四章 虎口(1)
タフタン沖でクシュナウーズやアーロンと別れたカゼスは、数日かけて『風乗り』や短距離の『跳躍』を繰り返し、単身アルハンの王都レムノスの近郊に降り立っていた。ちょうど、エンリルがカッシュを奪還したのと同じ頃である。
かつて神聖デニス帝国の皇帝が座し、栄華を極めた帝都。だがその名残は黒く煤けた廃墟となって、ディヤーラ河の西岸に朽ち果てようとしている。現在アルハンの首都機能を担う新都は対岸に離れ、過去の亡霊に背を向けていた。
「気持ちはわかるな」
爪先で腐った木片を踏み潰し、カゼスはつぶやいた。壊滅から二十年近い歳月が流れても、この街は死んだままだ。焼け残った漆喰と石の壁が並ぶ様は、風化した骸の肋骨を思い起こさせる。かつては華麗な庭園だったであろう場所には雑草が生い茂り、池や水路の窪みすら、もうわからない。
〈ここを再び元のように復興させるよりは、呪われた土地として放棄し、新たな都を築くほうが簡単だったんでしょうね。経済的にも、精神的にも〉
光学迷彩で周囲に溶け込んだまま、リトルが推測した。
そうして遺棄された街には、新しい街に入れない貧しい者や流れ者、野犬や野良猫、鼠たちが住み着き、今さら復興させようとしても相当に難航するだろう有り様だ。
周辺を見回したカゼスは、対岸に見える王宮の位置を確かめて、小首を傾げた。
〈リトル、前に来た時……つまり二百年後だけど、その時はこの辺りまで市街地になってなかったっけ?〉
〈はい。こちら側もちゃんとした町並みになっていましたよ。現在地から北西に百メートルほど行ったあたりに、『長衣の者』の学府がありました〉
〈ってことは、ここの地下に例の迷路があるわけだね〉
うへ、とカゼスは視線を地面に落とした。かつての帝国時代、裁きのつけられない被疑者を送り込み、出て来られるか否かを神判とした広大な地下迷宮。何百人、ひょっとしたら何千人もの人間が、暗闇の中で果てた。
〈まぁ現状では、地上も地下も似たようなものですが〉
しらっとリトルが言ったので、カゼスは辺りに注意を戻した。今は地上にも見捨てられた骸が草むし、怨霊がそこらの物陰に潜んでいそうだ。
さっさとここを離れた方がいいな、とカゼスは再び歩を進めた。
朽ちた町を後にして、橋を渡り、新都に向かう。河の東側は別世界のように賑わい、多くの人が行き来していた。
とは言え……。
「通行税が人間ひとり当たり銀貨二枚っていうのは、横暴だと思うんだけどな」
市門のところで衛兵に追い返され、カゼスは憮然とつぶやいた。
〈素直に払ったら良いでしょうに、何を貧乏くさいこと言ってるんですか。揉め事にならなかったから良かったものの、相手が悪ければ大騒ぎになって身元がばれてしまうところですよ。だいたい、今のあなたの俸給からすれば、銀貨二枚なんて財布の小銭入れにたまった綿埃みたいなもんでしょうが〉
〈その綿埃で、庶民の大人ひとり一週間分の食費になるんだよ。なんでわざわざそんな大金を、そうでなくても人々から絞り取ってる奴の懐に、入れてやらなきゃならないんだよ。私は嫌だからね〉
ふん、とカゼスは門を睨んで鼻を鳴らし、少し離れた場所に行ってまやかしをかけ直した。完全に姿を消し、念のため他の通行人に紛れて門を通る。
〈これも一種の脱税ですね〉
リトルが言い、にやっと笑うような気配を寄越した。カゼスは危うくふきだしそうになって、慌てて口をしっかりと閉じると、人目に触れない場所を探してこそこそと路地裏に入って行った。
適当な物陰で姿を現すと、カゼスはいったんまやかしをすべて解き、それから改めて別人に見えるようにかけ直した。いつもと同じでは性別だけがごまかされているだけで、顔立ちはほとんど実際のままに見えている。それが目立つということに、最近ようやくカゼスも気が付いたのだ。
〈いかにもラウシール様、か。生存競争をくぐり抜けるための遺伝形質なんだとしたら、随分風変わりだね。いったい何が私の『素材』なのか知らないけど〉
やや自虐的にそんなことを考え、カゼスは小さく頭を振った。
〈まあいいや。それより、顧問官の情報を探らないとな。どこに行けばいいんだろう。やっぱり酒場とか、人の集まる繁華街とか?〉
〈とりあえずそこらをうろついて、とにかく耳を澄ませることですね。下手に話題を振ったりしたら、怪しまれる可能性があります。なにしろあなたは……〉
〈分かってるよ、演技が下手だから、って言うんだろ〉
〈その通り。しかも付け加えると、一番まずい時に調子に乗って羽目を外すという、救い難い悪癖もありますからね〉
手厳しい評にカゼスは渋面を作り、むっつり黙り込んだ。
リトルにかかったら、どんな偉人でも欠点の十や二十、簡単に見付けられそうだよな。……などと心中でぶつくさぼやきつつ、カゼスは路地から出て、賑やかな表通りをゆっくりと広場へ向かった。
さりげないふりを装いながら、立ち話をしている女たちや、茶店の軒先で唾を飛ばして議論している男たちの声に耳を澄ませる。リトルもそこらを飛び回り、情報収集にいそしみ始めた。
広場には共用の井戸や古い神々を模したと思しき彫像などがあり、その周辺で大勢の市民が憩っていた。誰も彼も、それなりに裕福に見える。貧乏人はこの辺りには来ないらしい。通行税の高さを考えると、さもありなんだが。
カゼスはまやかしに少し修正を加え、自分もまわりの人間と同じように見えるよう、それでいて誰の目にも留まらないようにした。
そうしてしばらくうろつき回ったものの、結局カゼスは何の収穫も得られないまま、くたびれて広場の隅の階段に腰を下ろした。
〈おかしいなぁ、なんだか誰も顧問官のことを口に出さないよ。それどころか、王様がどうしたとかいうことさえ、ちっとも聞けやしない〉
〈ということは〉どこを飛んでいるのか分からないが、リトルが答えを寄越す。〈迂闊に彼らのことを話題にしない方がいい、ということでしょうね。ヴァルディア王は暴君だという話ですから、密告屋がうようよしているのかも知れません。良かったですね、私の忠告に従っておいて〉
最後の一言がいつも余計なんだ、とカゼスはひとり苦虫を噛み潰した。
と、ちょうどその時。
「助けて……っ!」
上ずった男の声が、広場を稲妻のように走り抜けた。群衆のざわめきを黒い沈黙の軌跡が引き裂き、一瞬だけ人々はその場に凍りついた。それから互いに目をそらし、逃げるようにそそくさと広場の隅に散っていく。カゼスのいる階段にも、波打ち際のように人が寄ってきた。
カゼスが嫌な予感に眉を寄せたと同時に、広場の向こう側から、一人の男が数人の衛兵に引っ立てられてくるのが見えた。
「私は何も、誓って何も申しておりません! どうか、どうか」
必死で許しを請う男に、衛兵は嘲笑で応じるだけ。
「いいや、確かにこの耳で、不遜極まる言葉を聞いたぞ。そうだろう、おまえたち」
隊長らしい男が他の兵に訊くと、あるいはにやにやしながら、あるいはこわばった顔のままではあったが、それでも全員がうなずいた。
そんな、と男が絶望のうめきをもらす。カゼスは思わず腰を浮かせたが、横に逃げてきた市民が肩を押さえ付け、無言で首を振った。やめておけ、と言うように。それに加え、リトルもカゼスの考えを先回りして警告した。
〈ここであの男性を助けても、より多くの犠牲を出すだけですよ、カゼス。冷たいようですが、それは事実です。あなたがこのままティリスに戻らず、ここで民衆の暴動を煽り立てて自ら反乱の首謀者になるというなら、話は別ですが。しかしそうしたとしても、この広場は大混乱に陥り、きっと数十人の死傷者が出ます。無謀ですよ〉
〈……だけど、あれは……ああ、くそッ〉
カゼスは何か言い返そうとしたが、悔しいことに理性ではその通りだとはっきり分かっていた。結局どうすることも出来ず、ただきつく唇を噛む。
目の前で、哀れな生贄が広場の中央に引き出される。
「とくと見よ、ヴァルディア様に対し翻意を抱く者の末路を!」
勝ち誇ったような声と共に、隊長が剣を掲げる。嫌だ、助けて、と男は泣き叫んでいたが、他の兵たちに押さえ付けられ、両膝を地面につけて首を差し出す格好にされた。
剣が一閃し、血飛沫が散った。
男の悲鳴。片耳を落とされ、だがしっかりと押さえ付けられて暴れることも出来ず、聞くに耐えない声を上げ続けている。続いて反対の耳、そして髪をつかんで顔を上げさせられ、鼻に刃が当てられる。
耳をふさぎ顔を背ける市民もいれば、むしろ爛々と眼を輝かせて食い入るようにその様を見つめる者もいる。カゼスは蒼白になり、目を瞑った。『力』に触れ、素早く精緻な糸に縒りあわせ、せめてもと男の痛覚と恐怖とを取り除いてやる。その瞬間、
「あ……ッ!」
うわあっ、と広場がどよめいた。ぎくりとして目を開いたカゼスは、その理由を見て思わず立ち上がっていた。哀れな男は一本の矢に胸を貫かれ、こときれていた。
その矢羽に、何か紙が結わえ付けられている。処刑を楽しんでいた隊長はそれをむしり取り、広げて目を通すと、ぐしゃっと丸めて地面に叩きつけた。何か侮辱の言葉が記されていたのだろう。
「探せ! 引っ捕らえろ!」
怒鳴られた部下が、驚きに揺れる群衆をかきわけて、矢の飛んで来た方へばらばらと走って行く。とばっちりを食うのを恐れた人々は、我先に広場から逃げ出し、瞬く間に辺りは閑散となった。
カゼスも遅れては大変と立ち上がり、慌ててその場を立ち去ろうとした――が、広場からほんの数歩離れただけで、驚きに立ち竦んだ。一本の弦をピンと弾いたような、『力』の動きを察知して。
(まさか、今のは)
振り返り、広場を見る。瞬間的にカゼスの目は、物質界と精神界を同時に視野に捉えていた。その視線は広場を通り越し、建物を突き抜けて向こう側まで届く。
(転移陣――!)
狭い路地に、ほとんど見えないような染料で記された、だが紛れもない魔術の痕跡。
しかもそこから『出てきた』のではない。誰かがそれを使って、ここから逃げたのだ。そこに残る力場の変動痕からして、それは明白。
(逃げた、ってことは、射手の方が魔術を?)
そんな馬鹿な。
カゼスは呆然と立ち尽くしていた。この国で魔術を使えるのは、顧問官だけではないのか。ヴァルディア王に仕えている、四人目のシザエル人ただ一人なのでは。
(王を裏切ったのか、それとも別の魔術師がこの国に?)
きゅっと唇を噛み、カゼスは広場を迂回して、転移陣のある場所へと走りだした。
現場の近くを捜索していた衛兵たちがいなくなってから、カゼスはこっそりと細い路地に身を滑り込ませた。念のためもう一度周囲を見回してから、用心深く転移陣に近付く。
それは暗がりにごく小さく描かれていた。辛うじて人間ひとりを転移させられる、ぎりぎりの大きさだ。魔術を知らないこの国の人間には、まず見付けられないだろう。
カゼスは地面に屈み、模様にそっと指先を触れた。どこへ転移させたのか、行き先を探ろうとして。だがカゼスが突き止めるより早く、それを知る者たちが出向いてきた。
〈お客さんですよ〉
リトルに言われ、カゼスはゆっくり立ち上がって向き直った。通りの方と、路地の奥の双方に、何やら剣呑な雰囲気の男が立っている。
「えー……っと」
カゼスは害意のないことを示すために両手を肩の辺りまで挙げ、交互に二人を眺めた。鋭く斬りつけるようなまなざしでこちらを睨んでいるが、それ以外は、一見したところ普通の市民のようだ。とは言え、一人は懐に手を入れている。ナイフか何かを隠し持っているのだろう。
「あの、一応言っておきますけど、私は衛兵の手先だとか、密告屋だとかいうわけじゃありませんよ」
じわり、と両側から距離が縮まる。カゼスはちょっと目を天に向け、小さくため息をついた。それから、ためしに言葉を続けてみる。
「あの気の毒な人を楽にしたのは、あなた方のお仲間ですか? もしそうなら、むしろ私はあなた方の力になれるんじゃないかと思うんですけど……駄目ですか、やっぱり」
言い終わらない内に一人がナイフを取り出した。カゼスは憮然として頭を振った。
〈弱ったね、どうして私はこう説得力がないんだろう〉
〈そりゃ、あなたなんだからしょうがないですね。どうやら今ここで刺し殺すつもりではないようですから、もうしばらく様子を見たらどうですか〉
あなたなんだからってどういう意味だろう、とカゼスが考えている間に、男は彼女の側に寄って脇腹にナイフの切っ先を突き付けた。
「黙って歩け」
鋭くささやくと、二人の男は荒っぽくカゼスを路地の奥へと引っ立てる。カゼスは軽い緊張を保ちながら、逆らわず歩いて行った。
建物の路地に面した壁につけられた小さな戸口をくぐり、カゼスは薄暗い部屋に踏み込んだ。そこから更にいくつもの扉や階段を経て、ようやくたどり着いた部屋には、年齢も性別もばらばらの人間が十人ほど待ち受けていたが、誰もが無言だった。
「さて……」
カゼスの脇腹からナイフを外し、男が低い声で切り出した。
「おまえは何者だ?」
その呼称や喋り方からして、貴族や高級官吏・将校などではないようだ。カゼスはそう判断すると、向き直って正面から相手を見据えた。海の民と高地系の混血なのか、暗い色の金髪と枯葉色の目をしている。恐らくまだ二十歳を少し過ぎたぐらいだろう。どことなく理想家らしい、迷いのないまなざしと意志の強そうな顔立ちだ。
これは手強そうだ、とカゼスは頭を掻いて、困ったように答えた。
「あー……さっきも言いましたが、衛兵の手先でも密告屋でもありません。できれば、そちらの方から立場を明かしてもらえませんか? たぶん、私の方が危険度が高いと思いますので……実のところ、私は他国人なんですよ」
青年が眉を寄せた。カゼスは肩を竦め、補足説明する。
「とは言っても、敵にはならないと思いますけど。あなたたちはヴァルディア王のやり方に、反対なんでしょう?」
そう言ってもまだしばらく、誰も口をきかなかった。重苦しい沈黙の後で、ようやく青年が一言、「そうだ」と答える。途端に何人かが、おい、などと咎めたが、青年は腹をくくったらしく、カゼスの目を真っすぐに見つめてはっきりと答えた。
「我々はヴァルディア王を倒し、我が国に正気を取り戻すことを目的としている。俺はヴァフカ、軍の百騎長だ」
「なるほど。それじゃ、当面の利害は一致していると言っても、差し支えはないでしょうね。私は……こういう者です」
相手が正体を明かしてくれたので、カゼスもにこりとして、まやかしを解いた。さすがにこれには誰もが驚き、息を飲んだり短い叫びを上げたりした。
化け物だ、とかすれ声が言うのを耳にして、カゼスはおやと目をしばたたかせた。この辺りまでは、派手な尾鰭のラウシール伝説も、届いていないのだろうか。それとも、ここにいる人々はそうした他国の情勢などには疎い、庶民なのだろうか。
(何にせよ、化け物扱いされるのは久しぶりだな)
皮肉っぽくそんなことを考え、カゼスは苦笑した。
「噂が届いてませんか。『青き魔術師』のことが?」
小首を傾げて問うと、ヴァフカがわずかに後退りながら答えた。
「聞いてはいたが……」
「実際に目にすると受け入れにくい、と? 仕方ありませんね」
カゼスは芝居がかったため息をつき、まやかしをかける。髪の色を黒くし、顔立ちも少し地味にして、性別をごまかす。どうですか、と訊くように両手を腰に当てて一同を見回したが、皆、目をそらしただけだった。
誰も何も言い出そうとしないので、カゼスはヴァフカに向かって話を切り出した。
「ひとつ伺いたいんですけど、さっきの転移陣を使ったのは誰です? 私の知っている限りでは、この国で魔術を使えるのは顧問官ただ一人だと思っていたんですが」
「それは……」
ヴァフカはまだ驚きから立ち直れないまま、言い淀んだ。そして、無意識にちらりと視線を部屋の隅に走らせる。カゼスはそれを見逃さず、相手が助けを求めたのが何なのか、自分もそちらへ目を向けた。
部屋の隅にかたまっている数人の男女の陰から、ゆっくりと一人の子供が進み出る。フードを深く被ったマント姿の背丈からして、せいぜい十歳かそこらだろう。
「私から説明します」
そう言った幼い少女の声は、年齢不相応に落ち着いていた。その不釣り合いさにカゼスが眉を寄せると同時に、少女はばさりとフードを後ろへはねのける。その下から現れたのは、間違えようのない銀色の髪と、深紅の双眸だった。
「私はアミュティス、顧問官キースの娘です。父から魔術の手ほどきを受けました」
少女はカゼスの前まで進み出ると、意味ありげに「ほかにも色々と」と付け足した。それから彼女はくるりとヴァフカを振り向き、大丈夫というようにうなずいて見せた。
「この人は敵じゃありません。ヴァフカさん、皆を解散させてください。いつまでもここにまとまっていたら危険です」
「あ、ああ……そうだな。しかし、君一人では」
戸惑ってそう言いかけたヴァフカに、アミュティスは首を振る。
「平気ですから。いつもの場所に」
「……わかった」
ヴァフカがうなずき、室内の面々に手で合図を送ると、彼らもまた無言のまま、一人また一人と部屋から出て行った。最後に残ったヴァフカはまだ心配そうだったが、アミュティスに促され、彼もまた姿を消した。
薄暗い室内で二人だけになると、アミュティスはふっと小さな吐息をもらした。
「あなたは、父に会いに来られたのでしょう?……父を狩り出すために」
用心深くそう切り出した少女に、カゼスは目を丸くした。キースは娘に魔術だけでなく、自分たちシザエル人の故郷や歴史を教えていたのだ。カゼスが絶句していると、アミュティスはそれを警戒ゆえの沈黙と取ったらしく、首を振った。
「父が言っていました。ラウシールが現れてから、次々と仲間が死に、今では自分一人になったことからして、おそらく故郷から派遣された『狩人』だろう、と」
アミュティスの台詞半ばで、カゼスはぎょっとして息を呑んだ。
「ちょっ……と、待って。自分一人、って、そんな馬鹿な! カイロンさんは」
カゼスのそんな反応に、少女も困惑の表情を見せて目をしばたたかせた。
「あなたではないんですか? 高地とも連絡が取れなくなった、と父が言っていたのは、大崩壊の前ですけど」
「まさか、そんな……ひとつ勘違いしてるみたいだから訂正するけど、私は『狩人』じゃないし、君のお父さんを殺しに来たわけでもない。確かに、君のお父さんと同郷の者ではあるし、エリアンを殺してしまったことは否定できないけどね。でもマティスの時は少なくとも私が手を下したわけじゃないし、カイロンさんとは親しくなって……なのに、いったい高地で何があったんだろう」
信じられないとばかり、ゆるゆると首を振るカゼス。それを冷静に観察し、アミュティスは静かに言葉を続けた。
「高地のことは私も知りません。でも、あなたが父の敵ではないと言うのなら……そしてヴァルディア王の圧政を憎んでいる同志だというのなら」
そこで彼女は顔を上げ、すっと手を上げた。
「現状と私たちの立場についてお話しします。こちらへ」
カゼスは少しためらい、それからゆっくり歩み寄った。それまで近くに漂っていたリトルが、用心のためか、懐にすぽっと落ちてくる。
それに気付いたアミュティスは、ちょっとだけ瞬きしたものの、何も言わずにカゼスの手を取った。そして、小さく跳躍の呪文を唱える。刹那、周囲の風景が揺らぎ、ざらざらした灰色に塗りつぶされた。
次の瞬間、視界に明るい光が射し、カゼスは目が眩んで顔をしかめた。
「ああ、無事だったのね、アミュティス。その方は?」
柔らかな、しかしどこか発音の奇妙な声。カゼスは急いでそちらを振り向き、えっ、と思わず短い声を上げた。
(シザエル人?)
そこにいたのは、銀髪の若い女だったのだ。アルハンの顧問官は男だったのではなかったか、とカゼスは訝り、それから相手の瞳が赤ではなく、氷青色であることに気が付いてホッとした。よく見れば顔立ちも、シザエル人らしくない。肌も色素が薄く、北方の人種であるとうかがえた。
「あなたは……」
問いを口にしかけ、カゼスは思い直してアミュティスを見下ろした。少女の口から説明して貰う方がいい。
その希望を察してか、アミュティスは女に向かって小さく会釈のような仕草をした。
「ただいま帰りました。こちらは名高き『青き魔術師』、カゼス様です。カゼス様、これは私の母、つまり顧問官キースの妻、ロードグネ。銀髪ですが、父と同じというわけじゃありません」
まるで他人事のような口ぶりに、カゼスはどう返答したものやら、困惑してただ目をしばたたかせた。その表情に、ロードグネが失笑する。
「驚かれましたでしょう、ラウシール様。すぐにお茶を淹れますから、どうぞおくつろぎ下さいまし。その間に、アミュティスが事情をお話しするでしょうから」
どうぞ、と手でソファの方を示され、はじめてカゼスは自分がどこかの家の居間に立っていると気が付いた。
曖昧にぺこりと頭を下げ、カゼスは適当な長椅子に腰を下ろす。華美ではないが、どのクッションも丁寧な刺繍が施されているし、家具も絨毯も高級品ばかりなのが見て取れる。ティリス王宮にあるカゼス自身の部屋よりも、はるかに豪華だ。
ロードグネが衣擦れの音を残してしずしずと部屋から出て行くと、アミュティスがとことことやってきて、テーブルを挟んでカゼスの向かい側に座った。
「それじゃ、簡単に説明しますね」
「その前にひとつ、確認してもいいかな」
相手が子供なので、どうしても地のままの口調になってしまうカゼス。これではむしろ自分の方が子供っぽく聞こえるな、などと考えつつ、カゼスは返事を待つ。
「どうぞ?」
小首を傾げたアミュティスに、カゼスはなんとも不安げな表情で問うた。
「君、いくつ?」
「…………」
短い白けた間があってから、唐突にアミュティスが笑い出した。
カゼスが一緒に笑うこともできず頭を掻いていると、彼女は、ああおかしい、と目の端に浮かんだ涙を拭って答えた。
「そんなに心配しないで下さい。私は見たままの歳だし、おかしな細工をされているわけでもありません。まあ、ほかの子供たちよりも、かなり大人びてはいるみたいですけど。父から色々と教わったせいで、この国にあまり馴染めていないんです。魔術もそうだし、あー、科学的なものの見方とかいったことでも」
「科学的、って……いったい何を教わったんだい?」
「いろいろです。物理や数学の話が多いですね、父の専門はその分野ですから。私はつい何でも『なぜ』『どうして』と訊くんですけど、すごく詳しく教えてくれる時と、父も答えられなくてもごもご言うだけの時がありますから」
これにはカゼスもあんぐり口を開けてしまった。物理に数学。カゼスが最も苦手とする、もはや存在自体が相容れないと言って良い学問ではないか。
〈なるほど。天才少女ってわけですね〉
ころりと懐からリトルが転がり出て、膝の上に収まった。
〈おまえとなら、話が弾みそうだね〉
〈因数分解でつまずいた人と話すよりは、きっと盛り上がるでしょうね〉
好きにしてくれ、とカゼスはため息をつく。それから眼前の少女を眺めて、片手で顔を覆った。どうしたものだろうか。これはもう明らかに、十一条違反だ。
と、カゼスのそんな顔を見て、アミュティスは安心させるように笑った。
「ほかの人に教えて回ったりはしてません。大丈夫ですよ」
大丈夫って言っても、とカゼスは呻きを洩らし、頭を抱えた。
こんな幼い、しかも元凶のシザエル人そのものというのでなく、それに知識を与えられただけの少女を、どうこうするわけにもいかない。かと言って、このまま放置していいものだろうか。いや良くないよなぁ、などとひとり悶々としていると、ロードグネが茶器一揃えを持って戻ってきた。ポットの口から、香気と湯気が立ちのぼっている。
「すみません、なにぶん今は召使も皆、辞めさせられておりますので」
どうぞ、と茶を注いでカゼスにすすめる。アミュティスの前には、薄い果汁水だ。ロードグネがソファに座ると、アミュティスは果汁水を一口飲んで、話を再開した。
「ともかく、現状について説明します」




