七章 帝国復活 (1)
「罪なき囚われ人を解放せよ!」
「解放せよ!!」
凛とよく通る声が叫び、うわあっ、と繰り返す声が天を揺るがす。
「飢える民にパンを! 陽の下で語らう自由を!」
ひとつ、またひとつと高らかに要求する声。それに合わせ、群衆の叫びも激しいうねりと化してゆく。
「我らの声を聞く王を立てろ!」
遂に、群衆の中から声が上がった。一瞬、その大それた発言に怯じたような沈黙が、熱狂の叫びをかき消した。が、
「新たな王を!」
彼らの先頭に立つ青年が拳を振り上げると、それに励まされ、喊声はさらに大きくなった。その青年――エンリルの姿を認め、カゼスは唖然と立ち尽くす。
いったい何事か。こんな計画ではなかったろうに。なぜ彼が堂々と姿をさらし、民衆を率いているのか? アミュティスとロードグネはどうしたのだ。
困惑のまなざしで門に詰め掛ける群衆を見ていると、エンリルのすぐ近くに、ヴァラシュとアミュティス、ロードグネもちゃんといるのが見えた。
門を守る衛兵たちはその勢いにたじろぎ、槍を構えたままじりじりと後ずさりしている。彼らが外にいるので、巨大な門扉を閉じて立て籠もるわけにもいかない。
と、近衛隊長らしき男が、応援を率いて駆けつけてきた。さすがに訓練が行き届いており、合図ひとつでさっと隊列を組んで門の幅いっぱいに広がると、いっせいに槍を水平に構えた。わあわあ叫んでいた人々も、凶悪な牙のように並んだ穂先を突き付けられ、勢いを失って口をつぐんでゆく。まるで、つい今し方まで叫んでいたのは別人です、と知らぬふりをするかのように。
「立ち去れ、王に刃向かう愚か者ども! 王がおわしたなら、このような慈悲はかけぬぞ。貴様ら一人残らず串刺しにしてくれるところだ! 脅しではないぞ。去ね!」
近衛隊長が威圧的な声で怒鳴り、片手を振り下ろす。それを合図に、ザッ、と隊列が一歩前進した。群衆の波が同じ幅だけ後退する。
「怯むな!」
尻尾を下げかけた人々を叱咤したのは、エンリルの強い声だった。
「ここで諦めたらすべては水泡に帰すぞ! 否、これまでよりも苛酷な仕打ちが加えられるだろう! そなたらはそれで良いのか? 巣穴に逃げ込む兎のように物陰に隠れ、己の心を偽り、隣人を疑い、卑屈に背を屈めて、こそ泥のように常に人目を憚りながら生きるのか。そなたらの息子や娘にも、そのようにして生きよと教えるのか!」
効果はてきめんだった。ざわめきが起こり、どよめきとなり、最後には賛同の叫びとなった。近衛隊長は舌打ちし、突撃を命じるべくさっと手を挙げる。そこへエンリルが言葉の先制攻撃をかけた。
「そなた、近衛隊長と見られるが、恥を知らぬのか? そなたらが守るべきは、戦う術を持たぬ民か、その民を虐げて喜びおる暴君一人か、いずれだ。そなたらが日々衣食に事欠かぬは、元を質せば誰の恩恵か? 鞭打たれ麦の一粒まで奪い取られてなお耐え忍ぶ、彼ら民人の存在があればこそではないか。それを平気で踏みにじる王に仕えることがそなたの誇りだと言うならば、そなたは人の心を持たぬ獣だ!」
手厳しく責められ、近衛隊長の顔は怒りで赤黒くなった。
「ほざけ若造が! どこの馬の骨だか知らぬが、物の道理を弁えろ! 王は民を統べるもの、民は王に治められるべきもの。それを逆しまにし、民が王を廃そうなど、天理に背く行いと知れ!」
「何が天理か、物知らずにもほどがあろう。このデニスの外には王のおらぬ国さえあるというに、彼の地では天地が逆転しているとでも言うのか? 下がりおれ、権力の走狗めが。さもなくば狗に相応しい懲罰をくれてやるぞ」
冷ややかに嘲り、エンリルは前に進み出る。気圧されて退いたのは、近衛隊の方だった。たった一人の青年を相手に、槍を構えた隊列が触れられるのを恐れるようにたわみ、ついには裂けて、道を空けた。
エンリルは堂々と、槍の間を歩いて行く。言葉を発する者はなかった。
「何をしている! その若造を殺せ!」
唐突に近衛隊長が我に返り、喚いた。反射的に近衛兵たちは槍を構え直し、エンリルに向かって穂先を突き出す。だが、その切っ先のどれひとつとして、彼の体に傷をつけることは出来なかった。
「彼の方に続け! 今こそ我らの力を知らしめよ!」
ヴァラシュが高らかに声を上げ、いっせいに群衆がなだれこんで来たのだ。エンリル一人に気を取られていた近衛兵たちは、咄嗟に反撃も防御も出来ず、怒れる群衆につかみかかられ、むしられ、踏み付けられていく。武器を奪い取った民はより大胆になり、自ら近衛隊の隊列に向かって攻撃を仕掛けはじめた。
どさくさ紛れにエンリルは皇族の力を使い、周囲の何人かを吹っ飛ばして、カゼスの前まで走って来た。
「何事ですか、エンリル様。いつの間に革命家に転職したんです?」
カゼスが怒り半分、痛快さ半分で複雑な声を出すと、エンリルは悪びれずににこりとして応じた。
「ついさっきだ。まさかここまで人々が集まるとは思わなんだが、門前に来てみればあのようにすさまじい数に膨れ上がっておってな。噴火寸前というところだった。事前に流した噂が予想以上の効果を上げたようだ。それゆえ、こそこそせずに正面から突破することにしたのだ。そちらの成果は?」
「キース殿は無事でしたよ。暗示をかけられていたので、解いておきました。私宮殿の方でじっとしているよう言ってあります。魔術が使えるということなので、衛兵が押し寄せても逃げられるでしょうから、心配いりません」
リトルもついてるしな、とカゼスは心中で付け足した。キースがあの調子でもたもたと判断に困っていても、リトルがいればうまく動かしてくれるだろう――いつもカゼスの尻を蹴飛ばしてくれるのと同様に。
カゼスの報告に、エンリルは満足げにうなずいた。
「分かった。では早々にここを片付けて、王太子と王妃の身柄を確保しよう。近衛隊が先に二人を匿ってしまったら、厄介だ」
「了解。それじゃ、私もこそこそするのはやめますかね」
カゼスも笑みを浮かべ、まやかしを解いて姿を現した。と同時に、アーザートが「あ」と短く声を上げる。何か、と彼の方を振り向いたカゼスは、相手の視線を追って、自分もあっと叫んだ。
近衛隊長が逃げて行く。まとまった手勢を率いて、建物の中に退却していくのだ。
「まずいな」
エンリルは舌打ちすると、門の方を振り返った。もはや一帯は、無秩序な乱戦に飲み込まれている。
「ヴァラシュ!」
呼ばわると、一人ちゃっかり禍の及ばぬところに避難していたヴァラシュが、すました顔で振り返った。
「ああ、隊長が逃げましたね。そちらはお任せしますよ。こちらはこちらで、もう少し収拾がついてから追いかけますので」
と、その会話に気付いた近衛兵が、ヴァラシュに向かって突進してきた。危ない、とカゼスが叫ぶより早く、ヴァラシュはひょいと身をかわす。そのまま彼は、もたれていた石像をくるりと回って相手の背後に出ると、長い足を兵に引っかけつつ背中を突き倒し、素早く槍を奪った。
予想外の展開にカゼスがあんぐり口を開けている間に、彼はその石突きで近衛兵の急所を突き、痛みにのたうちまわる男を無慈悲に群衆の中へ蹴り戻してしまった。
「ですから」悠々と彼は話の続きを始めた。「ラウシール殿も、手が空きましたらこちらの気の毒な連中を手当してやって下さい」
はいとも言えず、カゼスは曖昧にうなずく。その横でエンリルが押し殺した笑いを洩らしながら、来いと手招きして走りだした。
慌ててその後から走りだし、カゼスはぼそりとつぶやいた。
「あの人が自分で戦うところなんて、初めて見ました。鍛練してる様子もないのに」
「あまり他人にそういう姿は見せたくないのだろう」
くすくす笑いながらエンリルが答える。カゼスは何とも複雑な顔で頭を振った。
「なんだか、見てはならないものを見てしまった気分ですよ」
「呪われるやも知れぬな」
ははは、とエンリルは軽やかに笑い、その横でカゼスは渋面を作ったのだった。
軽口を叩いていられたのも、逃げる近衛隊の後尾を視界に捉えるまでだった。既に彼らは王妃の宮殿らしき建物に入ろうとしている。
「カゼス、彼らの進路を塞げるか」
「もちろん。でも早く追いついて下さいね」
にこりとして言い、カゼスはふわりと風に乗った。ひと呼吸の間もなく風は疾風となり、近衛隊の頭上を飛び越して吹き抜ける。突然の強風に背中をどやしつけられた近衛兵は、たたらを踏み、隊列を乱した。
彼らが体勢を立て直して再び前進しようとした時、行く手には障害が立ち塞がっていた。男なのか女なのか、そもそも人間なのかもわからない、青い髪の『何か』。見たところただ一人の若造に過ぎないというのに、隊長はじめ兵は皆一様にたじろぎ、二の足を踏む。
「ど……どけっ! そこをどけ!」
隊長が抜き身の剣を振りかざして怒鳴った。槍は既に、乱戦で折れたか奪われたかしたらしい。目は血走り、何をしでかすか分からない様子だった。カゼスは首を振り、両腕を広げて『止まれ』の仕草をした。
「生憎ですが、この先は通せません。王妃様に怪我をさせるわけには行きませんからね」
「何をぬかすか、我らは妃殿下をお守りするために参ったのだ! 貴様ら逆賊こそ、殿下を盾に取るつもりであろうが!」
唾を飛ばして喚き散らす隊長に、後ろの衛兵たちはいささか不穏な空気を漂わせていた。隊長に見切りをつけて、自分たちの保身をはかろうか、という気配だ。
その彼らは、後ろから追いついたエンリルとアーザートの靴音に、ぱっと向きを変えて背中合わせの円陣を組んだ。が、追っ手がわずか三人しかいないと見て取ると、途端に勝ち誇ったような顔になった。
「楽観せぬ方が良いぞ」
彼らが何を考えているのか分かり、エンリルが苦笑した。
「我々は、暴動を起こしたレムノスの市民とは、少々立場が異なるのでな。戦う術も心得ているし、そこにいる青い髪の者は魔術師だ。ソレス・イ・ラウシール……と言えば、そなたらにも得心がゆくかと思うが」
途端に、兵の間に動揺が走った。カゼスは憮然とし、非難のまなざしをエンリルに向ける。そういう自分は何様だと思ってるんですか、と言いたげに。
「くッ……ティリスの鼠め!」
先刻自分が狗と罵られた仕返しか、隊長は言うなりカゼスに斬りかかった。
さすがに警戒していたカゼスは咄嗟に身を屈め、見えない壁を作り上げてそれを防いだ。振り下ろされた剣は壁に弾かれ、衝撃がまともに跳ね返る。隊長は剣を取り落とし、手首を押さえてうずくまった。
「どうあっても、ヴァルディアのもたらす汚れた恩恵から離れられぬと言うなら、この場で斬り捨てる」
エンリルが冷ややかに言い、剣を抜いた。カゼスは慌てて隊長のそばにしゃがみ、ひそひそとささやく。
「落ち着いて考えてください、ヴァルディアは命をかけてまで仕えるに足る主君ですか? 王が替われば近衛隊の待遇は今より良くはならないかも知れませんけど、まず間違いなく皆が豊かになりますよ。あなただって本当のところ、いつ王の気まぐれで首を切られるか分からない状態だったんじゃないんですか」
他の衛兵たちにも聞かせることを意識しているため、小声とは言っても話の内容は筒抜けである。エンリルは苛立った風に足をトントンと鳴らした。
「カゼス、要らぬ情けをかけて手間を取らせるな」
「ほらほら、とにかく今は投降しておいた方がいいですよ。無理に死に急ぐこともないでしょう? 生きていれば後でなんとかなるんですし」
ね、と言われて、隊長はまだ歯噛みしていたが、兵士たちの方は早々に槍を捨ててしまった。槍の柄が倒れる乾いた音が重なり、隊長は背後を振り返って部下をねめつけたが、誰も目を合わせようとはしなかった。
がくりと頭を垂れた隊長の肩を、カゼスは慰めるように軽く叩き、立ち上がった。
彼らをそこに残したままカゼスたちは宮殿内に入ると、念のため、追って来られないように結界を張った。ひんやりとした建物の中に入るなり、エンリルは堪え切れなくなってふきだしてしまった。
「そなたもやれば出来るものではないか。なかなか口が上手いな」
「たまたまですよ」カゼスも苦笑した。「レムノスの人たちを見ていて、これならああいう『まあまあ』って言い方も通用するかなと思ったんです。ティリス人が相手だったら、この手は通じなかったんじゃないですかね」
「そうかも知れぬな」
エンリルは軽くうなずき、表情を引き締めた。短い通路の向こうから、槍を構えた衛兵が数人、走ってきたのだ。
「何者か!」
誰何の声に、エンリルはあっさりと答えを返した。
「余はティリス王にしてエラードの王、エンリル。アルハン王妃シルピオネ殿にお目にかかりたい」
あまりに堂々と言われたもので、衛兵の方は面食らって目をしばたたかせた。外から他の衛兵が追って来ていれば、すぐにも曲者として捕らえるところなのだが、誰も彼らを止めに来ない。
しかしいくらなんでも、正門の方で大騒ぎが起こっているこの時に、いきなりティリス王がこんな所に現れるなど、常識では考えられなかった。
彼らが戸惑っている隙に、エンリルの瞳が淡く紫色を帯びた。途端に衛兵の持つ槍の柄が粉々に砕け散る。その持ち主たちのみならず、カゼスも驚いて目を丸くした。いつの間にこれほど器用な使い方を身につけたのだろう。
エンリルが踏み出すと、衛兵たちは恐れて脇にどいた。邪魔する者のいない通路を、エンリルは平然と歩み、王妃の部屋へ無遠慮に踏み込んで行った。
中では、ロードグネそっくりの銀髪の女が、幼い息子を抱いて長椅子に腰掛けていた。闖入者にも顔色を変えず、落ち着き払った態度でこちらをまっすぐに見つめる。
「外の声は聞きました。あなたが真実エンリル様でいらっしゃるなら、御用がおありなのはわたくしではなく、この子でしょう」
妹のロードグネと違い、姉のシルピオネは完璧な発音だった。王妃という立場上、あるいはヴァルディアの癇癪を避けるためか、必死で覚えたものに違いない。
「いかにも。フィルーズ王太子殿下を今より国王の位に即け、その後見人を指名して貰いたい。それは王妃であるあなたの権限のはずだ」
エンリルは感情のこもらぬ声で言った。シルピオネは目を伏せ、息子の寝顔を眺めながらささやくように答える。
「国王ヴァルディアが、跡継ぎを指名せずに死んだ場合の話でございます。夫はまだ生きているのでしょう?」
「遠からず死ぬ。多少順番が前後するが、そのぐらいのことは民も大目に見てくれよう」
「…………」
聞こえているのか、いないのか。シルピオネは黙っている。エンリルは束の間、考えを整理するように目を閉じた。
「少なくとも、囚人への恩赦は、現状のままでも下せるはずだ。あなたの妹の夫、顧問官キースをはじめ、いわれのない罪を着せられている者が大勢いる。近衛隊に命じ、彼らを解放させて欲しい」
そう言ってもまだしばらく、シルピオネは沈黙を続けた。アーザートが苛立ち、剣の柄をコツコツと指で弾く。いたたまれない空気が限界に達する寸前、シルピオネは顔を上げてエンリルの瞳を見据えた。
「そのようにして、この都を混乱に陥れ、あなたは民を守り切れると思われるのですか。民を煽り、ヴァルディアを斃して、我が子フィルーズを傀儡にして……そうしてアルハンを手に入れて、あなたは善い事をしたつもりになられるのですか」
予想外の反応に、カゼスは驚いて彼女を見つめた。ロードグネの話では、彼女たちは海賊に略奪され、ヴァルディアに献上された『品物』だった。その境遇を恨んでいない筈はなかろうし、ヴァルディアが愛妻家であるとも考えられない。
となれば、実情はどうあれ息子を王位に即けられ、また自分もヴァルディアから自由の身になれるのだ、多少なりとも喜んでくれそうなものではないか。
エンリルも意外だったらしく、驚きを隠さぬ表情になっていた。だがそれで動揺したりはせず、彼は落ち着いた声で応じた。
「対外的には、悪王を倒して仁政を敷くと喧伝することになろう。だがそれを善と成すか悪と成すかは、後世の歴史家が決めること。余は能う限りの力と手段をもって、このデニスを少しでも暮らしやすい土地にしたいと願っているだけだ。その為にヴァルディアを斃す。彼が出て行った時そのままの軍勢を率いて戻って来たとしても、この都を戦火に包ませはしない。それは約束しよう」
再び、沈黙。だが今度のそれは、長くは続かなかった。
「……フィルーズは」
ぽつりとシルピオネはつぶやき、息子に目を落とした。
「この子の幸せは、どうなるのです? あなたにいいように使われ、不要になれば切り捨てられるのでしょう。禍の芽を摘むために、あなたがこの子を殺さないと、誰に言い切れましょうか」
「そこまで考えておいでか。ならば包み隠しはすまい。確かに今は王に立てようとも、フィルーズが真実アルハン王たる日は決して来ない」
エンリルは答え、シルピオネの傍らに片膝をついた。外界に渦巻く不穏な空気など知らぬげに眠り続ける幼子の顔を眺め、束の間、愛しそうに目を細める。
「だが、それはこの者の命が断たれるという意味ではない。この者がいずれ自ら我が身に不幸を招こうとせぬ限り、余はこの者の命と幸福とを守るだろう」
「つまりそれは、この子が生来の権利を求めてあなたに背くことがない限り、という意味ですね」
「今はそれが余に出来るぎりぎりの約束だ。余の誓いでは不満か?」
シルピオネは長い睫毛を伏せ、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。慈悲深いお言葉に感謝致します。今ここで母子ともども葬られましても、仕方のないところですのに」
礼を述べているにしては、感情の乏しい声だった。本音は恐らく、権力に振り回され、都合のいい道具扱いされることに、うんざりしているのだろう。それでもこの状況はマシなのだと自分を納得させようとしているような、諦めの響きが感じられた。
エンリルはそれでも良いと言うようにうなずき、そっとフィルーズの頭を撫でて立ち上がった。
「もしあなたが我が子により大きな栄光と権力を与えたいと望むなら、いまひとつ手段がないわけでもない」
いささか言葉に皮肉の気配が交じる。シルピオネが顔を上げると、エンリルは真面目くさった顔で言った。
「ヴァルディア亡き後、あなたが余の妻となればいい」
一瞬の空白。そして、
「えええッ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、もちろんカゼスだった。場の雰囲気をぶち壊してしまい、慌てて両手で口を覆ったが、もう遅い。アーザートが軽蔑のまなざしを向け、エンリルは明後日の方を向き、シルピオネは目を丸くしてカゼスを見つめた。
ややあって、シルピオネがごく小さく笑いをこぼした。カゼスは真っ赤になって頭を掻く。ここにリトルがいたら、台詞の重みで地面にめりこむほど罵倒されているだろう。
「それは辞退させて頂きましょう」シルピオネが苦笑を含んだ声で答える。「わたくしは、権力を得る為に自らを武器にしようとは思いませんから」
それから彼女はちらっとカゼスを見やり、心を決めたように立ち上がった。
「では参りましょう、エンリル様。我が子フィルーズの即位と、陛下に後見として立って頂くこと、それに恩赦の知らせを皆に告げなければ」
彼女はまるで、これが生涯最大にして最後の晴れ舞台であると知っているかのように、毅然と背筋を伸ばし、凛としたまなざしで前を見据えていた。
レムノス王宮を襲った急変は、王妃シルピオネの声明によって鎮静化し、次いで歓喜の渦が街を飲み込んだ。
いわく――民を虐げ続けてきた暴君ヴァルディアは既にアルハンの王たるに値せず、よってこれを廃し王太子フィルーズの即位を宣言する。後見には母后シルピオネおよびティリス王エンリルがつく。これに伴い、王宮の牢獄につながれていた者たちは等しく罪一等を減じ、また再審を望む者にはこれを行い、潔白の証が立てられた者は無条件に解放するものとする。また密告の奨励金は廃止し、民には自由な言論を許可する。
――その他、細々とした条件や、租税の軽減などが告知され、市民は喜びに沸いた。完全に自分たちの力で、とは言わないが、叫びを上げることで王宮を揺るがし、ついには王を廃するに至ったのだ。単なる天佑ではない、手応えのある喜びだった。
だが、ヴァルディアはいまだ健在であり、喜びの後に来るべきものが来ることを、正確に把握している者は少なかった。




