七章 帝国復活 (2)
ヴァルディアが激怒して戻ってくるまで、猶予はおよそ六日というところだった。
どさくさ紛れにヴァルディアの腰巾着が密使を放っていようから、その知らせが前線のヴァルディアに届くまで、二日ほど。その間もヴァルディアは行軍を続けているだろう。それから全速力で進んだ道程を戻るとして、さらに四日。ヒルカニアのバームシャードがその尻尾に食らいついてくれたなら、今少し時間が稼げる。
とは言え、あまり時間がないことに変わりはない。エンリルはシルピオネとヴァラシュ、キースを補佐に置いて、精力的に準備を整えた。
ヴァルディアの帰還に脅えて裏切りそうな面々はさっさと隔離し、市壁の城門を封鎖する準備を進め、ディヤーラ河に架かる橋の位置と、渡河の可能な場所を点検する。
カゼスは地下迷宮の出入り口と、旧都市側への通路の確保を命じられた。
〈まさかこんな所で、土木工事のアルバイトみたいなことをするはめになるとは……夢にも思わなかった、よっ〉
私宮殿側の入り口をえっちらおっちら掘りながら、カゼスはリトルにぼやいた。なんでラウシール様がこんなことを、とも思うのだが、何しろ『裁きの迷宮』となると作業を手伝ってくれるほどの恐れ知らずは極めて少なく、最高に不機嫌な顔のアーザートと、あと数名の男だけが頼りだった。となるとカゼスも、さぼってはいられない。
どの程度埋まっているのかもわからないので、魔術で吹っ飛ばすわけにもいかない。地道な作業だ。床石を外し、階段が出てくる筈の場所をせっせと掘り下げていく。
〈ま、たまには肉体労働もいいんじゃありませんか。せっかく筋肉ってものが備わっているのに、使わなければ退化する一方ですよ。ほらほら、さぼらないさぼらない〉
〈他人事だと思って……くそ、これで通路まで塞がってたら、怒るぞ〉
〈『くそ』なんて、ラウシール様が使う言葉じゃありませんよ〉
意地悪くも楽しげに言われ、カゼスはその場で暴れだしたくなった。もちろん実際にそんなことをしたら、気が触れたかと思われてしまう。じっと我慢しつつ、憤懣は地面にぶつけるしかなかった。
本当にここか、とカゼスがリトルの記憶を疑い始めた頃、変化が訪れた。土の色合いが変わり、切り出された石の端が顔を出したのだ。途端に元気を取り戻したカゼスは、張り切って穴掘りを続けた。
やがてボコリと足元が崩れ、カゼスはそのまま下に落ちそうになって、慌てて穴の縁にしがみつく。だが何のことはない、すぐ下に段があり、簡単に降りることができた。
「階段の途中まで、埋まっていたみたいですね。ここに王宮を建てる時に、盛り土をして塞いでしまったんでしょう。この先は……うん、大丈夫、埋まっていませんね」
カゼスは真っ暗な通路の奥を覗き込んで、上から不安げに見下ろしている面々にそう説明した。リトルが光を放ちながら、すっと中に飛んで行く。
〈では、以前の記録と照合して安全な経路を確認してきます〉
〈頼んだよ。持つべきものは優秀な相棒だね、助かるよ〉
〈たかがお世辞で、優秀でない相棒を持たされた私の不幸がいささかでも減じるなら、いくらでも調子のいい台詞を聞かせて貰うところなんですがね。ああ、不幸だ〉
もう帰ってくるな、と言いたくなるのをぐっと堪え、カゼスは闇の奥に消えて行く光を見送った。と、そこへ背後から呑気そうな声が降って来た。
「モグラになった気分はどうだ、カゼス」
「結構楽しいですよ。エンリル様もご一緒にどうですか」
軽い皮肉に減らず口で応じ、カゼスはじたばたと穴から這い上がった。青い髪が黒くなるほど土にまみれた姿からは、到底、威厳も神秘性も感じられるものではない。エンリルは笑い出しそうな口元を辛うじて引き締め、ぽっかり開いた暗闇の穴を見下ろした。
「入り口を見付けたのだな」
「ええ。通路の状態や出口なんかは、今、いつもの水晶球で調査してます。そちらの状況はどうですか?」
「市民を落ち着かせる方は、ヴァラシュやシルピオネ殿、それにガルドゥーンの者たちが上手くやってくれている。私とキースはそれぞれ宝探しの最中というところかな。手が離せるのなら、来てくれぬか」
おどけて言い、エンリルは小首を傾げた。カゼスはばたばたと土埃を払い、はあ、と生返事をした。
「宝探しですって?」
「来れば分かる」
そう言われたら、行くしかない。カゼスはアーザートたちに、水晶球が戻って来るまで作業は休みだと言い置き、エンリルの後からてくてくとついて行った。歩きながら、エンリルが時々頭に手をやるのに気付き、どうしたんですか、と問う。するとエンリルは振り返り、苦笑いを見せた。
「キースの魔術で高地に行き、カワードたちにことの顛末を知らせて新たな指示を与えたのだがな。一度ならず二度までも騙されたのが悔しかったと見えて、拳を一発頂戴してしまった」
「一度ならず、って……ああ、私の葬儀をした時ですか」
ハトラでの戦いを思い出し、カゼスは失笑した。それからエンリルの頭に手を伸ばして、彼がしきりに触れていた場所を探る。さすがに、コブや傷ができるほど強く殴られたわけではないようだ。
「大丈夫みたいですね。それにしても国王陛下をぶん殴るなんて、カワードさんも思い切ったことをしたもんですね」
「気持ちは分からぬでもないのでな。今回限りは許してやることにした」
エンリルは肩を竦め、歩みを再開する。
「シルピオネ殿の話では、ヴァルディアは兵の一部を高地に向かわせたということだ。カワードたちにはそちらの相手をして貰わねばならぬ。もっとも私が知らせるまでもなく、斥候がヴァルディアの派兵を報告していたようだが」
「アトッサ殿が、道に詳しい地元の人を予め手配しておいてくださったんでしょうね」
「恐らくな。カワードでは斥候を出すことまでは考えても、人選までは気が回るまい。ともあれ、彼らが敵の足を止めてくれている間に、我々は出来る限りのことをしておかねばなるまいよ。さあ、ここだ」
着いた所は宝物庫だった。見覚えのある建物の前に立ち、カゼスは「なんだ」と拍子抜けした顔になった。
「宝物庫じゃないですか。わざわざ探すまでもなく、宝物だらけでしょうに」
「ところが、そうでもないのだ。見てくれだけは豪華だが、真に価値ある宝というのがなかなか見付けられなくてな。ひとつ妙なものを奥から掘り出したのだが、何なのか判別がつけられぬのだ」
言いながら、エンリルは中に入って行く。カゼスも後から中に入り、うわ、と声を上げた。二百年後に見た時よりも、はるかに雑然としている。金箔張りの椅子、黄金と銀の杯や宝石をちりばめた冠、きらきらと眩しい首飾り。全面に浮き彫りの施された優美な雪花石膏の箱に、黄金の腕輪がゴミのように無造作に突っ込まれている。
金銭的な価値は相当なものなのだろうが、エンリルの言うような『真に価値ある宝』を見分けるのは、確かに難しそうだった。
(共和国の通貨に直してどのぐらいだろう。どのみち数字が出たとしても、実感が湧きやしないけど。家が何軒か建つんだろうな。いいなぁ、これだけあったら食費に気を遣わなくてすむよなぁ。新しい電気ポットも欲しいし……ああ、今頃、家はどうなってるんだろう。帰ったらきっと、ハウスクリーニングの業者を呼ぶことになりそうだし、この腕輪、一個貰ってったら駄目かな。駄目だろうなぁ)
などとカゼスが自分のものでもない財産の使い道を考えつつ、ぼんやり宝の山を眺めていると、エンリルが手に小さな箱をひとつ持って、奥から戻って来た。
「これだ。見付けたのは昨日の深夜だが、蓋を開けた途端に輝きだしたのでな。慌てて閉じて、それきりなのだ。そなたなら、何か知っているのではないか?」
手渡され、カゼスは思わず笑みを広げた。
「これですか。懐かしいなぁ……って言うのも変ですね、私にとっては二年ぐらい前に見た物なんですけど」
それは、『宝珠』の箱だった。蓋を開くと、すぐそばにいる皇族の血縁者に反応し、その者が持つ力の大きさを紫色の光で示す道具だ。これのお陰でカゼスは散々な目に遭ったわけだが、今となっては懐かしい思い出である。
カゼスが箱の作用を説明すると、エンリルは何事か考える風情で、しげしげと改めて箱を眺めた。
「先の帝国の遺物か。まるで私に……」
「……? どうかしましたか」
「いや、なんでもない。帝国の崩壊と共に失われた技術の、なんと貴重であったことかと惜しまれてな。そなたが見た『宝珠』は、どの程度のものだったのだ?」
「えーっと……この王宮の、中庭を覆うぐらいでしたね。でもそれは、当時ではかなり力が強い部類に入る人でしたけど」
アテュスの『宝珠』を見たオローセス王――エンリルの父ではなく、子孫の方だ――は、随分と強い力を持った者が現れたものだ、と驚いていた。また、自分の『宝珠』は貧相なので見せられぬ、と冗談なのか本気なのか、そうも言っていた。思い返してみれば確かに、オローセス王の『宝珠』が膨らむ速度は遅かったようだ。
そうした事をカゼスが補足説明すると、エンリルは、そうか、と言ったきり、箱に目を落として黙り込んだ。カゼスは小首を傾げ、相手が何か言い出すのを待った。
と、唐突にエンリルは顔を上げ、いつもの口調で言った。
「これでようやく、安ぴか物の山から宝をひとつ掘り出した、というわけだ。また何か正体不明の物が出てきたら尋ねるとしよう。ここはもう良いから、キースのところへ行ってくれ。謁見殿の裏手にある建物の二階か、そこにいなければ家だろう」
「あ、はい。わかりました。それじゃ、土砂崩れを起こして埋もれないように気をつけてくださいね」
おどけて一礼し、カゼスはエンリルの苦笑に見送られて外に出た。
キースは王宮内の自室にいた。カゼスが部屋に入った時には、まるで大掃除でもしているかのように、あらゆるものがごちゃごちゃと床に放り出されていた。
「何やってるんですか?」
自分の部屋を思い出すなぁ、などと妙な感慨を抱きつつカゼスが問うと、棚の抽斗をひっくり返していたキースは、振り返ってやっとこちらの存在に気が付いた。
「ああ、ラウシール殿。実は、私が監禁されている間に、部屋の物を持ち出されてはいないかと調べているところでして。実際、催眠キューブはヴァルディア様がご自分の手元に置かれているようで見当たりませんし……実はほかにも……」
ここにもない、と呟きながら、キースは抽斗を閉める。カゼスはなんとなく嫌な予感がして、「当ててみせましょうか」と不吉な声を出した。
「なくなったのは銃でしょう」
ずばり言い当てられ、キースは弾かれたようにこちらを振り返った。
「ど、どこかに落ちていましたか? 見付けられたんですか」
「いえ、そういうわけじゃないんです。ちょっとした因縁がありまして。もしかして、カートリッジもなくなってるんじゃありませんか」
「ええ、まあ、その……予備のがまだいくつか、あった筈なんですが、どうも……」
困り果てた様子でキースは頭を掻く。カゼスは頭を抱えてその場にしゃがみこみたくなった。つまりヴァルディアは、エネルギーカートリッジの交換方法も知っているわけか。
「なんだってそんな物騒なものの使い方を教えたりしたんですか!」
「それは、その……め、面目ない……」
もぐもぐとキースは口ごもり、言い訳もせずに縮こまる。カゼスは深いため息をついたが、気を取り直して頭を振った。
「怒鳴ったりして、すみません。そうですね、私には守るべき家族がいるでもないし、私の主君は幸い残酷な暴君ではなかった。とは言え、実際問題、困ったことになりましたね。レイ・ガン一挺程度なら大量殺戮兵器にはなり得ませんけど、ヴァルディアが持っているとなると、どんなことに使われるやら」
「私がどこかに置き忘れたという可能性も、皆無というわけではないんですが……楽観出来ないのは確かですし。ヴァルディア様が戻って来られたら、目を離さない方が良いでしょうね。あの、ラウシール殿、もしかどこかで見付けられたら……」
「ええ、もちろんすぐに回収してあなたにお返ししますよ。ほかに私が手伝える事は?」
特にないという旨の返事を五倍ほど長さのある言葉で受け取ると、カゼスはいささかげんなりしながら部屋を辞去した。
「やれやれ……」
誰にともなくぼやいた時、外からリトルが舞い戻ってきた。埃をかぶって表面が白っぽくなっている。
〈地下道の点検、終了しました。まったく、ひどい埃ですよ!〉
〈お疲れさま。どうだった? 向こうまで行けそうかい〉
〈通行には支障ありません。ネズミがうろちょろしているほかは、たいして危険な生物もいないようですしね。出口が少し狭くなっているので、土を取り除いて、草でカムフラージュしておいた方がいいかも知れません〉
〈ああ……また土掘りか……〉
〈その前に、一度自分の足で通路を歩いて、所要時間や地盤の怪しげなところをチェックしておいた方がいいですよ。さあ、きりきり働いた働いた〉
鬼、とカゼスはうめいたが、もちろんそれでリトルが前言を撤回してくれる由もない。カゼスは既に疲れ果てた風情で、のろのろと再び地下への階段に足を向けたのだった。
土木工事に嫌気がさしているのは、カゼスに限った話ではなかった。
「まったく、何が悲しゅうて、この寒空の下、穴掘りなどせにゃならんのだ」
ぶつくさ言いながらカワードは山道に溝を掘っていた。エデッサからウルミア湖を渡って北西の対岸、すなわちアルハン側から登ってくる道だ。
高地の王都エデッサはウルミア湖のティリス側に位置しているので、アルハン側から登ってきた敵は船を調達するか、浮橋を作るか、さもなくばぐるりと湖の縁を回らなければならない。ということは、こちらがのんびりしていた場合、敵は湖を前に進攻を諦め、高地のティリス軍はひとまず棚上げにして、王都に舞い戻ってしまうだろう。
「苦労して道を直しながらえっちらおっちら山を登って、ようやく居心地のいい冬の巣穴にもぐりこめるかと思いきや、招かれざる客を出迎えてやらんと、いかんとはな……ふう、やれやれ。結局いまだ、林檎酒の一杯も味わっておらぬではないか。これはもう立派な詐欺だぞ」
「私のことを愚痴が多いとおっしゃったのは、どなたでしたっけ」
横でウィダルナが言い、足に泥をかけられて顔を歪める。離れた場所で見物しているアトッサが、そなたら進歩がないのう、などと呆れた。
彼らが選んだのは、待ち伏せに絶好の場所だった。道幅はそこでぐっと狭まり、両側に崖が迫っている隘路だ。ただし下から登ってきた場合、ちょうどそこが坂の頂上にあたるため、その先が狭まっていることが分かりにくい。道に溝が掘られているのも見えない。
またさらに都合のいいことに、アトッサ自身をはじめとする土地の者は裏道を熟知しており、この古い街道のずっと下の方にひょっこり出られる小道を教えてくれた。完全武装では無理だが、弓と短剣程度の軽装であれば往来が可能だ。
アルハン側の斜面はティリス側よりもずっと樹木が密生しているため、一見して伏兵のいる様子は分からないし、脇道も見付けにくい。
「俺ならば、こんな所へのこのこ登ってきたりはせぬぞ。土地の案内人でも雇わぬ限り、どこから狼が飛び出すかとびくびくしておらねばならんではないか」
「私だって御免こうむりますね。ただし、背後から機嫌の悪い獅子が追い立ててくるとあらば、話は別ですが」
カワードのぼやきにウィダルナが応じた。もちろんこれはヴァルディアのことを言っているのだ。アトッサが小さく鼻を鳴らし、戦意に満ちた笑みを浮かべた。
「獅子一頭より狼の群れの方が与しやすいとでも思いおるか。じきに己の愚かさを思い知るであろうよ」
勇ましい言葉にカワードとウィダルナは顔を見合わせ、何やら失敬な感想をひそひそと交わしたのだった。
そのアトッサの言葉通り、アルハン軍が自らの愚を悟る時は、間もなく訪れた。
カワードは溝の底に尖らせた杭を立て、表面を落ち葉で覆って隠した。そして街道を挟む崖の上に弓兵を配置し、また間道を通っていつでも敵の背後に出られる位置にも伏兵を置いた。こちらは後から武具を道に慣れた者に運んで貰い、崖上の兵よりも充分な装備を整えた。
溝を越えて来た兵を迎え討つのは、ようやく出番の回ってきた騎兵だ。
そうして準備万端整えて、今や遅しとじりじりしながら待っているところへ、何も知らないアルハン軍が登ってきた。さすがに山道の険しさを配慮してか、騎兵はごく僅かで、歩兵が大半を占めている。
坂の向こうで騎兵を率いて待つカワードは、斥候の知らせを受け取ると、全体を少し前進させた。坂道の下からも、上で待ち受ける自分たちの姿が見えるようにするためだ。
途端に、坂道の下方から角笛が鳴った。先制攻撃を仕掛けるつもりだろう、勇ましい、励ますような節だった。下から上への攻撃は圧倒的に不利だし、この坂道で上から騎馬が疾走してきたら、槍を構えて迎え撃っても結果は見えている。それゆえ、少しでも早く頂上まで駆け登ろうとしたのだろう。
もちろん、それこそがカワードの狙いだった。
坂の上に見える槍の穂先のきらめき目がけて押し寄せたアルハン軍は、次第に両側から迫る崖に押されるようにして、乱れた隊形のまま突き進むはめになった。そして、その先頭が坂を上り切るかに見えた途端、一列に並んだ頭ががくんと下がり、隊列全体がつまずいたように揺らいで、大混乱になった。
「かかりおった、かかりおった」
これで連日の穴掘りの労も報われるというものだ、などとカワードは左右の者に笑いかける。今は馬上にある彼らも、つい昨日までせっせと罠を作っていたのだ。
アルハン軍の足並みが乱れ、速度が鈍った時を外さず、カワードは合図の角笛を鳴らさせた。その木霊が消えぬ間に、街道の両側から無慈悲な矢の雨がいっせいに降り注ぐ。それを指揮しているのは、外ならぬアトッサ本人だった。
前方の惨劇を見た後方の部隊は泡を食って、隘路から逃れようと回れ右する者と、策があるでもないのに味方を助けに行こうと突進する者とで、ふたつに引き裂かれる。
アルハン軍は一時、混乱と阿鼻叫喚の渦に呑まれた。が、指揮官が怒鳴り、やかましく角笛の合図が繰り返される内に、引いた波がふたたび寄せるように息を吹き返した。頭上に盾を掲げ、互いの体を被いながら、槍を前に突き出して鬨の声と共に前進する。狭い溝を飛び越え、あるいは味方の死体を踏み越えて。
「もう少し時間に余裕があれば良かったな」
カワードは思ったほど敵に損害を与えられなかったのを見て、憮然とした。あと数日猶予があれば、もっと溝を広くしただろうし、崖の上にも岩や材木を運び上げて、敵の頭上に降らせることが出来たろう。
「しかし、もしそうであれば我々の出る幕がなかったでしょうな。むしろアルハン兵が屈強で嬉しゅうござるよ」
カワードの背後で騎兵がにやりとし、槍を構え直した。確かに、手柄を立てる機会があるというのは良いことだ。カワードも破顔し、突撃に備えて槍を水平に構えた。
自分たちまで足元の怪しい隘路に突っ込むのは危険なので、敵が充分に罠の溝から離れたのを見計らい、カワードは声を張り上げた。
「今だ、突撃!」
合図の角笛など要らぬほどに、騎馬隊の呼吸はぴったりだった。いっせいに蹄が地を蹴り、瞬く間に怒涛となってアルハン軍に襲いかかる。歩兵中心の彼らは盾を構え槍を突き出し、突っ込んでくる馬を串刺しにしようと待ち構えた。どちらも損失は承知の上だ。
危険な斬り込み役を自らつとめながら、カワードがふと、カゼスがいればもっと楽なんだが、などと考えた――まさにその時だった。
アルハン軍の前線中央に、紫色の光がぽつっと灯ったかと見るや、パッと花が開くように広がって、兵をなぎ倒したのだ。槍の壁が崩れる。カワードが驚きつつ崖の方に視線を走らせると、アトッサらしき少女の姿がちらりと見えた。
「まったく、勇ましい女王陛下だ。やってくれるではないか」
カワードはにやりとして独りごちると、雄叫びを上げ、敵陣にぽっかりと生じた空間に馬を躍らせた。
その後はいつもの混戦だった。アルハン兵は初手で仕損じたものの、咄嗟になんとか仲間を庇い合い、騎馬兵を引きずり下ろそうと決死の戦いを挑んでくる。また僅かな騎兵は積極的にティリス騎兵に打ちかかり、一騎でも多く倒そうと剣や槍を繰り出した。
とはいえ、勝敗は最初からついているようなものだった。やがてアルハン兵は支え切れずに退却し、今登ってきたばかりの坂道を、転がるように下り始める。
いまだ矢の降りかかる隘路を無事に駆け抜けた者も、しかし、逃げ切ることはできなかった。高らかな角笛の音と共に、下方から新たなティリス軍が姿を現したのだ。間道に潜んでいたウィダルナ率いる歩兵たちが。
容赦なく前後から攻め立てられ、アルハン軍はもはや退却もままならず、ただ潰走し、ばらばらと逃げて行った。その頃にはカワードも、逃走する兵は追わぬよう命令を下していた。どのみち、都に戻れるかどうかも分からない。生きて戻れたとしても、完敗を喫した部隊をヴァルディアが許すとは思えないから、彼らがレムノスにいるエンリルの敵になることはないだろう。
「捕虜なぞ取ったら、こちらが冬を乗り切れぬやもしれぬしな」
高地の食糧事情を考えると、敵に情けをかけてもいられない。カワードはウィダルナとアトッサの二人と合流し、戦果と損失についての報告を受け、事後処理にかかった。
「さて、こちらは割り当て分の仕事は果たしたが」
アトッサがおどけて言い、見えるわけではないがレムノスのある方角を眺めた。
「エンリル王の方は、どうであろうかな。せいぜい上手く運んでおれば良いが」
「まあ、ここで心配しても始まらんさ。知らせが来るまでは休ませて貰うとしよう」
カワードは汗をかいた馬の首をぱたぱたと叩くと、やれやれというように肩をぐるぐる回した。ウィダルナがおどけた笑みを浮かべ、
「我らが御大将は、もうすっかり酒と寝所に心を奪われておられる」
などとからかったが、一仕事終えた満足感からか、カワードは機嫌よくそれを大目に見てやった。
「そうとも、後の仕事はおぬしに押し付けるつもりだからな!」