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帝国復活  作者: 風羽洸海
第三部 アルハン攻防
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四章 虎口(2)



 一呼吸置くと、しょっぱなからアミュティスは爆弾を投下した。

「本当なら父と話して頂くのが良いのでしょうけれど、生憎と父は今、王宮のどこかに監禁されているんです」

「それはまた……ヴァルディア王の不興でも?」

「いえ、謀反を企んだ科で」

「ええっ!?」

 愕然としたカゼスに、アミュティスは平静な口調で続けた。

「謀反と言っても、実行が失敗したとか、秘密の集会に踏み込まれたとかいった、決定的な証拠があってのことではありません。ただ、どこからか噂がヴァルディア王の耳に入ったというだけなんですけど」

「君がさっきの人たちと行動を共にしているってことは、噂といっても根拠のないでたらめってわけじゃないね」

 カゼスが確かめると、ええ、とアミュティスはうなずいた。

「家族に男子がいれば、皆連れて行かれるところですけど……父はご存じの通り一人で異国からやって来たわけですし、母方にも身寄りはいなくて。とりあえず私と母は、この屋敷に軟禁されているんです。父にとっては人質ということですね」

「それで、魔術で出入りしたわけだ。君が魔術を使えるってことは、王には知られていないのかい?」

「今のところは、たぶん。でも時間の問題でしょうね。父が捕まって、仲間たちは動揺しているし。誰かが密告したら、私もどこかに閉じ込められるでしょうし、母や伯母も今のようには……」

 アミュティスはきゅっと唇を噛んだ。「伯母?」と怪訝な顔をしたカゼスに、ロードグネが代わって説明する。

「私の双子の姉、シルピオネです。もう十年以上前になりますが……私たちの故郷は『三日月の島』の海賊たちに荒らされ、私と姉は彼らに捕らえられて、ヴァルディア王への献上品にされました。姉は王のものになり、私はキースに下賜されたのです」

 寂しげに微笑んだ口元に、小さな棘が見えるようだった。優しく儚げでさえある顔立ちには、およそ不釣り合いな棘。

 だから発音がおかしいと思ったのか、とカゼスは心中で納得し、アミュティスに向かって問うた。

「謀反を企てた、って言ったね。具体的にはどうするつもりでいたか、それは聞いてないかな。ヴァルディア王を暗殺するのか、どこかに幽閉してしまうのか、その後の統治は誰がするのか、とか。仲間の中に、キースさんの片腕に当たる人はいないのかい? さっき私を連れて来たヴァフカって人は?」

「ヴァフカさんは実行隊長といった位置付けで、計画や長期的な見通しは、父が全部担っていました。とは言え……」

 ふう、とアミュティスはため息をつく。

「父は過激なことはまるきり出来ない性質ですから、どこまで真剣に考えていたのかわかりませんけど。ただ、現状を何とかしたいと考えていたのは確かだし、そういう気配を察した人たちが父に近付いたのも事実です。でも、まだまともな計画も立てない内に父が捕まってしまい、王に対する反発が強まって、行動に移す時期を早めてしまいました」

〈まとめて推察するに、キース氏を暴君ヴァルディアに虐げられた被害者代表に仕立て上げ、彼を救出する目的で近衛隊に対するゲリラ活動を行っている……あるいは、行おうとしている、という段階のようですね。実際にはまだ、直接に近衛兵を攻撃するだけの力もないようですが〉

 あの処刑、いや私刑の場で、衛兵ではなく不運な市民を射たのは、そのためだろう。衛兵を殺してしまえば、徹底的なゲリラ討伐が始まってしまう。それに耐えて反撃できるだけの組織力も、市民の理解と援護も、まだないということだ。

 リトルの解説でカゼスも納得し、難しい顔になった。

「このままだと、単なる暴動に終わってしまう可能性が高いね」

 革命だのクーデターだのといった話に発展するには、あまりにも脆弱な印象だ。キース以外に反ヴァルディア勢力をまとめられる者がいない、自ら旗印となって矢面に立つ者がいないとなれば、彼らの活動も自然消滅しかねない。胸に不満をくすぶらせたまま、ただじっとヴァルディアの死を待ち望みつつ、自分の家にこそこそと引っ込むだけだろう。

〈暴君ながら敏腕だね、言いたかないけど〉

〈リーダーになり得る人物を早期に押さえ、暴動を未然に防ぐ……それだけの猜疑心と用心深さ、思い切った処置を取る決断力。それらがあってこその暴君ですから。一番望みがありそうなのは、軍にわたりをつけてクーデターを起こすことでしょうね。民衆を扇動して革命を起こさせるには指導者が必要ですが、そのような人物はとっくにマークされているでしょうから。それとも、あなたが立ちますか?〉

 皮肉っぽく最後の一言を付け足すリトル。

〈うん、とか答えたって、どうせ本気にしないくせに。それで例によって例のごとく、私のちっぽけな自尊心を跡形もなく粉砕するまで、容赦なくこき下ろすんだろ〉

 ふんだ、といじけてから、カゼスはアミュティスに視線を戻した。

「とにかくまずは、キースさんを救出しなければ身動きが取れないね。君やお母上の身柄がキースさんにとって人質だと言ったけど、逆もまた然りだし」

「……力を、貸して頂けますか?」

 探るように慎重な口調でアミュティスが問い返す。その視線でカゼスは自分の立場を思い出し、ちょっと頭を掻いた。

「うーん、まぁ、詳しいことはエンリル様と相談してみないとね。私はもちろん、エンリル様だってヴァルディア王が失脚したらありがたいとは思うけど、その後のことを決めずに無闇に暴動だか反乱だかを起こすと、かえって事態が悪くなったりするし」

 政権を奪った直後から、崩壊への坂道を転がり落ちていった革命家あるいは反逆者たちの例は、歴史を振り返れば掃いて捨てるほど見付けられる。

「冷たいようだけど、今はティリスの方もあちこち火がついててね。レムノスの様子を探って、アルハンがアラナ谷方面にこれ以上手出しすることはない、と確証が得られたら、私も早々にティリスに帰らなくちゃならないんだ」

 カゼスの言葉に、ロードグネは顔を曇らせてうつむき、一方アミュティスは、なぜか意味深長なため息をついた。小首を傾げたカゼスに、少女はうんざりしたような風情で肩を竦めて答えた。

「父の細工が成果を発揮しているわけですね。まったく、父は押しが弱いからいつもヴァルディア王にいいように使われて、結局それで自分の首を絞めているんだから……」

「アミュティス!」

 ロードグネが叱ると、アミュティスは口をへの字に曲げて見せた。

「心配しないで、母様。父様を見捨てようなんてことは、考えてないから。ともかく、ティリスの内乱に関しては父からも聞いています。エンリル王がオローセス先王の実子でないという証拠を二人の領主に提示し、ごく軽く暗示をかけて過剰な反応を引き出しただけだ、と言っていました」

「だけ、って……でも、血筋の証明なんかどうやって」

 カゼスは眉を寄せた。自分自身はその話を聞いてもさほどショックではないが、血筋や家柄に関するデニス人の感覚は容易に想像できる。二人の領主は先の内乱の後、冷遇され続けて不満も鬱積していたろう。そこへそんな事実があったとくれば、暗示などかけられるまでもない。干し草の山に燠を投げ込むようなものだ。

「手紙の類などがあったようですよ。そんなわけですから、ラウシール様が直々に戻って対処しなければならないような魔術的小細工はありません。……もう少しだけ、私たちに付き合ってもらえませんか。せめて、父の居所だけでも突き止めたいんです」

 アミュティスの真剣なまなざしに、カゼスが勝てるはずもなかった。少しの間、考えるような素振りを見せたものの、結局「そういう事なら」とうなずいたのだった。


 一方、タフタン沖から東へ向かったクシュナウーズたちは、イシルの力を借りて驚くべき早さでファシスに到着していた。

「なんだ、意外におとなしいな」

 港に近付くと、クシュナウーズが拍子抜けしたようにつぶやいた。抵抗に遭ってひと仕事こなさなければならないかと予想していたのだが、それらしい気配すらなかったのだ。

 デニス半島の最南端に近いので、この辺りまで来るとまだ少し暑い。水先案内人が船を整理して、ティリスの船団を招き入れるのを甲板で待っていると、生温い潮風が頬をなぶっていく。

 クシュナウーズの横に立っているアーロンは、警戒を緩めようとせず、じっと街の方を睨んでいた。

「だが、どこに不穏な輩が潜んでいるか、知れたものではないぞ。街全体が敵だと疑ってかからねば、思わぬ落とし穴にはめられてしまう。ここでは我々の方が、手勢が少ないのだからな」

「へいへい、分かってますって、万騎長殿。陸じゃ俺は浜に打ち上げられたクラゲ同然、おとなしく指示に従いましょう」

 厭味っぽく答えたクシュナウーズに、アーロンはじろりと冷たい一瞥をくれた。

「僻んでも同情などせぬぞ。一度、おぬしの実力を見てみたいものだな。陸でも存外、出来るのではないか?」

 ちくりと刺してみたが、過去を語らない男はやはりいつもと同様、肩を竦めておどけただけだった。

「そいつは買いかぶりだ。もっとも、この俺様にとっちゃ大概の事は屁でもないがね。それにしたって、馬鹿みてえにあくせく働きたかねえよ」

「何とでも言え。言うだけは只だ」

 ふん、とアーロンは受け流し、また街に目を向けた。クシュナウーズも口をひん曲げて不満顔を作りはしたものの、食い下がらずに周囲を見回す。賑やかな景色は、浮かれた観光客気分を誘いさえする。そういう意味では確かに危険な街だ。

「あー……兵どもにもちょっと、気を引き締めるように言っとかねえとな。浮かれて酒場で騒いでる内に、一人二人と姿が消えて、最後にゃ誰もいなくなった、なんてことになりかねんか」

 やれやれ、とクシュナウーズは頭を掻いた。水夫というものは往々にして、陸に上がった途端にどうしようもない飲んだくれに変身してしまうものだ。アーロンはそれを知っているので、口の端に皮肉っぽい笑みを閃かせただけで、敢えて何とも答えずにおいた。

「それはともかく」

 とクシュナウーズは体の向きを変え、船縁にもたれかかってアーロンを見上げた。

「実際的な問題として、これからどうする? 連中もまさか海から来られるとは思っていなかったろうから、今は面食らっちゃいるだろうが、ここにいるのがティリスの陸海それぞれ随一の偉いさんだと分かりゃ、すぐにも仕掛けてくるぜ」

「港の制圧はおぬしの手勢で問題ないだろう。見たところ軍船の数はそう多くない。やけに喫水の深い商船が多いのは、気にかかるがな。我々はまず港から総督府までの通りを確保し、その後、総督府を拠点にして街に潜む残党の掃討を開始する」

 明快な答えに、クシュナウーズは「了解」と答えて空を仰いだ。晴れ渡った青い空に、雲はない。しばらく彼はぼけっとそれを見上げていたが、ややあって、「あー」と小さな声をもらした。

「変わんねえんだよなぁ……」

「何が?」

 唐突な言葉に、アーロンは不審げな顔をする。クシュナウーズはどこか飄然とした風情で、仰向いたまま空を指さして答えた。

「俺たちがどれだけ地面の上でじたばたしたって、あそこは全然変わんねえんだな、ってこと。あの上にいる神様とやらは、どんな気分で人の歴史を見てんのかねぇ」

「…………」

 アーロンは数回瞬きして相手を見つめ、それからふと、同じく空を仰いだ。落ちて行きそうな青色。その底に得体の知れぬものを秘めていそうな。

 彼はじきに顔を下ろし、小さく首を振った。

「神々の気分など、神々自身に任せておけ。人の身があれこれ忖度しても空しいだけだ。哲学的な気分に浸るのは勝手だが」

「そりゃま、そうなんだがね」

 クシュナウーズはおどけて肩を竦め、気分を変えるためか、少々わざとらしい仕草で再び海に向き直った。

「それにしても汚ぇな、ここの海は」

 波打ち際にぷかぷかとゴミが浮いているのが、遠目にもわかる。近付くほどに、ぷんと鼻をつく異臭が気になった。ヘドロが浮くような汚染度ではないが、暑い盛りでも飛び込むのに抵抗を感じる程度には汚い。

「下水だろう。メルヴ川から水を引いて町中を通した後、汚水を再びまとめて海に流しているせいだ」

 アーロンは肩を竦め、港の外れに並んでいる小さな穴を指さした。地下を通って集められた生活排水が、だらだらと海に垂れ流されている。ティリスでは河川を何より大切にするため、川や海を汚すことは決してない。悠然たる大河と、一年を通じての豊かな雨に恵まれた、エラードならではの光景だ。

 クシュナウーズはげんなりした顔をして、「街の反吐だな」とぼやいた。

 と、ちょうどその時、水先案内人が合図を出し、船がまたぐらりと動き出した。微妙な調整をしながら、ゆらゆらと桟橋に近付いて行く。櫂が格納され、もやい綱が桟橋の上に投げ下ろされて、係留作業が始まる。

 やがて渡し板が桟橋に届き、まず用心しながらアーロンたち陸兵が降りた。係留作業を行った港の水夫たちは、既に別の船にとりかかっており、良くも悪くもティリス人を迎える者はいなかった。

「おかしいな」

 アーロンは眉を寄せ、周囲を見回した。クシュナウーズが水夫たちを指揮し、港内の安全確認の為に走らせる。アーロンも手勢を率い、桟橋から陸へと上がった。

 そこまで来てやっと、身なりの小綺麗な男がふうふう言いながら駆けつけてきた。

「大変、失礼を……別口で、手続き上の厄介事がありまして、はい」

「港湾責任者か?」

 何か不自然なものを感じながら、アーロンは男とその背後に従う兵士を見た。何となく奇妙な予感のような、そぐわない感覚。どこがおかしい、と具体的にわかるわけではないのだが、本能が何かを察知している。

「はい、さようで。ティリスの方々ですな、すぐに総督府にご案内致しますので……あ、兵の皆さんには船の方でお待ち頂けませんでしょうか」

 卑屈な口調と媚びるような作り笑い。アーロンは嫌悪感を催し、顔をしかめた。

(これが港湾責任者だと? エラードの官吏は皆こうだというのか?)

 自分が上司なら、こんな男に仕事を任せるものか。

 「いや」とすげなくアーロンは答え、会話を聞き付けて立ち止まったティリス兵たちに、手振りで仕事を続けるよう合図を出した。

「しばらく港の出入りや荷の揚げ降ろしについては、我々が監視する。この街に旧国王軍の残党が潜んでいる可能性があるのでな、用心のためだ。安全が確保され次第、業務をそちらの手に戻すが、それまでは我々の指示に従って貰う」

「いえ、懸念されるのはもっともでございますが、そのようなご心配には……」

 ごちゃごちゃ言いかける男を無視して、アーロンはクシュナウーズに呼びかけた。

「クシュナウーズ! 港の業務管理と停泊中の船舶の調査などは任せるぞ。ここに港湾責任者がいる、詳しいことはこの者に訊け」

 了解、と返事が届くと、アーロンはもう男を見向きもせず、陸軍出身の兵たちを整列させ始めた。

 あの、あの、とおろおろしている港湾責任者にティリス水兵が数人近付き、腕を取ってずるずるとクシュナウーズの方に引っ張って行く。

 アーロンは手勢を編成し直し、大通りとそれに面した建物の確保を手早く指示した。こうした市街戦はあまりしょっちゅうあることではないが、さすがに選り抜きの精鋭たちだけあって、誰も不安を見せない。

「いいか、何があっても単独で行動するな。どこに敵が潜んでいるか分からん。怪しい場所を見付けても先走るな、かならず連絡して包囲しろ。生きてこの街から出たければ、無抵抗の市民には決して危害を加えるな。質問は? ないか。よし、行くぞ」

 アーロンの指示で、十人ずつの班になった兵たちが動き出す。大通りと、それぞれの裏通りまでの左右の区画を、二手に別れてしらみつぶしに調べて行くのだ。もっと兵の数が多ければ、裏通りまでと言わず広範囲にわたって制圧できるのだが、今は仕方がない。

 大通りは不自然なほど人影がなかった。港から、ティリス軍来る、との知らせを受けたのだろう。どの家も真っ昼間だというのに窓や戸口をしっかりと閉ざしている。総督府まで行くのは簡単だが、退路を断たれる恐れを考えると、無防備にこのまま通りを進むわけにはいかなかった。

 ティリス兵たちは一軒一軒戸を叩き、中を検めていった。もちろん最初から戸口を蹴破りはしないが、剣や槍を持った兵に脅えた市民には、危害を加えないという言葉も効果がない。結局、手っ取り早く問答無用で押し入って武器や抵抗の有無を確認し、問題がなければ次の家へ移る、という機械的な作業になっていく。

 しばらくして、アーロンの元に別班の兵が走ってきた。

 隠れていたエラード兵を発見した、という。アーロンは部隊進行を一時停止させ、現場に走って――半ば呆れ、半ば気抜けした。残党の隠れ家だったのかと思いきや、通りに引きずり出されていたのは、みすぼらしいなりの男一人だったのだ。

「この男か?」

「はい、床下に隠れていました。剣を持って攻撃してきましたので拘束しましたが……」

 アーロンの問いに班長は答え、視線で男の家を示した。戸口のところに、子供を抱き締めた女が立っている。男の妻だろう。子供と一緒に、蒼白な顔で唇をかみしめ、命乞いをするでもなく、ただこちらを睨んでいる。その顔に生々しい擦り傷がある。

 押収された男の剣は、古くて手入れもされていない、鞘から抜かれたのは何年前のことかと思うような代物だった。アーロンはそれをじっくりと検分し、兵に確認した。

「ほかに武器は」

「いえ、ありません」

 となると、この男が古びた剣を抜いて攻撃してきたのは、単純に目の前の暴力に対抗するだけのためだろう。そう考えはしたものの、念のためアーロンは男に問うた。

「国王軍の生き残りか?」

 男は答えない。頑なな表情でこちらを睨んでいるその目には、怒りと怯えが同時に浮かんでいた。アーロンは剣の柄にかけていた手を下ろし、静かに言った。

「離してやれ。この男は違う」

「しかし、アーロン様……」

 言いかけた部下を手振りで黙らせ、アーロンは男の妻子を見やった。それから男の剣を部下から受け取り、よろよろと立ち上がった男に差し出す。

「部下が手荒な真似をしたようだな。すまなかった。この剣は返そう、そなたの妻子を守るために使うがいい」

 寛大な言葉の割には仏頂面なので、男はアーロンの真意をはかりかね、警戒しながら剣を受け取った。男の困惑をよそに、アーロンはここはもう片付いたとばかり、先へ進むよう指示を出す。

 歩きだしたアーロンの後ろから、ひとりの兵が「よろしかったのですか」と問うた。アーロンは前を向いたまま、「構わん」と短く応じる。

「そんなことより、余計な敵を増やすな。住民に残党の味方をされると厄介だ」

 は、と了解のしるしに小さく首肯し、兵は自分の班に戻って行く。アーロンも作業の続きに戻った。

(そう、これは作業だ)

 単純な仕事だ。地図を塗りつぶすように、少しずつ街区の安全を確認し、自分たちの支配下に置いていく。そこに生きてうごめく人間たちの生活や生命や感情のことなど、どこか壁の向こうにでも押しやって。

 自分は軍人であり、彼らとは桁違いに重いものを背負い、危険な仕事をこなしている。より大きな局面のために、為すべきことを為す、それだけだ。そう割り切ってはいる、だがしかし。

(カゼスの影響だな)

 ついに総督府にたどりつき、踏み込む直前、彼はふと皮肉な笑みを浮かべた。

 世界を動かす力を持ちながら、ひとりひとりの人生の重みを忘れまいとするカゼスの姿。それは人間としては美しいものだし、ラウシールとして慕われるのもそれゆえだろう。自分が彼女を愛しく感じるのも、そうした美点を知っているからだ。

(助けるなどと言いながら、結局俺は虫の良い救済を求めているのかも知れぬ)

 自分では、そんな気の遠くなるような感覚には耐えられない。殺す敵に、制圧する街の住民に、ひとりひとり人生があるということに。そんなことを考えていたら、戦えない。

 だから、カゼスに重荷を背負わせたまま、彼女が歩いて行く道を共に歩むことで、少しは罪滅ぼしをした気になっていたのかも知れない。

 こうしてカゼスと離れて戦いに身を置き、はじめてその事に気が付いた。タフタン沖での海戦の後、あの場にいた誰もが感じ取ったカゼスの心を思い出して、剣が重くなる。

(情勢が落ち着いたら)

 総督府のまわりに兵を展開し、完全に包囲する。中は静かで何の反応もない。斥候が様子を探るべく、塀を越えて庭に忍び込む。

(少し……考えざるを得まい)

 このまま戦士として生き続けるのか。それとも、カゼスが去るまでに出来る限りのことをし、また彼女が去った後は、その意志をこの地に根づかせてゆくために生きるのか。

 そんなことを考えたとき、ふと脳裏をカワードやクシュナウーズ、ウィダルナやイスファンドといった武将仲間の顔がよぎった。自然、口元に苦笑が浮かぶ。

(彼らは笑うだろうな)

 女々しく愚かな考えだ、惚れた女のために人生を棒に振るのか、ゆくゆくは騎兵団長の地位も約束されているようなものであろうに、と。

(だが、それも良いさ)

 たぶん自分の気持ちは、彼らが考えているようなものとは、少し違うのだ。

 カゼスを妻として迎えたい、たとえ短い期間でも……と、そう思う気持ちも確かに本物だ。だが、それ以上に自分が抱いているのは、もっと別の――。

「伏兵は見当たりません」

 斥候が報告を寄越し、命令を待つ目を向ける。アーロンは物思いを払うように軽く首を振り、それから自分の目でもう一度総督府の建物を観察した。

 屋上に伏兵のいる気配はない。ただ静かすぎることを除けば、庭にも、窓の向こうにも、危険な影は見えなかった。

「よし、行くぞ!」

 アーロンが手を挙げ、さっと振り下ろす。わっと兵士が走りだし、突然にその場は騒々しくなった。閉ざされた扉に体当たりを食らわす者、窓の鎧戸を蹴破って飛び込む者。

 自分たちをじっと見据える冷たい目の存在に、誰も気付いてはいなかった。



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