間もなくカワードのいびきに耳朶を直撃され、驚きに身を竦ませた。なるほど、アーロンが水牛並と言ったのもうなずける。
セル盤を挟んでいたイスファンドとエンリルが、気が付いて顔を上げる。二人が濡れた外套を壁に掛けるのを見て、エンリルが苦笑した。
「何を密談していたのだ? 濡れそぼる価値のある事か」
「単に騒音から逃れたかっただけですよ、殿下。雨足が強まって参りましたゆえ、諦めてこの地獄に舞い戻った次第です」
アーロンは相変わらずの仏頂面で答えると、絨毯に胡座をかいてまた書物に手をのばした。もっとも、このやかましさではとても集中出来ないらしく、ただ手遊びにしているようなものだったが。
カゼスもぼんやりとまたリトルを転がし始める。
〈人を何だと思っているんですか、あなたは。いい加減にして下さいよ……そんなに暇なら、ひとつクイズでも出して差し上げましょうか?〉
〈おまえの出すクイズを、紙と鉛筆なしで私が解けたためしはないだろ。あったってなかなか解けないのに。私の頭に計算機は入ってないんだよ〉
〈じゃ、計算しなくてもいいクイズを〉
〈遠慮するよ〉
慎ましくカゼスが辞退したと同時に、何やら大きく船が揺れ、それきり、ゆらゆらとしていたのがぴたりと止まった。どこかに停泊したのだろうか。
「何かあったのかな?」
カゼスはつぶやき、リトルを持って立ち上がる。他の面々も何事かと訝り、警戒しながら出入口の厚いカーテンをくぐった。
そこは、小さな洞になっている場所だった。水の流れもほとんどなく、ほんの少し奥まったところで洞窟は終わっている。
「アスラー、何事だ?」
元警備隊長を呼び、エンリルが質す。アスラーは散らかった甲板の片付けを水夫たちに指示しながら、忙しく答えた。
「かなり雨が強くなって参りましたので、一時避難する事に致しました。お急ぎでしょうが、この先は岩が多く危険ですので。近くに街があれば良かったのですが、生憎この辺りには……。ちょうど洞穴が見えましたので、幸い退避できました」
それから彼は、ふと振り返ってカゼスに目を止める。
「ラウシール様、どうぞ中でお寛ぎ下さい。すぐに火を起こして、熱い茶を差し上げましょう」
エンリルに対するよりも、カゼスへの態度の方が丁寧なほどだ。カゼスは何やらばつが悪くて、困り顔になる。
「えーと……あの、アスラー殿」
イスファンドに習った敬称の付け方を思い出しながら、カゼスは言った。
「私にそんなに畏まられても、困るんですが……。あの時たまたま運よく魔物を倒せたのも、半分以上あなたのお陰ですし。それに、私は今のところエンリル様のおまけみたいなもので、全然、偉い人とかいうわけじゃないんですよ」
しかも相手は四十代半ばと見受けられるのだ。カゼスは図々しい年長者が嫌いではあるが、ここまで年の離れた相手にこうまでへりくだられると、それはそれで困ってしまう。
だが相手は、年齢よりも身分や恩義を重んじる性質らしい。アーロン以上に真面目くさった顔で、しかつめらしく答えた。
「砂漠の怪物を討ち取られたのみならず、魔物に襲われたところを救って下さった恩人に対して、礼を欠くような真似はできませぬ」
「そんなたいした事では……当たり前の事をしただけですよ。困ったなぁ」
カゼスは頭を掻いたが、どうやらこれは何を言っても無駄のようである。諦めてため息をつき、カゼスは好奇心の赴くままに船を降りてみることにした。
足元には水が溜まっており、空気も湿度が高くてぬめるようだ。退屈しきっていたカワードも、子供のようにわくわくと船を降りて辺りをウロついている。
(あれ? なんだろ、ここ)
ふと、他の水溜まりとは色の違う場所を見付け、カゼスは足を止めた。暗い虹のような、不思議な色が水底でたゆたっている。岩盤の断面の加減なのだろうか。
「きれいだなー……」
ほうっと感嘆し、そばに膝をつく。水面に映る自分の顔が色彩の狭間に透けていく。
と、その時だった。不意に自分の像が揺らぎ、カゼスはハッと我に返った。水底にひときわ明るい緑青色の輝きがふたつ現れたかと思うと――
「わあっ!」
カゼスの叫びに、全員が振り返る。だが、既にそこには当人の姿はなく、取り残された水晶球が転がっているだけだった。
(溺れる……っ)
何か得体の知れない力に水中を引きずられながら、カゼスは酸素を求めてもがいた。だが容赦なく、何かが彼を奥へ奥へと運んで行く。
とうとう限界に達し、カゼスはガボッと空気の泡を吐いた。直後に水を吸い込み、そして――また、水を吐き出す。
「あれ? なんだ? どうなってるんだろ、これ」
呼吸が出来るのだ。空気の代わりに、水を取り込んで。カゼスは目をぱちくりさせ、少し落ち着いて周囲を観察した。相変わらず強い流れがカゼスを運んでいたが、よく見るとそこは、何とも不思議な場所だった。
水中なのだが、全体が明るい。上から光が射し込むというのでもなく、あらゆる角度に光が散乱しているような、それでいて眩しいほどではない明るさ。
そもそもこの水域は、どこかで大気に接しているのだろうか?
訝っていると、まるで長いパイプを抜けたように自分が吐き出されるのを感じた。そこには速い流れはもうなく、ただゆったりとたゆたう広大な水域だった。やはり全体が明るく、呼吸にも苦労はしない。
「ラウシールか」
不意に声がした。どこから聞こえるのか分からず、カゼスはきょろきょろする。と、足のずっと下の方に、すうっと巨大な白いものが泳いで来るのが見えた。
ぎょっとなって見守る内に、それはカゼスの周囲に螺旋を描くようにしてゆっくりと近付いて来た。白く、透明感がありながら決して透けはしない不思議な色の鱗で覆われた、巨大な水蛇が。
カゼスの前にあの水溜まりで見た緑青色の光が迫る。それは一対の目だったが、薄い膜で覆われているらしく、瞳がはっきりとは分からなかった。
何もかもが白い中で、その目だけが唯一の色彩だ。
(水蛇……じゃ、ないのかも……もしかしてこれって)
蛇にはない、たてがみのような華やかなヒレを揺らめかせながら、それはもう一度、今度は問いとはっきり分かる口調で言った。
「ラウシールか?」
「え……っと、ここの人はなんだかそう呼ぶみたいですが……私はカゼスって名前の、ただの魔術師です」
慌てて答えると、それは表情の読めない顔でじっとカゼスを見つめた。ややあってカゼスが不安に身じろぎすると、それは一人納得して小さくうなずいた。
「なるほど、確かに少し違うようじゃな。汝、何故にこの地を訪れた?」
古臭い話し方だ。カゼスは目をしばたたかせ、おずおずと口を開いた。
「あのー、すみませんけど、あなたは一体何なんですか? 私をここに引っ張り込んだのはあなたですよね。どうしてですか? 出来れば早く帰らせて頂きたいんですけど……いきなりいなくなって、皆が心配してるだろうし」
「汝は儂を恐れぬのだな」
緑青色の目が細まる。怒りなのか面白がっているのかさえ、判断がつかない。カゼスはぎくりとして身を縮こまらせたが、幸い前者ではなく後者だったらしい。
「長らく人と接しておらぬゆえ、汝の意向を無視する形となったな。あいすまぬ。儂は水竜、名をイシルと言う。久方ぶりに何やら変わった力をもつ者が現れたゆえ、気になったのだ。汝は何者なのじゃ? デニスの民ではないな」
どうも、イシルというこの水竜は、探求心旺盛らしい。なかなか解放してくれないので、カゼスはそわそわしながら答えた。
「ええまあ……事故でここに落ちてしまったんですけど。自分が何なのかという事については、私も良くは知らないんです」
それから小声で、「元の場所に帰りたいんですけど……」と付け足す。イシルは首を傾げた。
「せっかちじゃな。普通、魔術師というものはもっと知的探求心が旺盛なものじゃと思うたが……たとえば、この水を呼吸することが出来るのは何故か、またこの『場』はどういうものか、などと訊くのではないか、とな」
「すみませんね」
カゼスは心持ち赤くなって、膨れる。
「そりゃ、気にならないわけじゃありませんけど、ここでのんびり魔術談義をしている場合じゃないんです。心配かけたくないし、何より放って行かれたら困るじゃないですか」
「まったくもってせっかちな生き物じゃのう……分かった、帰してやろう。だが、儂も共に行くぞ」
さらりと言われたもので、カゼスが驚くまでにやや間が空いてしまった。
「――はい? 何ですって?」
聞き返した言葉が終わらぬ内に、カゼスは強い力が体に潜り込むのを感じた。内臓が全部ひっくり返りそうな感覚。体が膨張し、そしてまた収縮するような。
目眩と吐き気がおさまって、はと気付くと、イシルの姿はなかった。
「……まさか……今のは」
嫌な予感に頬がひきつる。うぷ、と口元を押さえた時、頭の中に声が響いた。
〈では戻るかね〉
精神波と似た感覚だ。カゼスは思わず、声に出して叫んだ。
「やっぱり私の『中』に入ったんですねっっ!」
〈何を怒鳴っておるのだ? 安心せい、水そのものの量と、水の占める『場』とは異なるのじゃ。どのような器であっても、不自由はせぬ〉
「そりゃ、あなたは不自由しないかも知れませんけどね、私はどうなるんですか! あなたみたいに強い力をもつ存在が、私の中とつながりを作る事は……」
〈のんびり魔術談義をしている場合ではない、のではなかったかね〉
しれっと言い返され、カゼスは言葉を失う。しばらく奥歯を噛み締めてから、ようやく抗議の言葉を絞り出す。
「第一、どうしてついて来るなんて言うんですか。いや、どこに行こうとそりゃあなたの自由かも知れませんけど、私の体に入る必要があるんですか?」
〈これが一番便利じゃろう? 何をそれほど……ああ、そうか。案ずることはない、儂は汝の心や体の内を観察するつもりはないでな。ほれ、戻らんのか?〉
ようやっと普通の人間の心情に思い当たり、イシルはそんな事を言った。だからと言ってもやはり、自分の中に何か別の生き物が棲んでいるというのは、気分のいいものではない。カゼスは情けない顔でため息をついた。
「えらいのにつかまっちゃったなぁ……」
〈失礼な奴じゃな〉
「他人の体にいきなり割り込むのと、どっちが失礼ですか。何があなたの興味を引いたのか知りませんけどね、私は何も特別な力を持ってやしませんよ」
ゆっくりと流れがカゼスを運び始める。
〈まあそう言うでない。己も気付かぬところに意外な能力を秘めている者は、案外多いものじゃよ。それに、些細な仕事ならば請けてやらぬでもない。たとえば、この不自然な雨を止ませるだとか、船を速い流れで運ぶだとか、な〉
「え……っ? 今、不自然な雨、って言いましたか? どういう事ですか」
カゼスは眉を寄せた。嫌な感じだ。ティリスにしては珍しい、とは言え、まさか……
「誰かが天候を操っているんじゃないでしょうね?」
〈気付いとらなんだのか〉
思ったより出来の悪い生徒だった、とばかり、イシルの声は落胆する。カゼスは苦虫を何匹か噛み潰し、「すみませんね」と苛立たしげに言った。
(まさか、シザエル人は気象制御装置まで持ち込んだのか? そりゃあれは、局地的・短期的な使用に限れば惑星全体の気候に影響を及ぼすほどのものじゃないけど……一体どういうつもりでそんな物……布教活動のパフォーマンス用なのかな?)
ただし、今回の使用目的は明らかにエンリルたちの帰還を遅らせる事だ。その間に王宮で好きなように情報操作できるように。
「分かりました、気が済むまでひっついて来られたらいいですよ。その代わり、すぐに雨を止ませて本来の天候に戻して下さい。この雨のせいで往生している人がいるんです」
唸るようにカゼスが言うと、イシルは少しおどけた気配を漂わせた。
〈汝はデニスの民でもないのに、あの王太子に味方するのだな。それほど汝にとって価値のある人間なのか?〉
「エンリル様を知っているんですか?」
驚いてカゼスが問うと、イシルは平然と答えた。
〈水のある土地で起こった事は、すべて知っておるよ〉
「そうなんですか。困ったな、迂闊な事が出来ないや」
カゼスは苦笑してから、先の質問に対する答えを少し考えた。
「そうですね……価値がある、と言うか……成り行きと必要性と、あとは性分かな。成り行きで助けられて拾って貰って……で、自分では衣食住の面倒が見られないだろうし、仮に出来たとしても、エンリル様を知っている身としてはどうなるかが気になって、はいサヨウナラ、とは出来ないから……なんでしょうねえ」
〈困った性分じゃの。損をするぞ〉
「してます、もう充分」
笑って答え、カゼスはふと水の色が変わったのに気付いた。あの、暗い虹の色。どうやら戻って来たらしい。
ザバッと顔を出すと、リトルが目の前に転がっていた。
〈一体どこに行ってたんですか!? センサーに全く感知されなくなって、どれだけ焦ったか! とにかく、無事なようで良かったですよ。あまり突拍子もない行動を取らないで下さいよ、本当にもう〉
〈おまえにそんなに熱烈な歓迎をされるとはね〉
にやっとしてカゼスは言い返し、水溜まりの上に腕を出した。
「カゼス! 何があったのだ? 大丈夫なのか?」
慌てて皆がわらわらと駆け寄って来る。カゼスは濡れた髪を後ろへ撫でつけ、とりあえず笑って見せた。
「なんとか無事です。どなたかが手を貸して下さればね」
「どうしたのだ」
不思議そうな顔になって、アーロンが膝をつく。カゼスは心持ち赤くなって、ごまかすように頭を掻いた。
「いやその……ここから自力で上がれないんですよ。底に足がつかないんで」
………………。
白けた空気が降り、誰もがしばし動作停止する。ややあって、いきなりアーロンが小さくふきだした。それを皮切りに、カワードやエンリル、ウィダルナまでが笑い出してしまった。
「笑わなくても……あのー、上げてください……」
情けない顔でカゼスは哀願する。が、アーロンは膝をついた姿勢のまま頭が地面につくほど体を曲げて肩を震わせているし、カワードなどは、はなから助けてくれるつもりもないらしい。頑張れよ、などと無責任な声援を送ってくれる始末。
しばらく笑った後で、ようやくアーロンが苦笑しながら手を伸ばしてカゼスの腕をつかんでくれた。
「今お助けつかまつりますぞ、姫」
およそ言いそうにない冗談まで飛ばしてくれるあたり、よほどカゼスの姿がおかしかったのだろう。だが、そんな彼らの態度を快く思わぬ者もいた。アーロンがカゼスを引き上げようとした矢先に、アスラーがすっと進み出て、残る一方の腕を取ったのである。その表情は真面目を通り越して不機嫌に見えた。
「ラウシール様、ご無事で何よりでした。どうぞ捕まってください」
アーロンを押しのけてカゼスを引っ張り上げ、場の雰囲気を白けさせる……という真似は、彼の地位の低さから出来なかったのだろう。だが、今の声音と態度だけで、充分その心情が周囲に伝わった。
さすがに鈍いカゼスでも、そのぐらいは感じ取れる。素直にアスラーの手を借りるのは、笑われたことに対する怒りの意思表示に取られそうだし、さりとてアーロンの手を借りるとアスラーは納得できないだろう。
(でも、両方の手を借りるのって、難しいと思うんだな……)
バランスが取れなくなってわたわたした挙句、また水溜まりにはまるのがオチだ。その無様な己の姿までが目に浮かぶ。カゼスは束の間ためらい、そしてはたと気付いた。
「あ、そうか。なんだ、はまってなくても良かったんだ」
突然言ったカゼスに、救出しようとしていた二人は目をぱちくりさせた。カゼスは二人と、その背後から覗き込んでいるエンリルを見上げて笑った。
「すみません、ちょっと手を離して、あと少し離れて貰えますか?」
それから、気分的に水面下を覗いて言う。
「イシル、ここから出して貰えませんかね」
「容易いこと」
深みのある声が洞窟に響いた。ぎょっとなって一同が、声の主を探して当てもなくキョロキョロする。と同時に、ザアッと水面が持ち上がり、水竜の頭がカゼスを押し上げた。
「上陸ー、っと」
トン、と堅い地面に足をつき、途端に浮力が消え失せてカゼスはよろける。なんとか持ちこたえると、カゼスは愕然としている面々に向かってにっこりした。
「紹介します。知的探求心旺盛な水竜のイシル殿、現在私の体の間借り人です」