五章 暗夜 (4)
重苦しい夜は永遠に明けぬかと思われたが、それでもやはり、曙光はティリス王宮の白い壁を照らした。
カゼスが珍しく早起きして窓から外を見ると、朝日にきらめく海に白い帆の影が小さく見えていた。クシュナウーズたちだろう。太陽の昇らぬ内に、早々と出帆してしまったらしい。見送り損ねたな、と思いながらカゼスは欠伸をひとつして、目をこすった。
もちろん彼のことだから、送別会になるのが嫌で、こっそり出て行ったのだろうが。
カゼスはフィオが用意しておいてくれた服に着替えながら、ふと、この国でも喪の色は黒なのだな、などと考えた。アーロンが死んで以来、カゼスの服はたいてい黒一色か、どこかに黒の入った取り合わせになっている。
(ゾピュロスさんが奥さんを亡くしたのは、十六年ぐらい前だって聞いたけど……もしかしてあの人は、ずっと服喪の意を示していたのかな)
相手の気性を多少は知るようになった今では、単に不精という可能性も、かなり説得力があったりするのだが。
そんなとりとめのない物思いに耽っていたカゼスは、ふと背後を振り返り、ぎょっとなった。入り口からの目隠しに衝立が置いてあるのだが、その横に黒衣の人物がひっそりと佇んでいたのだ。頭もすっかりベールで覆っているので、一瞬、女かと思ったが、背格好からしてどうやらそうではない。
カゼスは慌てて帯を結び、なんとか格好をつけると相手を見つめた。
「あの……」
おずおずと声をかける。と、相手は黙ってこちらに近づき、ベールを取った。予想が当たり、カゼスは複雑な思いで、それでも少しばかり笑みを浮かべた。頬に青痣を作ったエンリルは、何か言おうと唇を動かしたが、声は出なかった。カゼスは手を伸ばして相手の顔に触れ、泣きすぎて真っ赤に腫れた目や、対照的に青黒い痣を治療する。
「はい、これでもう大丈夫ですよ」
カゼスが言うと同時に、エンリルはぎこちなく両腕を上げ、彼女を強く抱きしめた。いや、抱擁などと言うよりは、カゼスを支えにして、くずおれるのを堪えたと言う方が正しいだろう。
声を出さず、涙もこぼさず。そうしてじっと痛みに耐えている背中を、カゼスは優しく撫でる。そうする内に、胸の奥にぽつんとひとつ、温かい光が灯ったように感じた。
(――大丈夫)
そう言われたのは、いつの事だったか。無意識にカゼスは心の中で、その言葉を繰り返していた。つぶやく度に、光はより温かくなっていく。
「大丈夫」
カゼスの口から、自然に声がこぼれる。エンリルは身じろぎもしなかったが、カゼスはささやき声で続けた。
「大丈夫ですよ。アーロンが言っていました。いずれ離れ離れになっても、思いは共にある。だから大丈夫だ、って……」
「……それはそなたの話だろう?」
ようやくエンリルはそう言い、腕を緩めてカゼスを離した。その表情は痛々しく、だが雨上がりの雲間から光が射すように、もう嵐は去ったことをはっきりと示していた。
「そうですね」
カゼスは苦笑し、くしゃくしゃになったエンリルの前髪を、指で軽く梳いて整える。
「でも、エンリル様だって、一緒だと思いますよ」
「そう思うか?」
エンリルの口元に、苦く痛い微笑が浮かぶ。カゼスは一瞬だけ戸惑い、それから確信をこめて深くうなずいた。エンリルは目を伏せて「そうか」とつぶやき、何か自分に言い聞かせるように、口の中で「そうだな」と繰り返した。
それから目を上げた時、その面にはもう、泣き崩れていた少年の影は微塵も残っていなかった。そこにいるのは、背筋を伸ばし唇を引き結んでしっかりと前を見据える、一人の若い王だった。
「昨夜はすまなかった」
彼は短く謝罪すると、いつもの少しおどけた笑みを閃かせた。
「だが、公式にそなたに頭を下げはせぬぞ。王が悲しみにむせび泣いたというのはともかく、癇癪を起こして臣下に八つ当たりした、などという事実があってはならぬからな」
「おやおや」
カゼスも相手の言いたいことを察し、苦笑する。
「言っときますが、私は演技が下手なんですよ。すっとぼけるのも限度がありますから、それはエンリル様にお任せします。さあ、皆が起き出さない内に部屋へお戻り下さい。見付からないよう、まやかしをかけておきますから」
「助かる。では後刻、会議に出るよう使いを遣ろう」
エンリルはカゼスが術を施すのを待ち、終わったと見るとすぐに踵を返した。部屋から出かけたところで彼は振り返り、カゼスに向かって僅かに苦みと諦観のまじった笑みを見せた。
「お互い、立ち止まってはおれぬ身だ。せいぜい、行ける所まで行こうではないか」
ゆうべのことを思い出し、カゼスは軽く目をみはる。精神波で語りかけたわけでもないのに、なぜ伝わったのだろう。それとも偶然だろうか、と。
カゼスの当惑顔に対し、エンリルは意味ありげに片眉を上げただけで説明はせず、軽く手を上げて外へと姿を消した。
やがて日が完全に昇り、カゼスもフィオの給仕で朝食を終えた頃、伝令が会議の召集を知らせにやって来た。
「あ、本当にもうお呼びがかかりましたね。こうなってみると、もう少し暇を貰っとけば良かったって気がするなぁ」
呑気にカゼスは苦笑し、茶碗に残った紅茶を飲み干した。早朝の来訪者を知らないフィオは、昨日の今日だというのに、と呆れた困惑顔をした。
「大丈夫なんですか、カゼス様……」
心配そうに言いかけた少女の頭にぽんと手を置き、カゼスはにこりとする。
「大丈夫ですよ」
強がりではなかった。その言葉を口にする度に、少しずつ、本当に自分が丈夫になっていく気がして。それはまるで、傍らに彼がいて、支えてくれているような――
「あ、そうだアーザート」
感傷が込み上げそうになり、カゼスは慌ててくるりと振り向いた。護衛の名目である以上、アーザートは今も壁際に控えている。
「会議に護衛はいりませんから、フィオを手伝って部屋の片付け、お願いしますね」
「…………」
アーザートは否とも応とも言わず、ただ低い唸り声を洩らしただけだった。
会議室には既に、主だった面々が集まっていた。
その全員が黒い服を着用しているので、カゼスはえも言われぬ迫力に圧され、カーテンをくぐって二歩目には、くるりと回れ右したくなった。
最奥の席についているエンリルも、黒衣だ。と言っても今朝の変装用の服ではなく、国王に相応しい威厳のある喪服である。
自分の席についたカゼスは、向かいにヴァラシュが座っていることに驚いた。どうやら昨夜遅くか今朝未明に戻ってきたらしく、疲れた顔でしきりに欠伸を噛み殺している。目の下に隈があるところからして、アラナ谷から強行軍で飛ばしてきたのだろう。
ほかにはオローセス、ゾピュロス、シャフラーにウィダルナといった顔触れに加え、政務の重職にある者たちがずらりと並んでいる。エンリルはこの会議で、相当な数の議題を扱うつもりだろう。
カゼスの後からもぱらぱらと何人かが現れ、席が埋まっていく。
「揃ったか」
とエンリルが問うた時には、空席はふたつだけだった。ひとつは、今までアーロンが座っていた椅子。もうひとつは、その隣のカワードの席だった。エンリルはしばしその空席の片方に目を留めたが、主のいない椅子については言及しなかった。
「カワードはどうした。ウィダルナ、様子は?」
「それが……昨夜から、その」
言いにくそうにウィダルナは口ごもり、上司の席を恨めしげに一瞥する。
「飲んだくれた挙句に酔い潰れておるのだろう」
やれやれとエンリルはため息をつき、従士の少年から新しい書類を受け取った。
「まあ良い、叩き起こして連れて来たところで、葡萄の靄がかかった頭では議事の一分も理解し得まい。今は休ませてやろう。いずれたっぷりと働いて貰えば良い」
それから改めてエンリルは一同を見回し、小さくうなずいた。
「では会議を始める。議題は以下の通りだ」
仰々しい前置きや、長ったらしい訓示など一切なく、エンリルは淡々と述べた。
一、過日ファシスに於いてエラード国王軍残党の暴動により殉死した、万騎長アーロン卿の国葬について。
一、同残党に対し武器・糧食を提供したアルハン商人の身元について。またその件に関して我が国がアルハンに対し、取るべき対応。
一、旧エラード国内の各地における情勢、およびアルハン国内の情勢報告。
一、ラームティン・クティル両名の反逆による被害状況、および復興について。
……そのほか、キスラ・カルマナ両地を治める後任者について、軍の人事について、今秋の収穫と冬季の備蓄について、等々の細々した議題が続いた。皆の頭がついていけなくなった頃、エンリルは一呼吸置き、「最後に」と切り出した。
「来春の新年祭後に開始する、アルハン進攻について」
一瞬の沈黙。そしてどよめき。
諫言が飛び出すより早く、エンリルは片手でそれを制した。
「この議題を最後にしたのは、そこまでのすべてを片付けて初めて論ずることのできる問題であるからだ。それが分からぬ者は、ここに席を占める資格を持たぬぞ」
途端にピタリと騒ぎがおさまる。カゼスはただ目をぱちくりさせ、本気かな、と上座のエンリルを見つめていた。毅然としたその顔はしかし、容易には内心を悟らせない仮面のようで、カゼスは不意に二人を隔てる距離が倍加したように感じた。
「まずアーロンの葬儀についてだが……彼は虚飾を好まぬ質実な性質であったことでもあり、また故郷の草原に戻ることが望みでもあった。よって通例とは異なり、葬儀は公にせず、パティラ近郊に埋葬しようと思う。代わりに、王都に霊廟を建設し、追悼の儀を執り行う。アーロン卿をはじめ、今回の反乱により命を落とした忠義の者たちのために」
エンリルは事務的に議事を進めていく。シャフラーや他の文官たちが、予算や葬儀の内容などについて議論を重ね、ヴァラシュがそこに外交戦略上の必要事項を付け足して。
カゼスが何ひとつ発言することのないまま、着々と問題が片付けられていった。
「次にカゼス、アルハンの情勢について報告を」
命じられて我に返り、カゼスは慌てて姿勢を正した。
「アルハンの王都レムノスに潜入し、情勢を調べて来ましたが、彼の地ではヴァルディア王のあまりに苛烈な暴政により……」
人々は密告を恐れ、王に反感を抱きながらも、抵抗勢力はいまだ弱小であること。また、顧問官キースですら謀反の疑いをかけられ、幽閉されていること。自分の目で見てきたことを簡潔に述べて言葉を切ると、リトルが補足を始めた。
〈王宮内にも、ヴァルディア王に不満を抱く者たちが少なくないようです。特に文官の多くは、あまりに軍事偏重の政策に長年圧迫され、相当に憤懣が高まっている様子〉
カゼスはそれをそのまま伝えたが、そうする内、一部の出席者がこちらに微妙な視線を投げかけるのが分かった。そこまでどうやって探り出したのか、またその見解は果たして正しいのだろうか、と訝る目だ。もはや魔術師としての能力に疑問を抱く者はいないが、人間性に関してはまた別、ということだろう。
「ヴァルディア王には息子がいたな」
何を思ってか、ふとエンリルがそう問うた。カゼスは目をぱちくりさせたが、リトルが教えてくれたので、「はい」と答えた。
「フィルーズ王太子ですね。まだ乳飲み子という話ですが」
それが何か、と問うように小首を傾げる。他の面々も、怪訝そうに主君の言葉を待ったが、結局エンリルはその話は続けなかった。軽く手を振り、ともあれ、と口を開く。
「彼の地を制圧したと仮定して、その後に人心を掌握するのは難しくない状況だ、というわけか。ただし軍部の裏切りは期待出来そうにない、と」
「軍の内部にも恐らく離反の意志を持つ者はいるでしょう。ただ、一軍まるごと、というような形ではちょっと……無理ではないかと。一応あれでもヴァルディア王は、軍功には惜しみない褒賞で報いるとの噂ですから」
「わかった。よく調べ上げてくれた、ご苦労だったな」
労いの言葉をかけ、エンリルは手振りでこの議題の終了を示す。カゼスは釈然としなかったが、問いかけられる雰囲気ではなかった。
続いて議題は、立て続けの戦乱で国内の要職に空いた穴を誰で埋めるか、という話になった。アーロンの後任はイスファンドかウィダルナで問題はないとして、厄介なのはキスラとカルマナの領主だった。後者に関しては既にシャーヒーンを就かせる、と決めてあったものの、では任せたと放置するわけにもいかない。監視役が必要だ。
「ましてやキスラは辺境の土地だ。褒賞として与えるには地味も貧相、王都からも遠ざかる。いっそ廃領し、総督に直轄地として管理させる方が良かろう。どうしても欲しいという物好きが勲を立てた折には、考えぬでもないが」
エンリルが苦笑し、幾人かが意味深長な視線を交わした。そのような物好きといえば、キスラの土地に深い愛着を抱く者、つまりこの内乱で王に背いた者以外にはないだろう。自らの地位を回復し、故郷の主となりたければ、それに見合う働きをして見せよ……と、そういう意味の発言に取れる。
その場にいる者たちは皆、王の意図を察し、異議なしとしてそれを認めたのだった。
クシュナウーズの後任については、エンリルの答えは明瞭なものだった。
「解任の辞令を出した覚えはないし、辞表を受理した覚えもない。いずれ使者を遣って連れ戻すが、当面はセファイドに指揮を任せ、クシュナウーズは休職扱いとする」
自分の顔に印章を叩きつけて出て行った男に対し、彼は何の意趣も抱かぬ様子で、そう言った。既にクシュナウーズの席についていたスクードラ人セファイドは、黙って小さく頭を下げ、受諾の意を示した。恐らく会議が始まる前から、知らされていたのだろう。
会議は昼休みを挟んで、夕刻まで続いた。
やがて議題が終わりに近付くにつれ、カゼスはエンリルの意図を理解し始めた。ひとつひとつ問題を片付けていくと、来春にはふたたび軍を動かし、アルハンに攻め込むのも可能であるように思えてきたのだ。
最後の議題に入る前に、エンリルは短い休憩を設け、アトッサとカワードを呼んで来させた。黒い長衣に身を包んだアトッサは、いつものように颯爽と現れ、居並ぶ面々に怖じることなく、エンリルのすぐ隣に用意された席に座った。
他方カワードはというと、腫れぼったい顔に充血した目、ぼさぼさ頭に酒臭い息、と惨憺たる有り様である。それでも従士に促されて席につくと、やや獰猛な目付きで机上の地図を睨みつけた。来春と言わず、今すぐにでも出征したい気分なのだろう。
「アルハンを攻めるには、ふたつの道がある」
前置きなしにエンリルは切り出した。カゼスは息を飲み、反射的にアトッサを見やる。他の何人かも同様の反応を見せたが、当のアトッサは毛ほども動じず、平静に地図を眺めていた。桃花のような唇を開き、かすかにおどけた気配を乗せて、言葉を紡ぎ出す。
「なるほど。我が国を通りたいと申されるか」
「ささやかな望みでございますよ、女王陛下」ヴァラシュが優雅に応じる。「陛下の美しい庭園の隅をそそくさと横切らせて頂きたい、ただそれだけでござる。ご命令とあらば、花の一輪とても踏みしだくことのないよう、兵には爪先立ちで進ませても構いませぬ」
そんな命令を出される方としては、たまったものではないだろうが。カゼスは世にも珍妙な行軍風景を想像し、苦笑をもらした。
アトッサも眉を吊り上げ、何やら言いたげにエンリルを振り向く。
「真面目な話なのだぞ、ヴァラシュ」
一応そうたしなめてから、エンリルはごほんと咳払いして自分の表情をごまかした。
「アトッサ殿、乱暴な願いとは承知の上で申し上げる。高地の通行を許可して頂きたい。花一輪踏むなというのは無理だが、糧秣の補給も兵馬の世話も、いっさいそちらに供出して頂くつもりはない。ただ、アルハン側へ抜けるまでの間、河川や湖の水を飲み、野に幕営を張る許しを頂きたいのだ」
彼の態度は真摯ではあったが、決して譲らぬ強さを秘めているのも確かだった。頼み込んでいる内に承諾せねば、いくらでも脅しすかしに使える手があるがゆえの自信。
アトッサはじっと相手の瞳を見返し、不意にくすっと苦笑をこぼした。
「エンリル殿は高地の自然をご存じない」
「とは、つまり?」
「こちらで春を迎える頃、まだ高地では雪が残っておろう。雪解けは始まっていようが、されば道はぬかるみ、流れは氾濫し、不慣れな兵馬がこぞって登って来ようものなら、夏が来ても山ひとつ越えられぬであろうよ」
からかうような口調に対し、カワードがむっとした声を返した。
「ならばおとなしくアラナ谷からヒルカニアの森を越え、レムノスを目指せと? 身を隠しもせず、奴ら自身の庭にみすみす突っ込んで行けば良いと言うのか」
横のウィダルナが無礼を咎めようと眉をひそめたが、アトッサは手を振って「構わぬ」と鷹揚に受け流し、エンリルに向かって話を続けた。
「もっとはっきり要求されるが良い。冬が来て高地への道が閉ざされぬ内にエデッサへ兵を送り、冬の間は駐屯して高地の者を徴兵・訓練し、春の雪解け水とともにアルハン側へ一気に下りたい、と」
「高地の民を徴兵するつもりはない」
きっぱりとエンリルは否定した。
「既にアトッサ殿はティリス王都の民を守るために尽力され、また尊い犠牲も払われた。この上まだ、高地の血を流させるほど恥知らずではない」
「それは……たまたまこの都に居合わせたがゆえの結果じゃ。私とて身を守って貰おうと厚かましくも押しかけた身、お互い様ということで、変な遠慮はなしにして貰いたい」
いささかばつが悪そうにアトッサは言い、「それに」と人差し指で鼻の頭を掻いた。
「実はこの図々しい小娘にも、下心というものはあるのでな」
「……何か?」
エンリルが意外そうに目を瞬かせる。アトッサは視線をそらし、とぼけて見せた。
「知っての通り、我が国は財政的に困窮……とまではゆかずとも、少々不自由しておるし、人手も慢性的に不足しておる。それゆえ、エデッサからティリス側へ降りる道は、かなり傷んでおって、商人ならともかく、兵馬の通行には耐えられぬのだ」
そこまで聞いて、エンリルがふきだした。対照的にゾピュロスが渋面になる。
「精鋭をもって鳴るティリス騎兵隊に、土木工事をさせよと仰せか」
面白くなさそうに隻眼の騎兵団長がぼやくと、エンリルはどうにか気の毒そうな顔と声音を繕って、それを宥めた。
「そう申すな。どのみち山を越えるのに、騎兵の大軍では身動きが取れぬ。歩兵・工兵を中心に編成するよりほかあるまいが。岩山に道を拓き敷設しながら進むことに比べれば、楽なものであろう。それに、土木工事に見せかけておれば、アルハンの目もしばらくは欺けよう」
もちろん、ゾピュロスがそれを理解しておらぬと思っての発言ではない。分かっていてなおやはり気に食わぬのだ、とは承知の上だ。むっつりと黙り込んだゾピュロスに、エンリルは少し意地の悪い言葉をかけた。
「第一、騎兵団長が冬籠もりするわけにはゆかぬ以上、登山隊を指揮するのは他の者になろう?」
ちらりと視線を投げられ、カワードはやっと、自分が叩き起こされた理由を悟った。目を丸くし、ぽかんと絶句する。
彼が抗議の声を上げるより早く、エンリルは真顔に戻って牽制した。
「そなたは高地に行った経験もあるし、土地に縛られてもおらぬ。そなたの兵たちは忍耐強く頑強だ。ほかに適任などおらぬことは理解できよう」
「……は。仰せとあらば」
カワードはぶすっとしたものの、そう答えるしかなかった。アトッサがふふっと笑い、愉快げに声を弾ませる。
「かたじけない。では我らの方からも、ウルミア湖畔に兵営を用意させるとしよう。旧帝国時代の別荘跡がいくつかあるのでな、手を入れればなんとかなるだろう。いくらなんでも冬の高地で野営などすれば、春まで氷漬けになるだけであることだし。カワード卿には気の毒だが、エデッサでは美女のもてなしは致しかねる。ただ、少なくとも蜂蜜酒や林檎酒は切らさぬよう手配しよう」
「ご厚情いたみいる」
ますますぶすくれたカワードの姿に、一同が笑いさざめく。エンリルも少し笑い、
「なに、滞在してみればそう長くも感じられまいよ」
慰めなのかなんなのか、そんなことを言った。
もうひとつの道――アラナ谷からヒルカニアの森を抜ける方については、ヴァラシュに一任された。アラナ谷に残っている兵力の内、一部はラガエに戻らせるが、新たに兵を募り、訓練して春に備えるように、と。
「勅命、謹んで承ります」
ヴァラシュは恭しく一礼したが、その表情には、どこか悪戯っぽい気配が浮かんでいる。その理由をカゼスが知るのは、いましばらく後のことであった。




