表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帝国復活  作者: 風羽洸海
第三部 アルハン攻防
71/85

四章 虎口(4)



 ファシス総督府に踏み込んだ兵士たちは、ほとんど何も見付けることができなかった。建物の外周に位置した部屋はすべて、もぬけの空だったのだ。

 部屋の扉はどれも閉ざされていた。ティリスでも重要な建物の出入り口には扉がつけられているが、それでも日中は開け放しでカーテンのみにしているのが普通だ。エラードでその習慣はないのか、それともティリス軍の襲来で慌てて戸締まりをしたのか。それにしては、室内に人影がないのはどうしたことだろう。

「あとはこの部屋だけです」

 会議に使われる大広間の前に、他の部屋を調べた兵たちが集まってくる。アーロンは部屋の出入り口すべてと、廊下の各方面に彼らを配し、自身は正面扉の方へ向かった。一番危険な場所ではあるが、だからこそ指揮官が出向かねばならない。

「楯を前に。身を晒して突入するな」

 扉を破る準備をしていた兵たちに忠告し、アーロンも自分の楯をざっと眺めて点検した。傷は多いが、すべて補修済みだ。

 よし、と彼が合図を出すと、先頭の兵士がまず扉を蹴った。が、びくともしない。両脇から手斧を持った兵が進み出て、ガツッ、ガツッ、と蝶番の近くを壊しにかかった。木片が飛び散り、裂け目が広がって行く。

 ついにメリメリと音を立てて扉が倒れると、ティリス兵は無言のまま楯をかざして突入した。同時に室内からわあっと雄叫びが上がり、いっせいに矢が飛んで来た。倒れた扉に引きちぎられたカーテンが揺れ、前列の兵が掲げた楯が見る間にハリネズミになる。何人かは運悪く腕や足に矢を受け、敷居をまたぎもせず倒れた。

 部屋の奥に並んで近距離用の弓を構えていたエラード兵は、ティリス兵がさほどの損害も受けずなだれ込んで来たのを見るや、素早く弓を捨てて剣を抜いた。そして、自ら鬨の声を上げてティリス兵に襲いかかる。

「マデュエス様の仇!」

「破壊者どもに死を!」

 血走った目をして口々に叫ぶ姿は、まるで狂人の集団のよう。とは言え、その数はわずかに十数人。百人近い精鋭のティリス兵が相手では、正面からぶつかって勝ち目などあるはずもない。

 アーロンの指揮でティリス兵は隊伍を維持したまま、玉砕覚悟で突っ込んでくるエラード兵を片付けて行く。だが、

(おかしい)

 ピリッと刺すような警告を感じたアーロンが、後方の列に転回を命じると同時に、部屋の外に新たなエラード兵がわあっと現れた。

「馬鹿な、奴らいったいどこから!?」

 ちょうど彼らに向き直ったばかりの最後列の兵が叫ぶ。いや、いまや彼は最前列でもあった。廊下に配置されていた兵が不意を突かれて瞬く間に列を崩し、蝗の大群に襲われた麦穂のように、エラード兵の靴に踏みにじられていく。

 室内にいたエラード兵は、はじめから全滅覚悟で待ち受けていたのだ。ティリス兵を誘い込んで袋のネズミとするために、自ら罠の餌となることを承知して。

 その彼らは今、熱狂に笑いを上げさえし、異様に勢いづいて攻撃を仕掛けてくる。

 対するティリス兵は、さすがにたじろいではいたが、精鋭だけあって恐慌に陥ることもなく、アーロンの命令に即応して隊列を変化させていた。

 室内のエラード兵を掃討する班は瞬く間にその仕事を終え、新しい最前列になった兵の前には既に死体が垣を作っている。他の出入り口に配置されていた班は、敵の侵入を防ぐのに精一杯で、こちらの援護に駆けつけられる状況にはない。

 アーロンは正面からの敵を斬り伏せつつ、室内の状況に目を走らせてそれぞれの班に命令を出していた。正面突破組だった一部を他の出入り口に回し、退路を開くよう命じる。彼の太刀筋には迷いも曇りもなく、常人離れした戦闘能力を存分に発揮して、前の敵を倒しながら後ろの味方に指示を出しさえしていた。

 新手のエラード兵の靴が濡れていることに気付き、彼は舌打ちした。

(下水道か)

 街の地下を縦横に走る下水道は、当然この総督府にも通じている。補修や清掃の必要から、大人でも屈めば充分に通れる広さがあるのだ。彼らはこちらが民家を一軒一軒検めている間そこに隠れ、地下から総督府を包囲していったのだろう。

 ということは恐らく、

(外も囲まれているか……)

 建物の外に残した兵は、今頃地下から湧いてきたエラード兵に殺されているだろう。急を知らせようと総督府の中に飛び込んだ兵もいただろうが、彼が目にしたのは外と同じく敵であふれかえる廊下。

(クシュナウーズが気付くかどうか、だな)

 敵の全兵力がどれほどかは不明だが、屋内にこれだけの兵がいるということは、屋外にはあまり回せなかったはずだ。クシュナウーズが手勢を率いて駆けつける分には、さほどの障害にはなるまい。住民が総出で通りを封鎖しでもすれば別だが。

 アーロンはごく短い間にそんな考えを巡らせ、ほんの一瞬だけ、手の甲に意識を向けた。今は見えない、魔術のしるしがつけられた手。

 だが彼はすぐにその考えを追い払った。自分自身が魔術を使えるのであれば、あるいはエンリルのような力を発揮することができるのならば、今ここで敵を吹き飛ばすこともできよう。だがカゼスを呼びなどすれば、この状況だ、現れた途端に背中から槍で刺されておしまいになりかねない。

「退路が開けました、こちらへ!」

 別の出入り口で奮戦していた班から声が届く。アーロンはよしとうなずき、隙を作らぬよう退却を始めさせた。とにかく総督府から出て、港のティリス軍と合流しなければ。


 時を同じくして、総督府の外ではまさにティリス兵と国王軍残党との戦闘が繰り広げられていた。ティリス兵はエラード兵の包囲網に楔のように食い込んで、総督府へと突き進んで行く。その鋭い先端にクシュナウーズの剣が閃いていた。

「くそ、どこに隠れてやがったんだこいつら! あの馬鹿、見落としやがったな」

 毒づきながらクシュナウーズは、次々と敵を屠っていく。率いているのは水兵ばかりだが、白兵戦ができないわけではないし、敵も今は装備が貧弱で、組織だった攻撃もして来ない。充分にこちらが優勢だ。

 にもかかわらず、急がなければ、早く、と何かがささやき、焦燥が募っていた。

(嫌な予感がするんだ、畜生め、こんな時はたいてい当たっちまう――)

 また一人エラード兵を倒したと同時に、手薄になった囲みにぽっかりと空白地帯が生じた。クシュナウーズは血のついた剣を掲げ、「突っ込め!」と叫びを上げた。

 総督府に向かってティリス兵が突進する。阻もうとするエラード兵もまだ残ってはいたが、もう問題にならない数だ。

 じきに彼らは玄関に達し、エラード兵がひしめく内部へと踏み込んだ。

 廊下には、会議室の面々を守ろうと戦って果てたティリス兵の骸と、その奮戦に敗れたエラード兵のそれとが、重なり合っていた。

 奥の方から聞こえる雄叫びや剣戟の響きに、クシュナウーズは戦場の位置を察した。

「こっちだ、続け!」

 手勢に怒鳴り、彼は死体を踏み越えて走りだした。


 会議室を攻めるエラード兵の後方がクシュナウーズの手勢と接触し、新たな戦闘の火花が散った。その音や気配は、会議室からどうにか撤退しかけていたアーロンたちのもとにも届いた。

「助けが来たか」

 誰もがほっとし、絶望の淵から這い上がって、再び活気を取り戻す。剣を握る手にも力が戻り、今度はこちらの番だとばかり反撃に出た。

 しんがりで剣を振るっていたアーロンも、味方の大半が会議室を出て廊下を移動していることを確かめ、これなら追撃を退けて港まで戻れるだろう、と確信した。

 その時だった。

 右後背――すなわち彼の視界のない方から斬りかかる敵の気配がして、彼は研ぎ澄まされた勘が命じるままに振り向き、楯をかざしながら剣を構えた。

 楯に弾かれた敵の剣が、鈍い音を立てる。そのままアーロンが剣を突き出せば、敵は一撃で死に至る……はず、だった。が。

「―――!」

 刹那、アーロンは息を飲み、動作を止めた。敵は、街でアーロンが放免したあの男だった。妻子を守るために使え、と言って返したあの剣で、斬りかかってきたのだ。

 時間が引き延ばされる感覚。男とアーロンの目が合い、男は複雑な表情をして、視線をそらした。その横顔に、子供を抱き寄せてティリス兵を睨んでいた女の姿が、泣きじゃくる子供の顔が、重なって見えて。

 そのわずか一瞬の驚愕と躊躇が、すべてを決めた。

 横から突き出されたエラード兵の槍が、アーロンの脇腹から胸までを貫いた。アーロンの体が大きくのけぞり、がら空きになった正面に別の槍が容赦なく突き刺さる。

「アーロン!」

 いくつもの絶叫が響いた。指揮官を殺されたティリス兵の、駆けつけたと同時に取り返しのつかない現場を目にしたクシュナウーズの、そして……空を切ってその場に現れ、くずおれるアーロンの体を抱きとめた、カゼスの。

 身を切り裂くような激しい突風が、周囲のエラード兵を薙ぎ倒した。その強烈な力はティリス兵をも竦ませずにはおかなかった。

「アーロン! そんな、そんなまさか」

 嘘だ、と涙声でつぶやきながら、カゼスは無我夢中で傷口に『力』を集めた。だが、最初の槍は心臓をえぐっている。手遅れだ。そう悟った瞬間、すうっと奈落に落ちるように足が萎え、アーロンを抱いたままその場に座り込んでしまった。

 カゼスは消えて行く命を引き留めようとするかのように、血で汚れるのもかまわずアーロンの体をかき抱いたが、所詮それはかなわぬことだった。残り火のような想いだけが、微かに伝わってきただけ。

(すまない)

 最後に視界に映ったカゼスに、約束を交わしたエンリルに。カゼスの知らないアーロンの家族に、仲間たちに対する、悔いと謝罪。そして。

(……帰り……た……)

 もはや言葉にもならない望郷の想いとともに、ほんの一瞬、ティリスの抜けるような青空と風の渡る草原とが、波紋のように広がって。

 ――それが、最期だった。

「や……う、そ……うそ、う……」

 見開かれた青い双眸から、とめどなく涙があふれた。震える唇は言葉を紡ぐこともできず、カゼスはただ小さく何度も首を振る。だが、どんなに否定の仕草を繰り返しても、二度とアーロンの目が開くことはない。

 ふっつりと命の火が消え、暗闇だけが残される。

 それが、カゼスには瞭然と感じられた。嘘だ、夢だ、まだ生きている――そう考えて自分をごまかすことすら、もはや出来ない。

 冷たく重い沈黙が、雪のように降り積もる。

 吹き飛ばされなかった残りのエラード兵は、既に外へ逃走したか、さもなくばクシュナウーズの手勢に片付けられていた。ティリス兵の多くはアーロンの死に呆然とし、幾人もがむせび泣いている。

 クシュナウーズは静かな声で、部下に生き残りのエラード兵を捕らえ、味方の手当をするよう指示を出すと、ゆっくりカゼスに近付いた。だが、数歩進んだだけで立ち止まり、どうすることも出来ずに立ち尽くす。

 カゼスは、声を出さずに泣いていた。震える指でそっと頬に触れ、まだ温かいその額に口づけする。伝い落ちた涙がアーロンの睫毛を濡らした。

(帰ろう)

 声には出さず、カゼスはアーロンにささやいた。

 帰ろう、ティリスへ。あの緑の草原へ――。

 顔を上げ、彼女は軽く目を閉じた。そして、力を優しく動かしていく。

「あ……」

 クシュナウーズが洩らした声が、静寂の呪縛を解いた。アーロンの体が見る間に白い霜に覆われて行くのを見て、兵たちがざわめく。

「おいカゼス、何を……」

 意図をはかりかね、クシュナウーズはためらいながらもカゼスの肩に手をかけた。と、カゼスはクシュナウーズを見上げ、虚ろな表情でつぶやくように答えた。

「遺体を……どうするのか、知りませんけれど……ティリスに運ばなければと思って」

 そこで彼女はまたアーロンに目を下ろし、眠っているだけのようなその表情を見つめた。穏やかだが、その唇が笑みを浮かべることはなく、その目が自分を見ることもないのだ。その事実が胸を刺し、また新たな涙がこぼれる。

「エンリル様も……会いたいかと……」

 それだけ言うと、カゼスは嗚咽を堪えようと片手で口を押さえた。

「そうだな」

 クシュナウーズは短く答え、カゼスの肩に手を置いたまま、じっと傍らに立っていた。


 ファシスの広場には処刑された国王軍残党の死体がずらりと晒され、街は陰鬱な空気に閉ざされていった。アーロンの遺体は柩に納められ、ひとまず清掃した総督府の広間に安置された。イシルがラガエとアラナ谷に訃報を運んだので、ファシスを押さえる友軍が到着してから、海路ティリスへ運ぶことに決まったのだ。

 ティリス王都へ向かっている筈のエンリルには、知らせは届けないことになった。向こうの戦況がわからないし、エンリルに与える衝撃が大きすぎる、とヴァラシュがイシルを通じて進言をよこしたのだ。早馬での知らせも必要ない、いずれにせよイシルの力添えで海路を行くのであれば、大差ない日数で到着するのだから、と。

 そういった連絡やあれこれの処理は、クシュナウーズが行っていた。カゼスは指揮官の立場になかったし、仮にその立場であったとしても、アーロンの死の直後に務めを果たせたかどうかは、きわめて怪しかった。

 最初の晩は、食事もとらず柩の前で過ごした。涙を流しもしたが、むしろ泣くことすらせず、呆然と虚ろな顔をしている時間の方が長かった。

 これは現実なのだろうか。

 抜け殻となったアーロンを見ていると、デニスに来てからの何もかもが昔の夢の反芻に過ぎず、今ここでこうしている自分も、本当は誰かの夢の産物であるように思われた。五感すべてが分厚い樹脂に覆われたかのように、何もかも実感がなくて。

 それなのに、時折どうしようもなく深い悲しみが胸をつき、涙があふれた。

 次第に疲れてきたカゼスは、ぼんやりしたまま、柩を安置した台にもたれ、うつらうつらし始めた。意味をなさない不快な夢ばかりの浅い眠りが断続的に訪れ、気が付くと夜明けの薄明かりが窓から差し込み、白々とアーロンの顔を照らしていた。

 ――夢ではなかった。目覚めても、すべてが嘘になってはくれない。アーロンの声を聞き、姿を見て、ああ夢で良かったと安堵することはできないのだ。

(……顔、洗わなくちゃ。それで、朝ごはん食べて、それから……)

 カゼスは義務感だけを支えによろよろと立ち上がり、部屋を出て行った。

 その日からカゼスは、一応食事や睡眠はとるものの、ほとんどしゃべらなくなった。どうしても必要な時だけ最低限の単語を口にするが、可能な限り会話を避けようとして、彼女は一日の大半を柩の前で祈るか、別室に引きこもって過ごした。

 クシュナウーズはそんなカゼスに強いて話しかけはしなかったが、時々カゼスの横に座り、同じように手を組んでじっと祈っていた。部屋にこもっているカゼスに食事を運んできて、頭や肩に軽くぽんと手を置くこともあったが、慰めの言葉はかけなかった。実際、何を言われてもカゼスにとっては、苦痛でしかなかったろう。

 ラガエからイスファンドが元アーロンの部隊とフィオを連れて到着したのは、アーロンの死後三日目のことだった。

「カゼス様!」

 部屋にこもっているカゼスを見付け、フィオは駆け寄って抱きついた。そしてそのまま、激しくしゃくりあげて泣き始める。

「あんまりです、こんなの、あんまりです……ッ!」

 誰に対する非難なのかわからないまま、彼女はそう繰り返した。フィオを抱きとめたカゼスは、しばらく震える背を機械的に撫でてやっていたが、徐々にその表情が崩れ……初めて、声を上げて泣きだした。

 あんまりだ。

 その一言が、カゼスの胸中にあった堰を壊したのだ。

(あんまり酷いじゃないですか)

 口からはただ嗚咽を洩らしながら、心の中でアーロンに訴えかける。

(『すまない』なんて、そんなの、ないでしょう? 謝られてしまったんじゃ……)

 許すしかないではないか。自分だって、助ける事が出来なくて、それどころかアーロンから受けたものに何ひとつ報いていなくて、謝りたいのに、けれどもう謝れないのに。

 悔しくて、悲しくて、あまりに無念で。

 言葉にならない思いが渦巻き、胸につかえ、心臓を止めてしまいそうだった。

 しばらく二人は一緒に泣いた。どちらかが相手を慰めると言うこともなく、ただ、共に悲しんで。

 ようやく少し落ち着くと、カゼスは何かを払うように、小さく首を振った。それからゆっくり、フィオに言葉をかける。

「熱いお茶を、淹れてくれますか?」

 フィオも顔を上げ、涙を拭いてうなずく。泣き出さないようぎゅっと唇を引き結んだ少女に、カゼスはほんの少しだけ、無理に笑みを浮かべて見せた。

(負けるもんか)

 漠然とした対象に向かって心中でそう言い、カゼスは息を深く吸った。

(ごはんも食べるし、しっかり眠るし、そう、笑いだってする。負けるもんか)

 前に歩いて行かなくては。やらねばならぬことはいくらでもあるし、時間は悲しみにつまずく者を待っていてくれはしないのだ。

 そうしてカゼスが心につぎはぎだらけの鎧をまとい、どうにか茶を飲むぐらいの余裕を取り戻した、その日の夕刻のこと。

 急に総督府の前が騒がしくなり、カゼスは鈍い動作ではあったが、自分から様子を見に外へ向かった。国王軍残党の処刑に憤慨した住民が武装蜂起でもしたのかと思ったが、行ってみると前庭に集まっている人々はそう多くはなく、ティリス兵ばかりだった。馬に引かれ、一人の男が罵声と投石で追い立てられている。

「何事ですか?」

 さすがにこれは穏やかでない。カゼスは階段を駆け降り、クシュナウーズを捕まえた。振り返ったクシュナウーズは、驚きと懸念のまじる顔を見せたが、カゼスの表情を見て取ると、中に戻れと言う代わりに説明してくれた。

「アーロンが死んだ時のどさくさ紛れに、総督府から逃げのびたエラード兵が何人かいてな。その一人を見付けて、引っ立てて来たらしい」

「処刑……するんですか? それにしたって……」

 あれでは処刑というより、単なるなぶり殺しになりかねない。カゼスは言葉を濁し、怒りに狂ったティリス兵たちを見やる。と、その視線に気付いて、一人の兵が叫んだ。

「ラウシール様、こいつです! こいつがアーロン卿を殺したんです!」

「一度は助けられた身のくせに、その恩を仇で返した下衆野郎だ!」

 誰かが言い足し、そうだそうだ、と数人が唱和する。カゼスは波立つ感情を強いて抑え、ゆっくりと男の方に歩いていった。

 男は首枷をはめられ、手を縛った縄は馬につながれている。見付けられてからここまで来る間に受けた仕打ちで、顔や腕、背中、いたるところ血まみれになっていた。

「どういう意味ですか? いったい何があったんです?」

 カゼスはティリス兵に問い、すべてを聞き出した。男がアーロンの目こぼしで何ら咎めを受けず、あまつさえ剣まで返されたこと。にもかかわらず総督府での襲撃に参加し、直接アーロンに斬りかかりさえしたこと。そして恐らくはそれゆえにアーロンが攻撃をためらい、命を落としたこと――。

 カゼスは聞き終わると、男に向かって静かに問うた。

「間違いありませんか? 確かに彼らの言うようなことを、したんですか」

 男は返事がわりに、地面にペッと赤い唾を吐いた。カゼスはそれでも口調を変えず、言葉を重ねた。

「なぜです? あなたは国王軍の人ではないでしょう。アーロンがあなたは違うと言ったのなら、それなりの根拠があってのはず。あなたがマデュエス王の仇討ちを考えるような人だとも思えません。どうして襲撃に参加したんです、自分も死ぬかもしれないのに」

「うるせえんだよ、偽善者が!」

 唐突に男が吠えた。カゼスがびくっと怯むと、男は堰を切ったように喚きはじめた。

「てめえが王都をめちゃくちゃにしたんだろう! うちの取引相手はみんな消し飛んだって聞いたぜ。そのせいで俺の店まで潰れちまった! 国王軍の連中は蝗みてえにこの辺の農地を荒らし、挙句の果てにゃ街に居座って、ご大層な名分のもとに俺たちのものを根こそぎ奪い取りやがる! 俺たちが何をした!? ええ、何をしたってんだよ! 何もかもみんなてめえらのせいだ!」

 そこまで叫び、彼はぜいぜいと息を切らせた。そして、青ざめたカゼスの顔を見て、残酷な喜びに口元を歪めて嗤う。

「有名な万騎長様だってんだ、首でも取りゃ、業突張りの国王軍だって賞金ぐらい出すだろうさ。そのぐらいして貰わにゃ、割に合わねえ。だから殺しに行ったんだ、わかったかこのうすら馬鹿!」

 面罵されたカゼスは思わず後ずさり、顔を背けた。

(――こんな奴のせいで)

 そんな言葉が脳裏をよぎり、カゼスは慌ててぎゅっと目を瞑ってその思いを消そうとした。だが、瞼を閉じたところで意識まで閉ざすことはできない。

 こんな奴のせいでアーロンは死んだのか。

 自分の不幸しか見えていない、金のことしか考えていない。妻子を守れと言ったアーロンの言葉と態度に、何ら感銘を受けもしない。そんな浅ましい男のために。

 憎しみが、深いところからふつふつと沸き上がるのを感じる。その一方でカゼスはまた、男の言い分を理解し、認めてもいた。

 地道に商売をしてきたのだろう。妻子を養いながらこつこつと財産を蓄え、店を大きくする夢でも持っていたのかもしれない。それが、一夜にしてすべて消し飛ばされてしまったのだ。自分には何の関係もない、支配者たちの戦争で――いや、それどころか実のところは、単にカゼス自身の弱さ、ただそれだけのせいで。

 我が身に降りかかった不幸を、誰かのせいにせずにはおれない、そんな状況で目の前にまさに敵国の武将が姿を現したのだ。激情の暴発を抑えられようか。

 だからと言ってもちろん、男のしたことを許す気になどなれなかった。この男さえいなければ、アーロンは死なずに済んだのだ。今でも彼の声を聞き、言葉を交わし、ともに笑うこともできたはずなのに。

 相反するふたつの思いが、カゼスの中でせめぎ合った。果てしなく続くかに思われた葛藤に終止符を打ったのは、ふと脳裏に浮かび上がってきたシャフラー尚書の姿だった。

(……復讐を果たしたところで、心の平安など得られはしないのに)

 かつて妻子の仇討ちをした彼の背を見送り、そんなことを考えたと思い出す。

 今、その言葉は当事者となったカゼスの胸に、空疎な響きしかもたらさなかった。だがそれでも確かに、それは真実なのだ。

 カゼスは目を開き、ゆっくりとひとつ、深い呼吸をした。

「おい、カゼス、まさか釈放しろなんて言うんじゃねえだろうな」

 クシュナウーズがやって来て、ひそひそとささやく。カゼスは「まさか」とささやき返して首を振った。いくらなんでも、ここに詰め掛けているティリス兵の憎悪と殺気を無視するほど、愚かではない。兵たちの怒りを晴らす対象がなくなれば、無関係の市民に禍が及ぶだろう。第一、罪は罪だ――どんな事情があるにせよ。

 カゼスは男に向き直り、改めてまっすぐに相手の目を見据えた。

「私の行いが今回の事の遠因だというのなら、この悲しみも苦痛も、報いとして受け止めるしかありません。ですがそれでもやはり、私はあなたが憎い。国王軍を憎みながら、その彼らから金を得ようとしたあなたを、憎み、蔑まずにはおれない。処刑を望む声に反対もしないでしょう。けれど」

 彼女は一旦言葉を切り、ゆっくりと、ティリス兵たちに言い聞かせるように声を大きくして続けた。

「あなたの家族には……いえ、この戦で痛手を被ったこの街の人々には、必ず充分な保護と援助をさせてもらいます。あなた以外の人々にまで、『私が何をした』『みんなおまえたちが悪い』などと叫ばせないために」

「はッ……ご大層なこと言って、どうせ口だけだろうが」

 男は嘲笑したが、幾分、声からは力が抜けていた。カゼスは無表情に首を振る。

「ラガエでは今、ターケ・ラウシールという名の慈善団体が活動を始めています。彼らにこの街の被害調査と復興支援を、優先的に行ってもらいます。あなたが望んだほど多くのお金がばらまかれることはありませんが、少なくともあなたの妻子が路頭に迷う心配はないでしょう」

「…………」

 もう男は何も答えなかった。潮時と見て、クシュナウーズが男を広場へ連行するよう、ティリス兵に命じる。死刑囚を囲む行列がぞろぞろと総督府から出て行くと、クシュナウーズはカゼスの肩をぽんと叩いた。

「よくやったな、お嬢ちゃん」

 カゼスは答えず、ただひどく憔悴した様子で、深いため息をついただけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ……ってあああああっ!? あああああああああああ!!(涙) ふえええええ!! そんな……フィオちゃんが正しい!!こんなのってあんまりだあああ!!! なんてこと……(涙) それでもちゃんと前…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ