二章 暗雲 (4)
食事を終えて各自が部屋に引き取ると、カゼスは一人邸内を逍遥した。力場位相の変化を調べるのに、他人がいるとまた何をしているのかと詮索される。訝られるだけならまだしも、治療していた時のように野次馬が寄って来たら、邪魔になってしようがない。
松明の代わりに光を放ちながら、リトルがついて来てくれた。カゼスはふとそれを仰ぎ見て、〈我ながら勤勉だね〉と苦笑した。
〈まあ、衣食住の面倒を見て貰っているんだもんな。その分ぐらいは働いて返さないと〉
〈殊勝な心掛けですね。実際、増長しない方がここでは無難でしょう。大方は自己主張のはっきりした国民性のようですが、他所者に対する目は厳しいものですし……それに、派手な主張はあなたには向いていませんしね。ところでカゼス、何を探しているんです?〉
〈んー……力の変動の焦点になった場所をね。どこが焦点かで、少しは目的が絞れるんじゃないかと思って。変動もたどりやすいし〉
はたから見ると、ただブラブラしているだけのようだが、一応カゼスはそんな目的をもって精神の糸を手繰っていたのだ。
サンダルが、砂を含んだ風を踏む。
(何が目的だったのか……単にエンリル様を亡きものにしようと考えたのなら、こんな回りくどい方法を使わなくてもいい筈だ。地震でも落雷でも、もっと簡単確実に仕留める方法がある。なのに……なぜ? まるでこちらの恐怖を煽るための出し物だったみたいだ。もちろんそれで実際に人が死んでいるんだから、ただの演出ってことはないだろうけど)
シャラ、と足元で音がした。カゼスはふと物思いから醒め、視線を落とす。いつの間にか、あの……最も凄惨な有り様になっていた部屋に来ていた。粗方は片付けられていたが、まだ装飾品や家具がいくつか散らばっている。音を立てたのは、ネックレスか何かの一部と思しき装身具だった。
拾い上げると、手の中でチャリッと澄んだ響きを立てる。
カゼスはそれをしばらくもてあそんでいたが、やがてギュッと握り締めた。
「ひどい……事を」
目的が何であろうと、こんな犠牲を強いる価値があるものか。
「総督がいなくなった、って言ってたけど……この事は知っているのかな」
つぶやき、室内を見回す。アーロンやエンリルたちの会話から、この部屋にいたのは総督の身内らしいと分かっている。だとしたら、昨夜の襲撃に総督が噛んでいたと考えるのは間違いではなかろうか。
(まさか、家族を殺してまで、なんてほど極悪な人間には見えなかったし)
あの時カゼスの言葉に狼狽して走りだしたのは、この部屋の者を案じてではなかったろうか。とすれば、総督は襲撃の事は知らなかった、という事で。
「……分からないなぁ」
ふう、とため息。とにかく今は、出来ることからやって行くしかない。カゼスは無意識に装身具を懐に突っ込み、精神の糸を手繰ってまた歩きだした。
シャフラーは暗闇の中で目覚めた。周囲に何も見えず、何が起こったのかも分からない。用心深く身を起こすと、不意にパッと明るくなった。
「気が付いたか」
冷え冷えする声がしたが、突然光に晒された目には、その主が見えない。
しかめていた目を恐る恐る開くと、見覚えのない室内だった。ぐるりを見回し、彼はぎょっとなって息を飲む。
銀髪の女が立っていた。吊り気味のやや細い目だが、その虹彩は紛れもなく深い赤。
「こ……顧問官様?」
異形の姿に、シャフラーはごくりと喉を鳴らした。
「感心だね。私を知っているのか」
マティスは薄く笑い、一歩近付いた。調子外れの機械のように、シャフラーはがくがくと何度もうなずく。手は無意識に逃げ場を求めて背後を探っていた。
「そう怯えずとも良い。私はそなたを助けてやったのだよ」
くくっ、と低く笑い、マティスはシャフラーを見下ろした。怠惰と私欲にたるみきった人間が、自分の前で哀れな鼠のように震えている。這いつくばり、命じられれば何でもしますとばかりの目でこちらを見上げている。故郷にいる頃は決して経験することの出来なかった快感。支配という甘美。
ゆっくりとマティスは言葉を続けた。
「そなたの屋敷を襲った魔物たち……」
「――っ! ご存じなのですか」
思わずシャフラーは声を上げた。と同時に、自分がどのような状況に置かれていたのかを思い出し、いまさらながらキョロキョロする。マティスは愚かなその仕草を眺め、また小さく笑った。
「恐れずともよい。ここには奴らの魔の手は及ばぬ……王太子の魔の手は、な」
「……何ですと?」
「あの魔物どもをけしかけたのは、王太子なのだよ。そなたが蓄えたささやかな財を奪うつもりであったが、証人がいてはまずいというので、そなたらを皆殺しにしようとしたのだ。そなたは私が助け出したのだがな」
「で……では、女たちは、息子は」
震えながらも、自分が探しに行くつもりだった者たちを案じてシャフラーは問うた。予想外の質問にマティスは一瞬、眉を寄せた。が、すぐに鷹揚な笑みを浮かべる。
「そなたの家族も、無事に保護している。だが、今は会わせてはやれぬ。そなたらが生きていると知れては危険だからね」
「そう……ですか。無事で……」
シャフラーはホッと息をついた。もちろん、相手の言葉を疑うことなど考えてもみず。
その様子を見て取り、マティスは満足げににっこりした。
「そなたの役目は、ありのままを国王陛下にお知らせすることだ。そなたの街を訪れた王太子たちが、何をしたのかをな」
「御意。しかし……となると、魔物はラウシール殿が?」
つぶやくように言い、シャフラーは首を傾げる。マティスは眉を寄せ、不審げな顔で聞き咎めた。
「何だと? 誰が、と言った?」
「えっ、あ、あの……ラウシール殿です。魔術師で、砂漠の魔物を退治したとか聞いたのですが……それもでまかせだったのでしょうか」
マティスの剣幕にたじたじとなり、シャフラーの声がかすれた。
「決まっておろう。もうよい、しばし休め」
苛立たしくマティスは言い、シャフラーの額に指を突き付けて、呪文を唱えた。強制的にシャフラーを眠らせた後で、マティスは部屋を出て、地下にある自分の作業部屋へと向かった。ミネルバから持ち込んだ機械類をはじめ、魔術の道具や薬品その他があれこれと納められている。他人に踏み込まれぬよう、転移装置か転移魔術でのみ入れるようにしてあった。
その室内で、彼女は台に横たわって目を閉じると、用心深く呪文を組み立てて唱えた。意識がぐんと距離を縮めていく感覚――そして、総督邸が見えた。
昨夜の術の名残で、まだ『力』の軌跡がちらちらと眩しく光っている。が、それ以外に疎ましいものが見えた。誰かの張り巡らせた警報の糸だ。それに、変動が緩衝された形跡も見える。
(馬鹿な……! こんな技術はこの国にはない筈じゃなかったの!?)
だからこそ、魔術師として、顧問官として、特別な地位と畏怖を得られたのだ。それなのに、なぜ、誰がこんな真似を。
邸内を探り、マティスは廊下に佇む人物に気付いた。
(青い髪!? 何者なの、こいつは……人間? 魔物?)
もっとよく相手を探ろうとして、意識の手を伸ばす。が、近付きすぎた。
意識の中で、青髪の魔術師が振り返ったのが見えた。
(オマエカ!)
逆に、激しい怒りを伴った精神が襲いかかる。
マティスは悪夢から逃げ出すように、それを振り切って体に戻った。目を開くと動悸が激しく、うっすらと汗ばんでさえいる。
「誰なの……くそ! 変動を調べていたのね。信じられない、どうして魔術師がこの国にいるのよ」
独りごち、それから慌てて彼女は立ち上がった。
「ぐずぐずしている暇はないわ」
何者でも構わない、邪魔になることは確実なのだから。
どうやら砂漠に出ていた怪物を退治したというのは、本当らしい。失敗作とは言え、かなり凶暴な生物に仕上がっていた『悪魔』を殺すとは……。
(エリアンが『御使い』作りをもたもたしているからだわ。これだから技術者は……とにかく、片付けてしまわないと)
手早く魔術の補助道具を二、三取り揃え、呪文を組み立てて行く。大容量の力を扱うには、不本意だが道具の助けを借りなければならない。
(これだけの力をぶつけてやれば、いくら何でも止めきれないでしょうね。あの様子じゃ、道具は用意していないみたいだし)
ほくそ笑むと、彼女は呪文を声として解放し始めた。
一方、カゼスは。
誰かが様子を探っているのに気が付いて意識を振り向けたが、あっと言う間に逃げられたので正体まではつかめなかった。
だが、シザエル人以外の可能性など無きに等しい。それも、この惨状をもたらした張本人に違いない。怒りが込み上げる。
そこへ、不意にエンリルが現れた。
「どうしたのだ? 何か不穏な気配がしたように思ったのだが……そなただけか?」
その瞳が薄く紫味を帯びている。どうやら先刻の精神界での遭遇が、エンリルにも感知されたらしい。アーロンが背後に付き従い、油断なく周囲に目を配っている。
カゼスは険しい表情のまま答えた。
「自分がしでかした事の結果を確かめに来たようです」
その言葉に、エンリルが小さく息を飲んだ。
「では、ここに現れたと言うのか!?」
「意識だけですが……、っ! 危ない、離れて!」
言いかけた瞬間、津波の前兆のごとく力が動くのが感じられ、カゼスは叫んだ。
(呑まれる!)
少なくともエンリルを巻き添えにする事だけは避けねば。必死で、堤防となる結界を自身の周囲に張り、力の波をその中だけにとどめようとする。
あまりに高レベルの力が、限られた範囲に一度にのしかかったので、何の能力も持たぬアーロンにさえ、高密度の力が眩く輝く多彩な光となって渦を巻くのが見えた。
「カゼスっ!」
どちらが叫んだのか。いずれにせよ、本人にその声は届いていない。
(駄目だ、とてももたない……っ! くそ、これだけの力が暴走したら)
付近一帯にとんでもない災害が生じる。重力さえ一時的に変化し、屋敷を地盤ごと宇宙へ巻き上げてしまいかねない。
魔物の襲撃などとは比べものにならない犠牲が出るだろう。
(そんな事に……させるか!)
押し寄せる力の波が精神の防壁を打ち破ろうとしている。
いちかばちか。このままでは何もかもを巻き込んで死ぬのが落ちだ。それならば、僅かでも可能性のある方に賭けるしかない。
(ごめん、リトル)
もし自分がここで廃人になるか死ぬかすれば、リトルはデニスの土に埋もれるしかなくなる。その危惧だけが、一瞬、胸をよぎった。
次の瞬間カゼスは、自分が求める『力』以外の侵入を防ぐ精神の防壁を、生まれて初めてすべて打ち壊した。
一瞬にして、五感はおろか自意識までもが消し飛ぶ。
荒々しい力の波がうねり、灼けつく光が意識を埋め尽くす。鮮やかな光の塊が飛来しては去り、ぶつかり合い、飛び散ってはまたひとつになる。
やがてごく微かな意識まで拡散し、時さえもが消え――それは『すべて』となった。
何かが衣服のひだをいじって歪めた、そんな感覚に、それはほんの少し、ごく緩やかにその場所に注意を向ける。
刹那、一切が爆発したように感じた。再び白い光が全感覚を圧倒し、その直後、カゼスは『自分』が存在していることに気付いた。
(生きて……る?)
一瞬の事だったのか、それとも幾星霜をも旅していたのか。しばらくは五感が戻らなかった。と言うより、意識を五感に絞り込むのが難しかった。
拡散していた意識が、やがて未練を振り切るように、カゼス自身へと戻ってくる。
最初に知覚したのは、自分が倒れているという事だった。磨き上げられた廊下の冷たい床石が、てのひらや頬に触れている。
「……! ………ゼス!」
名前を呼ぶ声がする。瞼が開いているのは感じられたが、網膜に映るものが何なのかは、脳が理解していない。
(丸っこい……このフォルムは……)
リトル。
その単語がようやく意識に浮かぶ。と同時に、リトルが機能復帰するのが意識の中で感じられた。同調しているような、不思議な感覚。記憶や自意識が再構築されていく。
〈カゼス? どうやらお互い、無事だったようですね。まったく、なんてむちゃをするんですか、あなたは〉
〈生きて……るんだね。おまえまで巻き添えくわせちゃったのか。ごめんよ〉
〈仕方ありませんよ。私の精神素子はあなたのものをベースに培養されたものですから、あなたが精神や意識に大きく変調をきたせば、私も同調して機能が狂います〉
〈……だったのか、知らなかっ……た〉
精神波で会話する事さえ、大変な努力を強いられる。
体がふわりと宙に浮き、カゼスは注意を自分の体に戻した。誰かが抱え上げて仰向かせたようだ。天井が見える。
(あ、瞬きしなきゃ、目が乾く)
そんな事をいちいち考え、ようやくカゼスは瞼を動かした。長時間見開いたままだった為に、痛みが走る。その痛覚が、ようやくカゼスの全感覚を正常に戻してくれた。
「くそ、今のは何だったんだ……カゼス、見えているのか? 聞こえるか」
アーロンの声だ。カゼスの体を支えているのだろう。温かい手の感触が肩の辺りに感じられる。視界に金色の光が入った――エンリルだ。床に置かれた燭台の明かりが、金の髪に当たって散乱している。
泣き出しそうな表情だった。
エンリルの手が伸び、そっとカゼスの額に触れる。
爽涼な風が吹いたようだった。意識の中に清水のような何かが流れ込み、全身をゆっくりと満たしていく。
そっと、エンリルの手が何度も額からこめかみの方へと撫でてくれるのが感じられた。カゼスは続けて何度か瞬きし、口を開こうと試みる。だが、さすがにまだ無理らしい。
〈エンリル様……聞こえますか? エンリル様〉
精神波で呼びかけると、エンリルはぎょっとしたように手を引っ込め、目をしばたたかせた。それからカゼスを凝視し、おずおずと問う。
「カゼスか? 今の……声は」
〈はい。精神波です。すみませんが、どこかに寝かせて頂けますか? 多分、あとしばらくは身動き取れませんから……こうやって話すのも、実は億劫で。説明は、後で〉
「分かった。アーロン、カゼスを部屋に運んで寝かせてやってくれ。今は体が動かせぬようだが、生きてはいるらしい」
エンリルの言葉に、アーロンは不思議そうな顔をした。が、ほんの僅かとは言え、相手の瞳がまた紫がかっているのを見て取り、何も問わずにうなずく。
エンリルが燭台を持つと、アーロンはカゼスを抱え上げて歩きだした。
運ばれながら、カゼスは目に映る範囲内での現状を観察した。どこも崩れたり燃えたりしていない。と言うことは、力の調整に成功したのだろう。
(奇蹟だ……やれやれ助かった)
相手もおそらく、確認してさえいないだろう。あれだけの力をぶつけられて生きているなど、常識では考えられないのだから。
(何の準備もなく、よく出来たもんだなぁ……私は、たまーに、だけど、凄く運がいいのかも知れないな)
ぼんやりそんな事を考えていると、だんだん体の感覚が脳まで浸透して来た。
(……ちょっと待てよ。よく考えたらこの状況は……凄く、凄く凄く、恥ずかしいかも知れないぞ?)
はた、と気が付いて、カゼスは内心ひどく焦った。
さすがに今回はただ事でない倒れ方だったので、アーロンも気を遣ってくれたらしいのだが……だが、しかし。
(これは……いわゆる、お姫様抱っこ、って奴なんでは……ひえええええ!)
いきなり恥ずかしくなって、カゼスは体の自由さえきけばジタバタ暴れてしまいたい衝動に駆られた。
(いっ、いい年してこれはっ……! か、かなり恥ずかしいぞぉっ!)
幸か不幸か、ジタバタ出来るようになる前に、カゼスは客室のベッドに降ろされた。真っ赤になっているカゼスを見て、エンリルがいたって真面目に心配した。
「大丈夫か? 水を持って来させよう、あと何か必要な物は……」
カゼスは慌てて答えようと口を開き、声が出て来ないので、必死になってなんとか僅かに二、三度首を振った。
〈取り立てて看護して頂く必要はありません、少し休めば良くなります。実際もう随分回復して来ましたし……あと少しすれば、体も動かせると思います〉
「無理せずともよい、ゆっくり休め。アーロン、冷たい水を」
エンリルに言われ、アーロンはうなずいて急ぎ足に出て行く。カゼスは眼球だけ動かしてその背中を見送り、それからエンリルに視線を戻した。
〈そんなに心配されなくても、本当に大丈夫ですよ。とにかく、エンリル様の方こそお怪我はありませんか?〉
「私はかすり傷ひとつない。そなたのお陰だ」
エンリルはベッドの端に腰掛け、神妙に答える。何か、必要以上に畏まって。カゼスが目だけで問いかけると、エンリルは軽く唇を噛んでから、悔しそうに口を開いた。
「あれは……顧問官の魔術なのだろう? 私を陥れんとしての……。そなたはたった一人でそれを防いで」
〈あ、いえその、ちょっと違いますよ。エンリル様が責任を感じる事じゃありません。魔物の襲撃は確かにエンリル様が狙いだったんでしょうけど、さっきのは、私があれこれ調べているのに気が付いて、慌てて攻撃してきたんです。まさか自分たち以外の魔術師がいるとは思わなかったから、焦ったんでしょう〉
エンリルの沈痛な表情が何を意味するのか察し、カゼスは慌ててそう説明する。が、エンリルは頭を振った。
「だが、そもそもの原因が私にあったのは確かだ」
〈別にエンリル様が悪いんじゃなくて、悪いのは相手の方じゃないですか。そんなに自分を責めないで下さいよ。そんな事されても、私は嬉しくないですよ〉
その言葉に、エンリルはほろ苦い笑みを浮かべた。
「皆、同じ事を言うのだな。そなたのように、出会って間もない者でさえ……私が王太子だからか? 私の為に傷つきながら、私のせいではないと言う。妙な話だな」
彼はため息をついて、カゼスの凝視に耐えられぬと言うかのように、目をそらした。
「たまに、思う事がある。私が王太子でなければ、誰も犠牲にせずに済んだのに、と」
済んだのに――と、過去形で語る。カゼスは何も言えなかった。通り一遍の慰めの言葉など、何の効果もありはしない。
しばしの沈黙の後、カゼスはそっと口を動かしてみた。なんとか声は出せそうだ。
「……私は、忠誠とか献身とかいう……感覚は、非常に希薄なんですが……」
ゆっくりと言葉を紡ぎ、カゼスはエンリルに微笑を見せた。
「それでも、なんだか……あなたを見ているとね」
何を言うつもりなのかとエンリルは訝しげな顔をする。その表情は、まるで無防備な子供のようだった。
「なんとかしてあげなくちゃなぁ、って……思うんですよ」
そう言って、カゼスはふっと苦笑した。話す内にどんどん体の機能が正常に戻り、言葉も滑らかになってくる。
「自分の世話も、満足に出来ないくせに、ね」
「カゼス……」
青褐色の双眸が揺らぎ、涙が頬を伝う。はたはたと落ちる滴を拭いもせず、エンリルはただカゼスを見つめていた。
「恩とか義理とか犠牲とか、そんな言葉で考えちゃいけないものもあるんですよ」
カゼスは言うと、肘をついて体を起こした。「ね」と微笑み、金髪の頭を軽く撫でる。エンリルは恥ずかしそうに涙を拭い、苦笑を浮かべた。
「すまぬな。そなたを看護するつもりが、逆に慰められるとは」
「責任感が強いのも結構ですけどね」
カゼスは笑い、ぽんと軽くエンリルの頭をはたく。
「ほどほどにしないと、自分を追い詰めてもいい事なんかありませんよ」
「そうかも知れぬ。気を付けよう……本当にもう良いのか? 起き上がったりなどして」
すん、と鼻を鳴らし、エンリルは目をしばたたかせた。カゼスは必要以上に元気そうな笑い声を立てた。
「もう平気です。いつまでも寝ていたら、アーロンにまた例の代物を飲まされ……」
「誰がなんだと?」
言った途端に当のアーロンが戻って来た。カゼスは竦み上がり、笑いをひきつらせる。
「どうしてあなたはそう人を驚かすんですか!」
「俺の責任ではない。なんだ、わざわざ井戸から水を汲んで来たのに」
言いかけてアーロンは、エンリルの目に気が付いた。彼は眉を片方ぴくんと上げ、やれやれと屈んで鉢の水に浸した布を絞った。
「まあ、無駄にはならなかったようですね、殿下」
軽く顔を拭いてやる様子は、ほとんど母子である。カゼスがふきだし、エンリルもさすがに赤くなって布を奪い取った。
「私は赤子ではないぞ、アーロン。いつまで幼児扱いする気だ」
ぶすっとして言いながら、ぐいぐい目元を拭く。アーロンは曲げていた腰を伸ばすと、呆れ顔になった。
「殿下がいつか陛下となられ、白髪の老人になられても、俺から見ればいつだってあなたは子供ですよ」
「子離れ出来ない親のようですねえ」
思わずカゼスは笑って皮肉り、じろりと睨まれて慌てて口を覆う。アーロンは大袈裟なため息をついて、うんざりと頭を振ったのだった。
「誰だ、こいつを起こしたのは……?」
もっとも、その嘆きに同調してくれそうな者は一人もいなかったが。