表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帝国復活  作者: 風羽洸海
第三部 アルハン攻防
73/85

五章 暗夜 (2)



「傷を負っているようだが、立てるか」

 下馬したエンリルは、戸惑いながら手を差し出した。相手が誰なのか、なんとなく知っているような気がしたのだ。初めて見るはずなのに、その面差しは誰かを思い出させる。

 細い指が自分の手を握った瞬間、彼は不意に悟った。

「……アトッサ殿?」

 唇がその名をひとりでにつぶやく。アトッサもまじまじとこちらを見上げていたが、格別に驚いた様子はなかった。ただ、確かめるように、

「エンリル王であらせられるか」

 と応じただけで。まるで二人とも、出会う前から互いを知っているような気がした。

 不可思議な空気は、アトッサが立ち上がった途端に霧消した。肩の激痛に顔をしかめ、若い娘らしからぬ唸り声を上げたからだ。エンリルは目をしばたたかせ、それから微かにおどけた苦笑を浮かべた。

「こちらへ。間もなく落ち着いて傷の手当も出来ようから」

 手を引かれ、おとなしくアトッサはそれに従う。エンリルが乗っていた馬は、主の後からゆっくりとついて来た。

 その頃には、海上もマルドニオスの指揮するアレイア艦隊が制圧し、王宮から港へ追い込まれた反乱軍は逃げ場を失って投降していた。本宮でもカワードの部隊が反乱軍を掃討し、オローセスと、彼を守っていたウィダルナたちを助け出すことに成功した。

 一方、女子供たちの立てこもる奥宮へは、ゾピュロス率いる部隊が駆けつけていた。

 奥宮の入り口でも、近衛兵が何人か冷たくなっていた。反乱軍はここまで押し入ってきたのだ。ゾピュロスは室内でまだ刃の触れ合う音が響いているのを聞き付け、近衛兵の死体をまたいで中に飛び込んだ。

 彼の隻眼がとらえたのは、反乱軍兵士らしき男が、シーリーンに手を伸ばしているところだった。

「貴様ッ!」

 刹那、怒りのあまり視界が赤く染まった。ゾピュロスは吠えるなり剣を振り上げ、男の首めがけて振り下ろす。ぎょっと振り返った男が死の一撃を防ぐより早く、シーリーンが手を掴んで彼を引き倒した。剣の切っ先がチッと男の耳をかすめる。

 おのれ、とゾピュロスは尚も突きを繰り出そうとしたが、今度はシーリーン本人が剣の前に飛び出した。

「ゾピュロス様、違います、この方は違います!」

 危ういところで剣を引き、ゾピュロスは肩で息をつきながら養女と男を、それから室内の様子を、ゆっくりと眺めた。

 戦闘は既に終わっていた。

 武器のみで防具をまとわぬ男たちが何人か、女子供たちを背にして立っている。明らかに反乱軍の者と分かる兵が数人、室内に血を撒き散らして倒れていたが、それ以外に死体はなかった。つまり、このみすぼらしいなりの男たちが、無差別の殺戮や暴行から室内の者を守っていたのだ。

「……すまぬ、どうやら心得違いをしたようだ」

 ゾピュロスはぎこちなく頭を下げ、剣の血を拭いて鞘に収めてから、のろのろとシーリーンに向き直った。

「無事か?」

 問うた声が自分のものとは思われなかった。情けないほど不安げで弱々しく、震えてさえいたのだ。

 シーリーンはうなずき、不意にくしゃりと泣き出しそうな顔をして、ゾピュロスの胸に飛び込む。涙を見せたくないのか、広い背中に手を回して抱きついたまま、顔を上げようとしなかった。

 その光景を見ていた男――シャーヒーンは、ふいと視線をそらすと、脱力して座り込んだ。部下たちも銘々手にした武器にすがるようにして腰を下ろし、中にはそのまま大の字になってしまう者もいる。

「裏切り者の汚名は免れませんな」

 シャーヒーンの近くにいた兵が、明後日の方を向いてぼやいた。

「だろうな。理解し得ぬ者には、好きなように言わせておくさ」

 答えたシャーヒーンは虚ろな顔をしている。部下は気の毒そうな視線をちらりと隊長に投げ、やれやれと頭を振った。

「報われませんなぁ」

 小声でつぶやいたのは、自分のことか、それとも隊長のことか。両方だな、と彼は二人分のため息を吐き出したのだった。


 肩に白い包帯を巻いたアトッサは、ゆっくりと遺骸の間を歩いていた。イスハークが心配そうに、その後をついてくる。

 身元を確かめるために、すべての死体が庭に運び出されていた。そして、その中には彼女の知った顔もいくつかまじっていた。市街地で共に屋根の上を走った兵士。城壁の上のアトッサに、新しい矢の詰まったえびらを届けた少年。そして。

「ダスターン……この馬鹿者が」

 つぶやいた声が震え、涙がはたはたとこぼれ落ちた。土色の顔で横たわる少年は、もう何も答えない。

 負傷者だらけの医務室にまで、反乱軍の兵は押し寄せた。傷ついた者を守るため、イスハークは早々に両手を挙げて降参したのだが、

「彼には、戦うことしか考えられなんだのでしょうな」

 ダスターンは熱にふらつく足で立ち上がり、雄々しい叫びを上げて敵に突進したのだ。武器も防具もなく、素手のまま。

 その結果がこれだ。首から胸にかけてぱっくりと開いた、赤黒い口。

「おとなしゅう寝ておれと言うたに……なぜ、なぜ待てなんだ、ダスターン。ようやくそなたが、私を守ったと、存分に吹聴できる時が来たというに。それとも、現し世の名誉よりも、異世で手柄話を肴に酌み交わす酒が、そなたの望みだったのか?」

 傍らに膝をつき、物言わぬ骸にむかって話しかける。そんなことをしても無駄だと頭の片隅で小さな声がささやいていたが、それでも、そうせずにはおれなかった。

 うつむいたままのアトッサを見下ろし、イスハークは深いため息をついた。

「老いぼれが生き残り、若い者が死ぬ。戦とはまこと、嫌なものでござるよ」

「若かろうが年寄りだろうが、知己が死ぬのは嫌だ」

 アトッサは硬い声で応じ、涙を拭って立ち上がる。

「だが耐えねばならぬのだろう。耐えて、必要な事を成す。それが私の務めなのだから」

「……じゃからとて、無理はなさいますな。時には一人の娘として振る舞われても、咎める者はおりませぬよ」

「ありがとう、イスハーク殿。だが、私が咎めるのだ」

 アトッサは厳しい笑みで応じ、最後にもう一度ダスターンを見つめると、きゅっと唇を引き結んで歩きだした。まだもう一人、顔を確かめねばならぬ者がいるのだ。その遺体を遠目に見付け、アトッサは思わず泣き笑いになった。

「そなたときたら、まこと、目立つものよな」

 高地系の金髪でありながら呆れるほどの大男、ハムゼもまた、既に異世の人となっていた。仰向けに寝かされているので傷が分からず、眠っているように見える。だがその背中には無数の矢傷があった。

「……バールは無事だ、案ずるな。しばらく異世に一人で寂しかろうが、そうだな、そっちにはカイロンもおるのだろう? 二人でセルでも指しておるがいい」

 語尾が揺れ、アトッサはぐいと乱暴に袖口で目をこすった。

 同じような光景はそこかしこで見られた。広い庭は死体に埋め尽くされ、むせび泣く者や、ただ黙って立ち尽くす者、様々の姿が悲痛の霧を醸している。だが、皆が皆そうというのでもなかった。

「だからおぬしには十年早いと言うたのだ」

「十年も経てば、今のカワード殿の年を追い越してしまいますよ」

「その時には俺もそれだけ年を取っておるさ」

「何がなんでも、私に頭を飛び越させないつもりですね」

「当たり前だ、俺は年長者だぞ」

「十も差がないというのに、都合のいい時だけ……」

 陽気とはいかないが、他の者に比べると元気のある声が、そんなやりとりをしながら近付いて来た。アトッサが振り返ると、腕を肩から吊ったウィダルナが気付いて、無事な方の手を上げた。

「こちらでしたか。本宮の謁見殿までおいで頂きたいと、エンリル様の仰せです」

「承知した。はて、何用かな」

 アトッサはイスハークに軽く目で挨拶して別れ、小走りに二人の方へ向かった。

「おそらく捕虜とした反乱軍兵士の処遇でしょう。ラームティン卿麾下の将、シャーヒーン殿について、殿下……失礼、陛下からお話を伺いたいと」

「ああ、なるほどな。隼殿がシーリーン殿を守っていたとか」

 アトッサは口の端を歪めて笑った。さもありなん、と言いたげに。それに対し、カワードが肩を竦めて皮肉っぽく答えた。

「さよう、そして涙の再会を目の前で見せつけられたという話だ。女どもがかまびすしく噂しておったよ。気の毒にな、報われない男もいたものだ」

「噂といえば」とウィダルナがアトッサを見る。「アトッサ殿も、随分と勲を立てられたとか。オローセス様が深く感謝していらっしゃるし、他の者も皆、口を揃えて姫様、姫様と、あなたを讃えております。どう御礼申し上げて良いか……」

「大したじゃじゃ馬姫だな」

 呵々、とカワードは大口を開けて笑う。だがアトッサが何も言い返さなかったので、鼻白んでしまった。ウィダルナが気遣わしげな顔をしたので、アトッサは小さく頭を振り、なんでもない風を装った。

「下心があってのことだ。我が国の状況は誰ぞの口から聞いたのであろう? ティリスに恩を売っておいて損はないからな」

「それでも……」

 ウィダルナは何か言いかけたが、カワードがそれを遮り、いきなりアトッサの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。

「何をするか、無礼な!」

「小難しいことはどうでも良いさ。女だてらにここまで戦って、持ち堪えてくれたんだ。今度、酒と肴の美味い店で奢ってやろう。どうせ、戦士並に食うんだろう?」

 屈託のない笑顔を向けられ、アトッサは憤慨して見せたものの長続きせず、やれやれと苦笑いになった。

「まったく、人を何だと思うておるのだ。そなたがいずれ所帯を持った時には、せいぜい娘に嫌われぬよう、言動に気をつけるのじゃな」

「どういう意味だ」

「そのぐらい自分の頭で考えろ。年長者なのだろう」

 にやりとしてアトッサが言い返した時には、もう謁見殿に着いていた。それ以上の軽口は叩けず、三人とも表情を改める。

 衛兵が来意を告げ、三人を中に通す。引き裂かれたままのカーテンをくぐり、アトッサは思わず息を呑んだ。

 かつて彼女が初めてオローセスと対面し、共に座して語った場所に、今は粗末な台が置かれ、その上に二つの首が載せられていた。その手前に、シャーヒーンとその部下たち、それにバームシャードをはじめとする数人の反乱軍士官が、枷と縄で束縛されたまま座していた。

 二つの首に吸い寄せられる目を強いて上げると、壇上の椅子に座したエンリルの姿があった。その面に浮かぶ冷厳な表情に、アトッサは己の目を疑う。あの時自分に手を差し伸べたのは別人であったか、とさえ思われた。

「お疲れのところ御足労頂き、かたじけない」

 エンリルはそう言ったが、その声の方がよほど疲れているように聞こえた。アトッサは畏まって頭を下げ、前に進み出る。

「シャーヒーンについて知りたいとの仰せとか」

 エンリルがうなずいたので、彼女は市街で捕らえた時のこと、また牢獄での顛末を、簡潔に、しかし事実のまま包み隠さず話した。話の内容に反乱軍士官の何人かが、毒のある棘のような視線をシャーヒーンに向ける。当人は頭を垂れたまま、周囲の一切を無視していた。

 アトッサが話し終えると、エンリルはしばらく目を閉じて黙考し、やがて重々しく口を開いた。

「シャーヒーン。そなたの主は既にこの通りだ、もはや誰に憚ることもない。何故この戦に加担したか、そして勝利が目前という状況で裏切りに等しい行動を取ったのか、そなたの本心を述べてみよ」

 問いかけられ、シャーヒーンは顔を上げると、変わり果てた養父の姿を見つめた。長い沈黙に、カワードが苛立って返答を催促しようとした時、やっと彼は答えた。

「私はただ、養父ラームティンの望みをかなえて差し上げたかったに過ぎませぬ。そしてまた、裏切ったとも考えてはおりませぬ。無差別に王宮の者を皆殺しになどすれば、ラームティン、クティル両卿からは大義も名誉も飛び去りましょう。私は父の名誉を守りたかった。それだけでございます」

 平坦で感情のこもらぬ声だったが、シャーヒーンを知る者には、それが真実だと充分に理解出来た。実際にはもう少し余分な感情もそこに働いていたろうが、根底にあった思いはただ報恩の一語だったのだ。

 エンリルはまた少し考え、「それでは」と用心深く切り出した。

「その養父が死した今、そなたは何を望む? 仇討ちか、それとも異世にまで父の供をして参ることか。あるいは、まったく別のものか。事と次第によっては、非力な者たちを守ったその行いに免じ、そなたの望みをかなえてやらぬでもない」

「何も」答えは短かった。「望みなど何もござらん。如何様にも処断なされよ」

 しん、と冷たい沈黙が場を支配した。ややあってエンリルがふっと息をつき、片手で顔をこすった。

「では、ラームティンの跡を襲ってカルマナを治めよ――そう命じても良いと?」

 途端にざわめきが起こった。磔や串刺しにされても文句は言えないところを、まさかそのような言葉が出てこようとは。

 さすがにシャーヒーンも面食らった様子で、目をしばたたかせてエンリルを見上げている。死は覚悟していたが、自分が領主になるなど、夢想だにしなかった。

「むろん」とエンリルは険しい表情のまま続けた。「そなたが余に忠誠を誓い、二度と再び背く事なく、彼の地を守り且つティリスのために尽くすと言うのならば、だがな。先の乱に続き、この度の戦でも多くの者が死んだ。もはやティリスには、無駄にできる人材などない。実績のない在野の者や小貴族を領主に取り立てるならば、そなたを領主の座に就けるのも大差はないということだ」

「しかし……」

「勘違いするな、これは褒賞ではない。ただ、そなたの誓いに信を置けるのであれば、そなた以上の適任者はおらぬという、ただそれだけだ」

 エンリルは多くを語らず、言葉を切った。

 元々カルマナは豊かな土地ではない。そこへもって、立て続けの戦で人馬も穀物も消耗し、人心は荒んでいる。さらにシャーヒーンがラームティンの後釜に座れば、一部の者はあらぬ憶測で彼を憎むだろう。しかもシャーヒーン自身は王都から遠ざけられ、今後の政治に深くかかわることは期待出来ない。

 シャーヒーンにもそれが分からぬ筈はなかった。だが彼は結局、厳粛に頭を垂れた。

「それが陛下の下された処断であるならば、私は持てる限りの力で、御意に沿えるよう努めるのみです」

「では余に忠誠を誓うのだな」

「はい」

 シャーヒーンが短く答えた瞬間、他の士官たちが激しい罵りを浴びせた。シャーヒーンの部下とバームシャードだけは、諦めているのか何も言わなかった。いずれの反応もまるで意識に入らないかのように、シャーヒーンは許しを得てエンリルの前に進み出ると、その足元の床に額を軽く打ち付けた。

「我が剣、我が命は陛下の御手に。誓いより解き放たれるその時まで、死の翼が我が魂を異世へ運ぶとも、我が忠誠を御身に捧げることを誓う」

「そなたの誓いを受け入れよう。立つが良い、シャーヒーン」

 シャーヒーンは戒めを解かれ、相変わらず無表情に立ち上がった。

 他の者に関しては、話はずっと簡単だった。あくまでエンリルを僭王呼ばわりし、天理に背く輩と罵る士官たちは、望み通り二卿と共に城門前で首を晒すこととなった。恭順を示した者でも大半は除隊・謹慎を命じられ、以前と同じ地位にとどまれる者はなかった。

 シャーヒーン以外にもう一人、処断に困ったのがバームシャードだった。呆れたことにこの男は、まったく悪びれずにこう切り出したのだ。

「主の亡き今、我が友シャーヒーンが陛下に忠誠を誓うというなら、私もそうするにやぶさかではありませぬ。しかしながら、軍から放り出されたのでは、私の忠誠など麦の穂一本ほどの価値もあり申さん。降格・左遷は勘弁して頂きたい」

「図々しい逆賊もいたものだ」

 エンリルは手厳しい言葉を投げ付けたが、蛙の面に水だった。

「従来の軍団を指揮させるのが不安であられるなら、朋友シャーヒーンの部下にされても結構。どうお使いになるにせよ陛下の裁量次第でござるが、人材が少ないとお嘆きなら、あまり無駄遣いはなさらぬが賢明かと」

 居並ぶ近衛兵やカワード、ウィダルナたちの間に怒りの気配が広がった。なんという厚かましさか、斬首されても当然のところを、と。

 エンリルはまたしても長く考え込むことになった。それを救ったのは、アトッサの率直な言葉だった。

「バームシャードとやら、そなたは一度は背いた王に、敗れた途端また仕えようと言う。恥も節義もないのか? そなたは王の忠実な近衛兵たちを手に掛けたろう。その血に汚れた手で、今度は誰を斬るというのだ」

 誰もが内心に抱いた感情を、彼女は簡潔に言い表した。バームシャードは振り返ると、おどけて肩を竦める。

「私は常に、仕える主が敵と成す者を斬るのみでござる。剣は使い手の意志に沿うもの。でなければ剣としては役に立ちますまいが」

 そこで彼は皮肉な笑みを浮かべ、エンリルに向き直った。

「確かに恥も節義もござらんが、使い勝手の良い剣であることは保証致しましょう。陛下御自身が手を離されぬ限りは、剣の方から離れることはありませぬよ」

 おどけた声音に隠された鋭い刃が、エンリルの臓腑をえぐった。迂闊にも手を離して己の剣に背かれた国王は、唇を噛んで沈黙するしかなかった。だがもちろん、いつまでも後悔の海に沈んでいられる立場でもない。彼は顔を上げ、「よかろう」とバームシャードを見据えて言った。

「そなたを欠けたる我が剣の列に加えよう。ただし、しばらくの間は謹慎処分とする。またその後の地位は、クティルの下にあった頃と同等のものを約束するが、反逆の罪を贖うべく、一切の財産を没収する」

 その言葉に、初めてバームシャードは平静な顔を崩した。咄嗟に何か抗議しかけて口を開き、慌てて自分の立場を思い出して口をつぐむ。だが、その表情は何とも情けないものになっていた。

 そうこうして反乱軍捕虜の処分を決め、兵たちに休息後なすべきことの指示を出し終えると、ようやくエンリル本人も解放されて、一休みする時間が取れた。

 疲労困憊でふらつきながら、自分の部屋に向かう。今、頭にあるのは、ふかふかのベッドと羽根の詰まった枕、それだけだった。

 供の者は誰もいない。皆、限界まで疲れていたし、そうでない者は兵の世話や荒らされた場所の片付け、遺体の埋葬や負傷者の手当などに駆り出されて、てんてこ舞いだ。

(寝るぞ。津波が来ようと大地が裂けようと空が落ちようと、たっぷり半日寝るまでは起きるものか)

 疲れて不機嫌になり、そんなことを考えながら歩いて行く。もし自分の部屋がめちゃくちゃに荒らされていたりしたら、床に転がってでも寝よう。そう決心して自室に戻ったエンリルは、中に踏み込んで目をしばたたかせた。

 室内は多少まだちらかっていたが、誰かが気を利かせて大雑把に片付け、なにより大事なことにベッドを整えてくれていた。小卓には果物こそないものの、水差しがちゃんと置かれている。だが、エンリルを驚かせたのはそんなことではなかった。

「父上……お休みではなかったのですか」

 ぼんやりした口調で言い、エンリルは相手に近付く。窓際に立っていたオローセスは、微苦笑を浮かべた。

「まだ、余を父と呼んでくれるわけか。ありがたい」

「何を仰せられます。私が父上の子であることは、もはや動かし難い真実ではありませんか。父上ご自身が、そう仰せられたのでしょう?」

 エンリルは不安と動揺を隠して応じ、失礼、と断ってベッドに腰を下ろした。オローセスはその前に立ち、ゆっくりと片膝をついて目線を合わせる。

「だがそれでも、そなたには事実を告げておかねばなるまい」

「止して下さい。父上にひざまずかれる覚えなどありません」

 嫌な予感に顔をしかめ、エンリルは聞きたくないとばかりに首を振った。だがオローセスは厳しい声で続けた。

「聞くのだ。事実をそなたがどう受け止め、利用するかは、そなた次第なのだから」

 そこで彼はいったん言葉を切り、深い呼吸をひとつしてから、口調を改めた。

「陛下を今日までお育てしたは、亡き先帝の御遺志に従うためとは申せ、私めには過ぎた光栄でございました――エラム帝の御子、アシュタ様」

 疲れも眠気も吹き飛ぶほどの衝撃を受け、エンリルは目を見開いた。

「まさか! エラム帝は未婚で亡くなったと……いや、そんなことより、馬鹿げた物言いは止めて下さい。父上にそんな態度を取られるぐらいなら、今すぐ玉座も王冠もお返しして、身ひとつで出奔した方がマシです」

「それは困るな」

 オローセスはおどけた苦笑を浮かべて立ち上がり、息子に並んで腰掛ける。

「せっかく楽隠居を決め込んでいるのに、また玉座に即くなど考えたくもない」

「楽隠居、ですか」

 エンリルは皮肉めかして眉を上げ、やれやれとため息をついた。今のオローセスで楽隠居などと言うのなら、それこそ出奔して雲隠れせぬ限り、真の隠退などかなわぬだろう。

 息子の心情を察して、オローセスも意味ありげににやりとした。が、すぐに真面目な表情に戻ると、往時の記憶を掘り起こすためか、軽く目を閉じた。

「……そなたはエラム帝とその妹君の間に生まれたのだ。それゆえ、宮中でもごく一握りの者しか、そなたの存在を知らなんだ」

 エンリルの口から呻きが漏れた。デニスでは近親婚は認められていない。それどころか、忌むべき事とされている。『呪われた子』とナキサーが言ったのも、当然だったのだ。

「海の民の襲撃で帝都が焼け落ちた時、エラム帝御自ら私の手を取り、赤子を……そなたを頼むと仰せられた。帝王の血筋として育てなくとも構わぬ、ただ一人前の男になるまで守ってやってくれ、と。妹君もお助けすべきであったが、炎に包まれた宮殿でそなたを見付けた時には、既に傍らでこときれていたのだ。そして私は誰にも告げぬままそなたを連れ出し、この辺境ティリスで我が子として育てた。素知らぬ顔をして、死したる子とすり替えて。知っているのは、イスハークとナキサーだけだった」

「造反者どもは、どこまで知っていたのでしょうか」

「恐らくそなたの両親については、何も知らなんだろう。知っておれば背かなんだか、背くにせよ、もっと違った大義名分を掲げたであろうからな」

「…………」

 エンリルは黙っていた。オローセスは、励ますようにその肩を掴む。

「エラム帝の胤であると明かしても、母親が妹君だとは知れまい。先の帝国の後継者を名乗り、その立場を利用するつもりならば、私も一家臣としてそなたに全身全霊でもって仕えよう。敢えて疑惑の雲を残したまま、そなた自身の力で新たな帝国を築くのであれば、この秘密は生涯二度と口にすまい。いずれの道を採るかは、そなた次第だ」

 もちろん、エンリルが即答できるはずもなかった。オローセスは掴んでいた肩をぽんと叩くと、ゆっくり考えろと言うように、部屋を出て行く。

 一人残されたエンリルは、しばらく彫像のように固まっていたが、やがてのろのろと向きを変え、ベッドに俯せに倒れ込んだ。枕を抱えて子供のように泣く王の姿など、誰かに見られるわけにはいかない。虚ろな目を半開きにしたまま、彼はじっと動かなかった。

 黒い眠りの手がそっと瞼を下ろした時、やっと涙が金色の睫毛を濡らしたが、それもわずかに一滴かぎりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ