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帝国復活  作者: 風羽洸海
第三部 アルハン攻防
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六章 訣別 (1)



 高地にほど近いパティラの近郊には、潅木の茂みがところどころにうずくまり、緑の草原が山並みの足元まで続いている。

 街道から少し外れ、草に隠れたせせらぎに沿って細い道を進むと、やがて小さな泉に出会う。馬や羊はもちろん、牧人たちも渇きを潤すために利用するが、地元の人間以外はほとんどその存在を知らない。そんな泉のそばには、ちょっとした木立があって、格好の休息場所を提供していた。

「……ここなら、アーロンもゆっくり休めるだろうな」

 ぽつり、とエンリルがつぶやいた。あまりここを利用する者の邪魔にならず、しかし、たまには誰かが訪れて花を手向けてくれそうな場所に、深い穴が掘られている。

「読書の邪魔も入らぬであろうし」

 微かに苦笑をもらし、いつぞやテマの総督府で、書物片手に所在なく彷徨していた姿を思い出す。柩には、彼が繰り返し読んで端の擦り切れた書物が何冊か、入れられていた。

 また柩に入れられてはいないが、参列を断られた多くの兵士や王宮の召使、街の住民たちから、あれもこれもと供物を預けられていた。後に霊廟を建てるのだからそこに奉納するがいい、と言っても、やはりアーロン本人とともに異世へ送りたい思いというものが、少なからずあるのだろう。

 穴が深くなっていく間も、すすり泣きの声が続いていた。アーロンの家族だ。両親と長兄、三人の姉とその夫たち。ほかに立ち会っているのは、カゼスとカワード、ウィダルナ、イスファンドといった、生前ごく親しかった者だけだった。アーロンの家族以外は、カゼスが『跳躍』によって連れてきたのだ。

 穴が充分に深くなると、冠婚葬祭をつかさどる地元の神官が進み出た。昔ながらの慣習に則って祈りの言葉を唱え、柩や墓穴、墓標とする石板に、香水や草花を撒いていく。

 嗚咽のほかに声はなかった。カゼスも時々唇を噛みながら、じっと儀式の進行を見守る。やめろ、と叫んで儀式をめちゃくちゃにしてしまいたい衝動が、じわじわと胸の奥で高まっていった。すべてが終わってしまう前なら、まだアーロンを呼び戻せる。そんな埒もない考えが、頭の中につむじ風を起こすのだ。

 だがその思いは、カゼス一人のものでもないようだった。時折柩の中のアーロンを見やっては、耐えられず目を背ける者。拳を白くなるほど強く握り締め、叫びのかわりに小さな吐息を用心深く漏らす者。

 そんなこもごもの思いをよそに、儀式は終わり、一人ずつ最後の供物を捧げるよう、神官が手振りで促した。最初にエンリル、そして血縁者たちが。カゼスはその後だった。

 柩に歩み寄ると、どうしようもなく涙が溢れだした。視界を揺らめかせるそれを何度も拭い、カゼスは見納めにとアーロンの死に顔に目を落とす。だがもう、それは死者の姿でしかなかった。腐敗も損傷もないが、もはや生前の姿とは似ても似つかぬ姿。否応なく、もうそこに魂は宿っていないのだ、と思い知らされる。

 カゼスは深く息を吸って、手に持っていた『聖なる紫花』を柩に供えた。それから、空いた左手で髪をひとつにまとめて持つ。右手の人差し指と中指を揃えて、首の後ろに差し入れたかに見えた、刹那。

 バサリ、と青い髪が風に散る落ち葉のように舞った。何人かが驚きに息を呑む。カゼスは水の糸を束ねたような髪に、一度だけ唇を押し当て、それを柩にそっと入れた。

(さようなら)

 声には出さず、別れを告げる。アーロンに、そしてまた、彼の優しさに浸りきっていた自分自身に。

 我ながら儀式的な行為だと思わないでもなかったが、何かの区切りが欲しかった。新たな船出のために過去のもやいを断ち切る、その象徴としての儀式が。

 また少しだけ涙がこぼれたが、今度の涙は哀切ゆえのものではなかった。カゼスは束の間、瞼を閉じて黙祷し、すっと顔を上げると潔く柩から離れた。

 皆が最後の別れをすませると、カゼスが術を解いた。遺体の霜が薄れていくのを見届ける間もなく、しっかりと蓋が打ち付けられる。ティリスの清浄な太陽と風にさらした後ではないため、死者が異世から舞い戻ってしまうのを恐れてのことだ。

 ゆっくりと柩が穴の底に降ろされると、姉や母の嗚咽が激しさを増す。神官が仕上げに銀色の枝を編んで作ったお守りらしきものを投げ入れ、墓掘りたちが土を被せ始めた。

 アーロンの父が家族を促し、街へと足を向ける。カワードたちも彼らを気遣うように囲んで、のろのろと歩きだした。

 カゼスは最後に周囲の風景を見回し、微かに笑みを浮かべた。ここなら、安息の地と呼ぶにふさわしい。最期の時にアーロンが思った故郷の風景に、一番近いだろう。

 それから彼女も立ち去りかけ、まだじっと佇んでいるエンリルに気が付いた。戻りませんか、と声をかけようとして、カゼスはそれを飲み込んだ。

 じっと、埋もれていく柩を見守る彼の表情は、そのまま己も土の下に葬られてなお足りぬほどの――

(……後悔?)

 少なくとも、単なる悲哀でないのは確かだった。カゼスはこのまま黙って立ち去る方が良いのか、それとも何か言うべきなのか、立ち止まったまま悩んだ。しばらく逡巡した結果、思い切ってカゼスはエンリルの横に並び、そっと、そよ風に雪のひとひらを乗せるように用心深く、ささやいた。

「あなたのせいじゃありません」

 エンリルは顔を上げず、目を伏せて首を振る。

「そなたには分かるまい。……分かるはずがないのだ」

「分かっているとは言いません。でも、人が死ぬとまわりの者は多かれ少なかれ、自分のせいかも知れないと思うものです。とりわけ……老齢でも長患いの末でもない、こんな場合にはね。あんなことを言ったからかも知れない。あの時ああしなかったせいかも知れない。あるいはこうなる事を、心の底でほんの僅かでも、望んではいなかっただろうか……」

 ぎくりとしたように、エンリルがひきつった顔を振り向けた。カゼスは歪んだ笑みを浮かべ、目に浮かびかけた涙を瞬きしてごまかした。

「軽蔑されても結構ですよ。でも……こんな形をはっきり望みはしなかったと、それは誓って本当ですけれど、ほんの少しだけ……私は、いずれここを去る時の為に、何かが別れ際を決めてはくれないだろうか、なんて事を……」

 声が揺らぎ、かすれる。カゼスは唇を噛み、視線を落とす。もう柩はすっかり土に隠れて見えない。

「愚かでした」

 小さな声でそう締めくくり、カゼスは沈黙する。ザクッ、バサリ、と土を被せる音。肌寒い風が、木立の間をささやきながら通り過ぎて行く。

 鳥の群れが空の端から端へと飛び去って、ようやくエンリルは、ぽつりとつぶやいた。

「……私もだ」

 二人はそれきり無言で、墓掘りたちの作業を見守っていた。

 やがて墓石が安置されると、どちらからともなくゆっくりと背を向け、細い道を街へと歩きだす。

「本当のところは」と、足元に目を落としたままカゼスが言った。「誰かが思ったぐらいで人は死なないのでしょう。直接の死因が何であれ、それによって命を落とすか、助かるかは……まったくの偶然で、人の恣意はもちろん神の意志さえ、そこには働いていないように思います」

「恐ろしいことを言うのだな」

「そうですね。もしこれが事実なら、私だって耐え難い。だから……自分のせいだとか、何か因果関係を見付けたがる。どちらかが本当なのか、あるいはどちらも少しずつ作用しているのか、それは分かりませんが」

「そなたにとって、神はひどく遠い存在のようだな」

 ようやくエンリルは微苦笑を見せた。カゼスは虚を突かれたような顔をし、それからふと遠い目をしてつぶやいた。

「ええ。たぶん、見放されているんでしょう」

 神が人の生死にすら関与していない、などと考えるのは、自分がこの国・この時代の者でないからだ。エンリルたちは違う。神はもっと身近で、それどころか人生の至るところにその力を及ぼす存在なのだ。単なる偶然と言うにしろ、そこには神の思惑があると考えている。

(どっちが楽なんだろう)

 苦痛と悲哀、倦怠と失望と無力感、そしてほんのちょっぴりの喜び。そんな人の一生を歩んで行くためには、神と近しい方が、少しは楽なのだろうか。

(……分からないな。どっちにしろ、今さら何を信じることもできやしない)

 カゼスはそっとため息をつき、小さく頭を振ったのだった。


 アサドラー家の広間には、アーロンの遺品が集められていた。家に保管されていた物だけでなく、ティリス王宮にあって反乱軍による破壊を免れた物も、運び込まれていた。

 家族が形見として引き取りたいものを選んでおり、カワードたちもまた、自分たちと共通の思い出を呼び覚ます品を見付けては、それにまつわる話を聞かせている。

 俸給のほかに恩賞として下賜された特別な品物は、その大半が貰った当時の状態で保管されていた。退役する際には返上するつもりだったのだろう。宝石が多数象嵌されたきらびやかな宝剣などは、鞘から抜かれたのもせいぜい一度か二度らしい。そのかわり、常日頃用いていた剣や槍は、無数の傷があるものの、大切に使い込まれているのが分かる。

 家族はもちろん、王宮での生活を長年共にしてきたカワードたちの思い出話は尽きるところを知らず、形見分けが終わるまでにかなりの時間がかかった。このまま今夜はお泊まりを、と請う一家の者に、しかしエンリルは丁寧に辞意を述べた。

 彼はカゼスに帰還の指示を出しかけたが、ふと思いついたように言った。

「カワード、ウィダルナ、イスファンド。そなたらは先に戻っていろ。カゼス、そなたは残って、帰る前にその髪を整えた方が良かろう」

「あー……そうですね」

 無造作に切っただけなので、中途半端で奇妙な髪形になっているのだろう。カゼスは無意識に髪を触りながら了承し、カワードたちを先に送り帰すと、エンリルに向き直った。

「でも誰に整えて貰えばいいんです?」

 街に床屋の一軒ぐらいはあるだろう。貴族と違って庶民はたいてい適当な長さで髪を切るし、幼い少年などはいがぐり頭になっていたりする。だがそういうところは、あまり見た目の美醜には留意していないようだから、下手なところに頼めば、結果フィオを卒倒させてしまいかねない。

 ところがエンリルは、心配無用と手を振った。

「なに、今のはただの口実だ。帰ってフィオにやって貰うのが一番いいだろう。カワードたちに見付かったら、丸坊主にされそうになったので逃げてきた、とでも言えばいい」

「……は?」

「内密の話がある。我々はヴァラシュのところに戻るぞ」

「え、あ、でも……はあ……わかりました」

 困惑してカゼスは問いただそうとしたが、結局自分からそれを諦めた。何なんだろう、と訝りながらも、エンリルの指示通りヴァラシュの部屋を目標にして跳躍する。

 が、着いた瞬間もう一度跳躍して、どこかに逃げ出したくなった。

 ヴァラシュが性質の悪い微笑を浮かべ、三人分の茶器を用意し、テーブルに地図を広げて待っていたからである。

「うわっ……なんか、もの凄く嫌な予感がするんですけど。何も見なかった聞かなかったハイさようなら、ってわけにはいきませんかね」

「そこまで渋面になることもなかろう」

 エンリルが苦笑し、クッションを置いた場所のひとつに腰を下ろす。カゼスも渋々ながら空いた場所に座り、目の前の茶器を胡散臭げにじとっと見つめた。

「遠路お疲れ様でした。まずは茶でも」

 にこにことヴァラシュが手ずから紅茶を注いでくれる。カゼスはますます嫌そうな顔になり、二人を交互に見やってため息をついた。

「……で、何をするつもりなんですか」

「レムノスに潜入する」とエンリル。

「あぁ……、って、ええッ!?」

 さらっと言われて思わず聞き流し、次の瞬間カゼスは素っ頓狂な声を上げた。途端に二人から「シーッ」と言われ、慌てて口をふさぐ。しかしすぐに、ささやき声で詰問した。

「ご自分が何を言っているか、分かっているんですか? あなたがレムノスに行ってどうするつもりです、ヴァルディア王の暗殺でもするつもりですか」

「最終的な目的だけを言えば、そういう事になるな」

 しれっとエンリルが肯定したので、カゼスは絶句してしまった。

「少し落ち着け、カゼス」

 可笑しそうにエンリルは宥めると、地図に指を走らせた。

「ヒルカニア方面はヴァラシュが、高地ではカワードが、それぞれ春に向けて軍備の増強を行うことになっている。大々的にな。あわせてこちらも、アルハンの密偵どもの耳が如何に遠くとも聞こえるように、公的な場でアルハンの体制を批判する。先の武器密輸の件がある限り、こちらは正当な怒りを主張できるというわけだ」

「それは確かにそうでしょうけど、明らかにそれじゃあ、挑発ですよ。戦争したくてしょうがないと言ってるようなものです」

 カゼスは過激な行動をたしなめようとしたが、エンリルは平然とうなずいた。

「さよう、挑発だ。ヴァルディア王のことだ、たとえそれが政治的な宣伝と分かっていても、無視はもちろん冷静な反論など出来はすまいよ。こちらが春になって侵攻するつもりだと見れば、戦力の整わぬ内に叩こうと、じきに全軍を繰り出してくるだろう。その隙に王都に潜入し、ヴァルディア王を廃し、息子フィルーズを即位させる」

「後見人はティリスとエラードの王たるエンリル様……というわけですか」

 カゼスはこめかみを押さえて唸り、その手を下ろしてテーブルを叩いた。

「無茶です。簡単におっしゃいますけど、私には陛下が熱に浮かされておられるとしか思えない。第一に、全軍を繰り出すならヴァルディア王も親征するはずです。王都を乗っ取って王太子の即位宣言を出しても、彼らは無傷のまま取って返して王都を包囲するだけでしょう。仮にヴァルディア王が都に残ったとしても、その時には親衛隊なり近衛隊なりが身辺を固め、たやすく近付くことはできません。百歩譲って殺せたとしても、次の瞬間こちらが串刺しにされてます!」

 カゼスにはエンリルが、アーロンの死によって受けた衝撃を、恨みの転嫁という形で片付けようとしているとしか、思えなかった。実際、アルハンが武器の供給という形でファシスでの出来事に関与していたのは否定できない。だが、それをアーロンの死に直結させるのは強引すぎる。

「考え直してください」

 切実な声で訴え、カゼスは相手の目を見つめた。だが、青褐色の瞳は揺るがなかった。

「考え直し、言葉通り春になってからふたたび軍勢を動かして、数多の屍と流血の上に覇権を確立せよと申すのか?」

 静かに問い返され、カゼスはぐっと詰まった。

「我が国とアルハンが共存する未来はないものと、そなたは承知していよう。田舎小国のティリスが憎き小童を王に戴いて、豊かなエラードを手中におさめた今、アルハンが黙っているものか。早晩口実を見付けて……いや、口実などなくとも、食らいついて来るのは明白だ」

「やられる前にやる、と?」

「それが一番、損害が少ないのであればな」

 平然とエンリルはうなずいた。かつて、自分がデニス統一を果たすと聞き、信じられぬと頭を振った少年の面影は、既に気配すらもなく。

「ですが……」

 実際問題として実行可能だとは思えず、カゼスはまだ同意を渋った。そこへヴァラシュが口を開いた。

「ですから、ラウシール殿の出番となるわけなのですよ」

 カゼスはしばらく黙って相手を睨み、それから最後には諦めて、ため息をついた。時代の行く末を選択するのは、自分ではない。この時代、この国に生きている彼らなのだ。

「……何をすれば?」

「そう先走って悲観するな」エンリルは微苦笑し、すぐに真面目な顔に戻った。「まずはそなたが接触したという、その抵抗組織について教えて貰いたい。彼らと連携すれば、より実行が容易になる。『赤眼の魔術師』を救い出し、味方につけることが出来ればなおさらだ。魔術を行う者が敵にいなければ、圧倒的に優位に立てる」

「知っていることなんて、ほとんどありませんよ。実質的な指導者は『赤眼の魔術師』つまりキースさんと、その娘さんです。人数や規模、武装の有無なんかはまだ何も。ただひとつ、先日報告しなかったことを付け加えるなら」

 あんまり気が進まないんですけど、とばかりカゼスは二人を軽く睨んで続けた。

「今は焼け野原になっている旧市街跡から、直接王宮の中に出て来られる、秘密の地下道がありますよ」

 ほう、と二人が眉を上げる。

〈先に調査してみないと、あの時と同じ出入り口や経路が使えるかどうか、わかりませんよ。キース氏が既に地下迷宮の出入り口を調べて、扉を設置しているとは考えられませんからね。場合によっては、出入り口を掘り出さないと〉

 リトルが釘を刺したので、カゼスは慌ててそれを付け足した。

「今すぐ使えるかどうかは、分かりませんけど。出入り口が埋まっている恐れがありますから、侵入には使えません。でも、王都を占拠した後でこっそり逃げ出したり、あるいは包囲された場合に敵の後ろへ出る時には、使えると思います」

「なるほど、『裁きの迷宮』を通ろうというわけか。そなたが魔術師でなければ、神をも恐れぬ大胆不敵、あるいは熱に浮かされているのはそなたの方だ、と言うところだが」

 エンリルがにやりとした。「使えるな」と彼が問うと、ヴァラシュもまた不敵な笑みを浮かべてうなずく。

「王宮と外をつなぐ道が確保できれば、いちいちラウシール殿のお手を煩わす必要もなくなります。余裕ができましょうな」

「……出来た余裕に、また別な仕事を突っ込まれる気がするんですけどね」

 げんなりしてカゼスは言い、本当に本気か、としつこく念を押すようにヴァラシュを睨んだ。もちろん、それしきで怯む相手ではなかったが。

「なに、ご案じ召さるな。雑事はこの私めが引き受けましょうほどに」

「自分が楽しみたいだけなんでしょうが……って、ちょっと待って下さいよ。ヴァラシュ殿はアラナ谷に赴くって言ってませんでした?」

 ぎょっとなってカゼスは思わず腰を浮かせた。エンリルがとぼけて明後日の方を向き、ヴァラシュは「そうでしたか?」などと白々しく首を傾げる。

「それは私とは別のヴァラシュでございましょう。潮のめまぐるしく変わる瀬に、水先案内人なくして船を進めるのは無謀というものでござるよ」

「…………」

 カゼスは愕然として相手を見つめ、それから特大のため息を吐き出して肩を落とした。

「王が王なら、臣も臣ということですね。やれやれ」

「それゆえ、万が一の時にはどんな手を使ってでも生還できるよう、そなたを連れて行くのだ。頼りにしているぞ」

 エンリルはあえて陽気に言ったが、すぐに表情を改めた。

「もう戦は充分だ。これ以上、我が国の民を……アルハンの民をも、無駄に死なせたくはない。先の帝国がデニスを統一する以前ならば、四つの国に住まう者はそれぞれに部族も異なり、血はさほどに混じり合うておらなんだ。だが、長き神聖帝国の時代に人々は移住し、婚姻によって血族は解体してゆき、いまやアルハン人だのティリス人だのという区別も無意味になった。大軍をもってアルハンを攻めるのは、我が身に剣を突き立てるに等しい行為だ」

 そこまで言い、彼は視線を落としてつぶやいた。

「能う限り、犠牲は少なくしたい」

 その声に含まれる痛みに、カゼスも目を伏せた。

「そう……ですね。そうですよね。わかりました」

 顔を上げ、自分に対する決意をかためてうなずく。十一条のことなど、もうどうでも良かった。エンリルが出来るだけ犠牲の少ない道としてレムノス潜入を選んだのなら、持てる限りの力でそれを支援しよう。それが自分の役目だ。

「そういうことでしたら、私も全力を尽くします。幸い、向こうの魔術師はこちらの味方ですから、よほどのことがない限り圧倒的にこちらが有利です。邪魔される恐れがないどころか、魔術師が同時に二箇所、キースさんを解放したら三箇所に、いることが出来るわけですから」

「心強いな」

 エンリルは微笑むと、ヴァラシュに視線を向けた。

「では、細かい打ち合わせを進めよう」

「御意」

 ヴァラシュはうなずくと、新しい地図を取り出して広げた。カゼスは何だろうとそれを眺め、思わずあっと声を立てた。

「レムノス王宮の見取り図じゃないですか! こんなもの、どうやって」

「魔術師ならずとも、知恵と金の使いよう如何によっては、魔術めいたことが行えるのですよ。これがなければ始まりませんのでね」

 得意げにヴァラシュは応じ、では、と具体的な話を二人に聞かせた。現段階ではまだ大まかな骨組でしかないが、それが実行に移された瞬間、ヴァラシュの手で血肉を備えるに違いない計画。

 カゼスは時折リトルと相談しながら、ひそひそと不穏な計画を詰めていった。

 やがてかなり具体的なところまで話が決まると、エンリルが腰を上げた。

「今日はここまでにしておこう。あまりにも帰りが遅いと、カワードたちが不安がっておるやもしれぬ。カゼス、そこまでだが魔術で頼む」

「了解。ええと、この頭は結局フィオに頼むことにした、ということでしたね」

 カゼスも立ち上がると、ヴァラシュに軽く会釈して、エンリルと共に転移専用の部屋に『跳躍』した。

 転移陣の描かれた部屋の隅では、エンリルの読み通り、カワードたちがそわそわと行き来していた。と言っても、どうやらその落ち着かない空気は、エンリルの予想にはなかった一人の少女が醸成しているものだったらしい。その少女、すなわちフィオは、彼らが現れるや否や、他の者が何を言うよりも早く猛然と走ってきた。

「カゼス様!」

「あ、フィオ……ちょうど良かった。向こうで髪を整えて貰おうと思ったんですけどね」

 丸刈りにされそうになって、とカゼスは白々しく用意していた言い訳を述べかけたが、少女の大きな瞳がみるみる潤んできたのにぎくりとし、言葉を飲み込む。

「話はカワードさんから聞きましたけど……ああ、まさか本当にこんなに切っちゃったなんて! 何もここまでしなくても、いいじゃないですか。ああもったいない、あんなにきれいだったのに……どうして誰も止めなかったんですかっ!」

 ひどい、と責められ、カゼスは困惑に目をしばたたかせて立ち尽くす。自分で自分の髪を切ったのが、そんなにいけないだろうか? だって自分の髪じゃないか?

「そこまで言われるほど、悲惨な頭になってるんですかねぇ……」

 カゼスはすっぱり切れた髪の先に手をやり、意見を求めてエンリルやカワードたちを見回す。が、誰も視線を合わせようとはしなかった。たぶん、フィオの剣幕を恐れてのことであろうが……。


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