七章 帝国復活 (3)
アルハン王都レムノスにヴァルディア率いる軍が戻ってきたのは、ほぼ読み通り、フィルーズの即位宣言から六日後だった。
高地に向かった部隊はカワードが殲滅していたが、ヒルカニアに向かった本隊の方は結局バームシャードと一戦も交えることがなかったため、追撃を受けてわずかに数が減ってはいたものの、ほとんど無傷だった。
「もう少し行動を起こすのを遅らせれば良かったのかも知れぬが、あまり遅らせてアラナ谷の軍勢と本格的な戦闘になれば、こちらの被害も軽微ではすまなんだであろうし……まあ、こうなったのも天命だろう」
知らせを受けたエンリルの態度は、落ち着いたものだった。まるで、我が家の暖かく乾いた暖炉の前で、外では雨が降りだしましたとか、庭先に犬がいますとかいった、他愛ない知らせを受けた主人のようにさえ見える。
実際、さすがにまだアルハンの玉座に腰を下ろしてはいないが、既に執務室の椅子は彼の専用となっていたし、本人も自分が王宮の実質的な主であることを当然として振る舞っていたのだ。
「そうですね。それに今は、ディヤーラ河を溯って水軍が来る様子も見られませんけど、いつ戻って来るかわかりませんし」
カゼスがそう同意すると、エンリルはやや複雑な顔を見せた。
「いや、そちらに関してはクシュナウーズが引き受けている」
「あっ……それじゃあ、島に行った時に?」
カゼスは驚いて目をみはった。別行動を、と言ったのは、アルハンの船団をおびき出して忙しくしておくことだったのだろう。エンリルはうなずき、しかし、と続けた。
「いずれにせよ、彼らもそう長くはアルハン水軍を引き留めておけまい。あとは我々がいかに上手く事態を収拾するかにかかっているわけだ」
「いかにも」とヴァラシュが微笑した。「今現在、ヴァルディア軍は対岸に陣を敷き、こちらを心理的に追い詰めるつもりでいるようです。まあ、相手が何もせずとも、包囲が続けばこの都の人々は、我々を追い出そうとするでしょうな」
「嫌なこと言わないでくださいよ」
カゼスは渋面を作り、空中のリトルを招き寄せて手に取った。
「そうならない為に、私もせっせと穴掘りなんかしてたんですから。道案内に、またこれを渡しておきましょう……誰があの地下迷宮を通って行くんですか?」
カゼスが差し出したリトルを、ヴァラシュは大仰にひざまずいて受け取った。
「ふたたびこの神秘なる水晶球を手にする光栄に浴するとは。勿体のうござる」
「止して下さい、大袈裟な」
こいつはすぐに付け上がるんだから、と内心で言い足して、カゼスは苦笑した。ヴァラシュもおどけた顔で立ち上がり、リトルを手の中で転がしながら先の質問に答えた。
「アーザートと、ガルドゥーンの者を何人か説得しました。それに、まやかしをかけたアミュティス嬢も念のため、同行すると申し出てくれましたよ。幼いながらに叡知と勇気を兼ね備えた、稀に見る逸材でござるな。おまけに何とも愛らしい。ともあれ、ヴァフカという百騎長が従軍しておりますが、彼もガルドゥーンの一員だそうで……彼と接触し、ちょっとした噂を流します」
「アミュティスが? 大丈夫かな。ヴァルディアが魔術の気配に気付くほど敏感でなければいいんですけど」
「それはあるまい」答えたのはエンリルだった。「余でさえも、実際にそなたが目に見えるところまで来ぬ限り、姿を捉えることは出来ぬ。ヴァルディアの目の届く範囲に近付かぬ限り、見付かることはあるまいよ」
おや、とカゼスはエンリルを見て目をしばたたかせた。
「自信がおありのようですね」
カゼスがきょとんとしているので、言いようによっては厭味にもなるその言葉を、エンリルは苦笑で受け流した。
「ヴァルディアが余と同等の力を自在に行使できるのであれば、疾うにあの御仁はデニス全土を恐怖のどん底に叩き落としておるさ」
「あ、そうか。それもそうですね。……そうでなくて良かったですよ、本当に」
納得してからカゼスは身震いした。そうだ、場合によってはそうなっていたかも知れないのだ。たまたま、これほどの力を持って生まれたのがエンリルであったから良かったものの、ヴァルディアだったら……。
顔をしかめたカゼスに向かって、エンリルは、納得したか、と問うようにおどけて片方の眉を上げた。
「さて、その間こちらも手をつかねて傍観してはおれぬ。仕事にかからねばな」
エンリルは椅子から立ち上がり、あまり乗り気でない様子で部屋を出た。
確かにそれは面倒な仕事だった。
ヴァラシュが敵の背後に回り込んで噂を流し、また少しずつ兵を籠絡していく間に、カゼスとエンリルは街の人々を安心させるために、余裕のある態度を示し、また必要とあらば広場や街角で演説したりもした。
こうした人心を掌握する術に関しては、エンリルの才能は図抜けていた。何もせずただそこにいるだけで、周囲の者は太陽に照らされているような暖かさや安堵を感じるのだ。加えて巧みな弁舌があれば、向かうところ敵なしといった有り様だった。
カゼスが彼と出会った当初はそうでもなかったが、戦地で味方を奮い立たせたり、占領した街で人々を宥めたりするのに忙しかった結果、否応なくこうした技術も磨かれたのだろう。
エンリルのお供をして回ったカゼスは、ただ感嘆するばかりだった。もっとも、そんなエンリルの姿は、彼自身の生来の気質に何かが覆い被さっているようで、遠くから見る分には感心もするが、身近にいる者としてはあまり好きになれなかった。
(仕方がない事だけど……対外的な『王の顔』をしたエンリル様より、素のままの方がいいと思うんだけどな)
もっとも、自分がエンリル王の治める国に住む一庶民であれば、彼が王であることにすっかり満足しているだろうが。
カゼスがエンリルの背を見ながらそんなことを考えていると、市門の方から衛兵が息を切らせて走ってきた。
「エンリル様、ヴァルディア王よりの使者が、門前に参っております」
「向こうから挨拶に来たか。良かろう、会ってやるとしよう」
エンリルは余裕のある笑みを浮かべ、門に向かって歩きだす。カゼスも慌ててその後を追いかけた。こちらから使者を出さなかったのは、特に深い意味があってのことではない。エンリルとしては、単に無用な犠牲を出したくなかっただけだ。送り出した使者がそのままの姿で戻って来ることなど、相手が相手だけに考えられなかった。
もちろん、ヴァルディアはあれこれと深読みして、腸の煮えくり返る思いをさらに強めたに違いなかった。
「逆賊ども! アルハン王ヴァルディア様の使いである、門を開けよ!」
使者の切り口上にもそれがあらわれていた。門から続く幅の広い橋の上で、馬の手綱を操り、蹄を打ち鳴らしている。
エンリルは城門の両脇にある高楼にのぼり、テラスから使者を見下ろした。
「異なことを。現アルハン王はフィルーズ殿であり、ヴァルディアではない。平身低頭して拝謁を望むならまだしも、そのように居丈高に振る舞うなど、そなたらには許されぬことであるぞ」
途端に、出たな諸悪の根源め、とばかり使者は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「黙れ、空き巣狙いの卑しいこそ泥が! 馬飼い風情が、誉れあるアルハンの王座に手をかけ、臭い息で汚しおって! 今のうちに疾く家畜小屋に逃げ帰るがいい、さもなくばヴァルディア様の鉄槌が貴様を叩き潰してくれようぞ!」
「……あまり使者には向かぬ人物であるようだな」
エンリルはカゼスを振り返ってささやき、おどけた風情で小さく肩を竦めた。カゼスは危うくふきだしかけ、口を一文字に結んでぐっと堪える。エンリルもにやりとしてから、表情を取り繕って使者に向き直った。
「獅子の尾に潜むダニの如きが、威勢の良いことだ。だがこちらにはフィルーズ殿もシルピオネ殿もおおわす。民も皆、これ以上気の触れた獣を玉座に据えておくつもりはない。森に帰り、兎でも追って暮らすよう、主に伝えるのだな」
「正体を現したな、薄汚い盗っ人め! 民の耳に甘い言葉を吹き込み、安っぽい正義の衣をまとってはいるが、結局は奥方様とフィルーズ様を人質にとり、畏れ多くもヴァルディア様を強請りおるだけではないか!」
「人質? まさか。ヴァルディアにそのような手が通じるほどに人の心が残っておるならば、かほどに民を虐げることもなかったろう。苦しむ民の姿に心を痛めていた妻を、いまさらあの男が庇うとでも言うのか? 癇癪を起こした子供のように暴れ、この都の民もろとも踏みにじるだけであろうよ」
エンリルはせせら笑い、使者の言葉を一蹴した。
「帰るが良い、そしてヴァルディアに伝えよ。この都は既にそなたのものではなく、またこの国もそなたの居場所を与えはせぬと。帆を上げ、何処かへと去るならば、それを妨げはせぬ。また暴君に踏み付けられ本来の誉れを剥ぎ取られ、隷属を余儀なくされてきた兵たちについては、ヴァルディアの下を離れるならば、これまでの罪を問うまい」
そこで彼は言葉を切り、皮肉っぽい顔をして見せた。
「そなたですら、心を入れ替えて新しい主に仕えると誓うならば、命まで取りはせぬぞ」
「く……っ」
使者は怒りで顔を赤黒くし、ぎりっと歯噛みする。罵詈雑言だけは達者なものの、どうにも使者としては力不足であるように見受けられた。彼は言葉に窮し、唾と共に悪態をひとつ吐き捨てた。
「私生児風情が……!」
口に出した直後、彼は己の失敗を悟った。テラスに立つエンリルから、凍りつくような怒りの気配が伝わってきたのだ。青ざめて顔を上げると、エンリルの全身を聖紫色の光がうっすらと取り巻いているのが見えた。
足元の地面がいきなり弾け、彼は短い悲鳴を上げる。去ね、と命じられるよりも早く、彼は馬首をめぐらせ、一目散に逃げ帰って行った。
「エンリル様……」
カゼスがおずおずと声をかけると、エンリルはふっと怒りの気配を消して、何事もなかったような顔で振り返った。
「愚か者につける薬はないな」
蔑む口調で冷たく言い捨て、彼はカゼスの横を通り過ぎ、階段を降りて行った。
ヴァラシュがヴァフカたちの協力で流した噂は、ヴァルディア軍の中に水が流れるように広まり、目立たぬが深い動揺をもたらした。
最初は、レムノスの様子や家族の安否を知りたがる兵たちの心理を利用し、都は以前よりもずっと穏やかで人々ものびのびと暮らしており、混乱や暴動もなく、食料も行き渡っている――といった内容の話が伝えられた。
次いで、エンリル王はアルハン軍と徹底抗戦するつもりはないらしい、という噂。つまり、憎むべきは暴虐の徒ヴァルディアひとりであり、アルハンの民に対して含むところはない、であるから彼が政権を執っても自分たちが職を失うだとか、財産を没収されるだとかいった心配は、しなくていいらしい、と。
そうした噂が広まった後で、ヴァラシュは切り札を出した。その噂をまくよう命じられたヴァフカやガルドゥーンの者たちがまず驚き、顔を見合わせたほどだ。そんな噂であるから、彼らが努めて流布せずとも、瞬く間に広まった。
――いわく。エンリル王は、神聖デニス帝国最後の、直系の皇族である。
常日頃、帝国の後継者を公然と自認してきたヴァルディアの姿が彼らの頭にあるだけに、この話は強烈な効果があった。
真の後継者は、あの暴君ではなかったのか。あれほどの苛烈な政治に耐え、横暴な命令に従い、苦しい生活を忍んで来たのは、何のためだったのか……?
事実は単に権力に怯えて縮こまっていたのだとしても、その暴君がもしかしたら倒れるかも知れない可能性が出て来た途端、彼らの頭の中で無意識にすり替えが起こった。事が起こってからしたり顔で「だから言ったんだ」と放言する厚顔無恥な輩のように、彼らはヴァルディアに対する憤懣を今になって表し、その遅れに対する言い訳を始めたのだ。
今までは、あくまでヴァルディアが正統な帝王であると信じていた、それゆえに我慢していたのだ。しかし事実は違ったらしい。自分たちの苦しみはなんだったのだ。我々は怒り、不満をぶつけても良かったのだ――。
要するに、なんだ、俺たちは偽者に騙されていたんじゃないか、というわけだ。その偽者を覆う本物らしさのベールは、自分たちが這いつくばることで作り上げたのだ、という点は無視して。
そんな彼らの反応は、確かに思惑通りではあったのだが、それでもやはり目の当たりにしたヴァラシュは、嫌悪と侮蔑に歪んだ嘲笑を浮かべたほどだった。
軍団の中に広がる不穏な空気と、ともすれば背中に突き刺さる不吉なまなざしの多さに気付いたヴァルディアが、奴はただの私生児だといくら怒鳴ったところで、今となっては効果がなかった。
包囲からわずか四日目にして、思い余ったヴァルディアは強硬な攻撃に出た。待てば待つほど、自分の背後が危うくなるとあっては、少々強引だろうが損害が出ようが、致し方なかったのだ。
羊雲の浮かぶ晴れ空に向かって、角笛が高らかに突撃の合図を吹き鳴らし、槍の穂先をきらめかせて、アルハン軍はディヤーラ河の岸に殺到した。渡河の可能な浅瀬に騎馬が駆け込んで飛沫を白く跳ね上げ、城門に続く橋の上を破城槌がごろごろと前進する。
だが、城の方からは何の攻撃もなかった。ただエンリルがカゼスを伴って、城門の高楼に現れたほかは。
「射て! 奴を殺せ!」
橋の上で先頭きって指揮をとっていたヴァルディアが、エンリルの姿を認めて喚いた。槌を転がしていた兵の後ろから、弓兵が矢を飛ばす。だが大半は高楼にかすりもせず、かろうじて届いた矢も魔術の風に追い返されて落ちるだけだった。
「ヴァルディアよ!」
凛とした声を戦場の騒音に負けじと張り上げ、エンリルは宝珠の箱を掲げて見せた。
「これが何か、そなたは知っているか。先の帝国の遺物、皇族の力を知らしめる宝だ。聖紫色の宝珠がその者の資質を示すという」
束の間、攻撃の手が止まった。エンリルは相手が自分を真っすぐに睨みつけているのを確かめ、不敵に微笑みながら、「見るがいい」と箱の蓋を開けた。
――その瞬間。
誰もが息を飲み、反射的に腕や手で顔を庇った。爆発が起こったのかと思ったのだ。
輝く紫光の壁が迫ってくるのを見た直後、それは体を貫いて通り抜け、背後へ飛び去って行く。まるで神の指が触れたかのように、光を浴びた者は圧倒され、力が抜けてその場にがくりと膝をついた。
カゼスは光の中心にいるエンリルの傍らに立ち、愕然と紫光の壁が遠ざかる様子を見ていた。アテュスの比ではない。高楼から発した光はアルハン軍のひしめく河や橋を越え、その最後尾まで達し、それでもまだなお膨張を続けている。
このままでは地平線まで行ってしまうのではないか、とカゼスが畏怖におののいた時、ようやく光はふっと薄くなり、消えた。傍らでエンリルが箱の蓋を閉じ、小さな金具を留めたカチリという音が、カゼスの意識を引き戻した。
我に返ったカゼスは慌てて周囲を見回したが、もはや戦闘が再開する気配など、微塵もなかった。力を持たぬ者たちは格の違いを思い知らされ、ほとんど茫然自失している。涙を流して這いつくばり、震えている者も少なくない。ヴァルディアでさえ、あまりのことに身じろぎもせず立ち尽くしていた。
その様を目にして、カゼスは悟った。
――これは、兵器だ。
単なる血筋の証明などではない。問答無用で人をねじ伏せる、強力な兵器。古の皇帝たちは、民を平伏させるのに槍や剣さえ必要としなかったに違いない。
世界から音が失われてしまったような、息詰まる静寂が一帯を覆った。
「……さて」
エンリルが穏やかに発した声が、沈黙の呪縛を解く。
「ヴァルディア、最後の皇帝エラムの息子たる余に、より勝る力を示せるか」
「な……っ、戯言だ! 貴様がエラム帝の息子だと? 皇族の力を持つことは、なるほど事実であろう。だが貴様の血は汚れた売春婦のものであろうが!」
秘密を知っているのか、それとも単なる罵倒なのか。いずれにせよ、親を辱めることは最大の侮辱であり、エンリルにとってはそれ以上の意味をもっていた。エンリルの顔がこわばったのを見て取り、ヴァルディアは残酷な喜びに唇を歪める。
「皇族の力を有するのは、貴様だけではないわ!」
刹那、紫の光がヴァルディアの体を取り巻いて燃え上がり、鋭い巨大な槍となってエンリルに襲いかかった。
同じ皇族の力なら、エンリルの負ける筈がなかった。瞬時に光の壁がエンリルを守って立ちはだかり、ヴァルディアの放った槍はガラスの割れるような音を立てて、粉々に砕け散った。細かい光の欠片が、火の粉のように舞い散る。
無駄だ、とエンリルが言おうとした瞬間、
「伏せて!」
いきなりカゼスが彼の背に覆い被さるようにして、押し倒した。同時に、ジュッ、と熱した鉄板に水滴を落としたような音が、右の耳をかすめる。灼けるような痛みがきたのはその後だった。
「くッ、奴め何を」
右耳を手で押さえると、血がぬめった。下の方から、ヴァルディアの勝ち誇った笑い声が届く。カゼスは急いで止血だけ施し、手摺りの陰に隠れたままささやいた。
「立たないで! 迂闊に立ち上がると、頭を撃たれておしまいです」
「いったい奴は何をしたのだ? キースの道具か。一度きりのものではないのだな」
エンリルは顔をしかめて唸る。その表情は、傷の痛みよりも事態の苦々しさに歪んでいるようだった。カゼスはうなずき、そろっと首を伸ばして下の様子を窺う。
「ええ、特殊な武器です……まだまだ何回でも使えるでしょうね」
挑発してカートリッジが空になるまで撃ち尽くさせる、という手もないではないが、建物の強度を考えると危険だし、ヴァルディアが予備のカートリッジを衣服のどこかに忍ばせている可能性もある。
第一、せっかく心理的な優位を得たのに、物陰に隠れて攻撃をやり過ごそうとしていたのでは、無駄になってしまう。アルハン軍の兵士が、やはりヴァルディアの方が強い王なのだ、などと考えてエンリルを侮りかねない。
宝珠の箱は高楼の端まで飛ばされており、拾うには手摺の隙間に何度も身を晒さねばならなかった。無事に取れたとしても、今またあの箱を開けば、普通の人間はとても正気を保てないだろう。何千人もの兵士が精神を焼き尽くされ、廃人になってしまう。
となると、道はひとつ。
(ちょっと危険だけど、やるしかないな……リトルがいてくれたら良かったんだけど)
カゼスは唇を舌で湿らせ、用心深く最小限の動きでヴァルディアの居場所を確かめた。幸い、他の兵たちから突出し、一人で銃を振り回している。周囲の者は巻き添えになるのを恐れて、遠巻きにしているのだ。
「エンリル様、私がヴァルディアの武器を奪います」
「止せ! いくらなんでも、それはあまりに危険だ」
「でも、ほかに方法はありませんよ。跳躍すれば一瞬のことですから、反撃を受ける心配はないと思います。ですから、その後でエンリル様が……その、つまり」
「好きなようにしろ、と?」
こんな時にまで殺せと言えないカゼスに、エンリルは温かみのある苦笑を浮かべて、皮肉っぽく眉を上げた。カゼスはどう答えたものかと困って視線をそらしたが、曖昧にむにゃむにゃごまかして、「お願いします」とだけ言った。
「分かった、それでいくしかあるまい。しくじるなよ、カゼス」
エンリルはうなずき、カゼスの手に自分の手を重ねる。口には出さないが、カゼスにまで死なれたくはないのだと、その目が語っていた。カゼスはにこりとして見せた。
「後でその耳を治さなきゃいけませんしね。気をつけます。それじゃ、いち、にの……」
呼吸をはかり、「さん」でカゼスは『跳躍』した。
「うおっ!? な、何奴!」
ヴァルディアはいきなり真横に現れた人物に驚き、悲しいかな、反射的に銃ではなく剣を抜こうと慌てた。その腕めがけ、カゼスは組んだ両手に体重を乗せて力いっぱい振り下ろす。堪えきれずヴァルディアは苦痛の叫びを上げた。手から振り飛ばされた銃が橋の上を滑る。カゼスは素早くそれを追い、さっと拾い上げた。一瞬後には、背後にヴァルディアが追いすがっていた。
「貴様ぁッ!」
ヴァルディアが怒号と共に鞘を払った瞬間、カゼスは地を蹴って大きく跳びすさった。力任せに振り下ろされた剣が、危ういところで足元をかすめ、橋の敷石にガキンと耳障りな音を立てて食い込む。続く攻撃が来る前に、カゼスは風に乗って高く舞い上がった。
「エンリル様!」
呼びかけると同時に、テラスで立ち上がったエンリルが、さっと右手を振り上げた。その手には既に聖紫色の光が集まり、まばゆく輝く巨大な剣が姿を現していた。
ヴァルディアの目にエンリルの姿が映り、その口が怒りと絶望の叫びを上げようと大きく開く。だが、そこから声が出ることはなかった。
エンリルが手を振り下ろし、三日月の如き光の刃が、ヴァルディア目がけて走った。
そして――。




