六章 訣別 (4)
高地に向かったカワードの軍と、アラナ谷でヴァラシュが新たに募集・編成した軍、それにエンリルから密命を受けたクシュナウーズの船団。それらすべての足並みが揃うまで、しばらく時間を必要とした。
その間にエンリルは、アルハンに向けて各所から噂を撒いていった。いわく、ティリス王エンリルはヴァルディアを評して人心を持たぬ獣と罵った。またいわく、横暴苛烈な狂王に虐げられ続けるアルハンの民に、エンリル王は憐憫の情を示している。
アミュティスたちにも手伝ってもらい、レムノス内部からも噂を流した。こちらは露骨にエンリルの名を出したり、ヴァルディア王を批判したりするわけにはゆかないので、漠然と、近い内に救い主が現れるそうだ、という内容にした。
そうして内外から不穏な噂に囲まれ、しかも現実にアラナ谷や高地でティリス軍が蠢動しているとなれば、ヴァルディアがいつまでもじっとしている筈もない。
加えてエンリルは、駆け抜ける噂の後を追うように、アラナ谷へ少人数の視察団を送った。年齢も外見も自分に近い若者をひとり近衛隊から選び、一行に加わらせておいて、自分は気分がすぐれないと言って王宮の奥に引っ込んだ。謁見など人の前に出る仕事はすべてオローセスに任せ、完全に引きこもってしまったのだ。
当然、噂が立つ。実は先日発った視察団の中に、お忍びでエンリル様ご自身が加わっていたらしい……そういえば似たような背格好の若者がいなかったか。そんな風に話は広まり、いつの間にかエンリルは、アラナ谷へ向かったことにされてしまった。
ヴァルディアにしてみれば、近くをぶんぶん飛び回っていた不愉快な虫が、叩き潰してくれと言わんばかり、目の前に留まったようなものである。ここでピシャリとやっておかずに、なんとするか。
そんなわけで、彼はエンリルのもくろみ通りに兵を挙げたのだった。
「動きました」
端的な報告がエンリルの元に届けられたのは、高地の木々が赤く色づき、ティリス王都でも店先に並ぶ野菜や果物の品揃えが変わって、秋を実感する頃だった。
レムノスでアミュティスに前もって渡しておいた小さな置物が、カゼスの部屋に描かれた専用の転移陣に現れていたのだ。ヴァルディア自身が兵を率いて都を出たことを知らせる合図だった。
カゼスがそのことを告げると、自室で退屈そうに病人のふりをしていたエンリルは、パッと表情を変えた。
「ようやく動いたか。やれやれ、冬が来るまでに間に合わぬかと思うたぞ」
「冬中ずっと、陛下に寝込んで頂くわけにもいきませんしね」
「そんなことになったら、体中の骨という骨が溶けてしまう。春が来る頃には、そなたでも余を打ち負かす事ができるであろうよ」
「おや、じゃあ私は絶好の機会を逃してしまったわけですか」
二人はおどけた言葉を交わし、少し笑った。だがじきに二人とも真面目な顔付きに戻ると、互いに相手の目を見つめた。
「いよいよですね」
「ああ。これで最後にしよう」
エンリルは言って、小さくうなずいた。
しかしまだそれから三日の間は、ヴァルディア軍に進軍を続けさせ、王都から引き離しておいた。四日目の早朝にカゼスとエンリルは行動を開始したが、さあ行くぞという直前になって、カゼスはアーザートが自分から目を離さないことに気が付いた。これではこっそり抜け出すことができない。
カゼスはたまりかねて、率直に切り出した。
「あの、アーザート。私はこれから……」
「レムノスに行くんだろう。それもごく少人数で。だったら、護衛を外すのは賢くないと思うがね」
見抜かれていたのか、とカゼスが返事に窮していると、アーザートは久しぶりに棘のある歪んだ笑みを浮かべた。
「それとも、だからこそ信用できない奴は置いて行くか」
「信用してないわけじゃ、ないんですけど」
カゼスは困り顔でちょっと頭を掻いた。そう、自分がこの青年をかなり信用していることには、気が付いている。いつの間にそうなったのか分からない。ただ、好かれてはいないし忠誠心といったものも感じられないが、それでも今の彼は護衛の務めは果たすだろうというのが分かる。もしかしたら既に、自分が気付いていない所で、何らかの働きをしてくれているかもしれない――そう思えるほどに。
「でも、どうしてなのか、分からないんです。あんなに私を……嫌っていたのに。あ、いえ、今でも好かれてはいないでしょうけど」
「当たり前だ」
アーザートは即座に言い返し、舌打ちした。それから視線を外し、ゆっくりと考えながら言葉を選んで口にする。
「好意なんざ微塵も感じるもんか。ただ……俺にはあんたが分からん。分からんから、とりあえず、最後まで見届けることにした。それだけだ」
「アーザート……」
思わずカゼスは感動し、衝動的に相手を力いっぱい抱き締めた。腕の中でアーザートが鳥肌立つ気配が伝わる。
「やめろ、離せっ! 気色悪い!」
無理やりひっぺがされても、まだカゼスはにやけていた。嬉しかったのだ。自分と異なる理解できない存在を、ひたすら憎み消し去ろうとした彼が、その対象と根気よく向き合おうとしている。そのことが、まるで奇蹟であるかのように嬉しかった。
にこにこしているカゼスを、アーザートは薄気味悪そうに眺め、顔を背けた。カゼスは口だけは「すみません、つい」などと謝ったが、懲りずに相手の腕を引っ張った。
「そうと決まれば、ご一緒しましょう。心強いですよ。さ、早く早く」
げんなりしているアーザートを連れて転移室に入ると、エンリルが既に中で待っていた。二人の様子に彼は目をしばたたかせたものの、カゼスがすっかり連れて行く気だと見て取ると、何も訊かずに陣の上に足を踏み出した。
「まずはアラナ谷だな。ヴァラシュを連れ出さねば」
「了解。それじゃ、行きましょう」
カゼスは『力』を動かし、谷のヴァラシュが持っている目印の石に向かって道を開く。いつもの慣れた手順を踏みながら、ふと、この国でこの魔術を使うのもあと何回のことだろうか、と感慨が胸をよぎった。
同時に光の壁が陣の縁を一周し、三人は揃ってその場から消え失せていた。
アラナ谷アルベーラにある領主館では、ヴァラシュがのんびりと茶など飲みながらくつろいでいた。棚の抽斗の中でカタカタと小石が跳ね回る音がして、おや、と彼が振り向くと同時に、目の前にカゼスとエンリル、それにアーザートの三人が空を切って現れた。
ヴァラシュは茶碗を手にしたまま、驚いた風もなく、風圧で乱れた髪を片手で整える。
「棚の中に出て来られたら、面白いかと思ったのですがね。さすがラウシール殿、同じ失敗はなさいませぬか。いや結構なことです」
「何を呑気なことを」
カゼスは苦笑し、抽斗を開けて小石を取り出した。つけておいた魔術の印を消し、ヴァラシュに向き直ってにこりとする。
「出発ですよ。準備は良いですか?」
「こちらはいつでも。バームシャード卿は大言壮語するだけあって、なかなか指揮官としては有能ですな。もうすっかり、新兵を自分のものにしてしまいましたよ」
ヴァラシュは言い、茶碗を置いて立ち上がった。エンリルは窓の外を見やり、眉をひそめる。バームシャードにアラナ谷の新しい軍を指揮させる、というのはヴァラシュが言い出したのだ。彼なら名前も知れていないので、ヴァルディアも油断するだろうし、万一彼が謀反を企てても、所詮ティリス王都からは遠く離れている。
「信用できるか」
厳しく問うたエンリルに、ヴァラシュは肩を竦めた。
「信頼となると難しゅうござるが、信用ならばできましょうな。あの者の影響で、兵たちまでが守銭奴じみつつありますよ。困ったものです。おまけにこちらは、いつ陛下がいらっしゃるか分からぬというので、ご婦人との親密な語らいの時間を取れなんだというのに……あの男ときたら」
はあ、と、ため息でその先はごまかす。エンリルは苦笑し、咳払いした。
「今回は諦めろ。それと……レムノスではキースやヴァルディアの妻たちとも顔を合わせようが、要らぬちょっかいを出して厄介事を引き起こすなよ」
「名高い北方の宝石、銀の月と星をこの目で見られるならば、それだけで我が心には賛嘆の思い満ち溢れ、それ以上のことなど思いつきもしますまい。そもそもこれまで、私が何か厄介事を陛下の御身に降りかからせたことなど、ありましたか?」
いけしゃあしゃあと言ってのけたヴァラシュに、エンリルとカゼスは何とも言えない顔を見合わせ、次いで失笑したのだった。
四人は姿を消したまま、アミュティスの家に転移した。相変わらず見張りの兵たちがそこかしこにいるが、当然ながら誰もカゼスたちには気付かなかった。
聴覚や触覚にまで及ぶまやかしをかけているので、極端な話、歌おうが踊ろうが絶対に見付かる心配はないのだが、それでもなんとなく息を殺し、抜き足差し足で移動する。
銀髪の母と娘がひとつの部屋にいるのを見付けると、カゼスはホッと息をついた。あれから特に困った事態になったりは、しなかったようだ。二人とも怪我などはなく、健康そうに見える。ロードグネは編み物をしており、アミュティスはテーブルに向かって何やら書き物をしていた。
何やってるんだろう、とカゼスはテーブルに近寄り、アミュティスの手元を覗き込んだ。そして思わず砂でも吐き出しそうな顔になる。x、y、z三本の軸が生み出す空間を舞台に、直線やら曲線やらが乱舞しているのだ。見るんじゃなかった、とカゼスがため息をついた時、何か気配を感じたのだろう、アミュティスが顔を上げてきょろきょろした。
〈聞こえるかい?〉
そっと話しかけてみたが、どうやら少女は精神波で会話する術までは学んでいないらしく、何かが聞こえるのだが分からない、といった風情で顔をしかめた。とりあえず自分の存在には気付いたろうと踏んで、カゼスはアミュティスの感覚からまやかしの効果を除いた。いきなり目の前にカゼスが現れたように見えて、アミュティスは危うく声を上げかけたが、すんでのところでそれを飲み込んだ。
カゼスは相手に沈黙の必要性を伝えるため、あえてささやき声で話しかけた。
「静かにね。君以外の人には、私たちの姿も声も見えていないんだ。知らせは受け取ったよ。いよいよ実行の段階に入るけど、そっちの準備はいいかい」
アミュティスは無言のまま、小さくうなずいた。それを受け、エンリルが行動開始を告げた。
「よし。では、かねてから取り決めた通り、本日正午から計画を実行に移す。アミュティス、ガルドゥーンの者たちに連絡を。カゼス、そなたの役目は分かっているな?」
「ええ、大丈夫です。炎が燃え上がるより一足早く、囚われ人の安全を確保しておくこと……でしょう? アーザートにも来て貰います。その方が安全でしょうから」
エンリルはちらっとアーザートに視線を向けたが、皇族の直感が働いたか、「それが良いだろう」とうなずいた。
「用心を怠るな。ヴァルディアのことだ、王都を去る前に何らかの罠を仕掛けていないとも限らぬ。いやむしろ、必ずや罠があるものと心得ておけ」
「ご忠告感謝します」
カゼスはにこりとし、アーザートを手招きした。それほど時間の余裕があるわけではない。急ぎましょう、と言うと、カゼスは小走りにアミュティスの家を後にして王宮へ向かった。リトルが先導してくれるので、道を覚えていなくても心配ない。
アミュティスは今頃、ガルドゥーンの面々の元にも合図の小物を送っているだろう。合図を受け取った彼らが、それぞれ何気ないふりを装って外出し、王宮の門前に集まる頃、アミュティスとロードグネ母子もこっそり家を抜け出し、彼らに合流する。
そして、門前でキースの解放を嘆願し、ちょっとした騒動を起こすことで衛兵の目を引き付けている間に、エンリルとヴァラシュが王宮内に潜入し、王太子フィルーズとその母シルピオネの身柄を確保するのだ。
ヴァルディアが不在の今、シルピオネにもそれなりの権限が託されている。それを最大限に発揮してもらい、キースの解放、それにフィルーズの即位宣言をエンリルと共同で出して貰う――いざとなったらフィルーズの命を盾にしてでもそうさせる、とエンリルは言っていた。
(エンリル様も随分、変わられたよなぁ)
自分の変わりようの比ではない。それでもカゼスは、エンリルに失望してはいなかった。昔の方が良かった、などという思いを抱いたこともない。
確かに以前の彼の方が明るく屈託なく、ずっと大らかだった。だがいつまでもそのままでは、人柄が良いだけの凡庸な王で終わってしまう。そしてティリスは、ヴァルディアやシザエル人たちの野望に蚕食されて滅びていただろう。
そう考えると、彼の変化は生き延びるための変化であるとも言えた。
(私も……そうだったのかもな)
そんなことを漠然と思った時、カゼスはレムノス王宮の門前に立っていた。番兵は他の通行人に目を向けたまま、こちらにはまったく気が付いていない。カゼスはアーザートと共に門をくぐり、中に入った。
〈えーっと、確か国王の私宮殿って、こっちだったっけ〉
〈あなたのあやふやな記憶力でも、たまには正解を保存していることがあるんですね〉
リトルは厭味で肯定し、先を飛んで行く。カゼスは苦虫を噛み潰し、後から走って行った。王宮の見取り図はヴァラシュが先に見せてくれていたが、去年、二百年後のこの場所に来た時と、あまり大きく変わっていないようだった。だからカゼスにも、位置の見当がついたのだ。
とはいえ、正確な位置を知っているのはリトルの方である。カゼスはひたすらその後について行った。広い中庭を抜け、謁見殿と控えの宮殿の間を通り、奥になっている国王の私宮殿に向かう。国王がいないためか人影はまばらで、沈滞した雰囲気が漂っていた。
私宮殿に入ると、カゼスの記憶にもある通りの光景が現れた。確かこの通路の奥に地下への扉があったんだっけ、などと考えていると、リトルはその通路の途中で小さな入口の前に止まった。
本来は召使の控室として使われているのだろうが、今は衛兵がその前に立ち塞がっている。さすがに、いくらまやかしをかけていても、この男の横をすり抜けてカーテンをくぐれば、ばれてしまう。カゼスは少しためらい、それから心の中で不運な男に頭を下げて、指をのばして男の眉間に触れた。
軽く『力』を動かしただけで、がくんと男の膝が折れ、その場にくずおれて安らかな寝息を立て始める。カゼスはうんうん唸りながら男の体をひきずり、柱の陰の暗がりに隠した。アーザートはあくまで護衛と決めているらしく、眺めているだけだ。
カゼスは恨みがましい一瞥を相手にくれてから、左右を見渡してすばやくカーテンをくぐった。中は真昼だというのに、締め切られていて薄暗い。
〈キースさん?〉
恐る恐る呼びかけた、その時だった。
呪文を唱える声が聞こえ、ぎょっとなる間もなく、体が浮いて壁に叩きつけられる。寸前で自分も『力』を操って衝撃を緩和したので、目の前に星がひとつ飛んだぐらいですんだが、予想外のことにカゼスは動揺し、床にへたりこんだまま固まってしまった。
顔を上げると、キースがゆっくり歩いて来るのが見えた。こちらの姿が見えているわけではないらしい。何かを探しているような、ふらふらした歩き方だ。どうしよう、とカゼスが混乱していると、アーザートがさっとキースに駆け寄って、当て身を食らわせた。
がくん、とキースが倒れる。アーザートはそれを抱き止めて、ゆっくり椅子に座らせると、呆れ顔でカゼスを見下ろした。
「魔術師なんて言っても、鈍臭けりゃたいして意味はないな」
「うっ」
言葉の槍に貫かれ、カゼスはうめいた。ごもっともすぎて返す言葉もない。そそくさと立ち上がってキースのそばに寄ると、額に手を当てて意識の中を探ってみた。
(暗示をかけられてる……まさかヴァルディアも魔術を? あるいは……)
二百年後のセオセス=ハーカーニーがそうであったように、彼もまた『赤眼の魔術師』の用いる『道具』を操る術を学んだのか。
カゼスは気を引き締め、手早くキースにかけられた暗示を解いた。ついでに、アーザートに一発食らわされた痛みも消しておく。
じきにキースは身じろぎし、低くうめいて目を開けた。
「あなたは……ラウシール殿ですか。どうやら、ご迷惑をおかけしたようで」
申し訳ない、と微苦笑を浮かべた顔は、少しやつれて見えた。カゼスは首を振り、無理に立ち上がろうとするキースを優しく椅子に押し戻した。
「迷惑だなんて、とんでもない。私たちの方こそ、これ幸いと利用させて頂くようなものですから。暗示はヴァルディアが?」
「そうです。催眠キューブを取り上げられましてね。あんなもの、持って来るべきではなかったのでしょうが……どんな界に流れ着くかわからなかったもので、用心の為に、と。仇になりましたな。いや、私がもう少しちゃんと管理していれば……」
ぼそぼそと喋るうち、独り言になっていく。なるほどこういう性質なら、強引な人間に押し切られてしまうのも無理はない。カゼスは妙な所で納得し、それからふと嫌な可能性に思い当たった。
「まさか、ほかにもヴァルディアが使える機器がある、とか言いませんよね」
「細かい物がいくつか。ですが、ここには大掛かりな機器は置いていませんし、大人数に影響を与えるようなものはありません。催眠キューブにしても、効果範囲のごく狭いものですし……」
「前以て何らかの仕掛けをしておけるような物は、催眠キューブ以外にはない、と?」
「ええ、それは確実です。特殊な機器を用いずに何らかの罠を張っている可能性はありますが、恐らくあなた方が直接王都に乗り込んで来ることは、想定していないのではないでしょうか。私にかけた暗示も、留守中に私が脱走したり、誰かが私を逃がすことに対する処置でしょう。ですから……」
「わかりました。それじゃほかの心配はないですね」
リトルとは別の意味で口数の多いキースに苛立ち、カゼスは相手の話を途中で遮った。長々とした解説や推論を拝聴している時間はない。
「いいですか、これから門の前でアミュティスたちがあなたの身柄解放を要求して騒ぎを起こす手筈になっています。あなたの所にも用心のため衛兵が来るでしょうが、あなたはまだ動かないでください。もう魔術は使えそうですか?」
てきぱきと言ったカセスに、キースはまだ頭がついていかないような顔をしていたが、最後の質問だけは理解してうなずいた。
「あまり大きな術でなければ、大丈夫です」
「それじゃ、衛兵にはあなたがここで大人しくしているように、見せかけておいてください。計画ではあなたは待っているだけでいい筈ですが、何か変更があった時の為に連絡係を置いておきます」
置いておく、と言われ、アーザートが一瞬ぎょっとなった。が、カゼスが宙にむかって手招きし、見慣れた水晶球が姿を現したのを見て、ほっとする。
「これは?」
膝の上にぽすんとおさまったリトルを見て、キースは首を傾げた。
「詳しく説明している暇はありません。通信機の一種だと思ってください」
〈失敬な!〉
すかさずリトルが憤慨したが、カゼスは取り合わなかった。相手もそんな状況でないのは承知しているらしく、いつものように怒涛の愚痴攻撃を繰り出したりはせず、ぶつぶつぼやくだけに止めている。
「私たちはこれからまた、門の方へ戻ってアミュティスたちの援護につきます。怪我人でも出たら大変ですからね。それじゃ、また後ほど」
言うだけ言って、カゼスはアーザートに目で合図した。アーザートは外の気配に耳を澄ませ、誰もいないと確かめると素早くカーテンをくぐる。カゼスもそれに続き、先刻眠らせた衛兵を再び引っ張り出した。
術を解いて目を覚まさせると同時に、束の間の記憶をすりかえ、うっかりこの場でうたた寝してしまった、という風に思い込ませる。衛兵は自分が槍を抱えて座り込んでいるのに気が付くと、弾かれたように立ち上がって、慌てて周囲を見回した。
すぐそばでカゼスとアーザートが、その滑稽なまでの狼狽ぶりを見ているのだが、衛兵は誰にも見咎められなかった、と安堵に胸を撫で下ろす。それから一応、室内の様子を覗き、変化なしと見て、自分も何事もなかったような顔をして姿勢を正した。
見ているカゼスは可笑しくてたまらない。聞かれないと分かってはいるものの、声を殺して肩を震わせる。
「おい、いつまで笑ってんだ。行くぞ」
アーザートが苛立ったように鋭くささやき、カゼスは「了解」と答えながら、笑い過ぎて目に浮かんだ涙を拭った。
そして、二人が私宮殿から一歩外に出た、その時だった。
門の方から、予想外の喊声が聞こえたのだ。
「な……なんだ?」
アーザートが困惑し、足を止める。先刻の衛兵も驚いたらしく、持ち場を離れて外に出て来た。慌ただしい靴音が近付いては去り、閑散としていた王宮内が急に賑やかになる。
「おい、そこの貴様!」
走り過ぎようとしていた衛兵がこちらを指して怒鳴ったので、カゼスは思わず身を竦ませた。が、もちろん彼が呼んだのは、カゼスたちの背後に立つ衛兵だった。
「持ち場に戻れ! 馬鹿共が、陛下ご不在の隙におしかけて来おった。顧問官の身柄が目的かも知れん。何やってる、さっさと戻れ!」
怒鳴りつけられ、慌てて衛兵は中に駆け戻る。カゼスとアーザートは顔を見合わせ、次いで走りだした。何か手違いがあったのだろうか。ここまで大騒ぎになる予定ではなかった筈なのに。
どうか、皆が無事でいますように。
カゼスは祈りながら、一心に走り続けた。




