四章 虎口(3)
アーロンたちが大通りを順調に制圧している頃、港ではクシュナウーズがしかめっ面をしていた。
彼は幾人かの部下と手分けして、港湾事務所から押収した入港記録を片手に、実際に港に係留されている船を照合していた。水夫には荒っぽい者が多いので、無用な騒動を避けるため、外から見て船の大きさや船名などの確認を取るだけにとどめる。
無理に乗り込んで、積み荷の確認をなどと言えば、実際に何ら問題がないとしても、一悶着あるのは避けられまい。その騒ぎが大きくなれば、こちとら尻に帆掛けて逃げ出すわけにはいかない身である以上、面倒で馬鹿馬鹿しい大喧嘩をやらかすはめになる。アーロンたちを生贄とばかり置き去りにしても良いのなら、話は別だが。
(ったく、なんで俺たちがここまで遠慮してやらにゃならねえんだか)
いっそひと暴れしてやりたい衝動が、腹の底でうずいている。しかし、もし本当にこの港に国王軍の残党が潜伏していたら、単なる喧嘩ではすまされない。暴れてすっきりするより先に、剣と槍が閃き、死体の山が積み上げられてしまうだろう。
はあぁ、とため息をついて、クシュナウーズは次の桟橋に歩きだした。ついて来る数人の兵も、面倒臭そうに辺りを見回している。さっさと終わらせて、酒場で一杯ひっかけたいのだろう。それが分かり、クシュナウーズは苦笑いした。
「おいおまえら、気ィ抜くんじゃねえ。とっとと羽を伸ばしてえのは分かるがな」
言われた方も照れ臭そうに苦笑し、肩を竦めて見せた。
「さて、俺たちの受け持ちはこいつで最後だな。えーっと……」
船を見上げ、やれやれとクシュナウーズは声に出して船名を読み上げようとする。そして、そのまま口を半開きにして立ち尽くした。後ろで記録用紙の束を繰っていた兵が、どうしたのか、と問うような目を向けた。クシュナウーズはそれには答えず、
「おい、寄越せ」
言うなり兵の手から用紙をひったくると、パラパラとせわしなくめくっていった。やはり、どこにもこの船の名前はない。
「どうしました」
問うた兵に用紙を突き返し、クシュナウーズは厳しい表情を見せた。
「こいつはアルハン籍の船だ。船名を削り取ってやがるが、うっすら残った跡からして間違いねえ。しかも記録にないと来る」
言いながら彼は視線を下へ滑らせた。ちゃぷちゃぷと、静かな波が船腹を洗っている。その喫水は、アーロンが怪しんでいた通り、かなり深い。何か重量のある荷をたっぷり腹に収めているのだろう。
「きな臭ェな」
クシュナウーズはゆっくり剣に手をかけ、甲板に上がる梯子を見やった。このまま乗り込むのはあまりに危険だ。
「おい、奴を引っ張って来い。あのなよなよした責任者だよ」
部下に言って港湾責任者を連れて来させると、クシュナウーズはにやりと凶暴な笑みを浮かべて見せた。相対する港湾責任者は、意味のない愛想笑いをはりつかせたまま、おどおどと視線をさまよわせている。
何か隠してやがるな、とクシュナウーズは直感した。
(こりゃあ、ほかの船も徹底的に洗い直した方がいいかも知れねえぞ)
さっきまで憂鬱にたるんでいた神経の糸が、ふたたびピンと張りつめる。クシュナウーズはその緊張は隠したまま、ぞんざいな口調で責任者に話しかけた。
「よお、こいつは記録にないんだが、どういう理由だか、あんたは把握してるのか?」
「いえあの、これはまだ、手続きが途中でして、ですから正式な記録に載せていないだけでして、特にこれといって理由があってのことではありませんので」
ぺこぺこする責任者に、クシュナウーズは「そうか、そうか」と鷹揚にうなずいた。
「よし、それじゃひとつ、あんたも一緒に積み荷やら何やら確認しに行こうぜ。そうすりゃ、早いとこ記録につけられるだろう。こっちも後から照合し直す手間が省けるってなもんだ。そら、行くぜ」
ほらほら、と有無を言わせず肩に手をかけ、自分のすぐ後から梯子を上らせて、甲板に引っ張り上げる。すぐ後からティリス兵も上がってきた。
甲板には水夫たちが十人ほどうろついていたが、すぐに何か反応するでもなく、警戒しながら遠巻きに様子をうかがっている。そのうち、一人が港湾責任者の姿を認めて、大声で呼びかけた。
「シャロフさん、うちの船長なら、事務所の方に行きましたぜ!」
「あ、ああ、そうかい」
責任者――シャロフは、まるでクシュナウーズたちに遠慮するかのように、曖昧な声音で返事をした。それから、取って付けたように説明を加える。
「いや、一応ほら、手続きがまだだろう、それで積み荷を確かめたいと、こちらの方々がおっしゃるんでね」
積み荷を、と聞いた途端、水夫たちが顔を見合わせた。クシュナウーズは彼らの反応や、シャロフの態度を五感すべてで感知し、危険な匂いを嗅ぎ取っていた。
こいつらは、間違いなく何らかの仲間だ。
国王軍の残党と関係があるのか、それともあるいは単に以前からつるんで密輸を行っているのか。いずれにせよ、ひとつ対応を間違えれば火の付く爆薬だ。
クシュナウーズはわざと親しげに、手間は取らせねえよ、などと言いつつシャロフの肩にポンと手を置いた。そのまま喉を突くことも出来そうな位置に。シャロフは目に見えて竦み上がり、声を上ずらせた。
「そ、そうだ、私たちが下の積み荷を見ている間に、誰か、船長を呼んで来てくれないかね。悪いがひとっ走り、頼むよ」
水夫たちはまたしても目配せを交わし、のそのそと一人が歩きだした。クシュナウーズたちの横を通り抜け、急ぐ様子もなく桟橋へ降りて行く。
「それじゃあ、船長が戻るまでに積み荷だけ見せて貰おうか」
クシュナウーズはそう言うと、ティリス兵を二人甲板に残して、他の兵とシャロフを連れて船倉へ降りた。
中は薄暗く、木箱や袋の輪郭がぼんやりと浮かび上がっているものの、奥まったところは何があるのかさっぱり見えない。ただ、ぷんと独特の臭いを放つものがあり、船自体にしみついた諸々の臭いの中からそれを嗅ぎ当てたクシュナウーズは、チッと舌打ちした。
「おい、蝋燭を……」
言いかけた矢先、シャロフが「はい、はい」と返事をした。カチカチと火打ち石を鳴らす音に続き、ぽっと炎が生まれる。
それは、蝋燭のか細い明かりではなかった。小さな炎がちろりと舌なめずりしたかと見るや、瞬く間に明るく燃え上がったのだ。
「これで良く見えますでしょう」
パチパチと燃える松明を持ったシャロフは、相変わらず薄気味悪い愛想笑いを浮かべていた。ただし、もう今はその面に恐れや萎縮など欠片も残っていない。
(しまった!)
反射的にクシュナウーズが後ずさったと同時に、頭上で何かが倒れる鈍い音が響いた。続いて不吉なガシャンという音。そして差し込んでいた陽光が消え、松明だけが唯一の光源となった。船倉への昇降口を塞がれたのだ。
「おいッ! どうした、ここを開けろ!」
上に残してきた兵の名を呼ばわったが、返事はなかった。昇降口の上に何か重しを乗せたような物音がして、数組の足音がバタバタと遠ざかって行く。何があったかは、それだけで充分察せられた。
くくくく、とシャロフが肩を震わせて不気味に笑う。
「てめえ……ッ」
クシュナウーズは相手を睨み、飛びかかる隙を窺いながら、周囲に視線を走らせた。木箱や袋の後ろには、壁に掛けられた盾が見える。アルハン製の、青銅や鉄を要所に惜しみなく使ったものだ。柳の枝で編んだエラードの盾より重くはなるが、はるかに防御に優れている。見えないところには、槍や鎧もあるのだろう。
「アルハンの回し者か! 国王軍の残党に武器を流すつもりだったな!?」
優れた武具を揃えても、使いこなせなければ意味がない。ということは即ち、上で見た水夫も、不在だった船長も、実際はアルハンの軍人に違いない。シャロフというこの男はエラード側とのつなぎ役だろう。
そうしてエラードの敗残兵に武器と技術を与え、ティリスにふたたび牙を剥かせるつもりなのだ――いずれアルハンがデニスのすべてを手中に収める時の為に。敵の敵に力を与えて情勢を左右しようという、欺瞞に満ちた策。
しかも、武具だけではない。この独特の臭いは……
「硫黄まで、か」
かすれ声でクシュナウーズはささやいた。冷や汗がじっとりとてのひらを湿らせる。ここでこの男が松明を放り投げたら、そうでなくても燃えやすい船は、瞬く間に火の海になるだろう。赤い炎と、硫黄の青い炎に包まれて。
ひひ、とシャロフはかすれた笑い声を立てた。
「貴様らには渡さぬぞ! マデュエス様の仇、取らせて貰う。ここが貴様らの墓場になるのだ……あの大崩壊のように、業火に焼き尽くされるがいい!」
のけぞり、甲高い笑い声を船室の中に凶器のごとく撒き散らす。そのさまに、クシュナウーズは思わず顔を歪めて呻いた。よりによってこの男自身が、マデュエスの親衛隊員だったとは。
「くそッ!」
クシュナウーズは笑い続ける男に飛びかかった。が、一瞬遅かった。
シャロフの手から松明が離れ、弧を描いて積み荷の一角に飛んで行く。部下のティリス兵がそれをなんとか捕らえようと走ったが、間に合わなかった。乾いた木箱に燃え移った炎は、息を飲むだけの間すらなく箱の中に達し、青い炎が怪物のように燃え上がる。
クシュナウーズは迫る煙を避けようと、顔の下半分を袖で覆ったが、まるで効果はなかった。シャロフは笑い、咳き込んで倒れ、ひくひくとまだ笑い続けている。狂っているとしか思えなかった。
「ひひ、ひひひ、ざまぁ見ろ……今頃、総、督府も」
シャロフが口にした単語に、クシュナウーズはぎょっとなった。
(なんてこった)
この男が港湾責任者になりすませるのは、敗残兵に味方する者が大勢この街にいるおかげだ。それに、この船をここまで操ってきたアルハン人たちも、どこかに潜んでいるということ。
それが、総督府で待ち受けているのだとしたら。
「くそったれ! ジジイ、なんとかしやがれー!」
煙を吸い込むのも構わず、クシュナウーズは宙に向かって喚いた。
「無駄だ、いまさらどうにもなるものか」
けけけ、とシャロフが嘲笑う。次の瞬間、メキメキと頭上で甲板が軋んだ。えっ、とシャロフが仰向いて真上を見た途端、甲板を突き破って巨大な水の柱が突っ込んできた。
「なっ!? ぐぼっ、ごぶ……ッ」
驚く間もなく彼は大量の水に圧し潰され、もんどりうって倒れる。そのまま彼は船倉の隅に押し流され、ぴくぴく痙攣すると、それきり動かなくなった。
外でわあっと人々の喚声が上がり、クシュナウーズの耳にもそれが届く。海の一部が鎌首をもたげてこの船を直撃したのだと想像がついた。大蛇のような水のうねりが船倉を洗い、瞬く間に炎を呑み込んでいく。
火が完全に消えるのを待たず、クシュナウーズは梯子を上って甲板に出ようとした。が、昇降口を塞ぐ板戸は、叩いてもわずかにたわむだけで、まったく開く気配がない。クシュナウーズは悪態をつきながらさらに肩で体当たりをしてみたが、体勢を崩して梯子から落ちただけだった。
「ジジィー!」
やけくそのように叫ぶ。と、水浸しになった船倉の一部から、白い水竜の首がにゅっと立ち上がった。
「先刻からジジイ、ジジイと、無礼極まる輩じゃな。ものを頼むつもりがあるなら、それらしい態度を取らんか」
「ごちゃごちゃ言ってる場合じゃねえ、さっさと俺を外に出せ!」
「…………」
イシルは緑青色の目を細めて相手を睨み、それから不意に姿を消した。おい、と慌ててクシュナウーズがきょろきょろする。と同時に足元から水が噴き出し、先刻空いた穴から彼を外に放り出した。
ざぶん、と海に落とされ、クシュナウーズは水中でじたばたと拳や蹴りを突き出して暴れる。が、海面に浮かび上がって来た時には、性質の悪い水竜にかまけていられる余裕はなかった。
騒ぎに驚いて駆けつけて来たティリス兵たちが、クシュナウーズを引っ張り上げてくれる。船の方でも、船倉に取り残された兵を他の兵たちが助け出していた。
「急げ! 総督府に向かった連中が危ない!」
切羽詰まったクシュナウーズの声に、何事かと驚いてばかりいた兵たちも、即座に仲間を呼び集めてまとまる。半数ほどは港に残るよう指示し、クシュナウーズは素早く集まった兵だけを率いて、大通りを走りだした。
今だけでいい、神々よ、こっちを向いてくれ――と、そう祈りながら。
同じ頃、アルハン王都レムノスにいるカゼスは。
「なんだか君、歳のわりにずいぶんしっかりしてるんだね」
アミュティスに案内されて王宮に向かいながら、そんな言葉を洩らしていた。二人ともまやかしをかけているのだが、それでも周囲の目を気にして小声になる。
「両親が頼りないものですから」
しらっと応じてアミュティスは肩を竦めた。
「父はあれこれと考えを巡らせはするものの、いざ実行となると腰がひけてしまうし、ヴァルディア王にも、結局押し切られてしまってばかりで。母は美人で善良だけど……それだけの人ですし」
淡々と言う口調は、自分の親のことを語っているとも思えない。さすがにカゼスが絶句していると、アミュティスはちらっとこちらを見上げて言い足した。
「ご心配なく。これでも結構、両親のことは好きなんです」
「……はあ……さようで」
ほかにどう返して良いものやらわからず、カゼスは曖昧な声を出した。リトルの人間版みたいだ、などと考えてこっそりため息をつく。このまま育てば将来は無敵の論客になるに違いない。
あれこれカゼスが考えている間に、アミュティスはひそひそと話を続けていた。
「気をつけて下さいね。あなたが父と接触しに来たことがばれたら、ヴァルディア王はもはやティリス攻撃を待ちはしないでしょう。そうでなくとも、遠くない未来にエンリル王を倒して、デニスの覇権を手にするつもりでいるようですが」
ふむ、とカゼスは答えるでもなく唸り、ちょっと考え込んだ。確かに二百年後のデニスを知っているから、このままアルハンとティリスが軍事バランスを保ちつつ共存するという図式は、あり得ないと分かる。だが、それにしても。
「なんだか、ヴァルディア王がエンリル様を目の敵にしてるみたいな言い方だね」
そう言えばティリス王宮でも、ヴァルディアに対する好意的な評は聞かれなかった。単に彼が暴君でありティリスの敵だからだろう、と思っていたのだが、そういうわけでもなさそうだ。
と、案の定、アミュティスは少し驚いたような顔をした。
「ご存じなかったんですか? ヴァルディア王は高地もエラードもさして重視していませんが、ティリスだけは激しく憎んでいることで有名なんですよ」
城壁の周囲を哨戒中の兵士とすれ違い、アミュティスは一段と声をひそめた。
「十年ほど前にオローセス王がレムノスを訪問して、その時はヴァルディア様の父上が王位についていたんですけども、一応友好的な取り決めがなされたらしいんです。ただ、その時に幼いエンリル様との間に何かあったらしくて」
「何かって?」
「さあ。泣き出したエンリル様がヴァルディア様の服で鼻をかんだとか、お気に入りの金細工を踏み潰されたとか、色々な噂がまことしやかに流布してますけど」
堪えきれずにカゼスは盛大にふきだしてしまい、慌てて口を覆って小走りにその場を離れるはめになった。兵の目が届かない場所まで来ると、カゼスはしゃがみこんで笑いだしてしまった。
「まさか、そんな理由で、今の今まで犬猿の仲だ、なんて言うんじゃ、ないだろうね」
目に涙を浮かべてそう言ったカゼスに、アミュティスはたいして面白くもない、とばかり肩を竦める。
「笑い事じゃありませんよ。権力者の人間関係は国中に影響を及ぼすんですから。実際のところは、それよりも血筋の方が問題なんでしょう」
「ごめん、不謹慎とは思うけど、つい。あー……血筋の問題って、エンリル様が実子じゃないから?」
なんとか笑いをおさめて立ち上がるカゼス。アミュティスは再び先に立って歩きだしながら、軽くうなずいた。
「女系の継承者を認めれば、先の帝国の後継者としては、ヴァルディア王こそが第一継承者となるんです。最後の皇帝エラムの父クシャースラ帝はオローセス様の父親でもありますが、その姉というのがヴァルディア王の母親ですから。高地のフラーダ王やエラードのマデュエス王も皇族ではありますが、皇帝の座を争うほどの血筋ではありません」
「へえ……じゃあヴァルディア王にとっては、エンリル様が最も目障りな存在なわけだ。しかもそれが実はオローセス様の息子ではないとなれば、帝国の継承者を自任するヴァルディア王にしてみれば、憎むべき僭称者としか思えないだろうね」
系譜のことは良く分からないものの、カゼスはそう相槌を打った。これまでもヴァルディアが公然と継承権を主張してきたのなら、ティリスでの評判が芳しくないのもうなずける話ではある。
「それで、いずれはデニスを統一して、かつての帝国を甦らせようとでも考えているのかな。アルハンは軍備に力を入れているっていうし」
「そんなところでしょう。海の民に破壊される前の生活を美化しているのは、皇族に連なる人間だけではありませんから。今でも『正統の皇位継承者』という肩書には、大きな力があるんですよ。……さて、この辺りが限界ですね」
アミュティスが立ち止まり、カゼスも足を止めて城壁を見上げた。人気のない、城の裏手だ。普通の手段では乗り越えられない壁が、頭上にそびえている。
「これ以上王宮に近付こうと思ったら、壁の向こう側に入らないと」
「わかった、じゃあここいらで探してみるよ」
城壁の内側に入るのは、いくらまやかしをかけていても危険すぎる。それに今はまだ、キースを実際に救出できる時ではない。居所を探るだけなら、地図上で近い位置にいさえすれば良かった。互いに呼び合っているのであれば、物理的な距離はさほどの障害にはならないが、そうでなければ、なるべく近い場所から探す方が確実なのだ。
カゼスは壁にもたれて座り込み、目を閉じる。二百年後もそうであったように、キースは娘に精神探索などの技術は伝えていなかった。カゼス自身がやるしかない。
意識の焦点をずらし、カゼスの精神は壁を通りぬけ、王宮の中へ入り込んでいった。大勢の住人の意識がひしめき、色彩の奔流となってカゼスを取り巻く。情報の洪水。カゼスはその中をすりぬけ、より深い層へと潜って行く。
めまぐるしく変わる意識の表層を抜けると、仄暗い静かな層に達する。短時間に変わることのない、安定した意識の世界。ごく淡い彩色の意識が、あるいは周囲より暗く、あるいはぼんやりと明るく浮かび上がって見え、それらがゆっくりと少しずつ動いている。
カゼスの存在は、それらの意識のどれにも知覚されることはない。魔術師でなければ、この感覚は開かれていないからだ。また、魔術師であってもアミュティスのように手ほどきを受けていなければ、漠然と感じ取ることができるだけで、積極的に精神世界に入り込む事はできない。今も、彼女の意識は遠くにぽつんとゆらめいているだけで、何ら反応を示していなかった。
しばらく安定層を漂って行くと、やがて魔術師が持つ小さなしるしが、日暮れとともに点灯する街灯のように、ぽっ、とひとつ現れた。
入門の誓約によって、『力』に触れることを許されたしるし。向こうもカゼスの接近に気付いたらしく、微かな驚きのさざ波が、表層の方から伝わってきた。
(どこにいますか)
問いは言葉にはならない。意識が響きあうだけだが、それで伝えたいことはすべて伝わる。答えもまた、同様。
必要な情報を得たカゼスはゆっくりと浮上し、再び繁雑で流れの速い表層を通り抜けて、自分の肉体に意識を引き戻した。
用心深く瞼を上げると、太陽の光が目に突き刺さるようだった。カゼスは何度も瞬きしながら立ち上がり、しかめっ面でぼそぼそとささやいた。
「……どうにか分かったよ」
「どこですか?」
急かすように訊いたアミュティスの声には、今までにない感情がこもっていた。不安と恐れ、心痛だ。まるで他人事のように淡々としていた彼女も、やはり本心では心細く心配でたまらなかったのだろう。カゼスはそんな事を考えて、少し口元をほころばせた。
「大丈夫、それほどひどい扱いをされてはいないみたいだった。普通の牢獄じゃなくて、国王の私宮殿の一室に幽閉されているらしいよ」
「そうですか」
ほっと息をつき、アミュティスは安堵の表情を見せた。少し肩の荷が降りたようなその顔を見て、カゼスは、ああそうか、と気付いた。
(親を守らなくちゃと思ってるんだな)
頼りない両親と言っているが、それでもいるといないとでは大違いだ。もしキースが王に殺されでもしたら、残された母子の立場は惨めなものになるだろう。そうなった時には、自分ひとりの手で母親を守らねばと考えて、この幼い少女は自分自身の不安を、どこか見えない場所に押し込めていたに違いない。
カゼスはしゃがんで、アミュティスの頭をぽんと撫でた。
「だからまだ焦らなくていいよ。何か手助けしたいけれど、今は私もティリスに戻らなきゃならないからね……今日のところは家に帰って、お母さんを安心させてあげたらどうかな。私もあっちが落ち着いたらすぐに戻って来るから」
アミュティスは頭に乗せられた手に、自尊心を傷つけられたような顔をしたが、逆らいはせず、小さくうなずいた。それを確かめ、カゼスは背を伸ばしてリトルを取り出す。
「私はもう少しここで、王宮の様子なんかを調べるよ」
「何です?」
不思議そうに水晶球のような物体を覗き込んだ少女に、カゼスはどうしようかと考えて、結局曖昧な苦笑を浮かべた。
「まあ、一種の道具なんだけどね。私よりこいつの方が賢くて調査向きだから」
〈当然です。あなたと比較すること自体が間違ってますね〉
リトルは冷たく言い放ち、スッと宙に浮かぶと光学迷彩で周囲に溶け込んで、城壁の向こうに飛び去っていく。アミュティスは驚いて「あれは」と言いかけたが、今は知的好奇心を優先させられる状況ではないと思い直したらしく、口をつぐんだ。そして、かわりにフードを被り直し、ぺこりと頭を下げる。
「では、私は家に戻ります。カゼス様も、充分にお気をつけて」
「ありがとう」
軽く手を挙げて礼を言い、カゼスは少女の小さな姿が街の雑踏に飲み込まれて行くのを見送った。そうしてその場に一人になると、ふう、と息をつく。
「やれやれ、あっちもこっちも大変だ」
そんな事をつぶやいて、空を仰いだ、刹那。
「―――!」
巨大なつららに刺し貫かれたような衝撃が、全身を襲った。何ら物理的な危害は加えられていないのに、いきなり心臓を鷲掴みにされたような。
カゼスは大きく喘ぎ、体をくの字に折った。
そして――
一瞬の後、彼女の姿はそこから消え失せていた。途切れた足跡の上に、砂を乗せて舞う小さな風を残して。




