七章 帝国復活 (4)
「はー、長かったですねぇ」
やれやれと言って、カゼスはくきくきと肩や首を回した。丸一日かかってようやくのこと、エンリルの戴冠式が終わったのだ。
ヴァルディアの死後、本来ならフィルーズの正式なアルハン王戴冠式を行う予定だったのだが、もはや誰もかつての暴君の息子など、念頭にないようだった。そしてまたシルピオネ自身が、フィルーズの即位を辞退し、帝国の正統な後継者に皇帝の位をお返しすべき時が来た、と宣言したのだ。
エンリル自身も、ことさら謙虚さを取り繕ったりはしなかった。儀式的な譲り合いなどせず、かと言って傲慢な態度も見せず、ごく自然なこととしてその申し出を受けた。まるでそれが生まれる前から決められていた、自分の務めであると言うかのように。
「まったく、長かった。おまけに窮屈で退屈で死にそうだったぞ」
そのエンリルは、儀式が済んでいつもの簡素な麻の衣服に着替え、王の私室で椅子にだらしなく腰掛けていた。カゼスは苦笑し、うんと伸びをする。
「準備するにも時間がかかりましたけど、当日もまたこれが……神官の皆さんはお仕事熱心でいらっしゃるから」
彼らは古い帝国の典礼に関する資料を、王宮中ひっくり返して探し、年寄りに話を聞き出し、それらしい形式と体裁を整えて、神聖デニス帝国の後継者にふさわしい式典を作り上げたのだ。その主役である当人の意向は、丁寧にしかしきっぱりとはねつけて。
「それで、デニス帝国皇帝になられた気分は如何ですか」
カゼスが茶化すように言うと、エンリルはげっそりした顔で「最悪だ」と呻いてから、なんとか体を引っぱり上げて座り直した。
「というのはまあ、冗談だが……実際にはまだ、帝国の皇帝というわけではないのだぞ。高地にはアトッサ女王が君臨されているのだから、あくまで今は三国の王にすぎぬ」
「あんまり嬉しくなさそうですね」
同情的になり過ぎない程度に、カゼスは気の毒そうな微苦笑を浮かべた。エンリルは何とも取れる苦笑をこぼしただけで、答えない。
長い式典の中でも相当の時間を占めたのは、各地の領主や、王宮の要職にある者たちからの貢納と忠誠の誓いだった。シルピオネやキース、軍の武将たちといったアルハンの者たちについてが特に重要であったのだが、既に忠誠を誓っているエラードやティリスの者も参列した。アルダシールやウタナたち、ゾピュロス、カワード。船で直接レムノスに乗り付けたクシュナウーズ。
そうした面々の中に、以前ならばエンリルの横に座して拝謁する者たちを眺めていた筈の、オローセスの姿もあったのだ。父親が足元にひざまずき、厳かに忠誠の誓いを立てるのを、エンリルは感情を隠した仮面のような顔で見ていた。
だが彼の心情は、近しい者には痛いほどよく分かった。エンリルは、神官たちに本来の名前、すなわちエラム帝の息子のそれに変えるよう言われても、これだけは断固として譲らなかった。たとえ儀式によって、直系の血筋であるアフシャール家の裔と肩書を変えても、気持ちの上ではいまだ、アルーディー家のオローセスの子、エンリルなのだ。
余が辺境の羊飼いの息子であるのが気に食わぬらしい、とエンリルはまわりの者に言っては苦笑いしていた。
「私の方はともかく、そなたはどうなのだ? このところ忙しそうにしているが」
エンリルはテーブルに置かれた薄い葡萄酒を、自分で杯に注いだ。
「体が二つ三つ欲しい気分ですよ」
カゼスは答えて苦笑し、自分も葡萄酒に手をのばした。
レムノスにもターケ・ラウシールを設置せねばならず、その仕事までシャフラーに任せるわけにはいかないので、カゼス自身がキースやアミュティスの助けを借りて、なんとかやっつけているという状態だった。
ほかにも、ヴァルディアの治世で荒れ果てた人々の暮らしを立て直すために、何が必要で最も緊急を要するのか、カゼスは毎日街に出ては自分の目と耳で情報を集めていた。
またさらに、魔術の後継者の問題もあった。二百年後に『長衣の者』として一大勢力を成していたのだから、カゼスが何もせずとも、アミュティスやキースから魔術の技は伝えられていくのだろう。だが、むやみと悪用されぬためにも、魔術師の何たるか、倫理規範のようなものを定めておく必要があった。教えて良い術と、そうでない術――いずれ誰かが見出すとしても今は歴史から消し去るべき術――を選り分ける作業もある。
そんなこんなで、カゼスはつい昨日一昨日まで、息をつく間もないほどきりきり舞いの毎日を過ごしていたのだ。
「でもようやく、少し落ち着いてきましたけどね。だいたいの仕事は一段落つきました」
カゼスは葡萄酒を飲み、窓の外に目を向けた。緑豊かなレムノスの都も、今はすっかり黄金と紅に染め上げられている。風が吹くと、蝶のように落ち葉が舞い踊った。
「……そうか」
エンリルは相槌を打ったが、それ以上は何も言わなかった。何を考えているのかは、お互いよく分かっていた。だからこそ、どちらも無駄な言葉を連ねて時を浪費したりはせず、ただ静かに、傍らに互いがいる今この時を、心の内にゆっくりと沈殿させていた。
窓の外から柔らかな陽射しに乗って、風に落ち葉の舞う音が微かに届く。カゼスはエンリルの姿を見つめることはせず、景色の一部として眺めるように視界に捉えたまま、静かな物音に耳を澄ませていた。そうしていると、世界に生きた人間がいるのはこの部屋だけであるかのように錯覚する。時々エンリルが杯を傾けたり、椅子の中で身じろぎする音だけが、現実らしく感じられて。
――そのまま、この時が永遠に続きそうな気がした。
だが唐突に、静穏な空気は、元気の良い笑い声と賑やかな靴音で乱された。
「ああ、皇帝陛下はこちらにおいでであったか」
笑顔で部屋に入って来たのは、女王に相応しい装いのアトッサだった。薄い紫と青に染め上げた絹の長衣は、たっぷりとした襞が微妙な色合いに陰影を作り、娘から女へと変わりかけているアトッサの美しさを見事に演出している。銀と緑柱玉の首飾りがほっそりした首や優美な鎖骨を引き立てていた。豊かな金髪も今は自然に流し、細かな宝石をあしらっている。
初めてその姿を見た時は、カワードでさえ皮肉を飛ばすことができず、ぽかんと口を開けっ放しにしてしまったものだ。
「その肩書で呼ばれるのは、いささか気が早いのではないかな」
エンリルは苦笑しながら立ち上がり、アトッサの手を取って長椅子の方に誘った。後から入ってきたカワードが、二人の並んだ様子を見て、思わずといった風に失笑する。何か、とエンリルが訝しげな目を向けると、彼は苦心しつつ笑いを引っ込め、咳払いした。
「いや失敬。陛下も礼装のままであれば良いものを、いつものなりに戻られたのでは、アトッサ殿の横に並ぶと……少々なんですな、その、見劣りするのは避けられませんな」
「まったくもって失敬だな」
エンリルは唸り、次いで意地の悪い笑みを広げる。
「そなたもすっかりアトッサ殿に調教されたと見える」
「そのようなわけではござらん。ただ見たままを申したまででござる」
むっ、とカワードは口をへの字に曲げたが、エンリルはにやにやするだけだった。その横でアトッサは服の裾をいじって、小首を傾げた。
「私にはよくわからぬが、本当のところどうにもこれは動きにくうてかなわぬ。エンリル殿のような服に戻りたいのだが、バールが頑として承知せぬのでな」
「ああ、彼女はもうすっかり良くなったのか」
エンリルはちょっと考えてから、誰のことか思い出して言った。ティリスを発った時はまだ、衰弱しているように見えたのだが。
その疑問に答えたのは、面白くなさそうなカワードだった。
「どこぞの誰かがせっせと世話を焼いておりましたのでな。まったく、あの馬鹿、すっかり頭に花が咲いておるわ」
ぶっ、とカゼスは堪え切れずにふきだした。頭に花が咲いた馬鹿、とはウィダルナのことである。何度か街で見かけたので知っているのだ。エンリルも苦笑して「そうやっかむものではないぞ」と慰めるように言った。
「人生が楽しくなって良いではないか。それで槍の穂先が鈍らぬ限りはな」
「エンリル殿は、そのような相手はお持ちでないのか?」
いきなり予想外の方向から切り込まれ、エンリルはぎくりとした。咄嗟に話題をすり替えることも、表情を取り繕うこともできず、なんとも言い難い妙な顔をする。問題発言の主、アトッサは、至って真面目な顔付きで彼を見ていた。
「まあ、いずれは妻を迎えるだろうが、今のところは……」
もぐもぐと歯切れの悪い言い方をしたエンリルに、アトッサは「そうか」とうなずいて少し考え込む。何を言い出すつもりかと、その場の誰もが彼女を凝視した。
当のアトッサはそんな視線には頓着せず、エンリルの目だけをまっすぐに見つめて、短く、はっきりと言った。
「私を妻にしては貰えぬだろうか」
「…………」
もちろん、すぐにはエンリルも答えられなかった。誰もが固まってしまい、室内を沈黙が埋め尽くす。アトッサはいささかばつが悪そうに、子供っぽい仕草で鼻の頭を掻いた。
「即答を必要とするのではないが……できれば、早い内にご決断願いたい。殿方と違って、いつまでも買い手がつくというわけではないのでな」
「それは、その……本気で仰せられているのか?」
まだ呆然とした様子で、エンリルがなんとかそう訊ねる。野暮な質問だった。アトッサは自分の目が曇っていたかというように、胡散臭げな顔になった。
「当たり前ではないか! 誰が洒落や酔狂でこのような話をするものか。こうして陛下が三国の王となられた今、デニス皇帝を名乗るには残すところ高地ただ一国のみ。攻め込まれてはかなわぬし、いずれ同じく併呑されるのであれば、せめても体裁だけは共同統治という形を取りたいと願うのは、おかしなことではありますまい」
随分と思い切った決断には違いないが、確かにアトッサの言うことには一理あった。エンリルがこのまま高地をそっとしておいたとしても、次の代では事情が変わってくるだろう。元々ひとつの国だったのだから、断固独立を叫ぶような民族の意地もない。
ならば、少しでも良い条件で合併を――と。それは、理解できた。
エンリルは目を瞬かせ、なんとも曖昧な表情で「驚いたな」と呟いた。その声が小さすぎて聞き取れず、アトッサは首を傾げる。
エンリルはそんな彼女の表情を眺め、ゆっくりと笑みを広げた。
「たまには私の望みも、一番良い形で叶えられることがあるのだな」
嬉しそうに笑いかけられ、アトッサはさっと赤面し、自分の顔を隠すようにぷいとそっぽを向いた。それを誤解してか、エンリルは急いで言葉をつなぐ。
「ああもちろん、望みというのは高地のことではなくて、アトッサ殿の……」
「ええい、言うな! そのようなこと!」
がばっとアトッサは立ち上がり、真っ赤になった頬を手で隠すようにしながら、バタバタと部屋から飛び出して行く。エンリルは束の間ぽかんとし、我に返ると慌てて立ち上がった。カワードがにやにや笑って、早く追いかけないと逃げられますぞ、などと茶化す。
彼が部屋から出かけたところで、カゼスはそれを呼び止めた。
「エンリル様」
その声に含まれるものを感じ取り、エンリルは足を止め、顔だけ振り向いた。カゼスはごく自然に、最上の笑顔になっていた。
「お幸せに」
「――ありがとう」
エンリルもにこりとし、小さくうなずく。そして、そのやりとりなどなかったかのように、アトッサの名を呼びながら外へ出て行った。
「あの様子じゃ、先が思いやられますね」
カゼスは苦笑し、空になった杯をテーブルに置いた。カワードは呑気に笑い、まったくだ、と同意する。
「さて、陛下も忙しそうですし、私もそろそろ帰らないと」
「そうだな。無理して体を壊すなよ、最近おぬしも働き過ぎだからな」
「ええ、気をつけます。それじゃ」
ひらひらと手を振り、カゼスはカワードに暇を告げて部屋を出た。
カゼスはのんびり何気ない様子で王宮の中を歩き、出会った人とは言葉を交わして、ゆっくりと街へ、そして街から外へと出て行った。
橋を歩いてディヤーラ河を渡り、復興事業の第一段階が始められている旧都側の喧噪を抜けて。さらに少し歩くと、小さな丘の上に出た。そこからは、レムノスの街が一望できるのだ。しばらく前に散策に来て見付けた、お気に入りの場所だった。
木立を揺らして、風が吹き抜けて行く。
じっと都の様子を眺めていると、下の方から誰かがえっちらおっちら登って来るのが見えた。立ち去ろうかどうしようか迷っている内に、その人影が手を振って呼んだ。
「おーい、お嬢ちゃん」
「クシュナウーズ殿? どうしたんですか、こんなところまで」
驚いてカゼスが問うと、クシュナウーズは、よいせ、と坂をのぼりきって年寄り臭く腰を伸ばしながら答えた。
「そういうお嬢ちゃんこそ、何やってんだ?」
「私は……ちょっと、まあ」
カゼスはもごもごと曖昧に言葉を濁す。クシュナウーズはそれを気にかけていないように、街の方を向いて「おー、絶景、絶景」などとはしゃいで見せる。彼は大きく深呼吸をして、それから、振り向かずに言った。
「……行っちまうんだな」
「気付かれているだろうと思いましたよ」
カゼスが苦笑すると、クシュナウーズも振り返ってにやりとした。
「相変わらず演技が下手だな」
それから彼は足元に目を落とし、ちょっと考えてから話しだした。
「土産代わりに、ひとつ昔話をしてやるよ。……今からずっと昔、まだ神聖デニス帝国の栄光華やかなりし頃の話だ。ある島国に、歌だの絵だの、役に立たねえもんばっかり熱心にやってる、お気楽な連中が住んでいた。そこへ海賊どもが攻め寄せ、街は焼かれ、略奪され、男は大半殺されて、女子供は奴隷に売られた。主に、帝国の貴族に向けて……な」
彼はふと遠い目をして、都の焼け跡を見やった。何かを思い出そうとするように目を閉じ、それからまた、言葉を続ける。
「その中に、女みたいな外見と歌だけが取り柄の、世間知らずのガキがひとりまじっていた。そいつも奴隷として過ごす内に、人間にどんな残酷なことができるか、身をもって学んだわけだ。ただそれでも、子供の内は見てくれもいいし声もきれいだってんで、マシな扱いだった。声変わりもして、とうが立ってくるにつれ、どんどん落ちぶれていった。最悪のことが起きたのは、そいつがすっかり普通のオヤジになっちまった頃だ。ある晩、主人が奴隷たちを何人か呼び集め、初めてまともなメシを食わせてくれたんだ。
どいつもこいつも飢えてたんで、疑いもなく貪り食ったね。ところが、直後にバタバタと全員死んでしまった。種明かしは簡単、食事には主人が買い求めた『不老不死の薬』とやらが、あれもこれもてんこもりにされてたのさ。奴隷に毒味させたわけだな。騙されたと知って主人は大荒れ、薬は全部焼き捨てて、奴隷の死体を腹立ち紛れに切り刻んだ」
そろそろ気分が悪くなってきたカゼスは、うっぷ、と口元を覆った。クシュナウーズはそれを一瞥して意地悪くにやりとした。
「大丈夫か? もうちょっと続くんだ、悪いな。で、だ。その時死んだ奴らの中に、ひとつだけ、切り刻まれなかった死体があった。そいつの女が、後でこっそり埋葬してやろうと思って隠しといたんだが、夜更けになってさあ埋めようと来てみたら、置いておいたはずの死体がない。それっきり死体は行方知れずだ。ちなみにその主人てのはある晩、何者かに殺されてたんだが……生き返った奴隷の呪いだとかいう話だった」
そこで彼は言葉を切り、しばらく沈黙したあとで、「めでたし、めでたし」などとおどけて付け足した。カゼスはしばし呆然とし、目の前の男をまじまじと見つめる。
「……なぜ、私にそんな話を?」
「なぁに」クシュナウーズはとぼけて頭を掻いた。「お嬢ちゃんとは、いつかまたどっかで会いそうな気がするからさ」
その瞬間、カゼスの頭にあることが閃いた。
「あー!」
「あ? なんだよ、いきなり」
素っ頓狂な声を上げたカゼスに、クシュナウーズはややたじろぐ。カゼスはひとり納得するのに忙しく、それどころではなかった。
「あなただったんだ、道理でよく似てると……そうか、そうだったんだ。って、うわ、でも二百年?」
げー、などと呻いたカゼスに、クシュナウーズは顔をしかめる。
「いったい何の話だ?」
「あ、いえその、つまり……私は以前、二百年後のデニスに落ちたことがあるんですけど、その時に、あなたらしき人物と会ってるんですよ」
アテュスの養い親、アムルだ。初対面のはずなのにカゼスを見てもあまり取り乱さず、いきなり人を『お嬢ちゃん』呼ばわりしてくれた男。そういえば、クシュナウーズの声を初めて聞いた時、誰かに似ていると思ったが、それも当然だったのだ。
「この一年でもそうでしたけど……あの時も、あなたには色々と教わりましたね。ありがとうございます」
もっとも、クシュナウーズの方はいまいちカゼスの話が飲み込めない様子だった。
「俺にはよくわからんが、お嬢ちゃんも随分と厄介な生き方してるみたいだな」
「あなたほどじゃないですよ」
言い返し、カゼスはじろっとクシュナウーズを見上げる。二人は束の間睨み合い、次いでどちらからともなく笑い出した。
ひとしきり笑った後で、カゼスはすっと手を差し出した。
「――元気で」
「おう、おまえもな」
クシュナウーズはしっかりと手を握り、だが未練などは微塵も見せず、これまで体験してきたであろう多くの別れと同じように、あっさりと手を離した。そして、くるりと背を向け、丘を下って行く。
その後ろ姿が豆粒のようになった頃、リトルが飛んできた。
「さて、これで集められるデータは集められましたし、いつでも出発できますよ」
久しぶりに精神波でなく合成ボイスの声を聞くと、なんだか妙な気分がした。カゼスは手を差し伸べ、水晶球をてのひらで受け止める。
「お疲れさま。……帰る前に、あとちょっとだけ、寄り道してもいいかな」
リトルが返事をするまでに、短い間が空いた。
「どうぞ。勧めはしませんけどね」
「ありがとう」
カゼスは微笑み、最後にもう一度レムノスの街を見やってから、ふっと姿を消した。
草原は鈍い金色になっていたが、その上を渡る風は今もからりと乾いて、気持ちのいい陽射しの匂いを含んでいた。
ちょろちょろと、泉から湧きでた水が小川に流れ込んでいる音。そのほとりに生い茂る薮の中で、鳥が飛び交って賑やかな音を立てている。
あの時はまだ新しかった盛り土にも、もう草が生えている。墓石の足元に、誰かが供えた花束があった。まだ瑞々しい。
カゼスは何も言わず、ただじっとその場に立ち尽くしていた。
どのぐらいそうしていたか。不意に泉の水がゴボゴボと泡立ち、驚いて振り返ったカゼスの目に、白い水竜の首が映った。
「イシル! 驚かさないで下さいよ」
「物思いを妨げたくはなかったのじゃが、相すまぬな。ちと見送りに来ただけじゃ」
「あなたにまで気付かれていたなんて……参ったなぁ」
カゼスは苦笑して頭を掻いた。
「なんだか、あなたにも助けられてばかりで、恩返しらしいことが出来ませんでしたね」
「人間の恩返しなど」可笑しそうにイシルは目を細めた。「そのような些細なもの、何ほどのこともないわ。なに、たまには人間の歴史に付き合うてみるのも、退屈しのぎになって良いのでな。儂のことよりも、汝はもう良いのか?」
色々と含むところの多そうな問いだった。カゼスの胸を、ふと疑問がよぎる。この水竜は、どこまで自分のことを知っているのだろう。だがイシル当人にしてみれば、やはりそれも、何ほどのことはないのだろう。
「大丈夫ですよ」
カゼスは小さく呟いた。何に対する言葉なのか、それがイシルに対する答えになっているのかどうかも、よく分からなかったが。
「私は、大丈夫です」
大丈夫。きっと忘れることはないだろう。多くの人が、自分の心に灯してくれた小さな明かりのことを。そして何より、自分も彼らをとても好きだったことを――。
イシルの見守る前で、カゼスの姿はゆっくりと眠りに落ちるかのように薄れ、揺らぎ、やがて風に溶けるように消えた。
あとにはただ、そこに人がいたしるしに、踏みしだかれた草があるだけだった。
日が落ちて薄暗くなった室内に、クシュナウーズが入ってきた。エンリルは窓の外を見つめたまま、振り向かずに問う。
「……カゼスは、帰ったか」
「ああ。一応フィオの奴とか、後の指示が必要な連中には、置き手紙を残してたみたいだがな。ほかには何にも、だ。あいつらしいと言えばらしい去り際だな」
「それで? そなたは見送ったのだろう。あのことを話したのか」
エンリルの声は平板だった。クシュナウーズは肩を竦める。
「俺がアルハンの船団を引き付けるために、どこの船だかわからないよう擬装して沿岸の村々を荒らし回った、って武勇伝か? 馬鹿馬鹿しい。ご安心を、王の名誉のためにも秘密は墓まで抱いていきますよ」
彼は厭味たっぷりにそう言ったが、エンリルは答えなかった。何が見えるのか知らないが、じっと視線を外に向けたまま、立ち尽くしている。クシュナウーズは頭を掻いた。
「単に立ち去られるのと、見捨てられるのとは違う……ってわけかい」
「いいや」ようやくエンリルは振り向いた。「たとえこの話を知っても、カゼスは余を見捨てなどせなんだろう。それこそヴァルディアに等しい悪行に出たとしても、やはり余に仕えてくれたであろう。ただひたすら心を痛め、苦しみながら。だからこそ、あの者に知られるわけにはゆかなかった」
「…………」
「いずれ去る者の背に、余計な重荷を負わせることもあるまい。あの者は……所詮、客人に過ぎなかったのだから」
そう言ったエンリルの声は、まったく感情が読めなかった。クシュナウーズが黙っていると、エンリルも無言のまま、手振りで退室を促した。
去り際にクシュナウーズが振り返ると、エンリルはまだ窓際に佇んでいた。その姿はまるで、孤独の一語を体現しているかのようで。
「しゃあねえなぁ」
部屋から出るなりため息をつき、クシュナウーズは小さく口の中で呟いた。
もうちょっと、付き合ってやらにゃならんかねぇ、と。
*
後日。
エンリルはアトッサと結婚し、高地は二人の共同統治という形で版図に加えられ、これによってふたたびデニスはひとつの帝国となった。エンリルは皇帝の冠を戴き、その在位期間はティリス王の頃から数えておよそ四十年に及んだ。様々な改革、治水事業などを行い、また統一後はほとんどの戦争を外交によって回避し、国民に豊かな生活をもたらしたため、創建の王であると同時に守国の王であるとして称えられた。
後代の王たちと異なり、彼はその生涯のほとんどを、帝都レムノスではなく故郷ティリスですごした。そしてまた、アトッサ以外に妻や側室をもつことはなく、その仲睦まじさは市井の民が羨むほどだったという。
オローセスは、エンリルの戴冠後に後見人の地位を返上し、生涯ティリス領主の地位にとどまってエンリルを支えた。
皇帝の下で騎兵団長をつとめたゾピュロスは、後に養女シーリーンと結婚。結局総白髪になるまで職務から解放されず、彼の望んだ隠遁生活とはついに縁がなかった。
万騎長カワードは、ある日突然息子と名乗る少年が訪ねてきたため、あれこれの騒動を引き起こして一時王宮に嵐を持ち込んだが、結局その子の母親と結婚。少しは落ち着くかと思いきや、アーロンの後を引き継いだイスファンドを相手に、相変わらずの舌戦を繰り広げる毎日だった。
ウィダルナは結局カワードの頭を飛び越して出世することはなく、相変わらず愚痴をこぼしつつも、バールを妻に迎えてそれなりに幸せな生活を送った。
クシュナウーズはしばらく海軍にとどまったが、後任の教育を終えると、どこへともなくふらりと姿を消した。その後の消息は杳として知れない。また彼と時期を同じくして水竜のイシルも現れなくなり、酒蔵の番人は寂しがりながらも安堵したという。
ヴァラシュは一時宰相職に就くが、アミュティスが成長するとその座を譲り、ふたたび軍事参謀として鬼才ぶりを発揮する。傭兵としてティリスに来た女剣士と結婚するまで、いや、してからも、相変わらず女にはすこぶる親切であった。その才知と性格のゆえに男の敵は星の数ほどいたが、それすらも楽しむ彼にしてみれば、人生は上々だったろう。
キースは魔術師として『長衣の者』の設立に尽力し、アミュティスの後に生まれた子供たちも全員が魔術師となった。彼らが初代の核となる。
カゼスが去ったことに一番取り乱したのはフィオだった。一度は島に帰るが、やがて再びティリスに戻り、ターケ・ラウシールで人々の為に働いた。その姿を見初められて心優しい小貴族の青年と結婚する。結婚後も仕事を続け、多くの人に母親のように慕われる存在となった。
そのフィオの下には時々ふらりとアーザートが現れ、相変わらずこき使われていた。彼は長らく身を落ち着ける事なくさすらっていたが、それが王から隠密として派遣されていたゆえだという者もあった。真偽は不明である。後年は高地に住まいを得て、ひっそりと静かに暮らしたという。
ゆっくりと、しかし着実に時は流れ――
『皇帝の片翼』アーロンの霊廟に観光客が絶え間なく訪れるようになっても、墓所の方は相変わらず閑静で、人の姿は滅多に見られなかった。
緑の草原がどこまでも続き、小さな虫がちらちらと羽を光らせて飛んで行く。やがて、蹄の音が近付き、茂みから鳥たちが驚いて飛び立った。
ただ一騎で草原を駆けて来たのは、壮年の男だった。額に金の輪をはめている以外に、その身分を示すほどの豪奢な装飾品は身につけていない。
「久しいな、アーロン。異世の宴はどうだ?」
彼は馬を木につなぐと、墓石の前に片膝をつき、花を手向けた。そして顔を上げ、遠く高地の足元まで続く緑の海を眺める。
「……ここは相変わらずだ。私はすっかり年をとったが」
呟いて、彼はひとり苦笑した。
「こんなことを言うと、まだ老け込むには早すぎると、カワードに怒られるのだがな。あの男ときたら、時の力さえ受け付けぬかのようだぞ。……そなたが既に、時の手の及ばぬ彼方に去ってしまったように」
立てた方の膝にちょっと額をつけ、彼はしばらく黙っていた。それから小さなため息をひとつ、そっと吐き出す。
「随分と遅くなったが……そなたに詫びねばならぬ。あの頃のことを。そなたを失ったあの頃……私はそなたに、嫉妬していた。カゼスを愛し、またカゼスに愛されていたそなたを、心の底ではずっと妬んでいたのだ。と言っても、それは……そなたがカゼスを愛したような意味でのことではないが」
彼は苦い憫笑を口の端に浮かべ、小さく頭を振った。かつての自分に呆れたように。
「私はあの頃、『ラウシール』を独占して良いのは王たる私一人だ、などという馬鹿げた妄想にとりつかれていたのだ」
葬儀の日、カゼスが言ったことを思い出し、彼はふと遠い目をする。
心のどこかで、こうなることを望んではいなかったか――その言葉に、自らの裡を見透かされたかと怯んだ、あの日。
「そなたの死を願いはしなかった、というのは、言い訳にもならぬ。そなたがいなければ、などと密かに願い妄想したのは、一度や二度ではないのだから。まったく、度し難い愚か者だな。天も見放し給うわけだ。素直にそなたらを祝福していれば、あのようなことにはならなんだろう。そなたを失って初めて、己の愚行に気付かされるとは……」
彼は寂しげに自嘲し、ゆっくりと立ち上がる。
「王であることは務めであり、特権ではない。そのことを思い出すために、随分と高い代償を支払うはめになった。本当に、……高い、代償だったよ」
しばし墓標を見つめ、それから彼は、ふいと地平線の彼方に目を向けた。
「皇帝の玉座にも慣れたが、あれは余人を拒むものでな、今でも好きにはなれぬ。だからアーロン、もし私を許してくれるのなら……そなたの隣に、私の席を空けておいてはくれないか」
ささやくように紡がれた願いは、風にまかれ、散り散りになって消えた。
人のいない静かな草原に、高く、遠く、鳥の声が余韻を残して響く。日なたの匂いを乗せた風を受けながら、彼は一人、いつまでも佇んでいた。




