五章 暗夜 (1)
ティリス王宮が包囲され、城壁の真下に多くの篝火が並んだ夜。
街は略奪と破壊に晒され、王宮に逃げ込んだ市民は残して来た財産の末路を思い、明日の運命を悲観して涙にくれていた。その一方で、明後日にはエンリル様の本隊が駆けつけてくれる、ことによれば明日にも、と楽観論で自らを奮い立たせようとする者もいる。
それぞれの思いを抱いたまま、誰もが不安な夜を過ごし、やがて東の空が白み始めた。
夜明けと共に女たちが兵士のための食事を用意し、それよりはずっと粗末なスープだけが非戦闘員たちにも配られる。アトッサは賄いの女に揺り起こされ、やっと重い瞼を開けた。シーリーンの姿はない。首をめぐらすと、女部屋の他の者に朝食を配っていた。
「アトッサ様はこちらをどうぞ」
王宮の召使が食器の載った盆を差し出し、アトッサは欠伸を堪えてそれを受け取った。
分量はやや少ないが、兵士向けのものに遜色ない献立だ。周囲を見回したが、ほかに彼女と同等の食事をとっている者はいない。
「なるほど」
曖昧な表情で肩を竦めはしたものの、アトッサは悪びれずにスープを一口飲んだ。
「今日もせいぜい働けということだな」
冗談めかして言い、召使が苦笑をこぼしたのを見て、自分もちょっと笑う。あとは無駄口を叩かずに黙々と食事を平らげていると、召使がふと思いついたように言った。
「この戦が終われば、アトッサ様の勲を讃える歌が三つは出来ましょうね。私、アトッサ様には是非、エンリル様のお妃様になって頂きとうございますわ」
げほっ、とアトッサがむせた。
「な、何を馬鹿な……」
「あら失礼、差し出がましいことを申しました。けれども私、お似合いだと思いますわ」
失礼、と言いながらも召使は口をつぐむ気配がない。アトッサがたじろいでいると、他の女たちも耳聡く聞き付けて寄ってきた。
「なになに、姫様がエンリル様とご結婚なさるって?」
「遠縁だなんておっしゃって、本当はお輿入れの話がおありなんじゃございませんの?」
ちょっと待て、とアトッサが口を挟む間もあったものではない。街の老婆がにやにやしながら彼女を小突き、愉快げに言う。
「いいんじゃないかい、あたしゃ賛成だね。エンリル様はちょいと、呑気すぎるところもおありだから、姫様に尻叩かれてるぐらいがちょうどいいかも知れないよ」
どっ、と笑いが起こり、アトッサは真っ赤になった。なんだか、花嫁候補を褒める言葉とは到底思われない。からかっているんだな、と彼女はむくれ、言い返さずにがつがつと朝食をかき込んで、立ち上がった。
確かに高地を出る時、そんなことを考えもした。だがそれは、こんな風に茶化されたり歓迎されたりする類の話ではない。下心があってのことだ。それが、予想もしない方向から自分に舞い戻ってくると、正直困惑してしまう。
(自国の利益だけを考えてそなたらの王に取り入ろうとした、厚かましい小娘なのだぞ)
無邪気にはしゃぐ女たちに向かって、そんな苦い思いを抱く。アトッサは唇を引き結び、つかつかと廊下を歩いて行った。
日が昇り、朝靄が晴れて行く。反乱軍の方でもそろそろ朝食がすみ、兵たちが攻撃の準備を始めるだろう。その前にもう一度、ダスターンやバールを見舞っておきたかった。
医務室のまわりは相変わらずで、怪我人の数は増える一方だった。ウィダルナが医薬品もいくらか船に積んできてくれたものの、瞬く間になくなってしまい、もはや満足な治療もできない有り様。
廊下にも負傷者の血や膿で悪臭が漂っていた。女たちが交替で働き、立ち上がれない兵の体を拭いたり、服や包帯を替えたり、下の世話をしたりしているが、数が多すぎて間に合わない。替えの包帯や衣服も不足している。
ダスターンもまた、膿で汚れた包帯をしたままだった。横たわり、虚ろな目で宙を見つめたままぜいぜいと喘いでいる。熱が出たのだろう、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
アトッサが傍らに膝をつくと、彼は強いて笑みを作ったが、いつものように軽口を叩く元気は残っていなかった。
「すまぬ、そなたに守られておきながら、何もしてやれぬとは」
アトッサは詫びを口にのぼせたが、途中で揺れる声を隠すために言葉を飲み込んだ。不覚にも目頭が熱くなり、ぽとりと大粒の涙が落ちる。ダスターンは無理に手を動かして、アトッサの手に自分のそれを重ねた。
「充分に、名誉を与えていただきました」
ささやいた声は、木枯らしのように嗄れている。アトッサは相手の火照った指をぎゅっと握り締め、唇を噛んだ。瞬きして涙を堪え、小さく首を振る。
「まだとても足りぬ。そなたにはもっと……」
言いかけた時、廊下の向こうからアトッサを呼ぶ声がした。反乱軍が動き始めたのだ。
ためらうアトッサに、ダスターンは一言、
「ご武運を」
そう告げて自ら手を離した。アトッサはうなずき、精一杯の笑顔を作って見せる。それから後はもう、相手の顔も見ずに立ち上がって走りだした。
バールは見付からなかった。王宮の敷地内にいるのは確かなのだろうが、こんな限られた場所ですら、人ひとりを見つけだすのが困難だとは、なんという状況だろう。
アトッサは彼女の無事を祈りつつ、兵に促されるまま城壁へと急いだ。
城門前の大階段の下で、反乱軍が整列し、突撃の合図を待っていた。城壁の上では近衛兵が弓矢を構え、新しい矢や突き棒、焼いた砂などを用意する兵が忙しく行き来している。ウィダルナの連れてきた兵や近衛兵の一部は、槍を構えて城門のすぐ内側に控え、門が破られてもすぐに反撃できるよう陣形を整えていた。
むろん港に通じる階段も封鎖されている。海上で敵を追い返そうにも、充分な兵がいないのだ。ニーサやカッシュから援軍が来てくれるのを待つしかない。
どちらの陣営も静かな緊張に満ちていた。この一戦が勝敗を決めるのだ。
と、城壁前の反乱軍の中から、ラームティンとクティルが進み出た。
「先王陛下に申し上げる!」
大音声で呼ばわられ、オローセスも城壁の上に姿を見せる。二人の領主はそれを見上げてさらに続けた。
「我々は再三、エンリルが王に相応しからぬ理由を説き、陛下の復位を請願して参った。それを敢えて黙殺し、この上まだ、卑しい血の者をしてティリスの支配者たらしめようとなさるのか!?」
「我々は陛下によく仕え、ティリスのために戦って参った。それに対する報いがこれとはあまりな仕打ち。今ひとたびお願い申し上げる、どうか考え直されよ!」
アトッサは胸壁にもたれ、顔を歪めて唸り声を洩らした。ここまでやっておいて、いまさらまだ大義名分を掲げようというのか。自らの正義を主張しようというのか。
下らぬな、と彼女が心中で吐き捨てると同時に、オローセスが応酬した。
「そなたらは先の乱で、顧問官のなすがままに国を乱れさせ、仕えるべき主の窮地にすら気付かなんだ。その咎を受けて然るべきところを、ほかならぬエンリル自身の寛恕によって何ひとつ失わずにすんだのではないか! 恥を知れ!」
「陛下の御子、エンリル様は、既に亡くなられている! それを認められぬと仰せられるならば、我々ももはやこれ以上の言葉は持たぬ。槍と剣で語るのみだ!」
痺れを切らせたのか、とうとうラームティンが叫んだ。アトッサは思わずにやりと口元を歪め、小さくつぶやく。
「そら、本性を現しおったわ」
オローセスも動じる事なくラームティンの言葉を受け止め、毅然として言い返した。
「盗っ人猛々しいとはそなたのことよ。そなたらが何と言おうと、ティリス王エンリルは我が息子だ。たとえ血はつながらずとも、もはやそのことに異議を唱えるなど無意味と知るがよい!」
揺るぎなく力強い声に、ラームティンとクティルの方がたじろぐ。そして彼らは、そんな自分自身の反応を否定しようとするように、荒々しく突撃の叫びを上げた。
わあっと両軍から喊声が上がり、反乱軍が堰を切ったように城壁めがけて押し寄せる。同時に城壁の上からは矢と熱砂・熱湯が降り始めた。アトッサも、矢がもう残り少ないのを気にしながら、狙いを定めて敵を屠ってゆく。
攻守双方ともに、兵たちは傷つき疲れていた。だが、今日明日にも決着がつくとあっては、どちらも譲れぬ戦いである。残る力をかき集め、誰もが必死になっていた。
城壁を挟んで攻防が繰り広げられる間、避難した市民や女、老人や子供たちは、奥宮で身を寄せ合い、武器になりそうなものを手にして入り口を睨んでいた。ここまで攻め込まれた時にはもう、守ってくれる兵はいない。たとえラームティンやクティルが略奪を禁じているとしても、狂乱した兵がそのことを覚えているとは思えなかった。
シーリーンは青ざめたまま、脅える幼子たちを落ち着かせようと宥めていたが、ふとその脳裏を、虜囚たちの姿がよぎった。
(あの人たちは、大丈夫かしら)
敵の攻撃に先立って、オローセスは捕虜の監視を厳重にするよう命じていた。敵味方、双方に対する警戒だ。しかし実際のところ、城門が破られる前に捕虜を皆殺しにしておこうと考える者も、少なくはないだろう。枷はアトッサがこっそり外してやったものの、彼らは丸腰なのだ。
(人の身を案じていられる状況ではないはずなのに、おかしなものね)
知らず、苦笑が口の端にのぼる。むしろこんな状況だからこそ、他人の心配をしている方が落ち着いていられるのかも知れない。
彼らのことに考えを巡らせていると、恐怖におののいていた胸が、少し穏やかになる。
同じティリスの民でありながら――と、あの時シーリーンは口にしたが、思えば起こるべくして起こった戦であったのかもしれない。同じティリスの民だからこそ、扱いの差が、貧富の差が、耐え難かったのだろう。
シーリーンはしがみつく幼子の頭を優しく撫でながら、この子たちが大人になる頃はどうなっているだろうかと、他人事のようにこの国の行く末を考えていた。
当の捕虜たちはというと、まさか黒髪の美女が自分たちの身を案じているとは知らず、外の騒ぎに耳を澄ませながら緊張して時を待っていた。看守に見られた時のため、形ばかりは枷をはめているが、いつでも外して逃げ出せる状態だ。
「まだるっこしいですな。シャーヒーン殿、もう出ちまいませんか」
兵の何人かはその枷ももう外し、立ち上がって苛々と室内を歩き回っている。
「焦るな。あの二人の好意もろとも、己が命まで無駄に捨つることになるぞ」
「しかしこのままでは、いずれ近衛兵が我々を始末しにやって来ますよ。馬鹿正直に、あんな小娘との約束を守られるつもりですか?」
「馬鹿な上官ですまんな」
素っ気なくシャーヒーンはいなし、床に座したまま動こうとしない。部下のため息を聞きながら、彼は考えていた。
脱走するのは良い。刻限を厳密に守らずとも、戦時のことだ、構うまい。だが。
(逃げて、どこへ行く? そして何をするつもりだ)
看守から武器を奪うにしても、全員の武装を整えるのは不可能。とくれば、近衛兵相手に戦って自軍の援護、などと言ってはおれまい。身を守るのがせいぜいだ。
それに、戦局もさながら、昨夜の二人が気にかかった。いや、正確には、その一方だけが特に、というわけなのだが。
いずれにせよ、逃げる隙が出来ぬことには、身動きは取れない――などと考えた、まさにその時だった。
「何だ貴様ッ! おのれ、敵……」
看守の怒声が響き、その半ばで途切れた。シャーヒーンはじめ全員が弾かれたように立ち上がり、扉に駆け寄る。騒々しい物音が聞こえたのも束の間、すぐにチャリチャリと金属の触れ合う音がそれに取って代わり、靴音と共に近付いてきた。
「シャーヒーン! おるのだろう、返事をしろ!」
「バームシャードか!?」
耳慣れた声に、シャーヒーンは思わず外へ飛び出した。危うく黒髪の青年に体当たりしそうになり、たたらを踏む。
近衛兵の制服を着込んだ青年は、鳶色の目を丸くしてシャーヒーンを見つめた。
「な……、おいシャーヒーン、おぬし、どうして」
しどろもどろに言葉を紡ぎ、それから友人の肩越しにその部下たちの姿を認めると、彼は手にしていた鍵束を床に叩きつけた。怒りに顔を歪め、返答次第では叩っ斬るとばかり、剣の柄に手をかける。
「貴様、臆したのか裏切ったのか、どちらだ!」
「どちらでもない。実際的な理由で留まっていたに過ぎぬ」
「何が実際的だ、このど阿呆! 誰のために俺がこんな苦労を……」
バームシャードはシャーヒーンの襟首をつかみ、乱暴に揺さぶる。シャーヒーンの部下たちも、その気持ちは分からなくもないので、あえて仲裁はしなかった。
激するバームシャードとは対照的に、シャーヒーンは微かに皮肉っぽい笑みを浮かべて友人の手を引き剥がした。
「どのみち俺が捕らわれておらぬでも、おぬしはこうして潜入し、捕虜を解放して騒ぎを起こしている隙に城門を確保しに行っただろう。それでも礼を言いはするがな」
「可愛げのない」
バームシャードは苦々しげに舌打ちしたが、それ以上は言い募らず手を離した。そして、きびきびと実際的な行動に移る。
「そうとも、その通りだ。と言っても人数分の武具があるわけではないからな。城門に回る者だけは近衛兵の制服をかっぱらうとして、残りはそのまま暴れて貰わにゃならん」
彼は貴族の生まれではあるものの、郷里は田舎で、しかもかなり放任された六男坊である。それゆえ時折、言葉の端々にいささか柄の悪さが滲み出る。そんな辺りも、シャーヒーンと親しくなる一因だった。
「そら、とりあえず剣か槍ぐらいは持っておけ」
忙しく口を動かしながら、ここに来るまでに失敬した武器を捕虜たちに配っていく。シャーヒーンは手頃な剣を選ぶと、鞘から抜いて刃を確かめた。
「外の様子はどうだ? よもや皆殺しの命令など出てはおらぬだろうな」
「出ていようがいまいが、混戦になった時の兵がやることはただひとつ、殺すだけだ。違うか? そんなことより自分の背中に気をつけろよ」
バームシャードの返事は冷たいが実際的だった。シャーヒーンは血の曇りがついた刃を眺め、そうだな、と小さくつぶやく。
「よし、全員行き渡ったな? シャーヒーン、二人ほど城門側に回してくれ。一人は俺と共に行く。もう一人は、俺が仕損じた時の用心だ」
看守から剥ぎ取ったらしき制服を持ち上げて見せ、こともなげにバームシャードは言った。シャーヒーンも敢えて楽観的なことは言わず、部下から二人、目立たぬ風貌の者を指名した。
シャーヒーンとバームシャードは視線を交わし、それだけですべてを諒解したように、無言で小さくうなずいて走りだした。
城壁の上にいたアトッサは、何か妙な胸騒ぎをおぼえて、ふと視線を左右に走らせた。太陽は既に高く、しかしどこでもまだ激しい戦闘が続いている。今日ばかりは反乱軍も、兵を退いて一時休息、などとは考えてくれない。特に正門とその近くにある通用門の辺りに、攻撃が集中していた。
(……おかしい)
ピリピリするような警告は、それとは正反対、北側の端から感じられた。牢獄や倉庫が並ぶ辺りに。
アトッサは自分の感覚に戸惑いながらも、攻撃の合間に移動を始めた。北の端にあるのは、城門と言うのも憚られるような、小さな出入り口がひとつだけだ。誰もあえて口にはしないが、不浄の門だというのは暗黙の了解になっている。罪人、王や貴族以外の死者、また卑しいとされる職業の者たちが通る門。
軍勢が通るには狭すぎる。だが、蟻の穴から堤も破れるのだ。しかもこの門には巻き上げ機がなく、大人ひとりの手で開けられる。
アトッサがちょうど不浄の門の上まで来た時、眼下で騒ぎが起こっているのが見て取れた。牢獄の方で、小競り合いが生じたようだ。
「脱獄だ! 捕虜が逃げたぞ!」
近衛兵が二人、応援を求めて門をかためる兵たちに駆け寄ってくる。アトッサは眉を寄せ、牢獄の方と真下の門とを交互に睨むと、はしたなくも舌打ちした。
(隼殿も痺れを切らしたか)
あるいは、もう城門が破られたと早合点して出て来たのか。
(……いや待て、あるいは)
ハッともうひとつの可能性に思い当たった時には、既に大半の兵が捕虜の鎮圧に向かい、門はがら空きになっていた。捕虜たちは逃げるつもりか、あるいは奥宮の市民や貴族の女を人質にするつもりか、どんどん城壁から遠ざかっていく。
アトッサは口の中で唸り、一番近い塔に駆け込んで階段を駆け降りた。が、一歩遅く、外に出たと同時に、門が荒々しく開け放たれた。
何人か近場にいた近衛兵が異変に気付き、駆けつける。アトッサは彼らに先んじて門に走った。再び閉じられるものなら閉じようと、さもなくばせめて応援が来るまで敵を押し止どめようとして。
門扉をいっぱいに開いて、外の反乱軍に合図を送っている青年を見付け、アトッサは怒りの声を上げた。
「おのれ賊めが!」
若い娘の声に驚いたように、青年――バームシャードは振り返り、次いで侮った笑みを浮かべた。
「おっと、こりゃまた可愛い子猫ちゃんがいたもんだ。怪我しない内に、お家に帰んな」
「ぬかせ下郎が、去ね!」
相手の言い草にカッとなり、アトッサの瞳に紫の火花が散った。一瞬でバームシャードは宙を飛び、門から町へ降りる斜面を転がり落ちていく。
アトッサは無礼者にそれ以上の注意を払わず、急いで門扉を閉じにかかった。その頃には何人かの近衛兵も駆けつけてくれたが、バームシャードがつっかい棒にした閂を外そうと屈んだ途端、頭をかすめて矢が唸った。
それでも彼らは悪態をつきながら、門扉と格闘した。ここを破られれば終わりだ。だが、門扉を動かそうとしている間に反乱軍が迫り、いまや矢ではなく槍でさえ届きかねない距離となっていた。
「急げ、門を閉めろ!」
アトッサは怒鳴りながら、攻め寄せる敵を一時なりとも押し戻すべく、己の内に残る力をかき集めた。だが、聖紫色の光が弾けるよりも早く、一本の矢が右肩に食らいついた。
痛みによろめき、視界がふっと暗くなる。
アトッサは後ずさり、倒れかけたのをなんとか踏ん張ってこらえた。その隙にもう、敵は門に達していた。近衛兵が必死でそれを防ごうと戦っていたが、数が少なすぎる。一人、また一人と倒れ、あるいは逃げ出し、遂にわっと反乱軍がなだれ込んだ。
そこにはもう、秩序も何もなかった。アトッサは肩に刺さった矢を、邪魔だとばかり途中で折り、左手で短剣を振り回しながら後退を続ける。先に逃げた兵が急を知らせたのだろう、中庭の方からウィダルナが手勢の半数ほどを率いて現れた時には、ホッとして膝から力が抜けそうになった。
しかし、それで終わりではなかった。
突然大音響が城壁を揺るがし、誰もが一瞬、動きを止めて音の源を振り返った。
正門の前に、とうとう破城槌が現れたのだ。上からの攻撃が激しく、巨大で鈍重な槌をして大階段を上らせるのは不可能であったが、城壁の一部が破られた今、それは遂に門前に達した。そして、死神が病人の家を訪うが如く、不吉な音を響かせて扉を叩き始めたのである。
城壁の上から火矢が放たれたが、気休めにもならなかった。もはや誰の目にも勝敗は明らかで、内外から敵に挟まれて孤立することを恐れた城壁の守り手たちは、浮足立って撤退を始める。オローセスも前庭の部隊を指揮しながら、じりじりと建物に逃げ込む態勢を整えていた。
ウィダルナの部隊は不浄の門を囲み、反乱軍を押し戻そうと悪戦苦闘していたが、敵の勢いには抗しきれなかった。不完全な囲みを突破した反乱軍が、怒った蜂の群のように、王宮へと攻め込んでいく。
「アトッサ殿、ここは我々が! あなたは早く奥宮へ!」
ウィダルナは既に折れた槍を捨て、剣で戦っていた。アトッサは何か言い返そうとしたが、利き腕をやられてはこれ以上戦えない。「武運を」と短く別れを告げ、身を翻した。
一歩ごとに傷が痛み、刺さったままの鏃が肉をえぐって潜り込んでくるようだった。力任せに引き抜きたい衝動に駆られたが、そうしてはならないことぐらいは知っている。
剣と槍、楯のぶつかる音、苦痛と絶望のうめき、吠えるような雄叫び。あまりの騒音で空気が重みを増したようにすら感じられた。アトッサは出来るだけ敵に見付からぬよう、植え込みの陰を走った。
彼女が倉庫の間を駆け抜けた時、正門がメリメリと地鳴りのような響きを立て、その向こうから巨大な丸太の先端が突き出した。火矢で一部は焦げ、くすぶっている。が、そのまま槌は扉を引き裂き、噛み砕いて押し入ってくる。
遂に門扉が完全に崩れると、土煙もおさまらぬ内に、わあっと反乱軍がなだれ込んだ。
アトッサは躊躇し、行く手に見える奥宮と、正門前に続く左手の道とを見比べた。だがそれも束の間のこと。彼女は歯を食いしばり、左へと走りだした。
(いつまでもつか……試してみるのも、悪くはあるまい)
どのみち奥宮まで攻め込まれたら、おしまいだ。アトッサは身の内にうねる荒々しい波を意識し、いつでもそれを解放出来るよう、さらに勢いを強めながら走った。
小部隊が行く手から突撃してくる。
「まずはひとつ!」
歯の間でささやくように言い、アトッサは彼らめがけて力を放った。翼を広げた鳥のように紫の光が翔り、十数人の小隊を吹き飛ばす。肩の傷とこめかみに鈍い痛みが走った。奥歯を噛みしめてそれを黙殺し、さらに走る。
正門前の前庭は既に混戦となっていた。弓と違ってアトッサの力は、一人一人を狙い撃ちにすることは出来ない。そこで彼女は思い切って、津波のような力を、正門にくらいついたままの破城槌とその周辺に向けて解き放った。
空中に現れた光の波が、槌もろとも反乱軍を外へと押し流す。近衛兵たちが歓声を上げ、他方、反乱軍は度を失い、一度は恐慌のあまり退却し始めさえした。オローセスもアトッサに加勢し、紫光の乱舞が輝きを増す。
しかしそれも長くは続かなかった。後方の部隊に押し出される形で、二度、三度と繰り返し反乱軍は押し寄せ、それを弾き返す光は瞬く間に弱まっていった。
その間にウィダルナが前庭に戻り、その場にいた兵で隊列を組み直して態勢を立て直す。が、皇族の力を操る二人が共に限界に達すると、反乱軍は途端に勢いを盛り返して激しい攻撃を再開した。
そこかしこで楯の壁が破られ、隊列は乱れ、殺戮が始まる。反乱軍は既に勝ったも同然で、狂乱して殺し、奪い、破壊した。ウィダルナはオローセスを庇いながら、本宮の方へとひたすら退却していく。
アトッサもよろよろと足を引きずり、名も知らぬ兵に助けられて敗走した。今や中庭の池には死体が浮かび、花壇には血の花が咲いていた。
ようやく本宮の大階段にたどり着いた途端、彼女を支えていた兵がぐらりとよろめき、声ひとつ立てぬままに倒れた。アトッサももろともに倒れかけ、辛うじて両手をつく。どさりと横に崩れた兵の背に、槍が深々と刺さっていた。
敵の姿を確かめようと振り向くことも出来ぬ内に、括った髪をぐいと掴まれ、仰向けに引き倒された。
「貴族の娘か」
「こんな小娘があの力を?」
二人、いや、三人だろうか。反乱軍の兵が視界に覆いかぶさるように立っている。目が霞んでよく見えない。アトッサは顔をしかめ、なんとか残る力をかき集めようとした。だが、喉元を踏まれて息が詰まり、僅かな力も露が砕けるように散ってしまう。
「捕虜にすればちょっとした手柄だな」
「弱っている今の内に、片付けちまうべきだと思うがね」
兵たちは好き勝手に言い合っていたが、じきに一人がアトッサの足の方に屈み込んだ。その手が服の上から腿の方へと這い、アトッサはぞくりとして身を震わせた。自分を待ち受ける運命を悟ったのだ。
「離せ、下衆ども……ッ」
絞り出した声はしかしあまりにか細く、力無かった。髭面に下卑た笑いを浮かべ、兵たちが我先にアトッサの服をむしり取ろうとする。
――と、その時だった。
戦の喧噪を引き裂いて、特徴のある角笛の音が鳴り響いた。城壁の外から、さらには眼下に広がる海からも。
澄んだその音に、反乱軍の兵はぎょっとなって弾かれたように立ち上がる。地面に倒れたアトッサの背中に、嵐のような馬蹄の響きが伝わってきた。
角笛の響きが消えると、途端にまたわっと騒がしくなった。だが今度の喧噪は、前のそれとは違う。反乱軍の合図と怒声が飛び交い、角笛の響きを耳にした兵たちは一箇所に集まろうと走りだした。
アトッサを捕らえた三人の兵は、どうすべきかとためらって視線を交わす。一呼吸ほどの後、彼らはアトッサの腕を掴んで乱暴に立たせると、引きずるようにして走りだした。人質に使えると踏んだのだろう。
もはやアトッサには抗う力も残っていなかった。遠のきかける意識をつなぎ止めるのが精一杯で、自分の視界に映るものが何なのかを理解することさえ、できなかった。
三人の兵が立ち竦む。その向こうから、騎馬の一団が土煙を巻き上げて迫り来るのが見えた。抜き身の剣が陽光を反射してきらめく。戦おうとしてか、それとも咄嗟に身を守ろうとしたのか、三人がてんでに腕を上げ――そのまま、天を仰いでのけぞり、どうっと倒れた。血飛沫が舞い、天気雨を降らせる。
呆然とその場に膝をついたアトッサの両側を、騎兵が駆け抜ける。そのまま彼らは大階段を駆け上がり、本宮へと吸い込まれて行く。まるで魔法のように。
「逃がすな、港へ追い込め!」
ひときわ若々しい声が、凛と響き渡った。後続の騎兵は淀みのない流れの如く、王宮内の各所へと散開していく。
蹄の音にまじってザリッと地面を踏む靴音が聞こえ、やっとアトッサは顔を上げた。
そして――そこに、一人の少年を見出したのだった。その姿が眩く見えたのは、太陽を背にしているためだけとは思われず、アトッサは目を細める。その目尻から、つと涙がこぼれ落ちた。




