後奏
「あいってててて……」
頭痛に顔をしかめながら、カゼスはむっくり起き上がった。見慣れたものより色の薄い青空が頭上に広がり、海に向かって開けた谷あいのシティ・ミランダが視界に入った。
地べたに座り込んだまま、カゼスは呆然とする。
「帰って……来たんだ」
呟いてはみたものの、その実感はなかなか湧いてこない。のろのろと起き上がり、なにもかもが野放図に育った庭を見回した。ぼうぼうの草の合間にスミレが可憐な花を咲かせているところからして、春先なのだろう。
「どのぐらい経ってるんだろう。リトル?」
手に持っていたはずの丸い姿を探し、カゼスはきょろきょろした。枯れ草の中に埋もれるように転がっているリトルを発見し、慌てて拾い上げる。
「リトル? おーい」
コンコンと表面を小突きながら呼びかけたが、返事がない。まさか壊れたのでは、とカゼスが不安になった時、ようやくリトルは、たっぷり十秒はありそうなため息を長々と吐き出した。思わずカゼスは脱力して、その場にしゃがみこむ。
「なんなんだよ、もう……」
「放っといて下さい。やっと文明世界に帰って来られた感慨に浸っているんですから。ああ、めくるめくこのネットワーク、情報の海! 一年分の遅れを取り戻さなければ」
「はいはい、そうですか。って、ええっ! 一年!?」
「正確には一年と四ヶ月です。まあ、向こうにいた日数とおよそ合致しますね」
「ってことは、じゃあ、もしかして、私……クビ?」
カゼスは恐る恐る問うた。帰郷の喜びなど味わう間もなく、真っ先に現実問題が目の前に迫ってきたのだ。生活、というものが。
「ご安心を、休職扱いになっていましたよ。恐らく禁制新種管理委員会の方が、治安局の上層部に手を回してうまく計らってくれたんでしょう。ただし行方不明ということで捜索の手配は出されています。今、中央にアクセス……解除しました。可及的速やかに状況報告をするように、とのことです。私の方は今すぐにでも報告を出せますが、あなたの方がね。治安局に出頭するように命令が出ましたよ」
「い、今すぐは勘弁して……まだ頭がこっちに馴染んでないし、服も着替えなくちゃいけないし、何より……ああ……家に入るのが怖い……」
カゼスは振り返り、いきなり飛ばされた時とまるで変わらないように見える自分の家を、胡散臭げに眺めた。当然ながら戸締まりもしていなかったし、たしか洗濯物も干しっぱなしで、洗い物も流しに突っ込んだまま……冷蔵庫の中なんて、考えたくもない。
一年。正確には一年と四ヶ月。その重みがずっしりと背中にのしかかる。
リトルがちかちかと忙しく作動光を明滅させているのを尻目に、カゼスはもたもた重い足をひきずって、玄関に回った。そして、あれ、と目をしばたたかせる。
ポストが溢れてない。
はてな、と首を傾げつつ玄関のノブを回すと、錆び付いてもおらず、すんなりと開いた。玄関の隅に、見覚えがあるような感じの靴が一足、ちょんと揃えて置かれている。
もしかして、とカゼスは乱雑にサンダルを脱ぎ捨て、裸足でバタバタと居間に駆け込んだ。そこには予想通り、局員養成学校以来の友人オーツが、ソファでうたた寝していた。
カゼスはまじまじとその姿を見つめ、それから室内をゆっくり見回した。食器類も片付けられ、掃除機をかけたばかりなのか床も清潔。そういえば庭に干しっぱなしだったはずの洗濯物も、見当たらなかった。
(全部、やってくれてたんだ)
誰も私のことを心配してやいないだろう、などと言ったのは、誰だった?
自分のことで手一杯だろうとか、淡泊だとか。誰が言ったのだ、そんなことを。
(いつ戻ってきてもいいように、ちゃんと……待っててくれた)
我知らず目が潤み、カゼスはぐすっと鼻をすすった。その物音と気配で気が付いたのか、オーツがもぞもぞ動いて目を開ける。うんと大欠伸をして、それからようやく眼前の珍妙な格好をした人物に気が付いたらしく、目をぱちくりさせた。
「……カゼス、か?」
「うん。ただいま」
にこりとしてそう言ったカゼスに、オーツは何か言いたげな顔をしたものの、すぐにカゼスの記憶にある通りの笑顔になって、立ち上がった。
「お帰り。しかしまぁ、なんて格好だよそれ。とりあえず、茶でも淹れようか」
言いながら、もうキッチンに行ってヤカンに水を入れている。
「頭は軽くなってるし、顔つきまでずいぶん変わっちまって、誰かと思ったよ。あ、茶っ葉とか米とか、適当に使わせて貰ったからな。食料品は後でまとめて買い出しに行けよ」
「すっかり迷惑かけちゃったな。ありがとう」
「いいから、着替えて来いよ。仮装大会みたいで変だぞ」
「ええ? 変かい?」
向こうでは普通なんだけどな、とカゼスが自分のなりを見下ろすと、オーツはヤカンを火にかけ、ポットの用意をしながら苦笑した。
「この家ん中で見る分には、充分、変だ」
「ああ……そうか、そうだね」
それじゃあ、と断ってカゼスは自分の部屋に上がった。階上までは手が回らないらしく、隅に少し埃が溜まっている。それでも時々は掃除してくれていたのだろう。窓も開けてあり、黴臭い空気がこもっていることもなかった。
さすがにタンスの中身は、人が触れていないことがわかった。抽斗を開けた途端、防虫用木片の匂いと、ひんやりした湿気が流れ出る。そこからカゼスは記憶を頼りに適当な服をひっぱりだした。ティリスの服を脱ぎ、シャツやジーンズに着替えていくと、自分自身の意識までも変わって行く。
すっかり着替えてから姿見の前に立ってみる。鏡の中にいるのは、一人の……あまり冴えない印象の青年、だった。
「こんなもんだったかなぁ」
照れ臭いような妙な気分で、カゼスは頭を掻いた。そして、もうさっそく服を脱ぎ散らかしたまま、階下へ降りて行く。
最後の一段から足を降ろしかけた時、紅茶の香りがふんわりと漂ってきて、一瞬だけ、カゼスはそこがティリスの自室のような錯覚をおぼえて目を閉じた。
お茶が入りましたよ、とフィオがお気に入りの茶器を揃えて持ってくる。続き部屋にはエンリルやアーロンたちがいて、クッションに座ってくつろぎながら、他愛ない話をしている。カワードとアーロンが皮肉の応酬をし、傍で聞いているエンリルが笑い転げて。
――そして、カーテンをくぐってカゼスがそちらに行くと、皆が笑顔で振り返るのだ。
カゼスの為に場所を空けながら、茶器を回し、愉快げに話を続け……
「牛乳入れたよな? パンぐらいならあるけど、何か食うか?」
オーツの声が届き、カゼスは目を開ける。
いつもの家、いつもの景色。いつもの友達。
欠けたパーツを補うように、それらがふたたび自分のなかの馴染んだ位置に戻ってくる感覚。その心地良さに、泣きたいほど切なくなると同時に、笑みがこぼれた。
「うん、牛乳たっぷり入れる。パンと卵があるんなら、久しぶりにフレンチトースト作ろうかな」
カゼスはしゃべりながら最後の一段を降り、明るい陽の射し込む居間に戻って行った。過ぎ去った日々の優しい幻想を、後に残して。
(完)




