三章 王都攻防 (2)
同じ頃、エンリルが率いる軍は既にカッシュを奪い返し、ここまでかなりの強行軍で来た兵たちを休ませていた。
エンリルは街にも入らず野営したままで、夜更けまでゾピュロスと共に、カッシュを占拠していた反乱軍の処分、死傷者を除外した部隊編制のやり直しなどに追われていた。どのみち、休めと言われても到底眠れるような状態ではないので、忙殺されている方が、気が紛れる。
だが仕事も無限にあるわけではない。一段落ついてふっと気をゆるめると、さすがに連日の寝不足と疲労から、一気に眠りに落ちそうになった。
がくんと首が垂れ、慌ててエンリルは頭を上げる。向かいに座っているゾピュロスは見ていないような態度ではあったが、いつもの無愛想な声で言った。
「そろそろお休み下さい」
「ああ……そうだな、さすがにそうした方がいいかも知れない」
言葉だけは同意したものの、エンリルは組んだ手に顎を乗せ、うつむいたまま席を立とうとしない。ゾピュロスも、アーロンとは違い、眠るよう繰り返したりはしなかった。
「……情けないな」
ぽつり、とエンリルがつぶやく。ゾピュロスは兵の名簿に目を落としたまま、何とも答えない。
「情けない王だ。思慮も勇気も足りない」
もう一度、エンリルが絞り出すように呻いた。そして、祈るように手を組み直し、こつんと額を当てる。
内乱の時は、顧問官がすべての元凶だと思っていた。実際マティスの操作によるところも大きかったろうが、彼女とてすべての人間の心を操っていたわけではない。自発的にエンリルに敵対した者もいただろう。
それに思い至らず、ラームティンとクティルに対する配慮を怠った。餌で釣るなり、監視を強化するなり、あるいはいっそ一族郎党もろともに処刑すべきだったのに。顧問官さえ排除すれば皆うまくいく、などと、楽観していた己が浅はかだったのだ。反発を招くことを恐れ、厳しい措置をとる勇気も持たなかった。
当時はそうと気付きもしなかった。救い難い。
「ご自身を責められても、足しにはなりますまい」
ゾピュロスの言葉は素っ気ない。エンリルは苦笑に紛らせてため息をついた。
「確かに、今必要なのは、過ぎたことを悔いて愚痴をこぼすことではなかったな。しばしの休息、それに……まともにものを考えられる頭、か」
やれやれといった風情で彼は首を振り、渋々と簡易椅子を立つ。その場でうんと伸びをすると、少し眠気が取れたような顔で、ゾピュロスを見下ろした。
「頼むから、そなたは反乱を起こす前に、まず何かしら申し立てをしてくれよ」
冗談や皮肉というには、あまりに苦い声音。ゾピュロスは顔を上げ、主君を仰ぎ見た。
「背かれる心当たりがおありのようですな」
無表情のゾピュロスに、エンリルは「多少はな」と歪んだ笑みを見せる。それから気を取り直し、軽く肩を竦めた。
「そなたは言葉数も少ないし、表情もあまり変えぬので、心情を測りかねる。背かれた後で、しまったとほぞを噛みたくはないのだ。それよりはいっそ、のべつまくなし不満を聞かされている方が安心できる」
「口数の多い敵は恐るるに足らぬ、真に恐るべきは物言わぬ敵である」
古い格言を引用したゾピュロスに、エンリルもうなずいた。
「そういうことだ。まぁ、そなたの口数が『恐るるに足らぬ』ほどに増えるとは思えぬが、何も言われぬよりは、それが不満や批判ばかりであっても、何か言われる方が良い。敵意を持つ者の存在すら知らぬままでは、対処のしようもないのでな」
「……それをわきまえておいでなら、結構なことです」
ゾピュロスは感情の読めない声で言い、複雑な顔のエンリルを見上げてごくわずかに笑みの気配を浮かべた。
「私は腹芸の出来る性質ではございませんからな。自分の立場と意見は、常に表明しているつもりでござるゆえ、ご安心召されよ」
これにはさすがに、エンリルもあんぐり口を開けてしまった。かなり長い間があってから、ようやく、恐る恐る笑みを浮かべる。
「今のは、冗談……だろうな?」
途端にゾピュロスは、冷ややかな無表情に戻ってしまった。
「どうも陛下は、御前にてふざけ居る輩どもに毒されてしまわれたようですな」
「かも知れぬ。いや、その……すまなんだ」
どうにも困ってしまい、エンリルは頭を掻いて、それ以上この気難しい騎兵団長の機嫌を損ねないうちに、と天幕の入り口をくぐった。が、数歩と進まず立ち止まる。
「……ん?」
胸騒ぎがして、彼は東南の空を振り仰いだ。野営の天幕が連なる向こうに黒々と海が横たわり、そして。
「あれは……」
小さいが間違いなく炎の明かりが、暗い水平線に光っている。立ちのぼる煙が夜空に白い。エンリルは目を見開いたままその場に立ち尽くし、震える手をぎゅっと握り締めた。
様子がおかしいと察したゾピュロスも、立ち上がって外に出る。そして主君の視線を追って、彼もまた蒼白になった。
「まさか」
即座に養女の姿が脳裏をよぎった。彼女はまだ王都にいる。マルドニオスの報告では、王都から辛うじて逃げ出してきた船に、シーリーンは乗っていなかった、と……。
様々な思考が一度に脳裏を駆け、ひとつとしてまとまらず、絶望的な感情ばかりが膨れ上がっていく。落ち着け、と自分に言い聞かせる彼の耳に、エンリルの呟きが届いた。
「船の用意を」
短い言葉に、ゾピュロスの思考はぴたりと混乱を止め、いつもの正常な判断力を取り戻す。彼はエンリルの意図を理解し、「御意」と短くうなずいた。
エラードから戻ってきた騎兵は消耗が激しいので、最低でも今夜一晩は休ませねばならないが、カッシュに駐留していた海軍を使えば、船の用意ぐらいは出来る。曇天の暗夜ゆえに即刻船出とはいかないが、夜明けと共に王都ティリスに向けて出港できるはずだ。
「誰を行かせましょうか」
出来れば自分が出向きたいのだが、と声ににじませ、ゾピュロスが問う。
海から回るなら、大型船で悠長に海上戦を挑んでいる暇は無い。小型の快速艇で封鎖線を突破し、王都に立てこもっている人々の脱出経路を確保する必要がある。となると、船に乗せられるのは少数の精鋭だけだ。
また、可能性は低いが、反乱軍がエンリルたちの接近を知って、罠を仕掛けたということも考えられる。こちらを慌てさせ、準備もろくにせぬまま動転した兵を率いて駆けつけたところを、伏兵を配した中に誘い込んで一網打尽にする、という罠だ。
そんなことも考え合わせれば、いずれにせよ、全軍を率いて今すぐ王都に駆けのぼることは出来ないのである。
しばらく考えた後で、エンリルは「ウィダルナを」と答えた。
「妥当なところですな」
ゾピュロスも同意し、すぐに伝令を呼び付けて手配を始めた。ウィダルナに対する指令を口頭で受け、伝令はせわしなく走り去る。その背を見送り、エンリルは苦笑した。
「カワードは渋るだろうな」
ああ見えてもカワードは部下思いなのだ。こんな危険な任務に、長年一緒に働いてきたウィダルナを派遣するなど、耐え難いに違いない。
「ですが、ウィダルナ卿にもそろそろ手柄が必要です」
「そうだな。いつまでもカワードのお守りでは気の毒だ」
エンリルは苦笑まじりに言ったが、ゾピュロスは眉ひとすじ動かさない。エンリルはやや鼻白んだものの、相手の厳しい横顔に浮かぶ懸念を見て取り、表情を改めた。
「……何かことづてがあるなら、ウィダルナに託しておいてはどうだ?」
すぐにも駆けつけたいのは自分も同じだ。しかし、総指揮を執る立場の者が、前後の見境なく突出するわけにはいかない。
ゾピュロスは黙って暗闇の彼方に目を向けていたが、ややあってぼそりと答えた。
「私用を頼むわけには参りませぬ」
「そうか? 私は頼むつもりでいるがな。なにがしかの言葉があれば、立て籠もっている者には励みになると思うぞ。たとえそれが」
と、エンリルはそこで堪えきれず、にやりと笑った。
「ただ一人の者に宛てた言葉であってもな」
「…………」
返事はない。ゾピュロスは振り向きさえせず、じっと立ち尽くしている。エンリルがいたたまれなくなってきた頃、ようやく彼はゆっくりと振り向いた。
「お休みになられては?」
凍てつく視線と共に地を這うような声で言われたのでは、逆らえるはずもない。エンリルは無言でうなずき、おとなしく自分の天幕に足を向けた。ここにマルドニオスがいれば、主の極端な照れ隠しに失笑を禁じ得なかったであろうが……。
夜が明けてみると、思ったほどに状況が悪化しているわけではないと判った。
アトッサは医務室近くの臨時病室にダスターンを運び込んだ後、手当をシーリーンやイスハークに任せ、そのまま負傷者にまじって床に座り込んだまま眠ってしまった。そのせいで肩や首がこわばっている。ぐきぐきと動かして体をほぐしながら、自分の弓矢を取って王宮の城壁に向かった。
階段をのぼって上に出ると、市街地が一望できる。大通りには茨や干し草のブロックを積み上げた遮蔽物が築かれ、弓や槍を構えた兵がまだ頑張っていた。建物の屋根にいる兵も大勢見て取れる。
すぐにも王宮を包囲されるかと思っていたのだが、市壁を攻めた時と違ってどうしても兵力を分散せざるを得ないため、反乱軍も激しい抵抗の前に攻めあぐねているようだ。
大通りの最前線で、何やら伝令に指示を出しているアスラーの姿も見える。
「ふむ。行くか」
ちょっとそこまで、というような口調でつぶやき、アトッサは軽い足取りで階段へ向かった。と、目の前にぬっと男が現れ、ぎょっとする。
「ハムゼか。驚かせるな」
「姫様、どうか外には出られませぬよう」
言葉少なに頼んだ近衛兵に、アトッサは眉をひそめる。
「バールの具合が……悪いのか」
鳥使いの女はティリスに着いてじきに、体調を崩して床に臥してしまった。夫であるハムゼがずっと看病しているのだが、いまだ快方に向かっていない。
「はい。この身はひとつしかございませぬゆえ、どうか中で」
「構わぬ、バールについていてやれ。私のことは気にするな、このような状況では誰しも互いに背を守り合うものだ。そなたのように大柄な男が警護についておったのでは、かえって敵の目を引くしな」
ぽんと肩を叩き、ハムゼの横を擦り抜けようとするアトッサ。しかしハムゼは、階段への小さな戸口をふさいだまま、動かない。
「…………」
アトッサは無言で相手を睨みつけ、ハムゼもまた頑固なまなざしを返す。
「姫様。昨日あなたを警護していた少年を、医務室で見ました。あれが今日のあなたの姿だったかも知れないのですよ」
「そのダスターンに約束したのだ。あの者が私を守った事を、何より誇らしく吹聴できるよう、数多の勲を立てるとな」
「そのようなこと……」
「ハムゼ!」
強い口調で名を呼ばれ、思わずハムゼは姿勢を正す。アトッサは青褐色の目で真っすぐに彼を見据え、ゆっくりと、だが力強く言った。
「私の命が、私個人のものという枠を超えてどれほど重要なものか、私自身よく知っている。だからこそ、戦う力がありながら何もせず隠れているわけにはゆかぬのだ。……案ずるな、そう容易く死にはせぬ」
そう言って彼女は、今まで見せたことのない、刃のような笑みを浮かべた。
「いざとなれば、どのような手段を使っても生き延びる覚悟はある」
それは、カイロンが死んだ時に学んだ教訓だった。悲しむよりも先に彼女は、どうしよう、と考えたのだ。優秀な摂政が死に、後見を失った小娘が玉座につけば、周辺各国につけいられるのは必定。それに対処する術を、真っ先に彼女は考えていた。それに気付いた時、自分が何よりもまず王であることを、痛烈に実感したのだ。
その感覚は、ここに来て実際に戦闘を経験し、数多の死傷者を目の当たりにしても変わらなかった。自分を庇ってダスターンが負傷した時でさえ。
――生きなければならない。何としても。
「だから、そこをどけ」
命じられ、今度はハムゼも逆らえなかった。
「……どうか、お気を付けて」
それだけ言うのが精一杯だった。アトッサはハムゼの横を通り過ぎ、振り返ってにこりとした。さきほどのような凄みのある笑みではない、だが今までに見てきた無邪気なものでもない。それは、どこか威厳すら感じさせる表情だった。
そうしてハムゼを振り切ると、アトッサは城下町に出て行った。誰も彼もが忙しく自分の仕事を果たしているため、彼女が一人で通りを走っていても、気付いて呼び止める者はいない。
誰にも咎められる事なく大通りの前線までたどり着くと、アスラーがアトッサの姿を認めて心もち目を見開いた。が、すぐにいつもの無表情に戻り、小さくうなずく。
「ちょうど良うございました。アトッサ殿、身のこなしは軽い方とお見受けしますが」
「軽業師のような真似は出来ぬが、それなりには。何か?」
アトッサは通りの向こうから飛んでくる矢を避けようと、物陰にしゃがみこんで問う。一斉攻撃ではなく散発的なものだが、干し草の山や並べた大楯の壁を飛び越えて、たまに流れてくる矢もあるのだ。
「建物の上からの攻撃部隊をひとつ、指揮して頂きたい」
同じく遮蔽物の陰に隠れたままアスラーが言い、アトッサの背後にある小さな家を指さした。アトッサが振り返ると、胸壁の陰にちらっと人の頭が見えた。
「そこから屋上に出てください。十名の兵が待っています。担当街区や退却の経路は彼らからお聞きください」
「わかった」
アトッサは即答し、敵の様子を窺ってから、ぱっと建物の中に駆け込んだ。階段を二階へ上がると、梯子が天窓から降りている。それに手をかけ、アトッサはふと壁際に置かれているものに目を留めた。この家の住人は、近海で漁をするのが生業なのだろうか。破れて修繕待ちの投網らしいものが、ひとかたまりになっている。
(使えそうだな)
アトッサはふむとうなずき、網をひとつ小さくまとめて小脇に抱え、片手で器用に梯子を上った。
「あ、来た来た……うわ、何だよそれ」
上でアトッサを出迎えたのは、ほとんど少年と言っても良い年の兵士だった。いや、実際に正規の軍人ではなく、街の少年なのだろう。
「置き去りにされていたのでな。使えそうだと思うのだが」
アトッサは、よっ、と網を投げ上げ、続いて自分の体を引き上げた。その物言いから、少年は相手がどうやら高貴の身分だと気付いたらしい。ばつが悪そうに目をそらし、もじもじする。横から正規軍の兵が手を出し、投網を取った。
「なるほど。上からかぶせて動きを封じれば、矢で射止めるのも楽になりますな」
こちらは多少年かさだが、やはり小柄で身軽そうだ。屋上に待機していた十名の小隊は、全員アトッサと同じぐらいの背丈しかなかった。
「運よく大物を捕らえられたら、取引の材料にもなるであろうしな」
アトッサはうなずきを返し、それで、と全員を見回して、結局年かさの正規兵に目を戻した。
「我々の担当する街区は?」
「ここから北側へ一区画です。路地を一本越えた向こうに小さな通りが見えますか? あの通りまでが我々の守備範囲です。こちらから仕掛ける必要はありません。奴らが封鎖を迂回して前進しようと横道に入ってきたら、撃退するだけです」
「なるほど。了解した」
町並みを眺め、アトッサは次いで敵の動きに目を向けた。市門から王宮まで続く一番大きな通りに、やはり戦力が集中している。が、それ以外の大通りにもいくつか部隊を割いているようだ。小さな通りにはほとんど人影がない。
既に占拠した街区では反乱軍も建物の屋上に出て、同じく屋上にいるこちらの兵を攻撃しようとしている。だがこちらは東西と南北に走る大通りの交差点を防衛拠点にしているため、屋根伝いに肉薄して白兵戦に持ち込むことが出来ず、矢の応酬をするのがせいぜいだ。ただし、地上の拠点を突破されたら、屋上組も危険には違いない。
アトッサは自分以外に三人を大通り沿いの建物に残し、あとは担当街区に展開させた。
「敵が攻めてきたら狙い撃ちにしろ。下手に遠い敵を狙って、矢を無駄にするなよ」
ひそっと彼女がささやくと同時に、敵の屋上組が放った矢が一本、胸壁に当たって落ちた。アトッサは舌打ちし、煩わしい、と唸るなり弓を構えた。そして、胸壁の隙間から狙いを定め、通りの向こうの建物めがけて矢を放つ。
「あっ」
無駄撃ちするなと言ったばかりのくせに、とばかり、他の兵が短い非難の声を出す。だが一瞬後、叫びが聞こえ、彼らはあんぐり口を開けた。敵の弓兵がのけぞって倒れるのが見えたのだ。
「……お見事」
「なんの、これからだ」
アトッサはにやりとすると、続けてまた一人、一人と屋上の兵を倒していく。胸壁のわずかな狭間を通して敵兵を射貫く腕前は、まるで神業だ。敵の屋上組は反撃しようにも狭間に身を晒すことができず、胸壁の陰に縮こまっている。
それに業を煮やしたのか、地上の指揮官が号令を発し、わあっと歩兵が通りを横切って押し寄せてきた。
「そなたらは下を援護しろ。弓兵は私が封じる」
三人の兵に命じ、アトッサはすっくと立ち上がって弓を構えた。通りの向こうでもやはり、味方を援護しようと弓兵が立ち上がったが、一瞬でアトッサの矢に貫かれて倒れる。
屋上からの攻撃を心配しなくてすむ他の三人は、地上の敵を倒すのに専念した。
「あまり身を乗り出すでないぞ、槍を投げられるやも知れぬからな」
アトッサが注意したが、仁王立ちしている本人が言ってもあまり説得力がない。案の定、鬼神のごとき強さを恐れた地上の敵歩兵から、槍が飛んできた。が、アトッサの足元まですら届かず、建物の壁にガツッと当たって跳ね返る。
一度投げてしまえば槍の回収は不可能だ。地上での戦闘が不利になるだけと悟ったのか、その後も数本は槍が飛んで来たが、じきに止んだ。かわりに、後方にいた一部隊が大通りから横にそれ、激戦地を迂回しようと裏道に入って行く。
それに気付いたアトッサは、下の戦況を見て援護の必要ももうなかろうと判断すると、他の三人を振り返った。
「二人はここに残れ。私ともう一人……そうだな、そなた」
と、一番疲労の少なそうな兵を指し、顎をしゃくって「行くぞ」と合図する。既に、裏道のほうに展開させた兵が敵部隊の行動に気付き、先回りして集まりつつあった。アトッサは漁網をつかみ、助走をつけて隣の建物に飛び移る。
敵の小部隊を率いているのは、シャーヒーンだった。
(ん? 確かあ奴は……)
交渉に出向いたイスハークを送ってきた男ではなかったか。
そう思い出し、アトッサはふむと唸った。見たところ装備に派手さはないが、まっとうな武具を揃えている。ということは、それなりの身分だろう。
よし、とアトッサはうなずき、裏道のすぐ際に陣取っている兵に向け、手招きした後で路地ひとつ隔てた袋小路を指した。そこへ誘い込め、という合図だ。相手も了解のしるしにニヤッとして敬礼する。
じきに、シャーヒーンの号令が聞こえ、十数人の部隊は剣を抜きもせず全力疾走を始めた。矢の攻撃を振り切って駆け抜けようという意図だろう。だがもちろん、それを許すアトッサたちではない。
彼らが走る先を狙って矢の掃射を行い、わざと一方向は攻撃を手薄にして、そちらに逃げ込ませる。アトッサは網を持って、地上から見えぬよう先回りすると、伏せて獲物がかかるのを待ち受けた。
一方地上のシャーヒーンは、この試みがあまりに無謀だったと既に痛感していた。早くも数人の部下が倒れ、走っている者の中にも矢傷を受けた者が少なくない。しかしいまさら引き返すことも出来ず、意のままに誘い込まれていると知りながらも、活路を求めて逃げるしかなかった。そして。
「しまった……!」
とうとう自分たちが袋小路に追い込まれたと悟ると、彼は反射的に楯をかざした。部隊の兵士も咄嗟に背中合わせの円陣を組み、周囲の建物からの攻撃に備える。
だが、予期したとどめの攻撃はなく、代わりに網が降ってきた。
「わッ!?」
「な、なんだ!」
慌てて逃げようとした彼らを文字通り一網打尽にし、アトッサは得意満面に屋上から姿を見せた。もちろん弓矢を構え、いつでも射貫けるようにしながら。
予想外のことに焦ったシャーヒーンとその兵は、網から抜けようともがいていたが、それぞれが勝手に引っ張るので結局余計に絡まってしまうばかり。そのうち、一人が足を網の破れ目にひっかけて転倒してしまい、次々雪崩のようにまわりが転んで、あれよと言う間に全員が団子状になってしまった。
「なんとまぁ」
アトッサは呆気に取られてその様を見下ろしていたが、予想外の結果に、堪え切れなくなって笑い出した。周囲の建物に集まってきた部隊の弓兵たちも、情けない敵の姿に遠慮なく嘲笑を浴びせる。
「くそッ!」
部下たちに絡まって身動きの取れないまま、シャーヒーンが罵りの言葉をふたつみっつ吐き捨てる。アトッサは大通りの物音に耳をすませ、どうやらあちらも片付いたらしいと確信すると、矢をおさめて地上に声をかけた。
「降伏するなら、命は助けてやるぞ」
シャーヒーンはなんとか彼女を睨みつけ、苦々しく言い返した。
「取引の材料にはならぬ雑魚だぞ」
「そうとも限らぬようだがな。いずれにせよ、そなたの価値を決めるのは反乱軍を率いる二卿だ。そなたが決めるのは、己と部下の命の重さではないか?」
「…………」
しばらく沈黙が続く。ややあって、どうやら救援が来る望みもないらしいと諦め、シャーヒーンはため息をついた。
「わかった、投降する。部下ともども、身の安全は保証して貰えるのだろうな?」
「うむ、そなたらが抵抗せなんだら、こちらも親切にしてやらぬでもない」
「……身動きが取れるようになれば、武装は解除する。負傷者もいる状態で、無駄な抵抗はせんよ」
やれやれとシャーヒーンが同意したので、アトッサは部隊の面々に彼らの拘束を命じ、一人はアスラーへ報告に行かせた。
絡まった網を外して、ここまで生き残っていた十人足らずの兵を武装解除した頃、伝令に行かせた兵が戻って来た。
「アスラー殿も無事、持ちこたえたそうです。我々は捕虜を王宮まで護送するよう命じられました」
「そうか。では一旦戻るとしよう」
凱旋だ、と冗談めかして言い、アトッサは部隊の面々を見回した。わずかな時間に、もう連帯感が生じている。状況の特殊性ゆえか、彼女の特質なのか、それは分からない。あるいは両方かもしれない。ともあれ、最初は面食らった兵も、自然と彼女に従う気分になっていたのは確かだった。
小娘に率いられた小柄な兵ばかりの小隊を眺め、シャーヒーンはなんとも複雑な顔をした。こんな部隊にしてやられたのが悔しいような、信じられないような顔だ。
アトッサはその表情を見やり、口角を上げてにやりとした。
そうして一行は意気揚々と王宮に向かったが、現実には、多少なりとも明るい雰囲気なのは彼らぐらいのものだった。
街はそこかしこに敵味方の死体が折り重なって倒れ、大通りを封鎖する際に燃やした火が近隣に飛び火して、漆喰や日干し煉瓦の壁が黒く煤けている。破壊され、略奪された家屋。元は家庭で飼われていたのであろう犬や猫、鳥の死骸。
それはまるで、この王都をじわじわと死神の手が覆って行くかのような光景だった。




