五章 暗夜 (3)
ティリス王旗を掲げた艦隊が、帰ってきた。
その知らせを受けたエンリルは、ここ数日でやつれた顔にいささかの精彩を取り戻し、長い階段を港へ向かって駆け降りていった。
従者の少年が少し間を置いて、あたふたと追いかける。カワードとウィダルナも様子を見にやってきて、桟橋にいるエンリルの斜め後ろに並んだ。が、いつものように気安くエンリルに話しかけることはできなかった。
戦が終わったあの日の夜、何があったのかを知る者はいない。だが誰の目にも、この戦でエンリルが変わったことは明らかだった。少年らしい溌剌とした陽気さが薄れ、代わってそれまで見られなかった厳しさがその面を彩るようになった。
それでも、ゆっくり近付く船影を見つめる彼の顔は、少し明るくなったようだった。
帰還については、前もってヴァラシュからの書簡が届いていた。アラナ谷では陸海ともにアルハン軍を敗退せしめ、またファシスではエラード国王軍の残党を掃討し、おおよそ情勢も落ち着いたので兵を帰らせる、と。
誰が戻るかは書かれていなかった。だがアーロンは帰って来るだろう、そう思ってエンリルは自ら迎えに出たのだ。約束を果たすために。
秋になるとティリスでも雨がぱらつく日が多くなるが、今日はからりと晴れ、船の甲板で動き回る水夫の姿まで、くっきりとよく見えた。檣頭に翻るティリス王旗の鷲も、その下で影のようにはためく――黒い弔旗も。
口々に喜びの言葉を交わしていた者たちも、それに気付くと、一人、また一人とおしゃべりをやめ、戸惑った顔で船団の入港を見守る。戦闘で死者が出るのは毎度のことだが、それが一般兵や下士官程度なら、旗艦に弔旗が揚がることはない。エンリルは不安に眉を寄せ、背筋を這い上がってくる薄ら寒い予感を退けようと身震いした。
胸がキリキリと締め付けられる感覚。やがて係留作業が終わり、舷側の一部が開いて渡し階段が桟橋に降りた。そこから最初に姿を現したのは、エンリルが待っていた人物ではなかった。
凝然と立ち尽くすエンリルの前にクシュナウーズが降り立ち、一礼する。続いてカゼスが現れ、黙礼した。
「……誰が」
エンリルの声はかすれ、途中で喉にひっかかって消えた。小さく咳払いし、もう一度、知りたくもない答えを要求する。
「誰が、死んだ?」
うつむいたまま、クシュナウーズが短く死者の名を告げた。
さあっ、と血の気の引く音が聞こえそうなほどだった。エンリルの顔は、死んだのはこちらかと見紛うほどに土気色となり、その瞳はただの虚ろな闇の穴と化した。そして息をすることすら忘れたように、その場に凍りつく。
見守っていた者たちが、王がこのままばったり倒れてこときれはしないか、と心配になった頃、ようやくエンリルは震える吐息をかすかにもらした。
「詳しい報告は……上で聞こう。よく、戻ってきてくれた」
何の感情もこもらぬ声で儀礼的にそう言い、エンリルは背を向ける。その動きがあまりにぎこちないので、何人かが反射的に支えようと半歩踏み出したが、結局、誰も彼に手を触れることはできなかった。目に見えない、冷たい拒絶の壁が立ちはだかっていた。
どこかで小さくすすり泣きの声が上がった。アーロンを慕う兵士であったか、あるいはエンリルの受けた衝撃を慮った従者であったか。それが呼び水となって、瞬く間に嘆きの渦が桟橋を飲み込んだ。
覆いをかけた柩が船から下ろされ、水夫たちの肩に担がれて階段を上がって行く。
知らせは翼が生えたように王宮を駆け抜け、柩が本宮の謁見殿に運び込まれた時には、オローセスはじめ主だった面々が皆、青い顔で待っていた。
柩が祭壇に安置され、蓋が外されると、短いうめきや息を飲む音が漏れた。
「遺体の損傷を防ぐために、魔術で極低温に保っています。どのように埋葬されるのか、私は知りませんし……いずれにせよ、このままの姿でお引き合わせしたいと」
質問が出る前に、カゼスが説明した。時折声を震わせ、言葉に詰まりながら。それに続いてクシュナウーズが、淡々と簡潔に、死亡時の状況について報告する。ファシスでの戦闘、直接の死因を作った男のこと。
その間エンリルは柩の傍らに立ち、その縁を手が白くなるほど強く掴んで、唇を引き結んだままアーロンを見下ろしていた。
件の男は処刑し、ファシスにはイスファンドの部隊を駐留させてあることまで話し終えると、クシュナウーズは口を閉じた。慰めや悔やみの言葉は述べなかった。そもそもエンリルが話を聞いているのかどうかも、よく分からなかった。
「アーロン」
血の気の失せたエンリルの唇から、ようやくその名前がこぼれた。青褐色の目から涙がひとすじ、頬を伝う。彼は遺体に屈み込むようにして、ささやいた。
「約束通り、余が自ら迎えに出たというのに……なぜ、答えてくれない」
柩の縁に額を押し付け、見守る者たちに背を向けて。大理石の床に、ぱたぱたと涙の滴が模様を描いていく。
「目を開けてくれ」
かすれた声は、胸が引き裂かれる音のように聞こえた。カゼスは少しためらったが、ゆっくりエンリルの背に歩み寄ると、軽く肩に手を置いた。そして、記憶に焼き付いたアーロンの最期の思いを、相手の意識に送り込む。
アーロンとて、エンリルとの約束を守りたかった。最期の瞬間に、エンリルのことを思わなかったわけではないのだ。そのことを伝えたくて。
だが、エンリルはびくりとわななき、予想外の表情で振り返った。カゼスは己の行動が誤っていたかと後悔し、半歩後ずさる。
エンリルの顔には、悲しみに加えて怒りと苦痛が渦巻き、さらに言うなら憎しみすら感じられた。カゼスは面食らい、その理由などまったく考えられずに立ち尽くす。
「……出て行け」
何の前触れもなく投げ付けられた言葉に、カゼスはたじろいだ。周囲の者は驚き、口々に諫めようとしたり、どうしたのかと問うたりする。だが、エンリルはそのどれにも応じなかった。様々な感情に自分自身翻弄されているのか、両手を拳に握り締め、砕けそうなほど奥歯を噛みしめてカゼスに向かい合う。その目はしかし、真っ向からカゼスを睨みつけることが出来ず、苦しげに逸らされていた。
「エンリル様……」
言いかけたカゼスを遮り、もう一度エンリルは「出て行け」と、今度は叫ぶように言い放った。それはほとんど懇願に近い声だった。
(ああ、そうか)
不意にカゼスは察し、目を伏せた。
最期の時、そばにいられなかった事は痛恨の極みに違いない。なのにカゼスは最期の瞬間に立ち会い、しかもそれを助けられなかった。
魔術師のくせに。そしてまた――あれだけ守られ、大切にされていたくせに。最期の思いを持ち帰るぐらいなら、なぜ生きて帰らせてはくれなかったのか。
そう非難し、なじりたい衝動と、彼は戦っているのだろう。そうしてはならない事を、また根本的な原因は自分にある事を、嫌になるほど理解しているから。
ラガエに残るよう指示を出したのも自分、そもそもエラードとの戦争を決めたのも自分。カゼスを責められる立場ではない。それでも。それでも、せめてその場に自分がいたら。
……そうした思いゆえの憎悪なのだろう。
「わかりました」
カゼスは感情を抑えたで答え、頭を下げた。怒りや落胆は感じなかった。ただ、共に悲しむことすらも彼にとっては苦痛であろうことが、苦い無力感となって舌に残った。
まわりの者たちが何か言いかけたが、カゼスは目顔でそれを制し、大丈夫というように微笑んで見せる。改めてもう一度エンリルに一礼すると、彼女は無言で部屋を辞した。
十歩も行かぬ内に、クシュナウーズが追いかけてきた。
「おい、お嬢ちゃん。まさかあんなガキの戯言を真に受けて、ここから出てくつもりじゃねえだろうな」
「戯言なんて、そんなものじゃ……」カゼスは首を振った。「何にせよ、しばらく距離を置いた方がいいと思います。とは言っても、すぐに出て行けるわけでもありませんけど。二、三日は、なるべく顔を合わせないように気をつけながら、外に住まいを探すことになるでしょうね」
そんなカゼスの言葉に、クシュナウーズは苛立たしげに何度も口を開きかけては止め、結局お手上げの仕草をした。カゼスは思わず、おどけた微苦笑をこぼす。
「随分お優しいんですね」
からかうように言ったカゼスに、クシュナウーズは苦虫を噛み潰した。そして、小さく口の中で「この馬鹿」と唸る。相手の言いたいことは分かるので、カゼスはついと目を逸らして、他人事のように平静を装った。
「あの人はたった今、知ったばかりですから」
自分はもう、取り乱し、泣き、まわりの人間を無視して落ち込んだ。自分よりはるかに付き合いの長いエンリルに、冷静さを要求する方が無体というものだ。
それ以上の話はしたくなくて、カゼスはクシュナウーズに背を向け、自室へと歩きだした。透明化したリトルが後からついてくる。アルハンからラガエまで、自力で飛んで戻ってきてすぐに、このリトルヘッドは事態を理解した。そしてカゼスの目にも触れぬよう透明化し、また話しかけもせず、ただ見守るだけに徹していた。
カゼスの方でも、激しい落ち込みから立ち直るとすぐに、漠然とリトルの存在を感知していたが、話しかける気にはなれずにいた。たとえ精神波で話すだけでも、いや、精神波だからこそ、言葉を交わせばまた感情が高ぶって、泣き出してしまいそうで。
もう泣くのは嫌だった。時折どうしようもなく涙が溢れることがあったが、そんな時はひっぱたいてでも理性の目を覚まさせた。
(泣き喚いて死人が生き返るのなら、血を吐くまで号泣したっていい。だけど現実はそうじゃないんだから、泣けば周囲の人まで暗い気分にさせるし、自分も疲れるだけだ)
今もそう考えて、カゼスは涙を振り払った。
部屋には既にフィオが入っており、なんとか以前の状態に近付けようという努力を続けていた。さすがにあらましは片付いていたが、ちょっとした小物や飾りでカゼスの好みに統一されていた時に比べると、殺風景も極まりない。
「着いて早々、お疲れさま」
カゼスが声をかけると、アーザートに手伝わせて長持の場所を変えていたフィオが、ぱっと振り返った。そして、あれ、と訝るような顔になる。毎日カゼスのそばにいるため、随分と心情を読み取る術に長けたようだ。
「何かあったんですか?」
「ちょっとね。せっかく苦労してくれたのに悪いんですけど、数日中にここを引き払うことになりそうなんですよ」
「えっ? ど、どうして」
カゼスは不安を抱かせまいとあえて軽い口調で言ったのだが、フィオにはまったく効果がなかった。見る見る少女の顔に翳がさす。アーザートの方は相変わらずの仏頂面で、何も言わずに壁にもたれかかった。
カゼスは困ったなという風情で頬を掻き、肩を竦めた。
「エンリル様がね……今は、私の顔を見るのも、お辛いようだから」
「そんな!」
案の定フィオは憤慨し、辛いのは皆同じではないか、第一、だからってなぜカゼスを遠ざけるのか、そんなのはおかしい、とまくし立てた。すぐにも直訴に行きかねない様子を見せた少女を、カゼスは慌てて宥めにかかった。
「まあまあ、落ち着いて。何もこの国から出て行けと言われたわけじゃないんですし、しばらくの間だけですよ。確かに辛いのは皆同じでしょう。でも、だからって皆が同じように悲しむわけじゃないんです」
泣く者もいれば、泣かぬ者もいる。黙って他の事をする者もいれば、故人の思い出を美化してしゃべりまくる者もいる。ファシスでの兵たちも、様々に違いを見せていた。
「でも、だからってどうして、カゼス様が」
「うーん……まあ多分、エンリル様にも色々日頃から感じていた事があるんでしょう」
カゼスは曖昧に言葉を濁した。そこへアーザートがぼそりと追い討ちをかける。
「どうせ気付かずに相手をげっそりさせたんだろうさ」
途端に彼はフィオにすねを蹴られ、顔をしかめた。カゼスの方は、思い当たる節がないでもないので、彼とは別の感情から渋面になる。
ラガエの庭園で彼が見せた一面。縋りたいように見えたその肩を抱くことも出来ず、結局彼を一人で立ち去らせたあの時、何かに失敗したような気がした。ひょっとしたらエンリルの密かな期待を裏切り、失望されていたのかもしれない。だから今回、とうとう堪忍袋の緒が切れて、カゼス個人に対する攻撃となったのかも。
そんなことを考え出すと、己の行動はどれもこれも選択を誤っていたように思われて、カゼスは頭を抱えてしまった。
(もしかして、本当はとっくに愛想を尽かされてて、あの『出て行け』は『二度と顔を見せるな』って最後通牒なんだったりとか……うああああどうしよう。予言云々以前に厄介払いされてしまうかも、なんて最初に言ったような気がするけど、本当にそうなったんだったりしたらどうするよラウシール様失格だよいやそもそも最初からそんな資格なんてないんだけどそれにしたって)
一気に思考が不吉な方向へ突っ走り、カゼスはその場にしゃがみ込む。と、
「もう早速と荷造りか、ラウシール殿」
苦笑まじりの声が、物思いを破った。腰を伸ばしつつ振り返ると、アトッサとシーリーン、それにイスハークまでが入ってきたところだった。
「そう急かれんでも良いでしょう」イスハークが言い、室内を見回す。「見たところ、引越に手間取るほどの様子でもござらんし……せめて一日ほど、エンリル様にも猶予を差し上げては下さらんか」
「そうですわ、一夜明ければ、少しは落ち着かれると思います。カゼス様もお辛いでしょうけれど、どうか陛下を恨まないで……」
シーリーンも訴えかけ、涙声になって語尾を飲み込んだ。その背をアトッサが優しく撫でる。カゼスは三人の様子に苦笑し、うなずいた。
「ご心配なく、仮の宿も決めずに今すぐ飛び出すつもりはありませんよ。それに、エンリル様のことも……恨むなんて、とんでもないです。私こそ、何も出来なくて」
「ラウシール殿は人が良すぎる」
フンと鼻を鳴らしたのはアトッサだった。
「明日とは言わぬ、日暮れまで様子を見ておられよ。それまでに態度を改めぬようなら、私が平手の一発でも見舞ってやろうほどにな。王たる者がなんたるざまじゃ」
「手厳しくていらっしゃる」
カゼスは苦笑したが、すぐにはっとその理由に気が付き、表情を改めた。
「アトッサ様、カイロン殿は……」
「うむ。今頃は異世で、アーロン卿と茶でも飲んでおろうな。ティリスまで供をして参ったハムゼという近衛兵も、この王宮で私の護衛を務めてくれたダスターンも……よほど現世がつまらなんだらしい」
ほとんど蔑むかのような口調で言い、アトッサは腕組みをした。本心を隠そうとして、無意識に出た仕草だろう。カゼスは肩を落とし、沈痛な顔をする。
「そうでしたか……ダスターンまで」
「戦での生き死にはその者の運命だ、致し方あるまい。それにカイロンの仇はそなたが討ってくれたのだしな」
「えっ、仇?」
不審げに聞き返したカゼスに、アトッサは、知らなんだか、というような顔をした。
「カイロンを手にかけたのは、女の『赤眼の魔術師』だった。エラードの顧問官だったと聞いたぞ。なんでも王都の半分と一緒に吹き飛んだとか。いいざまじゃ」
勝ち誇るでも嘲笑うでもなく、アトッサはただ面白くなさそうに言い放った。カゼスは何とも答えられずにうつむく。
「ともあれ」とアトッサは口調を軽く変えた。「そなたに出て行かれては困る者が、王宮には大勢おるようだし、住まいを探すふりをして時間稼ぎをしておれば良い。じきにエンリル王も、考えを変えねばならぬと気付くであろう」
「そんなにすぐに、冷静になれるものでしょうか」
不安げにカゼスは応じる。エンリルの人間性を疑うというよりは、無理を強いることになりはすまいかと、その方が心配で。だが、黙ってやりとりを聞いていたアーザートは、どこまでも現実的だった。
「そう願いたいね。あんたが馘首にされたんじゃ、俺も共倒れだからな」
もちろん直後にフィオの拳を腹に一発頂戴し、うずくまるはめになったのだが……。
アトッサが設けた制限時間――日没は、残酷なほど早々とやってきた。
謁見殿から追い出されたカゼスは召使やフィオから様子を聞いていたが、エンリルはあの後、他の者たちをも退出させ、ずっと一人で柩に付き添っているのだという。断続的にむせび泣く声が聞こえるが、その合間は恐ろしいほどの沈黙で埋められている、と。
だんだん陽射しが茜色に染まってくると、カゼスは心配でそわそわし始めた。まさかとは思うが、アトッサは本気でエンリルに平手の一発を見舞うつもりだろうか。
しばらくうろうろしていたものの、とうとう我慢できなくなって、カゼスはそっと部屋から抜け出した。本宮の方に近付くにつれ、空気が重くなってくるようだ。
自分自身の悲しみにうち沈む者、エンリルにどう接したら良いか分からず困り果てている者。そんな人影が、中庭をめぐる柱廊に、本宮の大階段に、ナツメヤシの木陰に、ひっそりと佇んでいる。
カゼスが本宮に入ると、小さく歌声が聞こえた。歌う、というよりは口ずさんでいる程度の声だが、それが哀歌であるのは歌詞が聞き取れなくても分かる。そちらを振り返ったカゼスは、柱の基壇に座っているクシュナウーズの姿を見出した。
うつむいて、手の中で何かを転がしながら、静かに旋律を紡いでいる。こんな時は、皆が知っている粗野な彼とは別人のように見えた。
遠慮がちにカゼスが近付くと、彼は歌いやめ、ひょいといつものおどけた仕草で立ち上がった。
「よう。そろそろ来るかと思ってたところだ」
「待ってたんですか?」
「ま、一応な」
言いながら、彼は手にした小さな物をほいと投げ上げては受け止める。カゼスは嫌な予感がして眉をひそめたが、クシュナウーズはそれには構わず、先に立って歩きだす。その行く先は明らかだが、何の目的があるのかが分からない。多分、訊いても今は答えてくれないだろう。
謁見殿の正面入り口付近には、まだ何人もの人影がたむろしていた。入るに入れず、去るに去れずといった風情だ。クシュナウーズはそんな彼らを無視して、一言の断りもなく、カーテンを跳ね上げた。
「お待ちください、クシュナウーズ殿」
慌てて近衛兵が止めようとしたが、遅かった。カゼスが中を覗き見ると、ちょうどエンリルが泣き疲れた顔を上げて、こちらを振り向いたところだった。
刹那。クシュナウーズが腕を振り上げ、先刻からもてあそんでいた物を、力いっぱいエンリルめがけて投げ付けた。
「―――!」
エンリルは咄嗟に顔を背けたが、頬にそれが当たり、血が滲んだ。カツン、と乾いた音を立てて床に転がったのは、大理石に彫られた海軍元帥の印章だった。
外にいた者たちが、息を飲み、青ざめる。
エンリルはその仕打ちにも何らの感情を喚起されることなく、虚ろな顔でクシュナウーズを見上げていた。
「俺ァ出て行くからな」
クシュナウーズの言葉は、どす黒い怒りを凝縮した槍のようだった。ようやくエンリルは小さく眉を動かし、「何?」と問い返す。
「出てくっつったんだよ。こちとら元々、てめえに忠義立てする理由なんざねえ。王のくせに、戦で人が死ぬのを忘れてたとは言わせねえぞ。それがてめえの大事なばあやちゃんだからって、何か特別だとでも思ってんのか、ええ!?」
さすがにエンリルの顔がこわばった。が、クシュナウーズは容赦せず、相手の胸倉をつかんで引っ張り寄せ、獣のように歯を剥き出して唸る。
「最期に立ち会った奴が憎いか? 目の前であいつを死なせたボンクラを、八つ裂きにしてえか? 上等だ、受けて立ってやろうじゃねえか。俺もあの場にいたんだからな」
最後の言葉は、歯の間でささやくような、しかし刃物のように鋭い声だった。エンリルは青褐色の目をわずかに見開き、それから何か言いたげに口元を歪めたが、結局は黙ったまま目を逸らした。
クシュナウーズは舌打ちし、乱暴にエンリルの体を投げ出して、くるりと背を向ける。そのまま彼は「あばよ」と素っ気ない別れの言葉を投げ捨て、靴音も荒々しく謁見殿を後にした。
カーテンの陰で聞き耳を立てていた人々が、火の粉を恐れるようにさっと脇へ避ける。動かなかったのはカゼス一人だった。
「まさか、本当に出て行くんですか?」
昼に自分が受けたのと同じ問いを発し、カゼスはなんとか思い止どまってくれるよう、目で訴える。クシュナウーズは冷たい顔のまま、背後のエンリルに対する聞こえよがしな声を張り上げた。
「俺はな、てめえが苦しいから他人に配慮なんざ出来なくて当然だ、とか、闇雲な言動で他人を傷つけても許される、とか考えてる甘ったれが、死ぬほど嫌いなんだよ」
吐き捨てるように言った後、彼はカゼスに目を向けて苦笑し、肩を竦めた。
「まぁどっちにしろ、もう印章も返しちまったんだ。島からついてきた連中と一緒に、そろそろ帰らせて貰わぁ。最初っから、宮仕えする気はなかったんだしな」
そう言って、困り顔のカゼスの鼻をふざけてつまむ。
「何もお嬢ちゃんと縁を切るってんじゃねえんだ、そんな不景気な顔すんなって。どうせなら嫌われ者同士、仲良く帆を上げて自由気ままな生活といかねえか? 悪いようにゃしねえぜ」
おどけた言い草に、カゼスも仕方なく彼の手を払って苦笑した。
「お誘いありがとうございます。でも私はまだ、ここを離れ難いものですから」
「そうかい、そりゃ残念」
クシュナウーズは食い下がらず、あっさりそう応じてひらひら手を振ると、いつもの飄然とした足取りでその場を去った。司令官の重荷を下ろしたせいか、その後ろ姿は翼でも生えたかのように身軽く見える。
(私は……『ラウシール』ですから。去るわけには、いかないんです)
心の中でそう言い足し、カゼスは謁見殿を見やる。カーテンの向こうにいるであろうエンリルに、語りかけるように。
(あなたも、もう投げ出せないんですね。皇帝、大王と後の世に言われる人だから)
王太子であったあの頃、カゼスと出会うことがなければ、あるいは。
そんな可能性も、ないわけではなかったろう。あのまま逃亡し、身分も肩書も過去も祖国も、何もかも投げ捨てて新しい人生を送っていたかも知れない。惨めに落ちぶれたか、あるいは豊かで安楽な人生になったか、それは分からないけれど。
けれど。もう、ここまで来てしまったから。やり直しはきかない。逃げることも。
(失ったり傷ついたり疲れたり……それでも、進むしかないんですよね)
カゼスは黙って、姿の見えない相手に深く頭を下げ、足音を立てないよう踵を返した。
柩のそばにうずくまったエンリルが、声なき声を聞いているとは知らないまま。




