六章 訣別 (2)
小糠雨が時折風に乗って舞い降りる中、カワードとウィダルナの率いる軍勢は、王宮の中庭に整列し、出発の声を待っていた。本宮の壇上にはエンリルやカゼスたちが見送りに現れ、カワードとアトッサがその前に立って言葉を交わしている。
「ではな、カワード。しばらく会えぬが、あまりアトッサ殿に迷惑をかけぬように」
「これから任地に赴こうという武将に、それはないでありましょうが」
カワードは憮然とし、意気消沈したふりをして見せる。エンリルは笑って軽く相手の肩を叩くと、横のアトッサに目を移した。
「大所帯で押しかけ、世話になる。必要の折には如何様にも、彼らを使って頂きたい」
「気前の良いお言葉、感謝する」アトッサは短く軽快に笑った。「だが道を直して貰えるだけで重畳というもの、あまり贅沢は申しますまい。それに、こうして安全に高地に帰ることが出来るのだし」
言いながら彼女は、ちらと背後の隊列を見やった。荷車の列にまじって、天蓋のついた馬車が一台、用意されている。アトッサのためでもあるが、今は中に病み上がりのバールが横たわっているのだ。傍らにはウィダルナが警護についていた。
伝令が走ってきて、カワードにすべて準備が整った旨を報告する。カワードがよしと応じてエンリルを見ると、彼もまたにこりとして首肯した。
「道中の無事を祈る。春にまた会おう」
「その頃には、そざやティリスの酒が恋しくなっておるでしょうよ。冬の間、他の者に飲み干されぬよう隠しておいて下され」
にやりとして言い、カワードは「では御免」と階段を降りて馬にまたがる。アトッサもエンリルに目礼し、自分用のやや小柄な馬に駆け寄った。馬車に乗る気はないらしい。
やがて出発の角笛が響き、隊列は順に正門を出て大階段を降り、街の中央通りを街門へと進み出した。
最後の一兵が出て行くまで、さほどの時間はかからなかった。山道を舗装する工兵は、一足先に出発しているからだ。今出て行ったのは、主に糧秣を積んだ荷車とそれを警護する兵、それに先行部隊の作業を手伝う歩兵たちだ。加えて騎兵が少数――彼らが存分に活躍するのは、来年の春ということになっているのだが。
「……さて」
見送りが済むと、エンリルは軽く伸びをして、誰にともなくつぶやいた。
「こちらは春が来るまで、いまいましい書類仕事に埋もれるとするか……」
彼は苦笑しながら頭を振り、やれやれといった風情で本宮の奥へと入って行く。カゼスも内心おやおやと思いながら、自分の部屋へと足を向けた。そうして一旦は西棟に入ったものの、すぐにカゼスはくるりと向きを変え、遠回りして奥宮の方から本宮に戻った。
執務室の近くで姿を消し、衛兵の前を素通りして中に入ると、案の定、エンリルは一人きりだった。
〈私に御用がおありなんじゃありませんか?〉
精神波で話しかけると、エンリルは驚いて目をぱちくりさせ、カゼスをまじまじと見つめた。それから、ああ、と得心顔になる。他の者には見えていない、ということに気付かなかったのだ。
「よく分かったな。そうだ、クシュナウーズの所に行く必要がある」
彼は机上の書類を片付ける音に紛らせ、ささやいた。
「先に居所を見つけだしてくれるか。その間に少しでも、自分で言った通りいまいましい仕事を片付けておかねばならぬのでな」
〈わかりました。では後ほど〉
カゼスはぺこりと一礼し、面倒なので『跳躍』して自分の部屋に戻った。
もうすっかり室内は元の状態に戻っていた。完全に同じ、とはいかないが、フィオの細かい心遣いがあちこちに見受けられる、居心地の良い空間だ。カーテンを上げて続き部屋を覗くと、フィオが繕い物をしており、できるだけ彼女から遠い位置にアーザートが座って、剣の手入れをしていた。
「二人とも、私はちょっと出掛けますけど……どうします? 久しぶりにフローディスまで行くんですが、良ければ一緒に来ますか」
途端にフィオがパッと顔を上げ、輝く笑顔を見せた。
「いいんですか? すぐに片付けますから、ちょっと待ってて下さい。あ、何を用意しましょう、島に行くってことは……」
手早く針や糸を片付けながらフィオは言い、はたと手を止めた。
「……三の長に会いに行くんですか?」
クシュナウーズを島での肩書で呼ぶと、少女は不安げに眉をひそめた。出て行った時の騒ぎは、あの場に居合わせなかった者の間でも、すっかり噂になっている。国王に印章を叩きつけて出て行くなど、語り種にならぬはずがない。
「ええ、そうです」カゼスは安心させるように微笑んだ。「大丈夫ですよ、きっと喧嘩になったりはしません。どっちみち今は、あの人の居所を確かめるだけですから。島に戻るとは言ってましたけど、実際どこにいるやら分かりませんしね」
シャッ、と音がして、カゼスはアーザートに目を向けた。彼は剣を鞘におさめ、立ち上がったところだった。あれ、とカゼスは首を傾げる。
「えーと……あなたも来るんですか?」
「でなきゃ何のための護衛だ」
アーザートの返事は素っ気ない。カゼスは「それもそうですね」と苦笑し、二人にそれぞれ近くに来るよう手招きした。
「それじゃ、行きますか。そう長くはかかりませんよ」
言葉の終わらぬ内に、三人はそこから消え失せていた。
暖かく湿った潮風が頬をなぶり、カゼスは辺りを見回した。目標にしたのは、以前ここに来た時の風景だったが、狙いから少しそれて、入り江の浜に出てしまったようだ。
ちょうど漁から戻ってきたところか、何人かの男たちが忙しく動き回っていたが、内の一人がこちらに気付いて、嬉しそうな声を上げた。
「おう、フィオじゃねえか!」
「おじさん! 久しぶり、元気?」
どうやら親しい人物だったらしい。フィオも声を弾ませ、浜に足跡を点々と残して走って行く。
(そうか、フィオが島を出てから、もう半年は経ってるんだよな)
前にこの島に来た時は、まだ春だった。今はもう、すっかり秋だ。めまぐるしく各地を飛び回り、戦がない期間もほとんど落ち着く暇などなかったから、流れ去る月日の実感がなかった。それにしても、途中で一回ぐらいは、フィオにも里帰りをさせてやるべきだったかも知れない。
「都暮らしで、ちったぁ洒落た娘っこになったかと思ってたのに、相変わらずだなぁ」
わしわしと男がフィオの頭をかきまわしている。仲の良さそうな姿に、カゼスは口元をほころばせた。
と、ちょうどその時、
「おいおいおい、こりゃ一体何だよ、この頭は」
聞き慣れた声がして、今度は自分が頭をぐしゃぐしゃにされてしまった。
「わ、わわ、ちょっと! クシュナウーズ殿!」
振り返ることもできず、カゼスは抗議の声を上げる。慌てて相手を振り払い、数歩離れて向き直ると、両手で頭を庇った。
「短くなって癖がつきやすいんです、引っ掻き回さないで下さいよ」
「うへぇ、本当にお嬢ちゃんか。誰かがふざけてんのかと思ったが、まさかこんな……あーあ、もったいねえなぁ」
フィオと同じことを言い、クシュナウーズは大袈裟なほど呆れ顔をして見せる。カゼスは憮然としながら、髪を撫でつけた。
「これでも、フィオが整えてくれたんですよ。そりゃ、長い方が威厳みたいなものはあると思いますけど……別に、いいじゃないですか。どうせまた伸びるんだから」
〈ちぇっ、一人ぐらい、似合うとか前よりいいとか、褒めてくれないかなぁ〉
リトルにぼやくと、〈この時代じゃ無理でしょう〉とあっさりいなされてしまった。
〈多くの文化で、髪や髭は力や栄光などの象徴ですからね。我々の祖国でも、たとえばディータ族の例を挙げれば……〉
〈はいはい。わざわざ講義してくれなくたって、髪の象徴的な意味ぐらい知ってるよ〉
うんざりしてリトルの長広舌を遮り、カゼスはため息をついた。それを自分に対するものと受け取ってか、クシュナウーズは心持ち慰めるような声を出した。
「そりゃまあ、お嬢ちゃんがそれでいいってんなら、構やしねえがよ。で、今日はどうしたんだ。印章のかわりに髪でも叩きつけて、飛び出してきたのか?」
「まさか。髪は……供物にしたんです。私がここに来たのは、あなたの居所を確かめるためですよ。エンリル様はあなたを解雇した覚えはない、と言っていますからね」
カゼスが答えると、途端にクシュナウーズは何もそこまでというほどの渋面になった。
「なんだぁ? 出て来いってのかよ、あのクソガキが」
「違いますよ。エンリル様は自分であなたに会いに来るつもりでおられます。ただ、今はあれこれと取り込み中だから、時間の無駄を省くために、先にあなたの居所を確かめておくように命じられたんです」
「取り込み中?」
訝しげに眉を寄せたクシュナウーズに、カゼスは声を低くして、アルハン侵攻の計画と、それに隠したレムノス潜入計画とを聞かせた。それから、なんとか相手の心を変えさせようと説得を試みた。
「エンリル様は、私たちが考えているよりもずっと強い人ですよ。だってそうでしょう? あれだけ取り乱すほどの悲しみから、たった一晩で立ち直って見せたんですから。心の中まではどうなっているのか、忖りようもありませんけれど……どれほどの痛みを抱えていようとも、前に進むのが自分の仕事と割り切ったら、実際にそうして見せるだけの力がある人なんです。だから……どうか、戻ってきて下さい。力を貸して欲しいんです」
「そいつは、力を必要としている本人が言うべき台詞じゃねえのかい」
「もちろん後でエンリル様本人も、話をされるはずです。でも今のは、私の願いです。私はあの人を助けたい。それをあなたにも手伝って貰いたいんです」
「ふーん」
何事か考えている風情で、クシュナウーズは気の無さそうな生返事をする。不精髭の伸びた顎をさすり、彼は不意にいつもの悪戯っぽい含み笑いを見せた。
「てぇことはつまり、俺が頼みをきいてやりゃ、お嬢ちゃんの方から何か礼をして貰えるってわけかい」
「えっ」
予想外の切り返しを受け、カゼスはぎくりとたじろいだ。この流れからして、相手が言い出すことといったら、例によって例の如きに違いない。警戒したカゼスに、クシュナウーズは堪えきれず愉快げに哄笑した。
「お嬢ちゃんも随分、先を読むようになったじゃねえか。そんなにビクつかなくても、取って食いやしねえよ。もっとも、そっちにその気があるんなら、お相手願いたいがね」
「いや、ちょっと、それは困ります」
じりじりと後退するカゼスに、クシュナウーズはわざとらしくにじり寄る。
と、その鼻先に抜き身の剣が突き付けられた。クシュナウーズは目をしばたたかせ、意外そうに剣の主を振り返る。不本意げな仏頂面のアーザートが立っており、その横でフィオが剣呑な目をしてこちらを睨んでいた。
「……なんだかねぇ。お子様は無粋でいけねえや」
降参、と彼は両手を上げて見せ、カゼスに向かって苦笑する。カゼスもにやりとし、二人に向かって「ありがとうございます」とことさら慇懃に礼を言った。それから彼女はクシュナウーズに向き直り、表情を改めた。
「冗談は抜きにして、あなたが何か見返りを望まれるのでしたら、私も出来る限りご希望に沿えるように努力します。ですがその場合には当然、あなたにも持てる限りの力でエンリル様を助けて頂きたい」
「随分と入れ込むじゃねえか。俺にはどうも、あのガキにそこまでする価値があるとは思えねえんだが……」
クシュナウーズは尚も返答を渋ったが、ややあって諦めたのか、肩を竦めた。
「まあ、会うだけは会ってやってもいいか。俺ぁまだ当分ここにいるから、連れて来な」
「ありがとうございます!」
ぱっと破顔したカゼスに、クシュナウーズは困った奴だと言わんばかりに苦笑した。
「言っとくが、お嬢ちゃんに免じて、だからな」
「なんでもいいですよ。あなたが本当はいい人なのは、知ってます」
からかうようにそう言うと、カゼスはアーザートにフィオを頼んで、すぐさま王宮に戻った。その場に残されたクシュナウーズは、呆気に取られた顔で目をぱちくりさせていたが、曖昧な顔でちょっと頭を掻いたのだった。
カゼスがエンリルを連れて島に現れた時には、フィオが知らせたらしく、建物の中から大勢の人間が様子を窺っていた。
「あ、カゼス様、エンリル様! 三の長はこっちです」
フィオが耕作地の向こう側から呼び、大きく手を振る。二人がそちらに歩きだすと、農作業中の女たちが、ちらちらと視線を向けた。そのくせ、カゼスが彼女たちを見ようとすると、ぱっと顔を伏せて野菜と睨めっこしてしまう。カゼスは首を傾げた。
「……なんなんでしょう? 前に来た時は、こんな雰囲気じゃなかったのにな」
「そなたが髪を切って、彼らの崇める『ラウシール』らしからぬ風情になってしまったのが、ひとつだろうな。もうひとつは、自治権を認めておきながら、今さらティリスの王が何用か、と不審がっておるのだろう」
こともなげにエンリルは応じ、様々な視線を無視して歩き続ける。カゼスはなんとなくがっかりして、肩を落とした。この島とて楽園ではなく、住む人々も善良なばかりではないということか。まあ、元々海賊たちの島でもあるのだから、失望するのは筋違いというものだろう。
建物の壁に赤茶色の絵の具で描かれた、海の民らしい奔放な絵を横目に、二人はクシュナウーズの待つ部屋に入った。が、そこでエンリルは後に続くカゼスを、手で制した。
「そなたは外で待っていろ。彼とは二人だけで話をつける」
その口調が有無を言わせぬ強さをもっていたので、カゼスは一言の懸念も不安も口に出せず、黙って頭を下げ、退出した。
(大丈夫かなぁ。また喧嘩になったりしないかな)
不安にそわそわしながら待ち、足元にうずくまる影が、ちょうど本人と同じぐらいの大きさになった頃、ようやく話し合いが終わった。
「承知してくれたよ」
部屋から出てきたエンリルは、カゼスに屈託なく笑いかけた。カゼスは小さく安堵の息をつき、よかった、とうなずいた。
「それじゃあ、クシュナウーズ殿も一緒に王宮に戻りますか? それとも、彼には船で戻って貰うんですか」
「いや。ティリスには戻らない」
「え? 戻らない、って」
「彼にはここから直接、別行動に移るよう命じておいた。だから、今しばらくはティリスでの指揮はセファイドが続け、クシュナウーズには外で働いて貰う。そんな顔をするな、悪感情からすることではない。計画の一部として必要なことだ」
エンリルはカゼスの不安げな顔を見て苦笑し、後から出てきたクシュナウーズを振り返って、「そうだろう?」と同意を求めた。本当ですか、とばかりにカゼスもそちらに目を向ける。するとクシュナウーズは、今までに見たことがないような複雑な表情をして、これまた何とも言い難い声で答えた。
「ああ、まあ、そういうことだ。お嬢ちゃんが心配するこたぁ何もねえよ。気にするな」
「……?」
気にするなと言われ、余計にカゼスは顔をしかめた。
何か隠している。自分には悟られまいと、知らせまいとして。それが何なのかは想像もつかなかったが、少なくとも後で笑い話にできるような類のものでないことは確実だ。それどころか、クシュナウーズにこんな顔をさせるほどの事となると……。
「ちなみに、我々もまだティリスには戻らぬぞ」
エンリルがおどけた声で、ほとんど強制的に話題を変えた。フィオとアーザートが不審げな目を向ける。さすがに声に出して文句は言わないが、王の気まぐれに振り回されるのは困る、とその表情が物語っている。
エンリルはそんな二人に苦笑を見せた。
「すまぬな、だが思いつきで行動しているわけではないのだ。王宮内の者にも秘密にしておかねばならぬゆえ、どうしても唐突になってしまうがな。そなたらにも本来ならば知られたくはなかったのだが……まあ、致し方あるまい」
「あ……す、すみません」
考えなしにこの二人に行き先を告げ、しかも連れてきてしまった。カゼスは慌てて頭を下げたが、エンリルは気にした風もなく、鷹揚に首を振った。
「良い。そなたには必要な者たちだろう。だがさすがに、次に行く先にまでは同行させられぬのでな。帰してやれ」
そう言われては、カゼスもおとなしくうなずくしかない。不安そうなフィオと、何を考えているのか険しい目のアーザートに術をかけ、カゼスは二人を王宮の自分たちの部屋へ帰らせた。
二人の姿が消えると、クシュナウーズもざりっと砂を踏んで、向きを変えた。
「んじゃ、俺は俺で準備にかからせて貰いますぜ、陛下」
「ああ、頼んだぞ。高地や谷と足並みを揃えるために、イシルに連絡をつけて貰え」
「それ以外に方法がねえしな。じいさんの機嫌を取るために、一番上等の葡萄酒でも用意してやってくれよ」
「承知した」
エンリルがうなずくと、クシュナウーズは軽く片手を上げてぞんざいな敬礼をし、背を向けて歩み去った。何をするというのだろう。カゼスはまだ胸の奥にしこりを感じていたが、その疑念は口に出さず、別の質問をした。
「それで、私たちはどこへ?」
「レムノスへ。顧問官キースの娘に会いに行く」
エンリルの答えは短かった。
「他の者に見られた時の用心だ。まやかしをかけておいてくれ」




